左端が間道
間道というものは地味な縞柄という風に思っていたが、この仕覆はなんと華やかな色とりどりの間道だろう。
細い縦縞の間に極細の緑の線があったり、赤っぽいところには何かが描かれているようにも見える。
ほかの仕覆も見事な名物裂なので、この間道もそれらに負けない裂だったに違いない。裂の薄さは絹のよう。
あれこれ探しても同じくらい鮮やかな間道はなかった。縦縞の細さ、色彩の豊富さという点では、十彩間道が一番近いかな。十彩間道 東南アジア
『名物裂ハンドブック』は、江戸時代にはインドやペルシャの更紗間道が主に南蛮鉛によって舶載されました。唐物とは異なった趣を持った染織品も、茶人たちの美意識によって受け入れられる様になります。
「十彩間道」の横筋のように、縞の一部に真田紐状の浮織が入ったものもある。
絹織の間道は中国で織られ、木綿の間道は主に南蛮貿易を通じて東南アジアからもたらされた。 派手さや高質な印象はないが、渋みのある落ち着いた織物であるという。
十彩間道 『名物裂ハンドブック』より |
色や裂の薄さからいうと、太子間道が近いのでは。
太子間道 桃山時代 絹
『茶の心 茶掛と裂』(以下 『茶掛と裂』)は、臙脂色地に黄・紺などの細縞と、その間に白・茶・黄などの色糸を用いて絣ふうの紋様を織り出した間道である。インドネシア地方のイカット織で、絹糸の経絣織。動物紋が布地の紋様であり、縞紋はその織留の部分である。
法隆寺伝来の幡(本堂などに飾る細長い旗状の荘厳具)の広東錦の流れをくむ裂であるが、名物裂としての太子間道の織製年代は桃山時代の裂であり、堺の町人太子屋宗有の愛好によりこの名がつけられているといわれるという。
これに類似した裂で、もっと織止に横縞が多いものを縦に使ったら、この仕覆のようになるかも。
間道について『茶掛と裂』は、一般に縞柄の織物をいう。縞筋(竪縞)の他に、横縞・格子縞・千鳥格子・絣などを含む。木綿または絹織が中心で、印度系の甲比丹・弁柄縞・今照気は経を絹、緯を綿糸で織り、南支那系の占城や南印度系の唐桟留は経緯とも木綿糸を用いている。江戸中期以後に、オランダ貿易によって東南アジアから舶載された大柄の木綿格子に、和蘭陀木綿があるという。
せっかくなので間道または縦縞の裂を華やかな裂から落ち着いた色目の裂へとみていくと、
茜地花紋繫紅毛裂 絹 チモール島
『茶掛と裂』は、紅毛裂はオランダやポルトガル貿易によってわが国に舶載された裂地であるが、この美しい茜地の横縞に花紋を織り出した可憐さを感じさせる裂は、ポルトガル領チモール島あたりで産出されたものと思われる。黄糸による細い横縞を2本1組として、その間に白糸で花紋を2本の竪線でくぎりながら並べている。
花紋は5分ぐらいの竪枠に1輪ずつ配した閉鎖的空間を横につないだ特徴ある形式である。
この裂は茶碗や和物茶入の仕覆に用いられてきたが、竪縞に扱ったほうが映りがよい。しゃれた薄い絹織物で、茜色がさえて美しく典雅な趣があるという。
伊予簾緞子 北村徳齋帛紗店製
『名物裂ハンドブック』は、名称の由来は小堀遠州が所持した中興名物「伊予簾」茶入の仕覆から。
縞には紺、萌黄、白、茶などの色が用いられ、小石畳の地文には宝尽文が織り出されている。十分に華やかな裂だが、文様を金糸で織り出したものもあるという。
細い縦縞だが、間道ではなく緞子だった。地紋が石畳悶や宝尽し文。
北村徳齋帛紗店製 伊予簾緞子 『名物裂ハンドブック』より |
東山間道金襴 絹
6色の細い間道の地と金襴の蔓草文様
東山間道金襴 『表装裂愉しむ 植物文様編』より |
金春金襴 明末 宝尽・吉祥 絹 東京国立博物館蔵
『茶掛と裂』は、能役者の金春太夫が義政より拝領した能装束の裂と伝えるが、実際には桃山末期から江戸初期のころ中国から渡来した繻子地の金襴で、「金入り緞子」とか金緞などと呼ばれる瀟洒な名物裂である。
紺・白・浅葱・焦茶・茶・浅葱・茶で一組の竪縞を繻子地に織り、その上に草花と宝尽紋などの吉祥紋を金糸で散らしている。中興名物「秋の夜茶入」の仕覆にこの裂が用いられ、中興名物「飛鳥川茶入」にも同手の裂が使用されているが、『槐記』にはこの裂を用いた仕覆は遠州好みであるとしている。なお梅鉢紋の裂は高木金襴、唐草紋は四座金襴と称して区別している。
『南方録』に「ドンス地ノ金入、好ノゴトク織テワタリシユへ、金入ヲ用ル人多シ」とあり、わが国から薄手の金入り緞子を注文し、仕覆裂として使用したというのであるという。
宝尽文が日本のものとちがう。
金春金襴 『お茶の心 茶掛と裂』より |
金剛金襴 清初 絹 雲・折枝・宝尽・菱 種村肩衝茶入仕覆
『茶掛と裂』は、大名物「種村肩衝茶入」の仕覆にこの裂の織留部分が用いられ、大名物「古瀬戸鎗の鞘茶入」に左片面の菱繋ぎ紋と同じ裂が用いられ、大名物「本能寺交琳茶入」に添う石畳紋竪筋裂はじつはこの裂の上部に連なる一連の金剛金襴織留部分である。
白・花色・白茶に浅葱・紅・黄の2組の竪縞が交互に織り出され、雲紋、折枝紋、宝尽紋、菱紋などが細い金糸で半越に織り出されている。
地合は繡子地で江戸和久田、金春、高木、四座などと同手の金入り緞子と称せられる中国清初の織製になる名物裂である。太い縞柄のなかに、抑えられた金色の美しさを賞揚したのはやはり遠州の好みである。金剛太夫が義政より拝領したとも、秀吉よりとも伝えるが、たぶん後者のころからのちの渡来品であろうという。
同名の裂でも白っぽい2本の横段が入ったものもある。
鎌倉間道 土田友湖製
『名物裂ハンドブック』は、鎌倉・建長寺の打敷裂とも、源頼朝(1147-1199)の着衣であったともいわれる。鎌倉に関係があり、名称の由来にもなっている。
太い縞の間に直線のように見える細い縞が規則正しく織り出されているのが特徴という。
土田友湖製 鎌倉鎌倉 『名物裂ハンドブック』より |
甲比丹裂 桃山時代渡来 東南アジア 絹・綿
『茶掛と裂』は、占城(ちゃんぱ)裂に似た縞柄の裂である。南蛮貿易によってわが国にもたらされたもので、鹿北丹、甲必丹などとも書くが、ポルトガル語の Capitâno (Eng.Captain)にちなんだ名称である。長崎出島の商館長や、外国船の船長を指したことばが、彼らの輸入した裂の名にすり替わってしまったのであろう。
縞柄の組み合わせも占城と同様であるが、地は経に絹糸、緯に綿糸を使用している点が異なっている。
占城裂(チャンパ) 東南アジアより舶載
『茶掛と裂』は、占城(チャンパ)は、もと古代印度の都市の名称であったが、印度人の東方進出につれて、その文化は東南アジアに及び、その地方固有の文化のうえに印度文化が移植されたため、ユエを中心とした城(現在の中南部ベトナム)は当時印度文化圏に属していた。古城の独立は中国漢代、日南郡象林県からチャム族がバンサ(ユエ)に移住したときに始まり、中国文化圏に属したベトナム(北部ベトナム)の侵入によって15世紀後半首都をビエンチャンに移したが、貿易はファンリやファンランの港で、印度、インドネシア、日本間の中継貿易基地として栄えた国であった。
相良間道 幾何学・入子菱・唐花・龍 北村徳齋帛紗店製
『名物裂ハンドブック』は、肥後国人吉の城主である相良家とかかわりがあるという説もあるが、定かではない。
縞文だけでなく幾何学文も織り出されており、「薩摩宮内間道」とよく似ている。唐花文と入子菱文が織り出された縞や、龍文が織り出された縞などで構成されるという。
薩摩間道 チモールまたはミンダナオ 幾何学・唐草
『茶掛と裂』は、『古今名物類聚』中には、2種類の薩摩間道が所載されているが、紋様はかなり異なっている。宮内間道、相良間道と同種の裂で、チモール島、ミンダナオ島などの織物にしばしばみかける経錦の一種である。赤、浅葱、萌黄、白、黄、茶、黒などの大小縞に幾何学紋や唐草紋を浮織にしているという。
小松間道 桃山時代渡来 中国またはペルシア
『茶掛と裂』は、諸本に、青木間道の浮織のないものを小松間道といい、また弥兵衛間道というとしているが、いずれも小松弥兵衛の所伝とされ、青木間道とはかなり異なる色調と感覚をもつ裂である。
紺・黄・薄茶・茶・白の太縞の経糸の間に、焦茶色の細縞を挟んで、太縞を際立たせている。
織製は中国ともペルシアともいわれるが、桃山時代に舶載され、茶人に愛好された裂であるという。
小松間道 『茶掛と裂』より |
青木間道 東京国立博物館蔵
『茶掛と裂』は、青木とは秀吉の家臣青木法印重直(1527-1613)によるとも、同家臣青木紀伊守一矩によるとも伝える裂である。
この名称をもつ裂は数種あり、一概に本歌といえるようなものはない。船越間道に似た裂であるが、このほかに『古今名物類聚』所載と同裂のものが、大名物「志の丸壺茶入」の仕覆に用いられているという。
地味な色目でしかも極細の縦縞。その中の小さな黒い点や薄い色の横縞が華やぎを与えている。
間道 『茶掛と裂』より |
日野間道 明代 凡鳥棗仕覆
『茶掛と裂』は、名称の由来は大名物「日野肩衝茶入」の仕覆裂に用いられていたとも、利休に茶を学んだ権大納言日野輝資の愛用裂であったからとも伝えるが正確なことはわからない。
中国明代の織製になる横縞間道で、次の2種に大別される。赤黄を主調とした紗地のよろけ縞で、経糸に麻を用い、赤、薄紅の太縞とその外側の白、黄、黒の細縞を真田ふうに絹の緯糸で打ち込んでいる。麻の経のゆるみが横縞の目寄りとなるが、故意によろけを出して変化を与えた紗地の異色の名物裂である。
今一つは緑、紺(または黒)を主調とした横縞で、麻地に緑、赤(または桃色)、黄土色の太縞と細縞を組み合わせた真田組織の横縞であるが、経のゆるみは紗地ほどではなく、よろけも少ないという。
吉野間道 江戸初期伝来
『茶掛と裂』は、厳島原の吉野太夫に京都の豪商灰屋紹益(1607-1691)が贈った裂であると伝える。実際にこの裂を茶入などの仕覆に取り上げたのは紹益であろうけれども、伝世する裂のなかには不味が清国に注文して、細めに織らせたものが多く残っている。
江戸初期ペルシアあたりで織製された裂は縞柄が太く、濃緑色の地合に、両側に臙脂と白、または赤茶の細縞で囲んだ、白または臙脂の太縞を通し、同色の浮織縞を横に真田ふうに打ち込んでいる。濃緑地に白と臙脂を主調とする格子縞の構成の妙が、新鮮な美しさを感じさせる。
国司間道 藤田美術館蔵大名物国司茄子茶入仕覆
『茶掛と裂』は、東福寺開山聖一国師(円爾弁円)が宋より持ち帰った袈裟裂と伝えるが、この説は国司を国師としたことによる牽強付会であり、織製年代も明代と思われる。
国司茄子は伊勢の国司北畠氏の所持による命銘であり、のち松花堂昭乗に移り、八幡名物の筆頭に数えられたが、たぶんこのころ仕覆に添えられたと思われる。白と紺の細い竪縞で瀟洒な感じの名物裂であるという。
国司間道 藤田美術館蔵大名物茶入国司茄子茶入仕覆 『茶掛と裂』より |
緘(しじら)間道 本能寺文琳茶入仕覆 五島美術館蔵
『茶掛と裂』は、縮羅とも書くが、これは地合が縅状になっているところからつけられた名称で、織製のときの経糸の張りかげんによって張力に差を与え、強く張った部分が縮むことによって皺を出すことをいう。
桃山末期から江戸初期にかけて渡来した白地に黒茶または赤茶で竪縞または格子縞を織り出したものを、横縞に扱い、瀟洒ななかに安定した趣を求めているという。
五島美術館蔵本能寺文琳茶入はこちら
緘間道 五島美術館蔵本能寺文琳茶入仕覆 『茶掛と裂』より |
紹鷗間道 千鳥格子
『茶掛と裂』は、武野紹鷗(1502-1555)が愛用した裂である。紺と白の千鳥格子で、大名物「紹鷗茄子茶入」に添う片身替わりの間道裂と同手のものである。
天文11年4月3日の松屋久政の茶会記によると紹鷗の茶に招かれたとき「円座肩衝茶入」を間道の袋に入れて用いたというのがあり、これが間道を茶入仕覆に用いた記録の初見である。また同19年4月17日には天王寺屋宗達が、紹鷗の所から使いに持たせた大名物「新田肩衝茶入」に格子縞の間道の袋をかけて茶を呼ばれている記録が『宗達他会記』にみえるが、これが紹鷗好みの裂であるとすれば、この手の千鳥格子の裂と思われる。いずれにせよ天文年間に紹鷗が好んで間道裂を用いたことは特筆すべきことで、他に例をみないのであるという。
千鳥格子は私の好きな柄だが、こんなに細かい千鳥格子は知らない。しかも、縦縞の間道よりも早く茶入の仕覆に取り上げられていたとは。
『茶掛と裂』は40年以上前から実家にあって、一時期名物裂を学んでいたこともあるというのに、このとても侘びた柄と色合いが記憶に残っていなかった。何をやっていたのか😅
利休間道 千鳥格子
『茶掛と裂』は、大名物「松屋肩衝茶入」に利休が贈った裂をその本歌としているけれど、それはむしろ特殊であり、一般に知られているものは本図のほうである。紹鷗間道より織りの粗い千鳥格子で、白と鼠紺の木綿糸を用いているが、経糸のゆるみが目だち、そのために柄がかなりよろけている。
ざんぐりとした雅味のある侘びた裂で、丹波あたりで織られる木綿格子に似ている。この手の類裂には大名物「文茄茶入」に利休が添えた白と茶の千鳥格子などが知られ、いずれも利休間道の名で呼ばれている。なお類裂には絹織と木綿織とあり一概に決めがたいという。
紹鷗から学び、侘び茶を完成させた利休も細かい千鳥格子の間道を好んでいた。
参考サイト
「表装裂愉しむ 植物文樣編」 編京都表具協同組合 2021年 光村推古書院株式会社
「名物裂ハンドブック」 編淡光社編集局 2013年 株式会社淡光社
「お茶の心 茶掛と裂」 1979年 世界文化社