お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/03/29

アートボックストンボ玉とコアガラス田上恵美子展


画像は拡大しますが、ストロボなしで撮影したため不鮮明なものもあります。尚、田上恵美子氏は田上惠美子さんでした。

田上恵美子氏の個展を見に豊中に出かけた。阪急宝塚線曽根駅から東に1分も歩くと、アートボックスというギャラリーがある。落ち着いた雰囲気の、居心地の良い画廊である。
驚いたことに田上氏は着物姿だった。聞くと「50になったら自分で着物が着られるようになろう」と思っていたのだそうだ。歳を重ねてますますチャレンジャーになっていく田上恵美子氏である。アーティストの例に漏れずシャイな田上恵美子氏はなかなか顔を撮らせてくれない。やっと撮れたのがこれ。今回はスランピングやフュージング(かわさきガラスWORLDに説明あり) したものが新たに出品されていた。掛け物は色んな材料で工夫した手作りということだ。またグラスクラフトトリエンナーレ2004で佐竹ガラス大賞受賞した「まどろみの終わりにささやきが聞こえた」という作品も、個展の度に変貌をとげ、今回は輪郭がギザギザ、泡泡したものができあがっていた。金箔も様々なものをいろんな風に使っているので、それぞれに色も輝きも異なっていて、全体で見ても、1つを見ても楽しく、見飽きない。トンボ玉もたくさんある。陶器などをはめ込んだ奈良の木工作家の台(アートボックス所蔵)の上に載せられると、上のステンレスのや、下の方のアクリルのものとはちょっと違って見える。
左から2つ目のものは、トルコ石の青色と金のラインがエジプトを思わせる。名古屋の手造りガラスびいどろ家で、「歴史上の人物から注文があったとしたら貴方はどんな玉を創りますか」テーマを与えられてトンボ玉を制作したことがあり、クレオパトラで制作したものの1つとか。当たらずとも遠からずだった。しかし、息子さんには形が「寝袋みたい」と言われるそうである。田上氏と言えば金箔・銀箔をよく使う作家であるが、今回は私には截金(きりがね)を使ったように見える作品がところどころに置かれていて驚いた。  
実は、昔博物館で仏像や仏画を眺めていて、表面にきらきら光るもので文様が表されていることに気がついた。それが截金だった。そして、その細い截金で表された様々な文様がどこからきたものだろうかと思ったのが、今まであちこち寄り道しながらも続けてきた美術史の勉強の原点だったのだ。
聞けば、田上恵美子氏は平安佛所の人間国宝の截金師江里佐代子氏の作品を見て截金の創り出す文様に興味を持ったのだとか。
私はといえば、テレビで江里氏が截金で文様を描いていく様子を見たことがあり、現代でも続いている技術なのだと思った程度だった。
トンボ玉だけを見るのと、銀の輪っか?に通されたものを見るのとでは雰囲気がまた違って見えてくる。 そして、トンボ玉そのものも、透明なもの、色の付いたもの、半透明なもの、不透明なもの、ツヤのあるもの、ないものと様々である。
円錐形のものも作品で、オーガンジーで蓋をしている(のかどうか、聞くのを忘れた)。帯留めも幾つかあった。自分が着物を着るようになってわかったという工夫も随所に見られる。
アートボックスは豊中市曽根東町1-10-3
「トンボ玉とコアガラス 田上恵美子展」
2007年3月28日~4月8日

 田上恵美子氏の略歴

2007/03/26

鋪首の饕餮文は変化して北魏にも



辟邪としての饕餮文が墓室に限らず、いろんな建物に鋪首として使われたが、当書庫にはその後の時代の図版がなかった。 やっと見つけたのが北魏時代(386から534年)のものだった。遺物として残っていなくても、連綿と続いてきたからこそ鮮卑という北方遊牧民の統治した北朝にも表されたのだろう。

15 透彫鋪首と環 銅 高18.7cm 北魏時代(5世紀後半) 寧夏回族自治区固原県西郊出土 固原博物館蔵
中国 美の十字路展図録』は、方形の鋪首の下に、環状の取っ手を付けた青銅製の飾りである。鋪首は丸い大きな眼と三角形の高い鼻の獣面をしており、2本の角の間には ・略・ 左右2頭の龍と中央の人物からなり、 ・略・ 龍の上に立っている。下部の取っ手部分は、2頭の龍によって環状に作られ、 ・略・ 環の中央に立つ人物は、鋪首の人物とほぼ同じ姿態であるが、高髻の頭部、豊満な顔立ち、着衣の様子などがよくわかり、仏像の表現であると考えられるという。
饕餮と思われる獣面文に人物が入り込んで、複雑な形状となっている。上の人物は両側に龍を従えたような気配がある。
饕餮文を探していて、いつの間にか仏教時代に入っていた。
16 磚室の墓室 北魏時代 出土場所不明
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、墓の内部構造は中国風であるが、石刻には西域の趣が見られるという。

西域の趣は私には感じられないが、「漢民族の宮殿をまねた石造りの柱」というのはわかる。法隆寺金堂天蓋から 3中原の石窟には の鮮卑墓より出土の模型のフェルト製テントや550年没の鄰和公主の墓室から見ても、この磚室の墓室は中国色の強いものである。
そして鋪首の数の多いことには驚かされる。出入口が多いのか、辟邪として壁面のあちこちに付けられたのだろうか。
17 獣と戦う戦士をかたどった鋪首 16の部分
同書は、鋪首とは、ドアにとりつけられたノッカーにあたる獣面の装飾のことである。戦士は鮮卑人の姿をしており、獣の角をつかみたいへんな勇敢さを見せている。墓室と墓主の平安を守る意味を具象化したものであるという。

鮮卑風の力持ちの戦士が、中国風の饕餮文あるいは獣面文と組み合わさったことがわかる。
18 獣を馴らす北方民族の文様が入った金の飾牌 北魏時代 内モンゴル哲里木盟出土 内モンゴル哲里木盟博物院蔵
同書は、北方民族はつねに馬に乗っており、革帯を着けていなければならなかった。飾牌は腰帯につけていた装飾品である。この金の飾牌は、獣を飼い馴らす様子をテーマにしているという。

野生の馬を飼い馴らしているにしては尾が馬とは異なる。この獣はたてがみのあるライオンのような肉食獣のようだ。このようなモティーフは、南ロシアのスキタイなど、イラン系の北方民族にはなかったように思う。鮮卑独特のものかも知れない。
このように、かなり空白の期間があるが、鋪首には饕餮文、あるいは饕餮文から派生した獣面文が作られ続けた。そして、北魏時代になると、鮮卑独特の獣を飼い馴らす人物と組み合わさり、仏像までがその中に組み込まれることもあったようだ。

※参考文献
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「図説中国文明史4秦漢」 劉煒 2005年 創元社

2007/03/23

饕餮文は瓦当や鋪首に


何か饕餮文のあるものがないか調べてみると、瓦当(がとう、軒丸瓦・鐙瓦)が見つかった。

11 半瓦当 灰陶 戦国時代の燕国(前403-222年) 個人蔵

 『中国古代の暮らしと夢展図録』は、屋根を瓦で葺くということは西周時代(前1044-771年)に始まったとされる。戦国時代になると諸国が都市や宮殿など土木事業を盛んに行ったので、製瓦業が発達した。瓦当は軒に配置される丸瓦の頭で、戦国時代には地域ごとに特色ある装飾がなされ、大建築を飾った。饕餮文の半瓦当は燕国(現在の河北省地域)の典型である。饕餮とは、口だけあって腹がない神話上の怪物で、なにもかも喰らい尽くすといわれ、殷・周時代の青銅器には欠かせない辟邪の文様であった。力強く重厚な作行きである。この半瓦当の大きさ(径37.0cm)からみて、想到に大きな建築物を飾っていたことが推測されるという。
この展覧会では幾つか瓦当があったが、これは特に大きかった。しかし、当時は饕餮は辟邪であると思っていたし、大喰らいのことは聞いていたので、この解説に納得した。
しかし、饕餮は王だったのかでそうではなかったことがわかった。何時の頃からか、饕餮文が辟邪として表されるようになり、この戦国時代の瓦当に表された饕餮文は、すでに辟邪という役割があったのだろうとしか言えない。
瓦当はたくさん遺物があるようだが、図版としては11しかなかった。「中国文物資料館 アトリエ246」の戦国時代の最大級瓦当には戦国時代、11と同じ燕国の瓦当と、斉国のものが出ていて、それぞれの特徴がわかる。
また、検索していると奈良国立博物館の『メールマガジン 第9号』にあたり、「特集展示 日本瓦の源流」というのがあることが分かった。3月26日までなので間に合ったと思ったが、よく見ると平成18年2月のものだった。1年前に気がついていれば見に行くことができたのに、残念!

他に饕餮文に似たものはないか探してみると、鋪首(ほしゅ)の獣面が気になってきた。

12 玉環金鋪首 玉、金 長さ2.8cm 戦国時代(前5-3世紀) 陝西省千河県出土 宝鶏市陳倉区博物院蔵

『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、金製の獣面と玉製の円環からなる鋪首(扉のノブ)。扉や器物の引き手の役割を果たすとともに、魔除けとしての意味が込められた器物で、戦国時代から作例があり、  ・・略・・  獣面は、ふたつの大きな目と獣の耳をもち、額に矢印のような文様をもつなど、殷周時代以来の饕餮文の系譜に連なる意匠と考えられるという。
青銅器から消えていった饕餮文は、恐ろしい獣の顔面であったために、辟邪ということで生き延びることができたのだろうか。
13 獣面文の玉製鋪首 大きさ不明 前漢時代(前206-後8年) 陝西省咸陽市茂陵出土 陝西茂陵博物院蔵  
『図説中国文明史4秦漢』は、宮殿の正面に飾られた。中央の獣面文は、口を開いて鼻を巻き、歯を露わにしており、その形態が凶暴であるため、魔除けと墓を鎮める働きがあるという。
饕餮文と特定してはいないが、12と全く違うものとも思えないので、これも饕餮と思って間違いないだろう。シルクロードを開拓した武帝の墓から出土したものらしい。
14 鎏(りゅう)金銅鋪首 青銅鍍金 高7.8cm 前漢(前2-1世紀) 陝西省西安市紅廟坡村出土 西安市文物保護考古所蔵
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、12に比べ、獣面の表情が整合され、より現実の獣のそれに近くなっているのは、時代の推移によるものであるが、邪悪なものを打ち払うという意味合いをもつことに変わりない。宮殿建築をはじめ、各種の建物に多用され、また、地下に営まれた墓の門扉などに設置されることも多かったようで、今日でも戦国から漢、唐時代にいたる相当数の作例が知られているという。
12・14が小さなものなので、このような鋪首は副葬品に付けられてるのかと思ったが、現実の建物にも付けられていたのだ。鎏金は金メッキ。
このように、青銅器では饕餮文は窃曲文になってしまったのかも知れないが、辟邪として残ったからこそ、敦煌莫高窟285窟の辟邪は饕餮だったのだ。前漢から西魏まで、饕餮文を辿ることができるだろうか。

※参考文献
「中国古代の暮らしと夢展図録」 2005年 発行は様々な美術館
「始皇帝と彩色兵馬俑展図録」 2006年 TBSテレビ・博報堂
「図説中国文明史4秦漢」 劉煒著 2005年 創元社

2007/03/21

饕餮文は窃曲文に

青銅器の饕餮文が辟邪でなかったとしても、敦煌莫高窟285窟の饕餮が辟邪であるのは確かだろう。しかし、殷・周(前16-10世紀)の時代と西魏(後535-556年)という年代の開きがあり過ぎる。この間を埋めるものはないか探してみた。

『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、西周期になると饕餮文は急激には廃れないものの、しだいに数を減じてゆくようになった。中期の穆王、共王期ぐらいからは形が崩れて変形された姿のものも登場するようになる。定形がなくなり、上下幅の狭い帯状帯に収まる例が増え、目以外はしだいに退化してゆき、最後には目の両側に体がくねるのみのいわゆる窃曲文となったという。

同書を見ていると、確かに前10世紀までのものと、前10世紀以降のものとでは青銅器の文様が異なってきていることが明らかだった。

6 波曲文鼎(はきょくもんてい、大克鼎) 西周後期(前9-8世紀) 伝陝西省扶風県任村出土 上海美術館蔵 
口縁下には、饕餮文が変形して目玉の周囲を胴体の残滓が巡る形となった窃曲文が3組、その下には波状のうねりのあいだに崩れた夔龍文が入る波曲文(環帯文)が一周する。 ・略・ 文様が本来もっていた意義よりも文様の装飾としての視覚的な効果のほうに重きがおかれている。足は下広がりの獣足となり、上部に饕餮文がつけられるという。

1つのものに窃曲文となってしまった饕餮文と、饕餮のままの饕餮文が表されていて、過渡期の作品かなあと思って見れば、脚部の饕餮の表情が元気がなさそうだ。
7 夔龍文方壺(きりゅうもんほうこ、頌壺) 西周後期(前9-8世紀) 台北市、国立故宮博物院蔵
蓋の縁には窃曲文が一周する。腹部の四面の広いスペースにはそれぞれ双胴の龍が大きく描かれ、その胴体はうねり曲がって、ほかの龍文と複雑に絡み合っている。春秋以後に流行する蟠龍文の原型となるものであるという。

この窃曲文は四弁花の蔓草が帯状に巡っているようにも見える。しかし、中国で植物文が出現するのはずっと後のことである。それまでの主役であった饕餮と、その後ずっと主役であり続ける龍がちょうど入れ替わった時期のような作品だ。
8 窃曲文盨(せっきょくもんしゅ) 春秋前期(前8-7世紀)  山東省曲阜氏魯国故城出土 曲阜市文物管理委員会蔵
盨とは穀物を盛る器で、西周時代中期から現れる。蓋の上には龍形の装飾が四つつき、中央に虎形の飾りがつく。身には短側面に龍首付きの耳がつく。蓋の縁と身の口縁は窃曲文で飾られ、その下に瓦文が施されるという。

饕餮が主文であったころに地文であった雷文ほどには小さくないが、ただの装飾文様となってしまったようだ。
9 窃曲文豆(とう) 春秋前期(前8-7世紀) 湖北省京山県蘇家壟出土 武漢市、湖北省博物院蔵
器壁に窃曲文を飾り、足には透彫りの波曲文を2段に表している。豆は、後になると蓋がつくが、この時期にはまだないという。

まだ目が出ているだけ8よりもましに見える。豆は食物を盛る容器。
10 窃曲文鬲(れき) 春秋中期(前7世紀) 山東省沂水県劉家店子出土 済南市、山東省考古研究所蔵
「肩部に窃曲文の崩れたような文様帯がある」としか表現されていない。 饕餮文がこんな風になってしまうとは。
他に窃曲文のある青銅器はないかと『泉屋博古 中国古銅器編』を開いてみたが、分かり易い作品がなかった。
同書は「竊(せつ、窃は異体字)曲文」について、夔(き)文の変形退化したもので、中央に眼が一つあり、その両側にC字状あるいはS状に曲がる胴体を持つ。眼以外の口・角・足は全く見られない。西周中期から春秋前期に流行した。
商周時代の龍形文は、まず夔文が発達し、ついで螭(ち)文に変化する。夔文は、横向きで大きく口を開け、その口の付け根あたりに眼と角が付き、細い胴体に一本足と尾を持つ
という。
ということで、またもや異なった見解が出てきてしまった。 饕餮文と後世になって関係のない名称をつけられたにしろ、その時代まで何かの形で伝わらなければ、名の付けようもないはずだ。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「泉屋博古 中国古銅器編」 2002年 泉屋博古館

2007/03/19

饕餮は王だったのか


饕餮が大喰らいの怪物であることを聞いて、しばらくしてから、「饕餮は王の顔である」というような新聞記事を見つけて、またもや驚いた。 もうだいぶ前のことなので、誰の書いたどんなものだったか忘れてしまったが、エジプトのスフィンクスのようなものなのだろうか。
その記事に泉屋博古館が制作した青銅器に関する本があることがわかった。
泉屋博古館は京都、東天王町東入るにある住友コレクションを展観している美術館である。久し振りに出かけ『泉屋博古 中国古銅器編』を入手した。さて、その本に書かれた饕餮の定義は、 
怪獣の正面形を表した文様である。中心に大きな鼻梁を配し、その左右に、巨大な眼、一対の角(水牛形や羊形など様々な形がある)、眼の下には歯列を表現した大きな口、横には虎のような耳が付く。さらにその側面に胴体や足などが表現される例も見られる。 ・略・
「饕餮」は本来大食らいの悪鬼を指す言葉であったが、宋代の学者が、逆に邪鬼を食らいつくす怪獣として、この文様に饕餮文という名を与えた。なお中国では、現在この文様を「獣面文」と称している。饕餮文は商から西周前期にかけて、青銅器の目立つ位置に主文様としてほどこされている場合が多く、当時最も重要視された文様である。

というものだった。「商」は殷時代の中国での名称。なるほど、青銅器の文様が元々大喰らいのものを表したのではなかったのだ。

3 饕餮文罍(らい) 銅製 殷、二里岡期(前16-14世紀) 河南省鄭州市白家荘出土 河南博物院蔵
『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、用途は小型の酒甕である。 ・略・ 胴部には、連続雷文帯のあいだに浮彫りの表現となった饕餮文が三つあり、目、角、鼻梁、大きく開いた口の表現が明瞭に認められる。 
殷後期以後のさまざなま文様はいずれも鬼神の表現であり、饕餮はそのもっとも重要な鬼神であったと理解される。 ・略・ 宋代以降にこの文様に饕餮の名をあてはめるようになったが、その比定はあてはまらないことがほぼ確実で、殷王朝にとってきわめて重要な意味をもつ神、その信奉する神(祖先神ないし天上の最高神)の表現に考えられる
という。
4 饕餮文鼎 銅製 商後期(殷後期、安陽期、前14から11世紀) 泉屋博古館蔵 『泉屋博古 古銅器編』は、ふくらんだ三つの胴部に、それぞれ大きな饕餮文がほどこされ、 ・略・ 文様は非常に細い沈線で表現されている。商後期より西周前半ころまで製作された鬲(かく)鼎のなかでも、器形・文様からみて、古い段階のものと考えられるという。
確かに凹凸がほとんどなく古様を示している。3の饕餮文罍の方が凹凸があるが、製作年代を殷の前半とするのは、脚部の穴であるという。
日本の銅鐸にも製作上の必要性からこのような穴がある。技術が向上して、安陽期つまり殷後半には穴は消滅したらしい(『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』より)。
5 饕餮夔(き)鳳文尊 銅製 西周前期(前11から10世紀) 伝河南省洛陽市出土 兵庫県、白鶴美術館蔵
『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、青銅器のもっとも重要な文様で、俗に饕餮文と呼ばれる獣面文は河姆渡(かぼと)文化から続く太陽神の系譜を引くもので、やはり崇拝の表現であったと思われる。饕餮文は殷後期には中央の鼻梁の線を中心として左右対称に文様が展開し、角、目、耳、眉、爪の表現があり、胴体が左右に展開している。二里岡期前半にはいまだ目が中心で、角や体は表現としては未発達で、二里岡期の後半に至ってしだいに複雑な表現をとるようになってくるという。

河姆渡文化は2007年の干支 亥の像1の1「黒陶猪文鉢」と同じ時代で、前5300年頃から前3800年頃。
このように饕餮の定義はばらばらのようである。私の持つ本の中で一番新しいものが『中国国宝展』図録なので、その中に書いてあることをあげてみると、
目を見開いた獣の顔のような文様が表されている。こうした文様は商時代から西周時代にかけての青銅器にしばしば表され、当時の人々にとって重要な存在であったことは疑いない。饕餮文と呼び慣わされているが、本来の意味は不明である。天帝、つまり天の最高神とする説もあるという。

いろいろと説があるものだが、青銅器の饕餮文は、辟邪でも、大喰らいのものを表したものでも、ないのは確かである。とりあえず、当時の権力者が最も畏怖を感じる何者かだったのだろう。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「泉屋博古 中国古銅器編」 2002年 泉屋博古館
「中国国宝展図録」 2004年 朝日新聞社

2007/03/16

饕餮が大喰らいだったとは



敦煌の観光後、西安に飛んだ。えらくオンボロの飛行機で、何時落ちるかと心配なくらいだったが、時々窓から見えるのは、ゴビ灘とその南部に広がる祁連山脈という全く変わらない河西回廊の景色だった。到着すると雨が降っていた。

陝西歴史博物館に行くと、屋根の上に鴟尾(しび)が載っていて、何故か懐かしかった。鴟尾って辟邪?中国には鬼瓦はないの?なんの予備知識もなく博物館に入ったので、展示されていたものがすごいもので(当たり前だが)、1つ1つに驚嘆しながら見学した。
やがて殷周時代の青銅器のコーナーに来た。様々な形の、文様だらけの青銅器というのは、日本でも見たことがあったので、特にびっくりもしなかった。青銅器についての西安のガイド謝苗さんの説明には驚いた。「饕餮は大喰らいの動物です。たくさん飲んだり食べたりできるように食器についています」えっ!辟邪と違うの?
自分の持っている本の中から陝西歴史博物館所蔵の青銅器を探したが、下の作品しかなかった。

2 羊形兕觥(じこう、盛酒器の一種) 西周前期(前11から10世紀) 陝西省扶風県白家出土
円の中に饕餮がいる。縦に断続的にに続く凸形のものが鼻梁となり、その両側に顔が表されている。

『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、腹部中央長辺には突出した目玉、C字形の角、大きな口、耳、胴体をもった饕餮を描く。その様態はいささか線が細く華麗で、上面一面に凹線が入って繁じょくな印象を与えている。
上面には稜飾りが中心部に突き出て、前後に異なった形の饕餮文が描かれる
という。

饕餮は顔だけでなく、胴体もあり、顔は正面向き、胴体は両側に横向きになっている。 そして、複数の饕餮が組み合わさって、この容器が出来上がっている。なんやら饕餮について自分が思っていたこととまるで違うことを聞いたので、以来饕餮が妙に頭に残ってしまった。

下はおまけです。博物館内にあった巨大な獅子で、則天武后の母が葬られた順陵にあるもののコピーらしいです。唐時代の巨大な鎮墓獣ですね。
※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館

2007/03/14

敦煌莫高窟285窟の辟邪は饕餮


以前にも、法隆寺金堂天蓋から 2莫高窟の窟頂を探したらアカンサス文と忍冬紋五弦琵琶は敦煌莫高窟にもあったなどで触れてきた敦煌莫高窟の285窟には、非常に様々なものが壁面に描かれていた。

莫高窟の専門ガイド丁淑軍さんの説明を聞きながら、その中に私は中国古来の辟邪である「饕餮(とうてつ)」があるなあと、目に止まった。
下方の4壁面それぞれに穿たれた龕の中に残っている仏像、周りに描かれた因縁図、仏菩薩などを見る余裕もなく、ただただ伏斗式の天井を眺めていた。285窟はかなり広い方形プランで、甬道から入る外からの光と、丁さんと我々の懐中電灯だけの照明で見るので、背景の白い上部にどうしても目が行ってしまうのだった。西壁(正壁)の天井からほぼ床面までを見るとその感じがよくわかる。
このように伏斗式天井の各壁面の境目に饕餮はあったが、見ている時は、顔しか気がついていなかったと思う。
窟頂の藻井(そうせい)部を中心に見ると、三角形やカーテンの襞のような垂幕が垂れ、その四隅にじゃがいものような饕餮がぶら下がったように描かれている。
丁さんは饕餮については触れなかったように思う。説明する図があまりにも多かったからだろう。窟頂はラテルネンデッケ(三角隅持送り)を模したものになっていて、中央には蓮華が大きく描かれている。窟頂に蓮華を表すのは、蓮華から蓮華の生える池を連想し、さらに水を連想するので、火災がおこらないようにとの願いから蓮を描くのだそうだ。龍も一緒ですと丁さんは言った。しかし、こういうのは辟邪とは言わないだろう。
1 饕餮 西魏時代(535-556年) 敦煌莫高窟285窟壁画 伏斗式天井の四隅
窟内で見ていた時は、上方の、しかも隅にあるため、饕餮をこんなにしっかりと見ることができなかった。じっくり見ると、これはもう魔よけの動物というよりも、風鈴のような感じで、両顎にリボンが結びつけられたり、体も様々な部品を組み立てられた機械のようなものになってしまっている。当時はこのような饕餮を、魔除けとして軒先に掛ける習慣があったのかも知れないなあ。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1982年 文物出版社

2007/03/12

三蔵法師が首に巻く骸骨は

朝日新聞の火曜夕刊に連載されている『祈りの美』を楽しみにしている。先日は「玄奘の首飾り」というものだった。それで思い出したのだが、以前玄奘三蔵の首にある、小さな頭蓋骨の目に紐を通したような首飾りについて書いたことがあったので、忘れへんうちに、記載しておこう。

玄奘三蔵像 鎌倉時代(14世紀) 絹本著色 東京国立博物館蔵(重文)
これはインドから経典を持ち帰る玄奘三蔵を描いたものである。その首には頭蓋骨を9つぶらさげている。ずらりと並んだ頭蓋骨の首飾りというのは、見ようによっては不気味だ。
少し気になって頭蓋骨の首飾りは他にないか調べた。つい最近見たような気がする。『大勧進 重源』展で展示されていた深沙大将立像だった。

深沙大将立像 鎌倉時代(13世紀) 木造彩色 和歌山・金剛峰寺蔵
6つの頭蓋骨を付けている。なんでこんな髪が天を衝き、恐ろしい形相の大将と三蔵法師が同じような首飾りをしているのか。

『仏教美術の基本』は、玄奘三蔵が天竺に渡り経典を負って流沙(砂漠)にさしかかったときに、奇怪な姿であらわれ、三蔵を守ってぶじ唐に送り、また姿を消したといわれる神で、赤身の裸形で臍と膝頭に人面があり、頸から骸骨をつないだ瓔珞(ようらく)をかけているという。
ただ、13世紀(鎌倉初期)に快慶によって作られたというこの深沙大将立像の膝は象面となっている。三蔵法師の「骸骨をつないだ瓔珞」は深沙大将からもらったものなのだろうか。『玄奘三蔵の道』展図録は、このような姿の僧は、玄奘の砂漠での旅を救い、また大般若経の守護にあたる深沙大将とともに釈迦三尊十六善神像や大般若十六善神像の中に描かれており、その説話的要素によって玄奘と解釈されるという。
「髑髏の胸飾り」についての説明はない。これを苦難の砂漠路を無事に抜けるためのお守り、あるいは魔よけ、つまり辟邪と考えるとどうだろうか。

虎を伴う行脚僧図 唐末期(9世紀末) 紙本著色 敦煌莫高窟出土 大英博蔵(スタインコレクション)
 玄奘三蔵と特定されていないものの、玄奘三蔵伝説の初期的なすがたを示唆するものとされている(『三蔵法師の道展』図録より)。この僧は骸骨をつないだ瓔珞をつけていないが、虎という強い獣が魔よけとなっているのかも知れない。
それにしてもこの行脚僧は違和感のある顔立ちである。トルファン郊外というか、火焔山の中に開かれたベゼクリク千仏洞の回鶻期(ウイグル族の統治期で、ウイグル族がイスラーム教徒になるまで)に描かれた壁画にこんな顔があったと思う。
私が何回か取り上げてきた鎮墓獣も、時代と共に恐ろしい形相のものへと変化している。虎や骸骨の首飾りも見た目には恐ろしい程、守護される側には心強いものになっていったのではないだろうか。

ところで、奈良国立博物館研究員永井洋之氏の「ある説として、深沙大将の髑髏は玄奘のもの」を読んでびっくりしたが、結びの「玄奘のかけた髑髏の首飾りも、天竺までの旅の困難さと、玄奘自身の天竺への思いの強さをあらわしたものと考えてみてはどうか」という言葉に、辟邪にこだわり過ぎて、玄奘三蔵の苦難の旅に思いを馳せることを忘れていたことに気がついた。

※参考文献
「三蔵法師の道展図録」 1999年 朝日新聞社
「大勧進 三蔵法師の道展図録」 2006年 奈良国立博物館
「仏教美術の基本」 石田茂作 1967年 東京美術

2007/03/07

人面と獣面で一対の鎮墓獣


武人が鎮墓獣に?で唐時代の人面と獣面で一対となった鎮墓獣を取り上げたが、日本の美術展で展観されていたこのタイプの鎮墓俑は、よく似ているなあと思っていたら、新疆ウイグル自治区博物館蔵の同じ鎮墓俑ばかり見ていたことがわかりました。また、好古老さんのコメントに「唐の煌びやかな鎮墓獣」という言葉があり、このタイプ以外にも鎮墓獣があったのかと探してみました。そして、このタイプで北斉のものも見つかったので、同記事の補足としてとりあげることにします。

32 鎮墓獣 加彩 両方とも高30.0㎝ 北斉(550-577年) 個人蔵
『中国古代の暮らしと夢展図録』は、2体は顔面を除くとほぼ同じ造形である。前脚を伸ばし、後ろ脚を折り曲げて腰を下ろす。背には火焔形のたてがみが三ヶ所付く。顔は前面を向く。人面鎮墓獣は、口を閉じて髭を生やし、大きな目と耳を持つ。獣面鎮墓獣は、開いた口から舌と牙をのぞかせ、鼻の孔を大きく開けている。想像上の獣であるが、ネコ科の動物をモデルにしていると思われるという。

出土地が明記されていないが、北斉ということで、おおまかに言って、当時の中国の北東部のものだろう。北斉時代は仏像も衣文のほとんど表されない、端正なものが流行したが、この鎮墓獣もその流れをくみ、控えめな表現となっているようだ。
背筋に並ぶのが「火焔形のたてがみ」とは。また一対で阿吽になっている。33 獣面鎮墓獣 加彩、金銀貼 高51㎝ 唐、顕慶3年(658) 寧夏回族自治区固原県南郊史道洛墓出土 固原博物館蔵   
『中国 美の十字路展図録』は、正面を見据えて岩座に蹲踞する。口を大きく開き、墓への侵入者を威嚇するようだ。歯列には銀箔が貼られ、その上から墨描きで歯を描き分ける。肩から側頭部にかけて紅、緑、白で彩色された羽がつき、その先端には金箔が貼られる。胸部から腹部にかけても金箔と銀箔の帯が貼られる。銀帯には墨描きで斜線が、金箔には豹柄の文様が施される。史道洛墓からは人面鎮墓獣も出土した。それぞれが鎮墓俑と組み合わさって、墓室の入口付近に置かれていた。
史道洛はソグド人の後裔であり、祖先は中央アジアの史国に住んでいた
という。

獅子のたてがみではなく、羽とされている。
また、一緒に出土した人面鎮墓獣と一対かと思ったら、「それぞれが鎮墓俑と組み合わさって」ということだった。どんな鎮墓俑との組合せだったのだろう。
墓主が史国(キッシュ、現シャフリサブス)から移住したソグド人の子孫ということで、イラン系である。そういう風に見ると、その像はトルファン出土の3よりも「深目高鼻」のような気がしてきた。

固原は西安と河西回廊の入口蘭州との間に位置する。

『魏晋南北朝壁画墓の世界』は、固原という町は海抜およそ1600メートルの高原にあり、北朝と隋唐時代では、長安と河西回廊をつなぐ要地であった。五胡十六国時代、匈奴族劉氏の前趙、羯族の後趙、氐族の前秦、羌族の後秦、匈奴族赫連氏の夏国は、相次いでこの地域を支配し、平涼郡・高平城を置いた。 ・略・  高平鎮の南東に、北魏前期の古墳から古代高車族と見られる騎兵・歩兵俑が出土しており、その兵士達は中央アジア人種の顔つきであった。県城の南にある北周の古墳から、ビザンチン風の鍍金銀瓶・ササン朝ペルシアの切子ガラス碗が発見され、南西には隋唐時代にソグド系貴族史氏の墓地が分布している。数々の遺品が当地の繁栄ぶりを物語っているという。
要衝の地であり、各国が手に入れたい土地だったようだ。そのような土地で、様々な要素が加味されてこのような像になったのだろうか。34 鎮墓獣 土、金、彩色 高51㎝幅24.6㎝奥行18.8㎝ 唐時代(8世紀) 陝西省西安市西北政法学院34号唐墓出土 西安市文物保護考古所蔵
『中国国宝展図録』は、鎮墓獣は、中国において、墓の中に埋葬された獣形の神像のことである。災厄をもたらす悪魔などを退けることを目的として、およそ紀元前6世紀以降に盛んに制作された。時代によっていろいろな姿の作例があるが、唐時代の鎮墓獣は、ここに見るように、尻を地にすえ、前足を突っ張り、胸を張って正面を見すえるという姿をし、人面をもつものと、獣面のものとの一対で作られることが多い。
頭上に長くのびた角、両肩から火炎のように立ち上がった羽、あるいは人面に見るような、顔の左右に大きく張り出した耳など、一種奇怪ともいえる特徴を備えているのは、邪悪なものに打ち勝つための強大な能力を象徴したものであろう
という。

盛唐ともなると、京劇にでも出てきそうな鎮墓獣になっている。角もすごい。このように様々な姿に表された鎮墓獣であるが、33では「墓への侵入者を威嚇する」で、墓泥棒を侵入させないためのものということかと思うし、34では「悪魔などを退けることを目的として」で、被葬者を守るためということかとも思う。

※参考・引用文献
「中国古代の暮らしと夢展図録」 2005年 発行は様々な美術館
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「中国国宝展図録」 2005年 朝日新聞社
「魏晋南北朝壁画墓の世界」 蘇哲著 2007年 白帝社アジア史選書


2007/03/05

えっ、これが麒麟?


ついに麒麟を発見した。それは南朝の皇帝陵参道の麒麟とも、日本ではお馴染みのビールのラベルにある麒麟とも、まったく異なるものだった。

28 鍍金麒麟 銅製 高8.6㎝長6.7㎝ 後漢(1-2世紀) 河南省偃師市冦店李家村窖蔵出土 鄭州市河南省博物館蔵
『世界美術大全集東洋編2秦・漢』は、窖蔵から蓋つきの鍍金銅製酒樽が出土し、中から小さな動物像の群れが発見された。 ・略・ 麒麟2個 ・略・
麒麟は全体に羊のような形で、頭上に1本角が立つ。全身に鍍金が施され、目などの細かい文様が沈線で表されている。
麒麟の形は後漢時代から現れる。洗(せん)などの内底に突線で表された例が知られているが、やはり頭上に角が1本ある羊のような形をしている
という。

このように、麒麟は獅子と似ても似つかないものだったのだ。なぜ六朝では獅子のような麒麟が皇帝好みだったのだろう?しかしこれで、石造の鎮墓獣は後漢からあった27の「銀象嵌有翼神獣」(戦国時代)には西方からもたらされた有翼の獅子が中原で中国風に消化された形となり、それよりも後の時代に羊のような麒麟が現れたという風にまとめることができた。と思っていたら、とんでもなかった。

29 辟邪 玉 高5.4㎝長7.0㎝ 前漢後期(前1世紀) 陝西省咸陽市新荘漢元帝渭陵(前33年頃)付近出土 咸陽博物館蔵
同書は、頭に二つの角、体には大きな翼をもった想像上の動物、麒麟あるいは桃抜をかたどった玉像である。高さ8cmの鍍金鼎の中に入った状態で発見された。古代中国では、二角のものを「辟邪」、一角のものを「天禄」と呼んだという見方もあり、  ・・略・・  ここにあげた玉像は二角の例だが、二角のものとしては、今のところこれが中国最古の例である。付近からはこれと一対になる一角のものも出土している。以後、後漢から六朝時代にかけて、帝陵や豪族墓の墓道に石獣を並べて置くことが流行し、「辟邪」「天禄」など麒麟形の造形が急速な広がりを見せていったという。

同じ本の中で見解が違い、混乱してしまった。28よりも前の時代に麒麟形とされる像があったとすると、一角の羊のようなものはどう捉えればよいのだろう。
ともあれ、この像は27よりも更に小さなものだが確かにその流れをくみ、またあごひげがついていて、地上の鎮墓獣はの造形に繋がるものであることは確かだ。30 辟邪一対 金・緑松石・瑪瑙 高4cm 後漢(25-220年) 河北省定州市陵頭村中山穆王劉暢墓出土 定州市博物館蔵
『中国 美の十字路展図録』は、2体一対の神獣を細金の高度な技術を駆使して作り上げる。金の薄い板に金粒や金糸を貼ったものを筒状に丸めて首や胴を作り、眼や体の各部に緑松石や瑪瑙が象嵌されている。長い尾を地に垂らし、全体に虎を原型とした神獣は、ともに前足を前に出して頭をあげ、口を開いて威嚇するかような姿勢をとる。頭の後ろをよく見ると一角と二角に作り分けられており、当時、辟邪と呼ばれた魔よけの動物であるという。

図録では、原型は虎らしく獅子でも麒麟でもない。
しかし、拡大して見るとはっきりわかるのだが、この像は有翼である。27の高濱秀氏の解説で、有翼の神獣は獅子として西方から伝わったので、姿勢が中国の神獣である虎だとしても、外来の獅子の要素が入ったものだ。31 神獣文帯鉤 鉄芯に貼金 長9.4㎝高6.4㎝ 4-5世紀 内蒙古自治区フフホト市土黙特左旗討合気村出土 内蒙古自治区博物館蔵
馬蹄形の帯鉤上に打出しで神獣文と雲文を立体的に表した金板が貼られている。有翼の神獣は山羊型角を2本生やし、漢代に発達した辟邪の姿を表しているが、その翼は中原の抽象化されたものよりも匈奴の具象的な翼表現に近く、脚間を縫って回り込む尻尾も匈奴の影響を見せているという。

せっかく見つけた有翼で角のある辟邪だが、匈奴の影響ということで、麒麟とも獅子とも判断できないのが残念。 顎の下にあるものはあごひげか雲文かもはっきりとはわからない。これらのことから、私は以下のように分類してみた。
麒麟は27のように「全体に羊のような形で1本角」のもの。石造鎮墓獣は、西方から伝わった有翼獅子と、中国古来の虎が集合したもの。
南朝の鎮墓獣は、そのような鎮墓獣に、皇帝陵であることを誇示するために麒麟という名をつけるようになったもの。その違いはあごひげと舌。そして、角の有無。

また新しいことがわかれば続編を作ります。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編2 秦・漢」 1998年 小学館
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広

2007/03/02

石造の鎮墓獣は後漢からあった



地上の鎮墓獣はで六朝(222-589年)で始まったと思っていた、墓参道に石獣を置くという習慣が、後漢(後23-225年)にもあったことがわかった。以下の図版及び解説は『世界美術大全集東洋編2秦・漢』より。

23 獅子 石造 高124㎝ 後漢、建和元年(147) 山東省嘉祥県武氏祠 嘉祥県文物管理所蔵
六朝以後流行する墓地参道石獣の先駆け的存在である。 ・略・
石獣は墓の入口を示す石闕とセットで作られるのがふつうで、石獣は石闕の前に置かれた。やはり鎮墓獣として悪霊が墓域に侵入するのを防ぐためであり、以後これが定式化して、清朝にまで及ぶ墓前彫刻の先例をなしたのである。
武氏祠の石獣は制作の由来が明確で ・略・ 石闕の銘より、石獣の名前は「師子」と明記されている。
たてがみが顔を覆い明らかにライオンを原型としており、頭部を大きな獅子頭に作り、脚も太く、どっしりとヴォリューム豊かである。前右脚は小獣を転がしている。獅子の鎮墓獣は当時の流行で、ライオンは前漢時代にすでに将来されており、後漢時代にはかなり一般的になっていたものと思われる
という。

この獅子には翼も角もないようだ。そして舌も外に垂れていない。24 辟邪 石造 高109㎝166㎝ 後漢(23-225年) 河南省洛陽市孫旗屯出土 洛陽石刻芸術館
辟邪とする説があり、浙江省出土の神獣帯鏡に一角をつけ虎に似た体つきの動物図の傍らに「辟邪」の題字があるのに基づく。ここではこの説に従い、この二角獣も辟邪としておく。
この辟邪の特徴は虎を原形にするだけではなく、頭頂に角が2本あって、あごひげをたらし、肩に翼が生え、長く太い尾を有することである。これが中国の伝統を踏まえた鎮墓獣といえる。口を大きく開けて目を怒らし、長い尾を地につけて、鋭い爪の四足で踏ん張った姿はじつに力強さを感じる
という。

こちらはたてがみがないからか、細身だからか、虎が原形という。角と翼があり、顎の下に垂れているのは舌ではなく、あごひげらしい。25 石獣 石造 高105㎝ 後漢後期(2世紀) 陝西省咸陽市西郊沈家村付近出土 西安碑林博物館蔵
後漢の鎮墓獣に見られる獅子型と虎型を折衷したような形をしており、これは体型は虎に近いけれども顔の周囲に控えめにたてがみが表現されて獅子に似ている。また肩部に翼がないのも獅子型に近いといえる。とくにこの背面のたてがみ表現は力強く、右脚も23の
武氏祠石獅子と同様に小獣をつかんでいる。 ・略・ 時代の推移とともに図像が混乱するのはまま見られることであるという。

この像も24同様細身であるが、線刻でたてがみを表している。角も翼もないらしい。26 石獣 石造 高110㎝長190㎝ 後漢、建安14(209)年 四川省雅安市姚橋高頣墓
あごひげと翼はわかるが、たてがみと角がよくわからない。背筋の盛り上がって尾まで続くものは、犀を原型とした鎮墓獣はの16「陶製の犀」・17「鎮墓獣」に繋がるもののように思う。このように後漢に出現した石獣は、南朝のもののように巨大ではない。獅子にしても、虎にしても舌を出したものはなかった。また中国に生息するという虎は、殷時代、二里岡期(前16から14世紀)の「龍虎尊」に登場する。
では渡来系である獅子は何時頃中国に来たのだろうか。

27 銀象嵌有翼神獣 銅製 高24.4㎝長40.1㎝ 戦国中期(前313年頃) 河北省平山県中山王さく(あまりにもややこしい字のため説明不能)墓出土 石家荘市、河北省文物研究所蔵
『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、力強い獣の姿である。爪先を立てて四肢を踏ん張り、頭をもたげて右方をにらむ。左右の脇から長い翼が出ている。頭を右に向けた2体は副葬品を収めた東庫から、左に向けた2体は西庫から、計4体発見された。 ・略・
銀の幅のある線による渦が随処に配置され、空間を埋めている。翼の先なども銀糸によって羽毛状に表されている。 ・略・
現在知られているもつとも早い有翼獣の例といってよいであろう。後代の天禄、辟邪の先駆である。グリフォン、あるいは有翼獣は西アジアでは前2千年紀から知られており、その後ギリシア世界やスキタイなどにも広まった。南シベリア、山地アルタイのパジリク古墳群の出土品にはグリフォンが表されている。中山国の例はこのような西方からの影響が、中国にまで到達したことを示すものかもしれない
という。

また、発見されたのが他の鎮墓獣のように入口近くではなく、副葬品を収めた倉からであったことがはっきりしている。
これまでの石造の鎮墓獣と比べるとかなり小さなものだが、これなら飛ぶかもと思うくらい大きな翼を持ち、あごひげは全くなく、角があるかどうかよくわからない。
このように辟邪としては虎の方が古いのかと思ったら、それさえ、外来の有翼獣の方が先だった。
※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編2 秦・漢」 1998年 小学館