お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/05/30

三層石塔のチブンパッチムは年代の基準となるのか


国立慶州博物館の野外展示にたくさんの三層石塔があった。
高仙寺のものはがっしりとしていて、感恩寺の三層石塔を思わせる。
説明板によると、二段からなる基壇、三層の塔身、そして覆鉢と迎花で構成された相輪部を持つ、一般的な石塔である。この塔と、神文王2年(682)以前の作と考えられる感恩寺址東西三層石塔は、10.1m前後という高さや、82枚の石を組み合わせた製作技術など、共通点が多いが、高仙寺跡三層石塔には、1層の塔身に扉の彫刻が施されている点が異なるという。82の石材を組み合わせていたとは。感恩寺のものよりも基壇が小さいが、非常に似ているので、感恩寺の後、時を経ずに製作されたのだろう。  近くに石塔細部名称があった。覆鉢の上の迎花は多分中国語だろうが、日本では受花という。基壇の下台石の中間の柱は撑柱(とうちゅう、下の画像にはこの文字が入力できず、手偏のつもりで才をつけたら、才掌柱になってしまいました)ということがわかった。
5段に持ち送った軒や屋根の部材がそれぞれ4つであることも、似ている。 扉の彫刻というのはこれである。点々とある穴が扉の鋲の間隔に見えなくもない。中央には間隔の詰まった2つの点が上下にあるので、それが2つの扉の境目を表しているのだろう。南山三陵渓の三層石塔は3mくらいだった。塔身石も屋蓋石も1つの石材を細工したものになっている。軒は3層目以外は5段に持ち送っている。そして2層・3層の塔身が低い。統一新羅の9~10世紀の製作とある。
この三層石塔は入ってすぐに小山の上に見つけ、帰りに再び目に付いた。おっちゃんは気に入ったらしく、何枚も撮っていた。
説明板よると、本来慶州市南山の僧焼谷(スンソゴル)にあった塔であり、二段の基壇と三層の塔身を持つ、一般的な新羅石塔である。だが基壇に格狭間文が、1層塔身に仏と塔を守護する四天王像が彫刻されている点が、他の石塔とは異なっている。やや小柄である点、屋蓋石を支えるチブンパッチム(斗栱型)の数が4段に減少している点、四天王像に生動感が感じられない点などから、統一新羅時代の9世紀後半の作と考えられるという。確かに威嚇する動きも気迫も感じられない。文人かと思った。
基壇が4枚の石板で構成されているので、一石に彫り出した三陵渓の三層石塔よりは古い時代のものということになるのだろうか。しかし、三陵渓のものはチブンパッチムが5段(3層目以外)あるが、僧焼谷の三層石塔は4段になっている。私は4段というのと浮彫があるということで、これが一番時代が下がるのだと思っていた。一概に言えないということかなあ。
それにしても、僧焼谷とはすごい名前やなあ。  そして、皇龍寺址から遙かかなたに見えた味呑寺址の三層石塔は、統一新羅滅亡直前の9世紀ということだが、滅んだのは935年で10世紀である。チブンパッチムは4段だが、感恩寺址や高仙寺址の三層石塔のように、たくさんの石材を組み合わせて造ってあるように見える。これくらいの大きさのものは時代が下がっても、小さな石材でないと載せられなかったのかも。
日本ではチブンパッチムは持ち送りという言葉が使われています。

※参考サイト
慶州へ行こう皇竜寺近辺の寺跡

2008/05/28

感恩寺の三層石塔は新羅最古で最大

芬皇寺は善徳女王の634年に創建され、塔は3つの金堂で三方を囲まれた模磚塔だった。その南にある壮大な皇龍寺の塔は北側に3金堂が並んだ九層木塔で、645年に完成した。
新羅では一時的に模磚塔が造立されたものの、一般的には木塔が造られていた。その後、石塔が造られるようになっていったようだ。
感恩寺は神文王2年(682)に完成した。塔は三層の石塔で、新羅で石で造られた最初の石塔という。しかも双塔で、釈迦の舎利を収めた塔が一番重要であった頃から、仏像が安置された金堂が一番重要となり、塔は伽藍の装飾品へと移行していく。それは仏教の転換期でもあった。日本でも同じような時期に、薬師寺に2つの木塔が建立されていて、東アジアの仏教の波に、新羅も日本も乗っていたのだ。

高さが13.4mというのは、皇龍寺の九層木塔の80mと比べようがないが、統一新羅で一番大きいという。法隆寺五重塔が31.5mで薬師寺三重塔も同じような高さだったので、数十年で塔の大きさが極端に小さくなってしまったことになる。それでも近くで見ると力強い。
芬皇寺模磚塔と同じく軒が持ち送りで造られている。1つの石材を5段に造って、その上に屋根が載っている。  正確には1つの部材ではなく4つの石材で1つの層の軒を構成している。そして屋根もまた1つの層が4つの石材で構成されている。 塔身も角柱と側面それぞれ別の石材で組み立てられている。上の基壇は4本の柱と3枚の板も別材で、天板も1つの面が3つの板でできている。その下の基壇は4枚の石板でできていて、それを5本の柱と4枚の板で支えている。 これは1959年に西塔が解体修理されたときの様子を表したパネルで、現在修復中の同塔の前に置かれていた。 『慶州で2000年を歩く』で武井氏は、木塔は、7世紀半ばになると石塔に変わっていった。新羅で模磚塔がつくられはじめたころ、百済でも石塔をつくり始めた。最初のものは、木塔の材料をそのまま石に置き換えたため、多くの部材が使われたが、次第に洗練されていった。
新羅が三国を統一したのち、百済の石塔と新羅の模磚塔の特徴が融合して、新羅式の石塔がつくられるようになった。これが今でも朝鮮半島の石塔の基本となっている。新羅では石塔に基壇を支える柱がつけられ、塔本体の四隅にも木塔をイメージした柱がつけられた。屋根のカーブは木塔を、屋根の裏は磚(レンガ)が張り出す様子を表している
という。
しかし、感恩寺の石塔を見た限りでは、木材に似せて部材を造った部分もあるかも知れないが、軒や屋根が4分割になっているなど、重い石材を高いところにのせる工夫として小さくしたのではないかと思う。  かつて滋賀県の石塔寺石塔の源流を半島に求めて、扶余定林寺跡五層石塔(7世紀 高さ8.33m)とこの感恩寺の三層石塔を『図説韓国の歴史』で発見した。しかし今回旅行することになって調べていると、三層石塔は慶州にたくさんあることがわかった。 慶州の三層石塔はどのように展開していくのだろう。石塔寺の石塔に近づくだろうか。

※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)

「忘れへんうちに」の石塔寺の石塔はどこから来たものか
慶州の感恩寺伽藍は山田寺より広い?
「おっちゃんと旅に出ると」の1日目-5 感恩寺(カムンサ 감은사)址
にも感恩寺三層石塔関連の記事があります

2008/05/26

芬皇寺の模磚塔が石で目指したものは


芬皇寺の境内で頭頂部まで見ようと思ったら、北側からになるかも。
芬皇寺は善徳女王の634年に創建された。模磚塔は唐の磚塔に似せて割石で造られた。それくらい唐では磚塔が流行していたのだろう。
芬皇寺の南には新羅王が5代にわたって造り続けた皇龍寺があった。その塔は九層木塔で80mあまりの高さがあった。645年に完成したというから、模磚塔よりも後のことだ。
最初は木塔が造られ、その後模磚塔が造られるようになり、その後三層石塔が造られるようになったのだと思っていたので、足をすくわれた心地だ。
679年に完成した四天王寺も木塔だったことから、模磚塔は、木塔があちらの寺こちらの寺で造られている時代に、例外的に造られたものかも知れない。  皇龍寺は蒙古によって焼失したが、北隣の芬皇寺は何者がいつの時代に壊したのだろう。 1915年に解体修理されて今の形になったということだが、内部は中空でも、磚を模した割石で造ったものでもなく、大きな石を積んであった。 五層か七層だったというが、内部が石を積み上げたものだったとしても、残っている割石の量でそんなに高いものが造れるのだろうか。 唐の都長安には652年に建立された大雁塔が残っている。7層の磚塔だが、木造のように柱などが磚の凹凸で表されている。各層の屋根を持ち送りで構成しているところが芬皇寺の模磚塔と似ている。創建当時の模磚塔にも柱などが表されていたかも。異なる点は、大雁塔には各層の四方に開口部があること、それがアーチ状であることだ。

玄宗皇帝(在位712-56)の勅願で建立された開元寺の磚塔は九層だが、各層にある開口部は四角形だ。これは芬皇寺の模磚塔よりも100年近く下るものだが、7世紀にこのような四角形の開口部がなかったとはいえない。
※参考文献
「中国仏塔紀行」(長谷川周 2006年 東方出版)

2008/05/24

皇龍寺の九層木塔の手本はどれ?


慶州では、皇龍寺以外にも木塔は造られたようだ。『慶州で2000年を歩く』によると、四天王寺は新羅が唐と戦争をはじめた年である671年ころからつくられはじめ、679年に完成した。本堂の前に塔を2基建てる形(薬師寺式)で建てられていて、本堂、経楼、鐘楼、2つの木塔の土台石が残っている。
四天王寺と道路を挟んだ松林のなかに望徳寺があった。寺は四天王寺と同じく、木塔を2つ建てた薬師寺方式であった
という。
それらの木塔がどのような規模のものかわからないが、『飛鳥の宮と寺』に塔の高さや平面を比較した図があった。東大寺は天平時代なので比較されていないが、北魏時代の永寧寺があった。 『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』によると、永寧寺は、北魏末の熙平元年(516)、孝明帝の母霊太后胡氏が創建した寺である。その中央に9層の浮図(塔)がそびえ立ち、背後に仏殿が置かれ、門、塔、仏殿が縦列する伽藍配置であった。大塔は着工から3年後の神亀2年(519)に完成し、木造、方形9層で、『魏書』芸術伝によれば設計は郭安興という工匠であった。近年行われた発掘調査によれば、塔の基壇は1辺38.2mの正方形で、『水経注』の「浮図の下基は方40尺」という記載に近似するので、同書の「金露盤の下から地面まで49尺」の数値によって算定すると当初の総高は約147mとなり、いずれにしても破格規模の巨大な塔であった。発掘で明らかになった初層平面は塔身部分を日乾煉瓦を全面ベタ積みに築いた方7間分を実心の構造体としているという。150m近くあったとは。 木塔の塔身が日乾煉瓦とは驚く。
礎石が8X8の64個もある皇龍寺の木塔とは造り方が全然違っていて参考にならないが、皇龍寺の塔が造られた同時期にあたる唐時代の木塔は残っていないので、他に比較するものがない。しかし、円柱を等間隔に並べて木塔を造っているので、塔の建築技術は百数十年の間にかなり進んだんやなあ。

九層木塔址の心礎の上の石は何?皇龍寺址の九層木塔ってどんなん? もどうぞ

※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)
「日本史リブレット71 飛鳥の宮と寺」(黒崎直 2007年 山川出版社)
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」(2000年 小学館)  

2008/05/23

皇龍寺址の回廊は幅が広すぎる?


慶州博物館の模型を見ると、回廊と各建物が境内を埋めているように感じた。同博物館図録には上空からの写真があった。やっぱり、建物の大きさに似合わない境内の空間やなあ。 
回廊も幅が広いなあ。よく見ると礎石が3つ並んでいる。法隆寺の回廊山田寺の回廊の2倍近い幅があるのかも。 しかし、日本でも8世紀後半に完成した東大寺の回廊が3つの礎石が並んでいるが、それ以前の薬師寺の回廊も3つの礎石が並んでいる。
薬師寺は天武天皇が創建し、文武天皇2年(698年)に完成した(飛鳥の地に、後に現在地に移転)ので、645年に完成した皇龍寺の50年程後のことだが、どちらも唐時代の新しい様式を採り入れたので、回廊に3本の円柱が並んでいるのかも。 1世紀ほど時代は下がるが、東大寺には東西2つの七重塔(高さ約100m)が建っていたらしい。それが本当なら、皇龍寺の高さ80mあまりの九層の木塔よりもずっと高かったのだ。この時代、東洋では高層建築が流行っていたんやなあ。

※参考文献
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)

2008/05/22

皇龍寺址の九層木塔ってどんなん?

上の石はどこかから持ってきて置いてあるだけで、下の平たいのが心礎やろ
全く建築とは無関係の夫が言ったが、実は私もそう思った。 上の石はおいといて、大きな心礎の周りにも、他の礎石と等間隔で4つの礎石が、心礎を囲むように置かれている。ということは、日本で最古の法隆寺五重塔のような初層に塑像などで場面を表すようなことは全くなく、ただただ釈迦の舎利を祀る塔だったらしい。  平面図のように8X8の64本もの柱が支えた塔がどんな風だったか、復元図が離れた金属パネルにあった。そこには8本の円柱でできる7つの柱間のうち3つに扉がある。九層の木塔の上に相輪が載っている。どの本で読んだのか忘れてしまったが、九層の上にある相輪は金属でできていて、鉄芯が通っているので、落雷に度々あい、時代は変わってもその度に再建してきたが、13世紀に蒙古によって焼失してしまったという。
『慶州で2000年を歩く』で武井氏は、皇龍寺金堂の前には高さ80mあまりの九層の木塔があった。643年に着工されて2年後に完成した。日本を初めとする新羅に敵対する9つの敵から災いを避けるために、九層にしたといわれているという。
連子窓、卍崩し組子の高欄、場所は違うが人字形のモチーフなどが法隆寺金堂の細部に似ているなあ。しかし、法隆寺は、金堂・五重塔の組物は、柱上の皿斗付大斗に雲斗・雲肘木を組み、その上に尾垂木をのせ、尾垂木の先に雲肘木を置いて出桁を受け、垂木をのせるという(『国宝法隆寺展図録』による)が、皇龍寺の方は三手先の組物になっているようだ。
後に行った国立慶州博物館に皇龍寺の復元模型があった。立体なので、ああこんなんやったんかとは思うものの、100分の1程度の模型では巨大さが伝わってこなかった。
九層木塔址の心礎の上の石は何?皇龍寺の九層木塔の手本はどれ?もどうぞ

※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)

※参考サイト
社寺建築の相輪
日本建築の底流社寺建築にみる建築観組物

2008/05/21

皇龍寺の中金堂址には仏像の台座がごろごろ


皇龍寺中金堂は幅が約52mもあって全体を捉えることが難しい。部分的に見ていくと、中尊の台座の東に5つの四角い台座が並んでいて、少し離れて1つ斜めに台座が置かれている。地面すれすれの礎石群に混じることなく突き出ている。これが東脇侍5体の台座。中央に四角く枘穴があるが、各角にも小さな四角い凹みがある。 そしてこれが斜めに置かれた台座。四角い穴が2つある。足を踏ん張る四天王か仁王などの守護天が立っていたのかな。
中央に三尊像があるが、その台座は盛り土の基壇の上に置かれたらしい。横から見ると何があるのかわからない。
三尊の台座は、主尊の円形の凹みが両脇侍のものよりもかなり大きい。574年に主尊仏の金銅三尊仏を造ったという。丸い穴は蓮台の大きさだったのだろうか?飛鳥の大仏さんが609年に完成したというから、その35年も前に造られた仏像はどのような姿をしていたのだろう。立像か坐像かさえわからない。その背後の四角は光背を立てるための穴。そして西側にも5体の脇侍と少し離れて1体立っていたはず。 左にも5つの四角い台座があったはずだが、その破片が散乱している。斜めの台座は残っている。その向こうの四角い基壇は西金堂。平面図と基壇推定復元図があった。両側の5体の外から2体目の前にも枘穴のある四角い台座がある。斜めの台座に四天王の内の2体だとすると残りの2体の台座がないが、通常門にいる仁王像が金堂にいたのだろうか。
旅行の様子は2日目-2 一塔三金堂式の皇龍寺(ファンリョンサ 황룡사)址へにあります。

2008/05/19

慶州で見学した古墳第1号は皇吾洞325の円墳


八友亭ロータリーの南西角にも円墳があった。円墳にしては裾が流れるように広がっている。結構古いものかも。 あちこちに自転車が置いてあるが、朝早くから見学者がいるのだろうか。我々は通りがかりに眺めたという程度だった。
柵の形に回り込むと八友亭ロータリーに出るのだが、その前に柵がとぎれて石碑と説明板があった。
史跡第41号 所在地:慶尚北道 慶州市 皇吾洞 325
ここ皇吾洞には大きさが異なる新羅時代の塚が密集している。長い間、手入れがされていないため、封墳(盛り土をして作った墓)の損傷が目立つが、現在も古墳として判断付近できるものが10基余りある。この古墳群はこの付近で発掘された古墳の構造からみると4~5世紀頃の王族、または貴族が安置されている積石木槨墓墳であると推定される
という。
この付近で発掘された古墳というのは天馬塚のことだろう。  円墳のこちら側の裾には石垣が見える個所もある。時代が下がると円墳が小型化し、周囲を石垣が巡り、もう少し下がると十二支の浮彫石板が嵌め込まれるというが、4~5世紀頃なら積石木槨墓が造営された頃。道路の整備のためか、崩れていたからか、近年石垣にされたのだろう。

この付近の旅行記は2日目-1 慶州で最初の朝食はヘジャンクッ

2008/05/18

感恩寺の金堂の前にあるもの


金堂は床下は竜が入れるように空洞が造られていたというが、金堂の基壇はかなり高く造られている。その空間のために高くしたのだろうか。今は金堂南側の階段は木製だが、その左側(西)に八角柱が転がっている。下部は丸く削られ、それに接する石が軸受けとなっていたのかなと思う。もしそのようなものだったら、この八角柱は扉の一部だったのか。こんなところに扉があるというのも妙だが。そして金堂前にはこのような土の盛り上がりがある。平面図にはここに何も存在しない。慶州へ行こうの感恩寺で武井一氏は、竜となった文武王が寺に入って来られるように寺の前に池を作り、本堂の土台の下を空洞にしているという。今は盛り上がっているが、創建当時ここに池が掘られていたのだろうか。 そして金堂前の左右、東塔と西塔の間に、石材が1対ずつ横たわっている。金堂に向かって正面側の面に浮彫がある。細長い二等辺三角形の並ぶ鋸歯文の中央に巴のような、渦を巻きそうな勢いのある文様が表されている。
『慶州で2000年を歩く』は、これは「卍」を崩したものとか、韓国の国旗(太極旗)の中央に使われている模様(太極模様)をあらわしたものといわれる。太極は東洋思想の基本になるもので、そこから陰陽の気が生じ、さまざまなものになっていくというがどうだろう。もっと下までみえたらいいのに。金堂の前には不思議なものがいろいろあるものだ。

※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)

※参考サイト
慶州へ行こう感恩寺

感恩寺の金堂址下には空洞が


説明板によると、感恩寺は文武王が倭寇の侵略から国を守るために建てはじめ、神武王2年(682)に完成したということだが、『慶州2000年を歩く』で武井氏は、感恩寺がつくられた時代は、新羅の外交関係が最も安定していた一方、日本は白村江の戦いに負け、唐や新羅の侵攻に備えていた時期である。そのような状況から、日本の侵攻から防御するためにつくられたのではなく、ただ竜となった文武王の力によって国の安定を願っただけともいわれているという。
また武井氏は、文武王遺灰を海に葬れば竜となって国を守ると遺言したため、寺の床下は竜が入れるようにつくられていたと、どちらにも解釈できる書き方だ。
しかし、どちらにしても文武王は竜になるつもりで感恩寺を創建したらしく、実際金堂址はこのようになっている(パノラマ合成すると扇形になってしまいました)。 この寺がいつ廃寺となったか、そして今の状態にはいつ頃なったのかわからないが、西半分は石の床材が敷き詰められ、その上に礎石がいくつか置かれている。こんな不安定な礎石で金堂が支えられたのだろうか?
礎石は、日本では上に出ている部分は小さく見えても、地中に埋められているので、全体ではかなり大きなものになる。山田寺の礎石のように隠れている部分がずっと大きい。それで上の建物を支えられるのだから。東半分は床材がなく、それを置くための石材が並んでいる。それを下で支える部材も等間隔で残っていて、床下に空間があることがわかる。
ところどころに斗のような部材がある。それも二重になっている。この二重の部材で礎石を支えていたのかも。 伽藍を見終わって、来た方へと戻っていくと、東回廊の外側に石材がたくさんあるところがあった。来た時にも見て建物でもあったのかと思った。ここは下に空間がない。土で埋まってしまったのだろうか。この東側にももう少し小さな建物があったように石材が並んでいた。それとも、これらの石材は、金堂の床下の空間が見学できるように、はがしてこの辺りに置かれているだけなのだろうか。

※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)