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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/12/17

亀甲繋ぎ文の最古?



中国の南北朝時代(439-589年)に亀甲繋文はあったが、パルミラではすでに2世紀に地下墓のヴォールト天井部に亀甲繋文が描かれている。パルミラには四角形の繋文様八角形の繋文様など、様々な幾何学的な繋文様があり、それらは建築物の天井部を装飾している。シルクロードの西の端に近いパルミラは、東の端の中国(当時は後漢、25-220年)と交易があり、中国の絹織物は珍重された。ひょっとすると、亀甲繋文は中国から将来されたのかも知れない。
しかし、後漢で「亀甲」と名の付く文様はほとんど見あたらなかった。

亀甲塡四弁花文毛織品 ニヤ遺跡出土 後漢 新疆ウイグル自治区博物館蔵
毛織物であること、四弁花文という西方的な文様なので、果たして中国で作られたものかどうか。また、「亀甲塡」とあるが、今まで見てきたような正六角形に近い形の亀甲繋文とは趣がちがう。前漢時代(前207-後7年)もやっぱり亀甲繋文は見つからなかった。

幾何対鸞文綺 湖南省長沙市馬王堆一号前漢墓出土
綺について『中国美術全集6工芸編 染織刺繍Ⅰ』は、平織の地に地揚げによる綾組織で文様を織り出した絹織物で、漢代には錦と同じく高級織物という。

松皮菱を繋いだような文様である。
同書は、杯形の幾何学の骨組みの中にそれぞれ一対の鸞鳥文と一組の四角放射式の対称変体草花文をうめているという。幾何対龍文綺 パルミラ出土 後漢
上の前漢とほぼ同じ図案の綺がパルミラの古墓より出土している。

同書は、異なる点は、うめられた動物が龍文であることだけであるという。 
パルミラの地で、この文様から亀甲繋文が生まれたのだろうか。ところが、ばさら日本史というウェブサイトの飾履を作るに、もともとは前9世紀頃の西アジアが起源で、支配者の権威や霊性のシンボルだったそうですという文が目に付いた。
やっぱり中国ではなかったのか。西アジアの紀元前のものを調べていると、前9世紀のものは見つけることができなかったが、もっと古いものがあった。

バビロニアのクドゥッル 
前11世紀 黒色石灰岩 高61㎝ 大英博蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、このクドゥッルは、イシン第2王朝の6代目の王マルドゥク・ナディン・アヘ(在位1098-1081)の治世年間に起こった土地の譲渡を記録したもである。  ・・略・・
碑面の上方には、この碑文のなかにその名を言及されている12の神々のシンボルが並べられている。碑面の中央に姿を見せているのは、ときの王マルドゥク・ナディン・アヘである。  ・・略・・  王が盛装をして公式の場面に現れる折の姿であろう。衣装の表面の細かな文様は実際には刺繍か、あるいはアップリケの手法で施されたものと考えられる
という。

神々の象徴の中に亀がある(上矢印む)。そして、王の盛装の衣装に亀甲繋文(下矢印)があった。しっかりと亀甲繋となっていて、中に八弁花文が表されている。 亀甲繋文は前11世紀初期に、すでに完成した装飾文様だったのだ。これが現在わかる範囲での亀甲繋文の最古です。

『古代メソポタミアの神々』に亀の図案が載っていた。

同書は、征服した地バビロニアの文化をそっくり受容していたカッシート人も、後代に残る文化的な貢献をしなかったわけではない。その最たるものが、「クドゥル」である。
1mほどの高さの石碑に、臣下への土地分与などの証文とそれを保証する神々の象徴を彫り込んだもので、境界石という意味合いを持ち、カッシート崩壊後のイシン第二王朝や新バビロニア時代にもさかんに制作されている。
クドゥルの上部には、所狭しとばかりに神々の象徴が並べられている。神をこのように特に象徴で表すようになったのはカッシート時代からのことである
という。 亀が長寿というのはいつの時代から言われていたことかわからないが、水の少ないメソポタミアで、亀は水神エアの象徴として表されてきた。しかし、これだけで亀と日本で亀甲繋文と呼ばれている文様を関係づけてよいものだろうか。

関連項目

杯文(松皮菱)の起源は戦国楚

※参考文献
「世界の文様2 オリエント」 1992年 小学館
「中国美術全集6工芸編 染織刺繍Ⅰ」 1996年 京都書院
「古代メソポタミアの神々」 岡田明子・小林登志子 2000年 集英社
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館

※参考ウェブサイト
ばさら日本史飾履を作る