説明板によると、感恩寺は文武王が倭寇の侵略から国を守るために建てはじめ、神武王2年(682)に完成したということだが、『慶州2000年を歩く』で武井氏は、感恩寺がつくられた時代は、新羅の外交関係が最も安定していた一方、日本は白村江の戦いに負け、唐や新羅の侵攻に備えていた時期である。そのような状況から、日本の侵攻から防御するためにつくられたのではなく、ただ竜となった文武王の力によって国の安定を願っただけともいわれているという。
また武井氏は、文武王遺灰を海に葬れば竜となって国を守ると遺言したため、寺の床下は竜が入れるようにつくられていたと、どちらにも解釈できる書き方だ。
しかし、どちらにしても文武王は竜になるつもりで感恩寺を創建したらしく、実際金堂址はこのようになっている(パノラマ合成すると扇形になってしまいました)。

礎石は、日本では上に出ている部分は小さく見えても、地中に埋められているので、全体ではかなり大きなものになる。山田寺の礎石のように隠れている部分がずっと大きい。それで上の建物を支えられるのだから。

ところどころに斗のような部材がある。それも二重になっている。この二重の部材で礎石を支えていたのかも。



※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)