上の石はどこかから持ってきて置いてあるだけで、下の平たいのが心礎やろ
全く建築とは無関係の夫が言ったが、実は私もそう思った。 上の石はおいといて、大きな心礎の周りにも、他の礎石と等間隔で4つの礎石が、心礎を囲むように置かれている。ということは、日本で最古の法隆寺五重塔のような初層に塑像などで場面を表すようなことは全くなく、ただただ釈迦の舎利を祀る塔だったらしい。 平面図のように8X8の64本もの柱が支えた塔がどんな風だったか、復元図が離れた金属パネルにあった。そこには8本の円柱でできる7つの柱間のうち3つに扉がある。九層の木塔の上に相輪が載っている。どの本で読んだのか忘れてしまったが、九層の上にある相輪は金属でできていて、鉄芯が通っているので、落雷に度々あい、時代は変わってもその度に再建してきたが、13世紀に蒙古によって焼失してしまったという。
『慶州で2000年を歩く』で武井氏は、皇龍寺金堂の前には高さ80mあまりの九層の木塔があった。643年に着工されて2年後に完成した。日本を初めとする新羅に敵対する9つの敵から災いを避けるために、九層にしたといわれているという。
連子窓、卍崩し組子の高欄、場所は違うが人字形のモチーフなどが法隆寺金堂の細部に似ているなあ。しかし、法隆寺は、金堂・五重塔の組物は、柱上の皿斗付大斗に雲斗・雲肘木を組み、その上に尾垂木をのせ、尾垂木の先に雲肘木を置いて出桁を受け、垂木をのせるという(『国宝法隆寺展図録』による)が、皇龍寺の方は三手先の組物になっているようだ。
後に行った国立慶州博物館に皇龍寺の復元模型があった。立体なので、ああこんなんやったんかとは思うものの、100分の1程度の模型では巨大さが伝わってこなかった。
九層木塔址の心礎の上の石は何?・皇龍寺の九層木塔の手本はどれ?もどうぞ
※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)
※参考サイト
社寺建築の相輪
日本建築の底流社寺建築にみる建築観の組物