芬皇寺は善徳女王の634年に創建され、塔は3つの金堂で三方を囲まれた模磚塔だった。その南にある壮大な皇龍寺の塔は北側に3金堂が並んだ九層木塔で、645年に完成した。
新羅では一時的に模磚塔が造立されたものの、一般的には木塔が造られていた。その後、石塔が造られるようになっていったようだ。
感恩寺は神文王2年(682)に完成した。塔は三層の石塔で、新羅で石で造られた最初の石塔という。しかも双塔で、釈迦の舎利を収めた塔が一番重要であった頃から、仏像が安置された金堂が一番重要となり、塔は伽藍の装飾品へと移行していく。それは仏教の転換期でもあった。日本でも同じような時期に、薬師寺に2つの木塔が建立されていて、東アジアの仏教の波に、新羅も日本も乗っていたのだ。
高さが13.4mというのは、皇龍寺の九層木塔の80mと比べようがないが、統一新羅で一番大きいという。法隆寺五重塔が31.5mで薬師寺三重塔も同じような高さだったので、数十年で塔の大きさが極端に小さくなってしまったことになる。それでも近くで見ると力強い。
芬皇寺模磚塔と同じく軒が持ち送りで造られている。1つの石材を5段に造って、その上に屋根が載っている。 正確には1つの部材ではなく4つの石材で1つの層の軒を構成している。そして屋根もまた1つの層が4つの石材で構成されている。 塔身も角柱と側面それぞれ別の石材で組み立てられている。上の基壇は4本の柱と3枚の板も別材で、天板も1つの面が3つの板でできている。その下の基壇は4枚の石板でできていて、それを5本の柱と4枚の板で支えている。 これは1959年に西塔が解体修理されたときの様子を表したパネルで、現在修復中の同塔の前に置かれていた。 『慶州で2000年を歩く』で武井氏は、木塔は、7世紀半ばになると石塔に変わっていった。新羅で模磚塔がつくられはじめたころ、百済でも石塔をつくり始めた。最初のものは、木塔の材料をそのまま石に置き換えたため、多くの部材が使われたが、次第に洗練されていった。
新羅が三国を統一したのち、百済の石塔と新羅の模磚塔の特徴が融合して、新羅式の石塔がつくられるようになった。これが今でも朝鮮半島の石塔の基本となっている。新羅では石塔に基壇を支える柱がつけられ、塔本体の四隅にも木塔をイメージした柱がつけられた。屋根のカーブは木塔を、屋根の裏は磚(レンガ)が張り出す様子を表しているという。
しかし、感恩寺の石塔を見た限りでは、木材に似せて部材を造った部分もあるかも知れないが、軒や屋根が4分割になっているなど、重い石材を高いところにのせる工夫として小さくしたのではないかと思う。 かつて滋賀県の石塔寺石塔の源流を半島に求めて、扶余定林寺跡五層石塔(7世紀 高さ8.33m)とこの感恩寺の三層石塔を『図説韓国の歴史』で発見した。しかし今回旅行することになって調べていると、三層石塔は慶州にたくさんあることがわかった。 慶州の三層石塔はどのように展開していくのだろう。石塔寺の石塔に近づくだろうか。
※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「忘れへんうちに」の石塔寺の石塔はどこから来たものか
慶州の感恩寺伽藍は山田寺より広い?
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