トルファン郊外の火焔山中にある吐峪溝(トユク)石窟第41窟でアカンサスのジグザグ文様を見つけて喜んでいたが、帰国後、キジル石窟の売店で買った『中國新疆璧畫全集6 栢孜克里克・吐峪溝』を開いてみると、「忍冬紋」という表現で、アカンサスでなかったことが残念だった。
忍冬というのはスイカズラのことで、2つずつ細い花をつける木本の植物だ。そう言えば、高山に登るとたまに見かけるオオヒョウタンボクがスイカズラ科である。どうも釈然としないので、敦煌莫高窟の売店で買った『中國石窟敦煌莫高窟1』を調べると、似た文様に「藤蔓分枝単叶忍冬紋」などという名称がつけられていて、フジにますます違和感を覚え、そのままになってしまった。
ところが、『日本の美術358号唐草紋』は、インドで仏教美術が誕生した当初にはアカントス系が優勢で・・略・・一見パルメットと見まごうばかりの意匠のうち、柱頭やそれに類する箇所に表現されたものはアカントスの可能性が強い。・・略・・中央アジアにおいてはキジール石窟画家洞や敦煌第296洞などに半アカントス風の波状ないし並置唐草紋が認められるが、東アジアでアカントスを唐草に構成することはなかったという。
ということは、執筆・編集者の山本忠尚氏が記述していないトユク石窟にもアカンサスがあってもよいのではないだろうか。なんといっても西のキジル石窟と東の敦煌の間にトユク石窟は位置し、敦煌にも影響を与えたと言われているのだから。
キジル石窟の画家洞というのは第207窟のことである。『新疆璧畫全集2』に崩壊から、また略奪から免れたわずかな部分にそのアカントスとおぼしきものがあった。白色だが、こちらの方がずっとリアルな描き方だ。同書は「波式巻葉紋」という表現だった。『世界美術大全集東洋編15 中央アジア』には同窟壁画の図版が2点ある。現在はベルリンのインド美術館が所蔵していて、紀元(中国では公元)500年頃と比定されている。同書はアカンサスの葉をつないだ白色の装飾帯と表現している。確かにアカンサスだ。
『中國石窟敦煌莫高窟1』には、莫高窟第296窟は西壁の大きな仏龕からはみ出て龕楣が表されている。その部分の色とりどりの葉を山本氏はアカントスと呼んでいるのだろう。同書は忍冬枝系(中国の略字なので確かではない)と表現している。
第296窟と同じ北周時代(557-581年)に開かれた第299窟にも似たような葉が描かれているので、これもアカンサスだろう。葉の間に楽人や童子がいる。
こういうのを見るとついつい遡ってしまうのだが、北周の前の西魏時代(535-577年)の窟を調べると、第285窟の方がまとまりよく、ダイナミックな半アカンサス文(唐草のような、曲がりながらも連続する茎が見える)が描かれているようだ。西魏の前の北魏時代(439-534年)も調べてみると、第251窟では赤い線が地の色にまぎれているので茎が続いているかどうかはっきりわからないが、半アカンサスの葉文と言って良いのではないだろうか。第435窟にはラテルネンデッケの外側に半アカンサスの葉が描かれているようだ。同書は、下図横区画にある赤い茎の両側に半アカンサスの葉が並ぶものを「双葉波状忍冬紋」、縦区画の左下に描かれた半アカンサスの葉がX字状に連続するものを「鎖鏈忍冬紋」と表現している。「叶」という文字は簡体では「葉」なので、アカンサスを指すのかどうか私にはわからないのだが、「忍冬」について『日本の美術』は、忍冬はスイカズラという5弁の白い花を開く蔓草のことで、冬期にも枯れないのでこのように呼ばれる。忍冬唐草とは、飛鳥時代の唐草がこのスイカズラに一見似るところからの命名であろうが、本来はパルメット唐草紋に含めるべきで、紋様の意味と伝来の経路を示すパルメット唐草紋を採用、忍冬紋あるいは忍冬唐草紋という呼び方は排除するという。
しかし、上に述べたように忍冬紋というのは中国語である。
敦煌莫高窟にアカンサス文が北魏時代からあったと考えてよいものか。年代を追ってみると、一番西に位置するキジル石窟のアカンサスが500年頃、トルファンの東郊のトユク石窟のアカンサスは460-640年、敦煌の北魏期のアカンサスと思いたい図様は439-534年である。トユク石窟や敦煌莫高窟の図様が伝播して、キジル石窟のリアルなアカンサス文が描かれたとは思えない。
500年頃キジル石窟で描かれたアカンサスの葉をつないだ白色の装飾帯が東漸してトユク石窟で半アカンサス波状文となり、それが東の敦煌莫高窟に伝播した。敦煌莫高窟に到着するのに30年ほどかかった、というのはどうだろうか。
※参考文献
「中國新疆璧畫全集6 栢孜克里克・吐峪溝」1995年 新疆美術攝影出版社
「中國新疆璧畫全集2 克孜爾」1995年 新疆美術攝影出版社
「中國石窟敦煌莫高窟1」1982年 文物出版社