ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2008/02/22
飛鳥の大仏さん
飛鳥寺の建物が596(推古4)年に完成した時点では、本尊はまだなかった。
『日本仏教史』によると、本尊となるべき銅造と刺繍の丈六仏(ともに左右脇侍をもつ三尊像)については『書紀』推古13年(605)条に、ようやく仏工の鞍作鳥により着手されたことを伝えている。その完成は『書紀』が翌14年、『元興寺縁起』所収「丈六光銘」は同17年(609)のこととし、一般には後者が正しいとされるという。そして、『日本史リブレット71飛鳥の宮と寺』によると、鳥仏師が釈迦像をつくったとき、大工などは扉を破壊しなければ堂内に搬入できないと、苦慮したが、止利の名案で無事に安置できた挿話が『書紀』にみえるという。日本での仏教寺院や仏像の草創期の苦心や工夫が伺える話だが、ちょっと笑ってしまう。
安居院本堂の東に続く建物に拝観受付がある。本堂に入るとたくさんの人が床に座っていて、説明を聞いていた。我々も端の方に坐った。説明が終わると、「写真を撮っていいですよ」と言われて驚いた。考えて見れば金属なので、写真を撮ったからといって劣化するものではないし、この阿弥陀仏坐像は、かなり補修されているからかも知れない。 しかし、大仏さんに近寄って熱心に祈っている人たちもいるので、好きなように撮るわけにもいかなかった。原形を留めないほどに修復されているとはいえ、飛鳥白鳳仏が好きなので、この大仏さんは私のお気に入りの1体である。今回はどのあたりが造立当時のものか確認したかった。
とりあえず、この大衣の衣文は飛鳥時代のものと違うなあ。薄暗いお堂で遠くから見ていた時は、左腕に掛かっているはずの大衣の端がどこにあるのかわからなかったが、近くに寄ってやっとわかった。左肩に掛かっていた(矢印の部分)のだ。法隆寺の小金銅仏の中に一光三尊形式の釈迦三尊像がある。『国宝と歴史の旅1飛鳥のほとけ天平のほとけ』(以下『飛鳥のほとけ』)に、光背裏に刻まれた銘文から、戊子年(628)に「嗽加大臣」(そがのおおおみ、蘇我馬子または蝦夷)のためにつくられた像と知られる。 ・・略・・ 止利派の工人たちの表現の幅をうかがわせるというこの像のように、飛鳥の大仏さんも造立当時は大衣を左腕に掛けていた(矢印の部分)はずだ。お堂の中に、炳霊寺石窟の北魏時代の如来像に、飛鳥大仏が似ているということで、写真が飾ってあった。いったい、飛鳥大仏はどこまで造立当時のものが残っているのだろう。『日本仏教史』によると、飛鳥・安居院に遺存する像(飛鳥大仏)はかつての中金堂の位置に安置されており、その台座を据えた凝灰岩の基壇も元のまま動いていないことが確認されている。したがって、中金堂本尊のことをさすと考えられる『書紀』の銅造丈六仏はやはり同像のことで、「丈六光銘」もその光背銘とみるのが穏当である。像の現状は大部分が建久7年(1196)の火災で破損した後の補作で、当初部は両眼と鼻、額を含む顔の上半分、さらには髪際や肉髻前面部の螺髪のいくつか、右手の第1-3指など、ごく一部の個所にとどまるという。
『飛鳥のほとけ』に伊東太作氏の復元図がある。たったこれだけだったとは思わなかった。 飛鳥寺の受付で買った『飛鳥歴史散歩』で寺尾勇氏は、室町中期には本尊の背をふいごで吹き抜いて銅を盗みとるものもあったという。鎌倉の補修後にも、とんでもないめに遭ったようだが、衣文や首の三道などは不自然なところもあるが、力強く表されており、継ぎ目も目立つとはいうものの、その時々に、できる限りの補修が行われたように思う。
目と鼻が造立当時のままということで、頬は後補なんや。その補修部にも大きく2箇所に短冊形の傷があることからも、散々な目に遭ってきたことがうかがえる。
そして右手。表面が荒れている方が補修された部分のようだ。
火災に遭った後、文政8年(1825)まで長年風雨にさらされて、造立時の部分はごくわずかなのに、今までよく残ったもんやね。
※参考文献
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「日本史リブレット71飛鳥の宮と寺」(黒崎直 2007年 山川出版社)
「国宝と歴史の旅1飛鳥のほとけ天平のほとけ」(1999年 朝日百科日本の国宝別冊 朝日新聞社)