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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/05/18

感恩寺の金堂址下には空洞が


説明板によると、感恩寺は文武王が倭寇の侵略から国を守るために建てはじめ、神武王2年(682)に完成したということだが、『慶州2000年を歩く』で武井氏は、感恩寺がつくられた時代は、新羅の外交関係が最も安定していた一方、日本は白村江の戦いに負け、唐や新羅の侵攻に備えていた時期である。そのような状況から、日本の侵攻から防御するためにつくられたのではなく、ただ竜となった文武王の力によって国の安定を願っただけともいわれているという。
また武井氏は、文武王遺灰を海に葬れば竜となって国を守ると遺言したため、寺の床下は竜が入れるようにつくられていたと、どちらにも解釈できる書き方だ。
しかし、どちらにしても文武王は竜になるつもりで感恩寺を創建したらしく、実際金堂址はこのようになっている(パノラマ合成すると扇形になってしまいました)。 この寺がいつ廃寺となったか、そして今の状態にはいつ頃なったのかわからないが、西半分は石の床材が敷き詰められ、その上に礎石がいくつか置かれている。こんな不安定な礎石で金堂が支えられたのだろうか?
礎石は、日本では上に出ている部分は小さく見えても、地中に埋められているので、全体ではかなり大きなものになる。山田寺の礎石のように隠れている部分がずっと大きい。それで上の建物を支えられるのだから。東半分は床材がなく、それを置くための石材が並んでいる。それを下で支える部材も等間隔で残っていて、床下に空間があることがわかる。
ところどころに斗のような部材がある。それも二重になっている。この二重の部材で礎石を支えていたのかも。 伽藍を見終わって、来た方へと戻っていくと、東回廊の外側に石材がたくさんあるところがあった。来た時にも見て建物でもあったのかと思った。ここは下に空間がない。土で埋まってしまったのだろうか。この東側にももう少し小さな建物があったように石材が並んでいた。それとも、これらの石材は、金堂の床下の空間が見学できるように、はがしてこの辺りに置かれているだけなのだろうか。

※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)