お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/10/28

藤田美術館で名物裂


藤田美術館に展示されていた軸装の作品や茶入の仕覆で、久しぶりに名物裂に接した。

表具の各部名称( 『表装裂愉しむ 植物文様編』以下 『表装裂愉しむ』より)
表具の各部名称 『表装裂愉しむ 』より


『表装裂愉しむ』は、表具は、和紙と裂地を素材に、糊と木などを使用して作られます。表具を作成する上で最も重要な作業は、裂地と紙、または紙と紙を古い糊で貼り合わせる「裏打ち」という作業で、熟練した技術を要します。同一材料で同一人が同じように施したものでも、その時の天候や糊加減で、できあがりがまるで違うものになってしまうため、細心の注意が必要です。その裏打ちした裂地、または紙を裁断して継ぎ合わせます。貼り合わせるたびに張って干す、という作業を繰り返し、様々な湿気の空気を与えて乾燥させ、軸、八双、風帯、紐をとりつけて、表具を風帯、紐をとりつけて、表具を完成させます。
書画を快く鑑賞するために、表具は本紙との品格のある調和を最も重視し、表具そのものの品位を損なわないよう工夫することが求められます。調和のとれた表具とは、書画を活かすように裂地を吟味し、形態を考え、優れた色彩感覚をもって仕上げられたものですという。


藤原藤房自筆書狀 鎌倉時代 14世紀
天と地の白っぽい裂、書状を囲む中廻し、書状の上下の細い一文字と軸木から下がる2本の風帯に、3種類の裂が使われている。
天地(上下)は白っぽい裂、柱のない中廻しと風帯は深緑、一文字も白っぽい裂

そうはいっても名物裂の名称は見当もつかない。
上下は白地の金襴か銀襴か、それとも緞子か
中廻しは蓮が水中から出ているようなの文様の緞子
一文字は白茶地の金襴のようだがいずれも名称がわからない。


寸松庵色紙 伝紀貫之 平安時代 11世紀
小さな色紙をこんなに大きな表装に仕立てるとは。
中廻しと風帯が同じ裂で、上下は菊の花の唐草みたい。

中廻し
大きな花弁が金銀で幾種類もの文様を取り込んで一つの花となる。その花は牡丹だろうか。広い空間に伸びる一重蔓の蔓草は、茶色と紺色で、きらびやかな小さな葉をつける。
こんな斬新な一重蔓牡丹唐草であるが、『表装裂楽しむ』に載っている「鼠地同入一重蔓牡丹紋竹屋町縫紗」にデザインが似ている。白茶地一重蔓牡丹紋竹屋町縫紗とでも呼べるものかも。 

一文字は反対に金襴に小さな文様があるが唐草文様ではない。

中廻しは大きな文様で斬新に見えるが、『表装裂愉しむ』には似たような裂が複数あって、その中の一つ
鼠地銅入一重蔓牡丹紋竹屋町縫紗
同書は、「金紗」は、広義には金襴の一種で、紗の裂地に金糸で刺繍を施したものです。主として白い紗に金一色で刺繍しますが、紗を染めたり、金糸だけでなく刺繍用の色糸を混ぜて刺繍を施したものもあります。桃山の頃から、京都の竹屋町というところで盛んに作られたと伝えられ、「竹屋町縫」、「竹屋町」の名で呼ばれていますという。
紗地に色糸の刺繍を施したものを竹屋町縫紗と呼ぶようで、本品に金糸は用いられていない。「銅入」が何か不明。
鼠地銅入一重蔓牡丹紋竹屋町縫紗 『表装裂愉しむ』より


升色紙 伝藤原行成 平安時代 11世紀
こちらも小さな升色紙を大きな表具仕立て。
上下は深緑色の唐草文緞子

中廻し
紺地一重蔓牡丹唐草紋
一文字は二人静金襴?

二人静金襴
 『決定版お茶の心 茶掛と裂』(以下 『茶掛と裂』)は、足利義政が「二人静」を舞ったときの能衣装であったといわれる。紫地の地緯による織紋のない経4枚の綾地金襴で、向かい合った鳳凰の丸紋が互の目に配され、有職ふうな典雅な名物裂である。
一般に極古渡りと伝えられるが明代中期以後のもので、丹地または茶地のものは後世の模織と思われ、京都に住む遠州門人橘屋宗玄が所持したので橘屋金襴と呼んでいる。
表具の中廻し裂として、懐紙詠草など歌切類に適した典雅な裂といえるという。
東博品を上下逆さまにすると同じ文様
升色紙の一文字は橘屋金襴かな。
東京国立博物館蔵二人静金襴  『決定版お茶の心 茶掛と裂』より


名物裂といえば茶入の仕覆にも。


古瀬戸肩衝茶入の仕覆
この程度の写し方では裂がどんなものかわからない。


右端より
多色の梅鉢紋の裂 利休梅鉢文ではないようだ
永観堂金襴に似る
蔓草の緞子
小さな文様が互の目(文様が上下左右一つおきに規則正しく配置された構成、 『名物裂ハンドブック』より)

利休緞子 利休梅鉢文
 『名物裂ハンドブック』は、利休所持の棗の仕覆、もしくは利休好みの裂に因んだ名称といわれるが定かではない。
梅の花弁を表わす五つの丸が線を通して繋がっているのが印象的。この文様は特別に「利休梅鉢文」と呼ばれるという。
北村徳齋帛紗店製 利休緞子   『名物裂ハンドブック』より

小さな利休梅鉢文を呉の目に密に並べると、こんな斜格子になる。
藍色地利休梅鉢紋遠州   『表装裂愉しむ 植物文様編』より


永観堂金襴 前田育徳会蔵
 『茶掛と裂』は、洛東禅林寺永観堂に伝えられる白地角龍紋金襴の九条袈裟が本歌といわれている。白地に入子菱紋を綾で地織りとし、体をくねらせた横向きの龍が織り出されている。龍詰の形はやや馬蹄形で中川角龍金襴が菱形であるのに比べると、大柄で安定感がある。
紋様は船越角龍や春藤角龍に近いが、紋と紋との間隔が詰まって重厚みを加えている。
白地のもつ気品の高さは格別である。明代初期の織製と思われるという。
前田育徳会蔵 永観堂金襴  『茶掛と裂』より


唐物肩衝茶入 銘蘆庵と仕覆4点

右より2点

大鶏頭金襴 東京国立博物館藏
 『茶掛と裂』は、地色はもとは紅であったものが褪色して、現在では鳶色がかってみえる、落ち着いた物静かな古様を示す名物裂である。作土金襴のもっとも古い作例であるが、完全に作土化せず、ペルシア・ムガール方面でしばしば見受ける飛花紋を偲ばせる紋様である。草花紋の大小により大鶏頭・中鶏頭などの区別があるが、初期のものに小鶏頭は見当たらず、小鶏頭の藤言金襴などはむしろ龍詰紋系統の作例に近いといえる。
大名物「円乗坊肩衝茶入」(畠山記念館蔵)、 中興名物「在中庵肩衝茶入」(藤田美術館蔵)、 同「橋立茶入(本歌)」などに用いられ、表具裂としては横物中廻しに適した裂といえるという。
東京国立博物館蔵 大鶏頭金襴  『茶掛と裂』より

藤種緞子 剣梅鉢文
 『茶掛と裂』は、大名物「利休丸壺茶入」にこの藤種緞子が仕覆裂として用いられている。藤種緞子は藤谷家の所伝とされるが、別に藤谷緞子と称する裂があるから疑わしい。また明代正統5年(1440)の年紀のある仏典表紙にこの類裂が用いられているが、後補の表紙であるかもしれず、実際には16世紀後半の渡来と思われる。
地色は縹地に薄茶または浅葱の色糸で、卍字の二重枠入子菱地紋に、芯の出た剣梅鉢を 交互に置いた緞子である。薄手のものは表具にも用いられるが、一般には厚手の織りが多く、むしろ帛紗か仕覆に適しているという。
文様を上下交互に置くことを互の目(ぐのめ)というのを、今回やっと覚えられた。
剣梅鉢文 藤種緞子  『茶掛けと裂』より

左より2点


興福寺銀襴 唐物肩衝茶入銘蘆庵仕覆 
『茶掛と裂』は、興福寺銀欄は金襴・銀襴のなかでも綾地のもので、地緯紋を織り出したもっとも古い織り例で「根抜け」と呼ばれる名物裂中の白眉である。南都興福寺の戸帳に使用されていたという伝承をもつこの裂は、金襴・銀襴の両種が遺存し、前田家の残欠は金襴、東京国立博物館および「盧庵肩衝茶入」(藤田美術館蔵)の仕覆は銀襴である。
紫の地色に小石畳の地緯紋があり、竪横約5㎝の宝珠形のなかに鳳凰と火焰のように見える雲紋が織り出されている。表具の一文字裂に適した裂で、重厚さと格調の高さを示しているという。
興福寺銀襴 唐物肩衝茶入銘蘆庵仕覆 『茶掛と裂』より

間道は不明

分からないものもあるが、こんな風に一品一品裂の名称や由来をみていくのは楽しい。

『表装裂愉しむ』は、文様という語は、「模様」とほぼ同義に使用されていますが、漢字でいう文様の「文」は、飾りとしてのあるまとまった単位の図形を指します。従って「文様」とは一つの飾り、あるいはその飾りの繰り返しによって構成される装飾図形を意味します。
表装に使われている裂地は、もともと法衣や装束を解いたものでした。その後表装用の裂地として製作されるようになっても、こうした由来を受け継ぎ、あるいは参考としていましたので、文様もおのずと本来の衣装がもつ性格が色濃く顕れました。
文様の種類は、植物、動物、自然現象、道具の他、幾何学図形や文字など多岐にわたります。また「名物裂」のように、茶の湯と結びついて文様が特殊化したものもあります。
特徴としては、唐草文様のように継続的な柄が連綿として途切れることなく続いていくものと、梅鉢のように、一個の独立した文様が等間隔に並べられているものの二通りがあります。また文様はおおむね左右相対称で、モチーフが著しくデザイン化されています。比較的簡単な図形ですが、極めて洗練され、高度に意匠化されているところに、その特色があるといえるでしょう。
現在一般に用いられている表装用の裂地は、一部の例外を除き、明治15、6年頃より製作されたものです。それ以前の裂地は、法衣や装束を解いて、表装に適するものを選んで使っており、表装用の裂地として織られたものはありませんでしたという。
中国では茶入を仕覆に収納して大切に扱うということがなく、日本独特のものだったのだろう。そういえば、昔茶入のような小さなものに薬を入れて輸入された。その空き容器が茶の世界では抹茶を入れる容器として珍重されるようになったのだと、聞いたことがあるのだが、真義のほどはわからない。



関連項目

参考文献
「表装裂愉しむ 植物文樣編」 編京都表具協同組合 2021年 光村推古書院株式会社
「名物裂ハンドブック」 編淡光社編集局 2013年 株式会社淡光社
「お茶の心 茶掛と裂」 1979年 世界文化社

2022/10/21

藤田美術館


数十年ぶりに藤田美術館に行った。JR東西線大阪城北詰駅から徒歩1分と、以前と比べるとなんというアクセスの良さ。
すぐに新しい建物が見えてきたが、大雨なので写すこともできなかった。

ガラス張りの建物の中に、昔の蔵の入口が見えている。中に入ってまずそれを撮影。
以前は建物内にある蔵の中が展示室だったが、その蔵の入口が壁に嵌め込まれていた。
藤田美術館のホームページによると、開館から2017年6月11日の一時閉館までの藤田美術館の建物は、明治から大正時代にかけて建てられた藤田家邸宅の蔵を改装し、展示室として再利用したものでした。邸宅のほとんどを焼失した1945年の大阪大空襲で幸いにも延焼を免れ、中に収められていた美術品を守り抜いた蔵でもありましたという。

平たい石を楣石のように渡したら一枚で済むのに、わざわざアーチのように上部の方が大きい切石を置いている。中央の要石には藤田家の家紋が浮彫されている。

ガラス張りの一角を内側から撮影。ここはあみじま茶屋というお店。


扉だけだと思っていた蔵の出入口が展示室への入口だった。



内側の扉が開くとエレベータになっているのかと思ったが、左に進むようになっていた。
左奥には文が次々と現れては上へ消えていくのだった。
その文は同館図録にも記載されていた。

美術館を楽しむ
まず美術品をじっくりとご覧ください
先入観や情報を取りのぞき、そのものだけを見つめます
形、色、素材をあらゆる角度から意のままに きっと少しずつ、その美しさを感じられます
次に美術品の声に耳を澄ましてください
いくつもの時代を越え、語りかけてきた心の声に
それを目にした作り手、大名、貴族らの思想や美意識に きっと聞こえてきます、先人たちの想いが
そして語りかけてみてください
見て、聞いて、感じたことをお好きなように 美術品に、ご自身に、ご家族に、お仲間に、
きっと、ステキな発見があるでしょう
そのためにつくりました
美術品だけに集中できる展示環境を 想いを感じられるような学芸員の解説を
気兼ねなく語らうことのできる場を
私たちの使命は
ちが守ってきたカタチ (美術品)を次代へつなぐだけではありません 見えないココロ(想い、美意識、文化)もつないでゆくことであると考えます
カタチとココロを未来へ


進んでいくと、べつの壁には今回の展示テーマ「水」についての文

生命にとってかけがえのない水。

水は生命をし、物の実りをもたらします。その流れは人を選ぶ水路となり、豊かな水のもとに都市は発展しました。

一方で時に威ともなるがゆえに、人々は水をし、さまざまな信仰へと結びついたのです。
古来、水に対する信心は様々な形のとなりました。次々と姿を変える水に輪郭をあたえ、目に見えるかたちにして表現してきたのです。

穢れを祓う水、御神体として祀った水の理想郷、五穀豊機への祈り・・・

水の表現に託された想いを見つめます。


水にちなんだ作品が、ゆったりとした空間に配されていた。

流水文銅鐸 弥生時代 前2-前1世紀

その流水文は、蛇行する水の流れが数本の帯状の線で隙間なく表現され
いる。鋸歯文も。


菊水文螺鈿蒔絵香合 鎌倉-室町時代 14-15世紀
香合なので小さなものだが、大胆に蛇行する細い流れに、花を真上から見た図柄をロゼット文というが、それが川の流れよりもが浮かんで見える。
菊水文螺鈿蒔絵香合 鎌倉-室町時代 藤田美術館にて撮影


梶葉七夕蒔絵硯箱 室町時代 15世紀 縦24.2㎝ 横22.7㎝ 高5.3㎝
 『藤田美術館図録』は、被蓋造の硯箱。蓋の表には、流水文に7枚の梶葉を散らし、一本の筆を配す。蓋裏には水に3枚の梶葉を散らしている。身の内中央には、楓葉形の水滴と銀の沃懸地に菊水を浮彫した硯を嵌め、左右には、流水文に梶葉を2枚ずつ散らした懸子を納めている。
流れる水は天の川になぞらえたもので、7枚の梶葉の意匠は七夕の行事に由来する。かつて七夕に7枚の梶葉に歌をしたため、牽牛・織女の二星にささげるならわしがあった。
この硯箱は小堀遠州の愛用品のひとつとして伝わるという。


茶杓銘筧 松平不昧 江戸時代 18-19世紀
筧とは、 水を引くために架設した樋。懸樋(かけひ)ともいう。通常竹筒でつくられるものという(コトバンクより)ことなので、やはり水にちなんだ銘だった。


ほかに「花」「傳」というタイトルにちなんだ作品のグループの展示があったのだが、文章を写すのも忘れて、展示室をさまよってしまったまので、今となってはどの作品がどんなテーマだったのか記憶の外。


玄奘三藏絵 第9卷 高階隆兼 鎌倉時代 14世紀
藤田美術館のホームページは、唐時代の僧玄奘三蔵の一生を全12巻に描いた絵巻で、絵の様式から宮廷絵所預高階隆兼が関わったと考えられます。
美しい彩色と豊かな想像力で、異国の風景を描いています。興福寺大乗院が所蔵していましたという。
玄奘三藏絵 第9卷 高階隆兼 鎌倉時代 14世紀

船の幕の文様は大きな菊唐草。素材は絹?人物の衣装もそれぞれに違って描かれ、浅瀬の波や船が水を切る様子も表されている。
地面の土の部分は広いが、細部は精密に描き出された優品である。

先を行くもう1隻の船には造り付けの屋根、船体にも華麗な文様が描かれる。

予想通り船首は龍。


陸に上がると、龍頭の船に乗っていた貴人たちが白い象に乗り換えて旅をつづける。

その内の一人が着ている衣装の文様は截金ではなかった。金泥で描かれたものだった。


玄奘三蔵絵 第6巻 鎌倉時代 14世紀 全長約17.49m 高階隆兼画

玄奘三蔵の修学の地 那爛陀寺 -水の流れる壮麗な伽藍-
解説パネルは、玄奘三蔵は、仏教の原典を求めて中国長安を出発し、数々の仏跡をめぐりながらインドの大僧院・那爛陀寺に至りました。「玄奘三蔵絵 全12巻」のうち、第6巻には那爛陀寺を拠点とする玄奘の仏道修行が描かれています。
遺跡として残る那爛陀寺はレンガ造りの巨大建築ですが、この絵巻では中国の建築様式であらわされています。大きな池がめぐらされ、豊かな植生を誇る伽藍のさまには、遠い異国の聖地にたいする憧憬がこめられていますという。

ナーランダー僧院は5世紀-12世紀の間、インドにおける最大の仏教大学としてさかえました。玄奘はここで約5年修学しましたという。
ここには西方極楽浄土のような楼閣と蓮池が描かれる。

その先には高い松と大きな太湖石のような岩のあちこちから水が出る噴水のようなものがある。

説明パネルは
大きな池の中央には、獅子や象、水牛をかたどった石柱がそびえています。 それぞれの口から水が流れ出ています。>
藤が絡まる松は、藤原氏の象徴であり、全巻を通じて描かれるモティーフです。玄奘三蔵絵は藤原氏の氏寺興福寺に伝わりましたという。
僧院の中にある池には奇妙な石の噴水や花咲く藤が絡まる松がある。
色が淡いので分かりにくいが、池の水面が描かれている。

水の湧き出る泉殿
玄奘がもてなしを受ける部屋には泉が湧き出ています。渦を巻き、池へと流れ出るさまが柔らかな描線であらわされていますという。
続きの建物では赤い袈裟を纏った僧侶が食事する場面


刺繡釈迦阿弥陀二尊像掛幅 鎌倉時代 13-14世紀
同館図録は、全体に刺繍をほどこした繡仏。向かって右に釈迦如来、左に阿弥陀如来の二尊をあらわす遣迎図である。縁には蓮 唐草文をめぐらし、四隅に四天王の種子をおく。上部には中国の僧・善導の文があり、その間を飛天や楽器が蓮華の花びらとともに舞うという。
ほぼ左右対称の構成。
二仏並坐像はこれまで見てきたものは多宝如来と釈迦如来だったが、釈迦如来と阿弥陀如来の組み合わせ。浄土教ではそうなっているのか。
京都二尊院のホームページによると、寺名のもととなっている二尊は、極楽往生を目指す人を此岸から送る「発遣の釈迦」と、彼岸へと迎える「来迎の弥陀」の遣迎二尊です。この思想は、中国の唐の時代に善導大師が広めた「二河白道喩」というたとえによるもので、やがて日本に伝わり法然上人に受け継がれました。当院の遣迎二尊像は鎌倉時代中頃に、春日仏師によって作られたと言われております。本堂の中央に安置されており、右に釈迦如来像、左に阿弥陀如来像が立ちます。左右相称で金泥塗り、玉眼入りの像が境内を見守るように並んでいますという。
中国で二仏並坐像が唐代までなのは、浄土教が成立したためのよう。
観無量寿経の変相図にも蓮池が描かれていて、そこには極楽往生した者がその往生の段階によって、9段階(九品)の蓮華化生童子が池に浮かんでいるはだが、ここでは化生童子は表されていない。

下部では蓮池に宝塔が湧出し、中には二仏が見えている。刺繍には多彩な絹糸のほか、二尊二菩薩の頭髪や袈裟などに人の髪を用いている。浄土への憧憬を精巧に縫いあらわした貴重な優品であるという。
でも観無量寿経の変相図が日本に伝来した時には化生童子描かれていたはずなのにここには化生童子は登場しない。
その下には三脚卓に獅子香炉一対の花瓶、左右に観音・勢至の二菩薩を配しているという。
卓や椅子は、真っ平らな地面や床でなくても安定して置けるが、四つ脚になるとガタガタすると聞いたことがある。中国の青銅器に鼎があるが、なぜ三つ脚なのか、四つ脚にはなかったのか不思議に思っていたが、それを聞いて納得。


当麻曼荼羅 鎌倉時代 13-14世紀
観無量寿経変図が中国から将来されて、当麻曼荼羅が成立し、日本風の変相図となっていった。
当麻曼荼羅についてはこちら

原本の當麻曼荼羅
『日本の美術272浄土図』は図中央(内陣)は、阿弥陀三尊のいる37尊段を中心とした、荘重な極楽浄土世界(玄義分)で、図上から順に、虚空、楼閣、華座、宝池、舞楽、樹下、父子相迎会の諸図を図示するという
当麻曼荼羅略図 『日本の美術272 浄土図』より

未敷蓮華が浮かんでいたり、開敷蓮華に化生童子がのっていたり、その往生によって9段階の姿になる。



仏功德蒔絵経箱 平安時代 11世紀 縦23.7㎝ 高6.7㎝
法華経の小宇宙
同館図録は、蓋が身に深く覆い被さる被蓋造の経箱。素地はごく薄い木製で、ほぼ全面に布被がなされ、表面には黒漆塗の地に金銀の研出蒔絵がほどこされている。蒔絵であらわされる絵は『法華経』の説話にもとづくもので、複数の場面が蓋と身それぞれの四側面に連続的に展開する。蓋側面に連なる海景の上空には瑞雲がたなびき、天面へと繋がっている。天面では孔雀や尾長鳥、琵琶・笙・鼓などの楽器とともに蓮華の花びらが舞う。妙音が響きわたり、花が咲き誇る極楽浄土があらわされているという。


経箱の説明パネルより 法華経提婆達多品第12

法華経とは?
平安時代に流行した浄土教の中心的な経典です。特に貴族女性の間で信仰が広まりました。

どのように使われた?
「法華経」を納めるために使われました。法華経八巻を講義する法華八講という行事で用いられたという記録もあります。

どんな内容?
法華経の内容に基づく物語のなかで、最も重要とされた場面

険しい山中の草庵に住む仙人に仕えて法話を聴く

 続き険しい山中の草庵に住む仙人に仕えて法話を聴く図の部分

❸ 竜王の娘が仏に宝珠を献上して成仏する

 竜王の娘が仏に宝珠を献上して成仏する


寸松庵色紙 伝紀貫之 平安時代 11世紀

                そせい     
          こづたへば おのがはかぜにちる花を 
          たれにおほせて ここらなくらん


升色紙 伝藤原行成 平安時代 11世紀

                 山櫻見て
            はるがすみ なにかくすらん やまざくら
             ちるまをだにも みるべきものを



「傳」
傳三郎の好み
数寄者たちは、それぞれの厳しい眼で、美術品を選び、集めてきました。だからこそ、箱をあつらえ、仕覆をつくり、付属品を用意し、自ら銘をつけ、大切に扱うのです。
美術品を守るために蒐集を始めた傳三郎ですが、
そのいずれにも愛着がありました。
中でも、特に大切にしたと分かるものを傳三郎好みとして展示します。
傳三郎が自らの号を与えた香炉や茶入、遺愛の掛軸・・・
感じてください。
数寄者として、茶人として傳三郎がそそいだその眼差し、その美意識を。


砧青磁袴腰香炉 銘香雪 中国 南宋時代 12世紀
日本では砧青磁は青磁の中でも一番好まれる色ということになっているが、それを撮影して同じ色になることは滅多にない。自分でもこんな色?と驚いた。
東博の松永安左エ門氏寄贈青磁鳳凰耳瓶が一番近いだろう。


本手利休斗々屋茶碗 朝鮮時代 16世紀
藤田美術館のホームページは、利休斗々屋の呼称は諸説あり、利休が堺の魚屋(ととや)で見つけた事に由来するともいわれています。利休の後、古田織部、小堀遠州など、茶の湯創世記の著名人が代々所有したことで有名ですという。
薄造りで温かみのあるゆったりとした茶碗。
李朝期に焼かれたのに、高麗茶碗と呼ばれてきた。最近では朝鮮茶碗と呼ばれるのか。
唐物荘厳から、秀吉の朝鮮出兵で、素朴な日用品を愛でるようになったと聞いたことがある。
同館の所蔵するきらびやかな曜変天目茶碗とは対局にある、侘びた風情が当時の茶に親しむ人たちに好まれるようになり、やがて国焼の茶碗がつくられるようになった。


唐物肩衝茶入 銘 蘆庵 中国 南宋時代 12-13世紀
こんな写真しかないが、しっかりと肩が張っている。
仕覆が4つ、緞子や間道のよう。


古瀬戸肩衝茶入 銘 在中庵 室町時代 15-16世紀
肩衝とはいっても撫で肩。

その仕覆
藤田美術館のホームページによると、中国から渡来した珍しい裂(きれ)を使って、日本で仕立てています。このような袋を仕服と呼び、茶入を入れて茶席に飾ります。大変豪華です。この茶入には8種類の仕服があります。最初に4つあり、その後4つが追加されたようで、1700年ごろには現在のものと同じ裂で8つあったようですという。
それぞれが名物裂だろう。


中蓮華左右藤花楓葉図 本阿弥光甫 江戸時代 17世紀
同館図録は、光甫は空中斎とも号した本阿弥光悦の孫で、諸芸に秀でた人物です、藤田美術館では、空中信楽釣花入(左)や、空中信楽赤茶碗(右)なども所蔵しています。
この絵には「たらしこみ」と呼ばれる技法が使われています。
絵具が乾かないうちに、上から濃度の違う絵具を加えることで滲みが生まれ、これを活かして立体感や質感を表現します。
この絵では、蓮の葉や藤の花、楓の幹などを表現するのに使っていますという。


開いてから日にちがたっているのか果托が大きくなっている。
葉の葉脈が載金かと思ったが、この時代には載金の技法がほぼ絶えていたのだったのでは。
茎の根元は金箔のような輝きがあるが、葉の先ではかすれたように輝きが失せている。


楓 
ピンボケだが葉脈が金泥で描かれている。



右側のフジの途中に何かがある。これが光甫の落款「法眼 空中斎」が、図柄を邪魔せず絵に溶け込むように記されていますというもののよう。


桜狩蒔絵硯箱 尾形光琳 江戸時代 17世紀 縦24.㎝、横21.2㎝、高さ5.1㎝ 木製
藤田美術館のホームページによると、硯、墨、筆、水注など、書道に必要な道具一式を収めます。
尾形光琳(1658-1716)は絵や蒔絵のデザインなどで知られています。弟に陶工の尾形乾山がいます。
蒔絵は日本で独自に発展した漆の装飾技法です。
装飾する面に接着剤となる漆で絵を描き、それが乾かないうちに金属粉を蒔くことで模様を表します。金属の色、粉の大きさや形などを変えることで、幅広い表現ができます。
木製の箱の上に蒔絵(まきえ)で装飾しています。
蒔絵は日本で独自に発展した漆の装飾技法です。
装飾する面に接着剤となる漆で絵を描き、それが乾かないうちに金属粉を蒔くことで模様を表します。金属の色、粉の大きさや形などを変えることで、幅広い表現ができます。
この作品は沃懸地(いかけじ)に金貝(かながい)、螺鈿(らでん)を用いて装飾されています。背景になっている、無地の金色の部分が沃懸地です。箱の表面に細かい金紛を密に撒いているため、金属のように金色に光って見えています。アルミホイルのように薄く伸ばした金属(金箔)を貼ったものではなく、密に撒いた紛が反射して、柔らかい光り方をしています。
金貝は装飾として貼り付ける金、銀、錫などの金属でできた薄い板のことです。
この場合は馬や桜の幹や枝などに、鉛の板を、散りばめられた文字には銀と思われる板を使っています。
夜光貝や蝶貝、アワビの殻を文様の形に切り抜き、木地や漆地にはめ込んだり、貼り付けたりする技法です。
桜の花びら、馬に乗った公達の顔や手などに螺鈿が使われています。
箱の内側も外側と同じ装飾です。
蓋の裏側、硯や筆、墨を置く所、箱の底裏(箱をひっくり返した裏面)も含め、全面を蒔絵で装飾しています。文字は箱の中にもありますという。
丁寧な解説で分かり易い。


最後に能面が掛けられていたが、残念なから撮影するのを忘れていた。
そこそこの歳の女性

年老いた男性としかわからない


夢心地の鑑賞を終え、現実に戻る装置が出口。それはやはり蔵の扉だった。
太陽WEB大規模リニューアル・オープンの魅力探訪 藤田美術館は、道具商や古美術商が持ってきたものはすべて買ったそうだ。そう聞くと、事業に成功した人物が有象無象もかまわずに入手したように思うかもしれないが、彼は持参した商人を前に、自身で見分し、5つある蔵のどこに入れるかをその場で指示したという。蔵の番号はそのまま作品のランク付けに通じる。つまり商人たちはどれだけよい品を持ってきたかを突き付けられるのだ。
5つの蔵は解体されたが、そのうち2つの扉を展示室の入り口と出口に活用した。ほかにも窓や床、展示台の一部などに、旧建物の部材が使われているという。
それで納得。

この窓も以前の建物の窓だった。
壁はコンクリートの打ちっ放しで、それぞれに木目がある。床は旧建物の板かな。


あいにくの雨でガラスは結露し、多宝塔はかすんで見える。

外から見た多宝塔
太陽WEBの同ページは、高野山・高臺院から移築された塔は平太郎が求めたもの。現在ではなかなか考えられない近代数寄者の豪放さとこだわりが感じられる。こじんまりとしながらも整えられた庭園は散策も可能。外の公園からもアプローチできる。という。


新築された茶室は、コロナ禍のもと、使用される日を静かに待っているという。

沓脱ぎ石には切り込みが二カ所。

2019年8月にアクアライナーでこの辺りまで来たことがあったので、大川まで足を運びたかったが、この雨ではね。


大きな石ももっと見たかったけれど、


ここまでで引き返した。



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参考文献
「日本の美術272 浄土図」 河原由雄 1989年 至文堂