お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/05/27

三島古墳群 最古は安満宮山古墳


今城塚古代歴史館の常設展示室で三島の最古の古墳は安満宮山古墳であることを知った。
『今城塚古代歴史館 常設展示図録』(以下『今城塚古代歴史館図録』)は、3世紀前半、邪馬台国の女王・卑弥呼は、倭国を代表して中国の魏に使いを送り、自らの政権の権威付けを図ります。三島最古の安満宮山古墳では、このとき魏から卑弥呼へ贈られた「銅鏡百枚」の一部とみられる鏡が出土しています。淀川水運をおさえる三島のリーダーとして、邪馬台国の外交政策に大きく貢献した人物が葬られたのでしょう。               
そして3世紀のなかば、大和盆地の東南部に、箸墓古墳をはじめとする巨大な前方後円墳がつぎつぎに築かれます。初期ヤマト王権が創始したこの特徴的な墓制は、王権に連なる証として各地に広がっていきます。
古墳時代のはじまりです。それらは倭国(日本)の中心的な勢力であり、邪馬台国から発展した初期ヤマト王権の王墓とみられます。
三島の王は本拠地を見下ろす奈佐原丘陵を墓域と定め、前方後円墳の岡本山古墳・弁天山古墳などを続々と築きましたという。
3世紀中頃の畿内の地図と古墳の分布 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より

安満宮山古墳は整備された遺跡公園になっていることを安満宮山古墳リーフレットで知った。
上空から見た安満宮山古墳 安満宮山古墳リーフレットより

しかも名神と新名神が交わる高槻JCTに近い丘陵にあるらしいので、帰りに寄ってみた。
リーフレットの簡単な地図を見て行くと、高槻市公園墓地に入ってしまった。
安満宮山古墳案内図 安満宮山古墳リーフレット

広大な墓地で、パネルでその上の方に古墳があることがわかり、地図にある古墳を探してみたが分からない。それに人気もあまりなく、困っていたら向こうからやって来た人に聞いてみた。
この地図の古墳は、向こうの森の中にありますが、もう一つ、青龍3年銘の青銅鏡が出土したことで有名な古墳は、この上の丘にありますとのこと。
安満宮山古墳と安満山古墳群 説明パネルより

とりあえず森の中の古墳を見に行ったら、羨道と片袖式横穴式石室が開いていた。

安満山古墳群 (萩之荘支群)の説明パネル 平成15年1月高槻市
三島平野に突き出た安満山山塊には、40基にものぼる古墳が群在し、安満山古墳群と呼ばれています。
B2号墳は標高120mの急峻な斜面地に築かれ、近くのB1・B3・B4号墳とともに萩之庄B支群を構成し、その最高所に位置しています。 
古墳は直径14m、現存高5mの円墳で、6世紀後半に築造されました。埋葬施設は南向きの横穴式石室で、棺を納める墓室とそれに取り付く通路からなり、墓室の長さ3.7m、幅約1.8m、高さ3m、通路の長さ4.7m、幅1-1.4mを測ります。
墓室内からは鉄刀1点、須恵器の高杯などが出土していて、1体ないし2体が埋葬されていたと考えられます。ここに眠っていた人物は眼下にひろがる桧尾川流域の一帯をおさめていた有力者とみられます。
これが説明パネルのB2号墳で、円墳のよう。
ということで、B2号墳は6世紀後半で、安満宮山古墳からはかなり時代が下がる。

横穴式石室の構造図(説明パネルより)

安満山古墳群B2号墳横穴式石室の構造図 説明パネルより


次に安満宮山古墳を探すと、道路脇にその入口があったが、決して分かり易いとは言えなかった。駐車場もこの続きにあった。

手前が古墳の説明パネルと出土した青銅鏡のレプリカ


安満宮山古墳リーフレットは、弥生時代の環濠集落として名高い安満遺跡の背後にそびえる安満山。平安時代から春日大社(現磐手社神社)の神域として守られてきた聖なる山です。
平成9年夏、この地を発掘調査したところ、長大な木棺を納めた古墳が発見され、安満宮山古墳と命名されました。棺内には5面の青銅鏡5面(1-5号鐘)をはじめ、ガラス玉をつづった装飾品や刀、斧などの鉄製品が副葬され、並々ならぬ人物が埋葬されていたことが明らかになりましたという。

同リーフレットには各鏡の解説があった。
1号鏡 三角縁 「吾作」 環状乳四神四獣鏡        239年頃
2号鏡 方格規矩四神鏡 「青龍3年」銘          235年
3号鏡 三角縁 「天・王・日・月・吉」 獣文帯四神四獣鏡 250年頃
4号鏡 斜鏡 「吾作」 二神二獣鏡            220年頃
5号鏡 「陳是作」 半円方形帯同向式神獣鏡        239年頃
安満宮山古墳出土副葬品 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より


淀川と安満宮山古墳の丘陵の間の平野部には安満遺跡という弥生時代の環濠集落があったという。
淀川という水運に恵まれ、古くから開けていた。そしてその後の時代にも、交通の要衝として栄えた土地だった。

古墳の向こうまで行って眺めたが、大気がかすんでいた。画像を編集して、やっと生駒山が分かる程度。

遠くの大阪のビル群と手前の緑地の間に、太田茶臼山古墳と今城塚古墳の緑が見えた。



『今城塚古代歴史館図録』は、安満宮山は、淀川と大阪平野を一望する安満山の中腹にある小さな長方形墳です。墓坑の中央を深く掘り下げて、長大な木棺を納めていました。銅鏡5面やガラス小玉、鉄刀、鉄斧など貴重な品々が副葬されていたことから、眼下にひろがる安満遺跡のリーダーで、淀川水運に関わり重要な地位を占めていた人物が葬られたと考えられますという。

平面図
墓坑    7.5mX3.5m 現存深0.4m
木棺埋納坑 5.5mX1.3m 深さ1.2m
安満宮山古墳平面図 『今城塚古代歴史館図録』より

東側からみた墓坑
発掘調査が行われない箸墓古墳も、こんな風な土坑に埋葬されていただろう。
リーフレットは、周囲に排水溝をめぐらし中央に深い木棺埋納坑を設けていますという。 

墓坑の検出状況
木棺埋納坑の底は、水銀朱で一面あかく染まっています。遺体は東枕に葬られており、頭側に銅鏡とガラス小玉製の装飾品、足元側に鉄刀などの鉄製品をひとまとめにしてありましたという。
安満宮山古墳墓坑の検出状況 『今城塚古代歴史館図録』より


墓坑が見学できるように透明なカバーが架けてあるのだが、光が反射したりして、よく見えなかった。
東の頭部側

南側から見下ろすと埋葬時は重なっておかれていたのではないだろうが、出土時の状態が再現されている。赤いのが青龍3年銘の青銅鏡かな。

続いて西端、足元の刀など。朱

こぼれ落ちた朱


で、コウヤマキ製という割竹形木棺はどこに所蔵されているのだろう。
『王家の丘 弁天山古墳群の系譜展図録』によると、1970年7月、島上高校の木造校舎が火災で全焼し、地歴部の部室で保管されていた市内遺跡の1万点ともいう出土品や図面等の記録類の大半が焼損するという甚大な被害が発生しました。
安満遺跡の木棺を水漬け保管していた1階の水槽からは湯気があがっていたといいますという。

最後淀川が眺められるところに、タイルで魏志倭人伝が図解してあった。
以下、リーフレットの文で説明します。

「魏志倭人伝」には、景初3年(239)6月倭国の外交使節団が邪馬台国を出発、その中には安満の王もいた。
安満宮山古墳のタイル絵より

半島の帯方郡を経由して
安満宮山古墳のタイル絵より

12月に魏の都・洛陽に到着。たくさんの貢ぎ物を献上する。
安満宮山古墳のタイル絵より

魏は倭国女王・卑弥呼に対し「親魏倭王」の印綬とともに「銅鏡100枚」などを与えたと記されています。
この時の魏王は、三国志で有名な曹操のひ孫厲公だった。
安満宮山古墳のタイル絵より

無事帰国して、卑弥呼から、魏王にもらった銅鏡百枚のうち3枚を下賜される。
安満宮山古墳のタイル絵より

王が亡くなると、朱を塗った割竹形木棺(樹名不明)に、銅鏡も副葬された。
安満宮山古墳のタイル絵より

    今城塚古墳 円柱の家形埴輪← →三島古墳群 弁天山古墳群

関連項目 
今城塚古代歴史館 三島古墳群の最後は阿武山古墳

参考文献
「高槻市立今城塚古代歴史館 常設展示図録」 2012年 高槻市立今城塚古代歴史館 

2022/05/20

今城塚古墳 円柱の家形埴輪


今城塚古代歴史館の常設展示室には埴輪祭祀場で発見された埴輪群の中で選りすぐりのものが展示されていた。
それにしてもこんなに積み重なった破片から復元していったとは🤔 大変だっただろうが、わくわくする作業だったに違いない🤩 昔々、橿原考古学研究所でアルバイトをしたことがあるが、土器の復元が一番面白かった。


1区・2区の埴輪群

祭祀場では大刀が間近に見ることができた。
そして、背中側しか見なかったが、この武人埴輪には、

顔がない。あるのは空気抜きの大きな穴だけ。
下に甲冑と書かれているので、これは武人埴輪ではないことが分かった。大刀の埴輪があるのだから甲冑の埴輪があっても不思議ではないのだが、やや気味が悪かった😆

それから、大刀は把の勾革に突起が数個付いている。


3区の埴輪群

女性たち
『前方後円墳』は、今城塚古墳の女子埴輪はほとんどが袈裟状衣を着ているが、「袈裟衣を着用した女子埴輪は采女、もしくは采女と同様、おもに食膳の奉仕に従事する職掌の女性」 との指摘がある[塚田、2007] という。
今城塚古代歴史館では巫女としている。
かなり硬そうな張りのある衣装で、左肩から張り出した服は袋状、つまり「わ」になっているが、右肩からは袋状にはならないで斜めに張り出す。こんな風に張りのある素材は、分厚い革か、ござのようなものかな。
手前の四つ足も気になったが、指が分かれた動物は犬?


4区の埴輪群

武人、鷹飼、力士の人物埴輪の後方に楯形埴輪
こんな時代から力士がいたとは。野見宿禰を表しているのだろうか。
中外日報大古墳群と土師氏の関わり―墳墓造りを担った古代氏族で、大阪府立近つ飛鳥博物館の舘野和己館長は、『日本書紀』は養老4(720)年にできあがった。そこに記された野見宿禰の伝承などは土師氏の提出した資料によったものであり、喪葬関係の職掌に土師氏が誇りを持っていたことを示しているという。
この祭祀場での長の象徴として土師氏が力士像に象ったのかも。


『今城塚古代歴史館 常設展示図録』には解説がないが、家形埴輪の中でも太い円柱の建物埴輪が気になる。しかも、短辺の中央にも円柱があり、円柱だらけ。
太い円柱よりも高い社殿で有名な出雲大社の社殿が思い浮かぶが、図録では「高床の家」とあっさり。

1区
両棟の端にX状に交差する千木は後の神社の屋根にも付属する。屋根は格子状に装飾され、豪華な王の住居のよう。
今城塚古墳祭祀場1区の高床家形埴輪 『常設展示図録』より

魚と鳥の絵
今城塚古墳祭祀場1区の高床家形埴輪の魚と鳥の絵 『常設展示図録』より


2区
1階と2階の円柱は数は同じだが、明らかに位置が異なり、高い柱を2階まで通したものではない。
屋根にはやはり千木があり、尾根に鰹木が並ぶ。


3区
1階は円柱だが、2棺は板あるいは壁状のものになっている。
今城塚古墳祭祀場3区の千木を飾る高床家形埴輪 『常設展示図録』より


4区
円柱の平屋に千木と装飾的な屋根がのる。

円柱の家形埴輪は、数は多くないものの、各地で出土していて、「高床の家」が一致した名称である。しかし、4区の平屋タイプのものはどこに部屋があるのだろう。




関連項目


参考文献
シリーズ古代史をひらく 前方後円墳 巨大古墳はなぜ造られたか」 吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編 2019年 岩波書店

「高槻市立今城塚古代歴史館 常設展示図録」 2012年 高槻市立今城塚古代歴史館 

2022/05/13

今城塚古代歴史館 継体天皇陵に3つの石棺


今城塚古代歴史館は、企画展示室と常設展示室がある。


常設展示室に入ると、正面に今城塚古墳の模型が立ち塞がっており、左右のどちらかから中に入っていく。

右側には古墳時代の人々の道具作りの様子が、出土品と共に再現されていた。


高槻市で発見された古墳それぞれの出土品が展示されている。
この展示については後日

その先に埴輪が並んでいるが、それらも今城塚古墳の遺物ではなかった。



薄暗いところに当時の土木工事用の道具が立てて展示されていて、ここが結界のようになっていて、その先が今城塚古墳に関する展示になっていた。



まずはジオラマ、しかも等身大
周辺の山の上には古墳が築かれ、また、近くにも前方後円墳がある。そんなところに今城塚古墳(継体天皇陵)が築かれようとしていた。


実物大の人たちが、後円部に石を葺いている。手前の部分は、石組の排水溝を再現している。
『常設展示図録』は、今城塚の墳丘には盛土を堅固にするための工夫のあとがみえます。後円部には、川原石を積み上げた石積(墳丘内石積)が埋め込まれ、その下部からテラスに向けて石組の排水溝がつながっています。これらは、墳丘にしみこんだ雨水をいち早く外に排出するためにつくられたものですという。

説明パネルは、葺石により、墳丘の盛土が崩れにくくなり、外観も立派にみえました
という。
前に出っ張っている箇所は排水溝のよう。
今城塚古代歴史館説明パネルより

今城塚の葺石は、古墳から1㎞東を流れる芥川の川原石が使われていますという。

今城塚古代歴史館説明パネルより

下の方に大きめの石、上の方に小さめの石を積んでいるのかな。


後円部表面の石積みと墳丘内の石積み
『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より


今城塚古墳の歴史(『常設展示図録』より)
 継体25年(531) 継体2月死去、12月埋葬 『日本書紀』

 弘安11年・正応元年(1288) 『公衡公記』に「島上陵の墓荒らしの犯人逮捕」と記載
  下図では墳頂及び石室などが破線で表されているので、3基の石棺は露出していたか、それ以降砦となった頃には壊されていた可能性も

 文禄5年(1596) 伏見地震発生。墳丘が崩落し、内濠の大半が埋没
  もし石棺が無事だったとしても、この地震で壊れただろう

 文禄5年-20世紀 村の共有地として利用
今城塚古墳後円部横断面の経年変化 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より


伏見地震で崩れた石室基盤工
今城塚古墳後円部 地震で崩れた石室基盤工 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より


円筒埴輪と朝顔形埴輪
背景には2本マストの船が何隻も描かれている。当時の淀川はこんなに水嵩が高くて幅が広かったのだろうか。

説明パネルは、今城塚古墳のブランドマーク 、2本マストの船
今城塚の円筒埴輪には、ヘラ描きされた「船絵」がしばしばみつかります。墳丘、とくに後円部では、ほとんどの円筒埴輪に船絵が描かれていたとみられます。
船絵は、円筒埴輪の最上段に大きく一つ。三日月形の船体に2本マストを立て、船体の右端から下へ、2本の碇綱がのびています。船首を右に向け、帆をおろして停泊する大形帆船を描いたとみられます。船絵のある円筒埴輪がずらりと並んだ様子は、あたかも多くの船が停泊する港の場景のようですという。

実際の船を描くというよりは、シンボルを力強く彫り込んだようにみえる。継体天皇は、当時の水運を一手に握っていたのだろう。


2本マストの船想像図
こんなに立派な船だったのか😮
今城塚古墳出土円筒埴輪の船の想像図 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より


次の展示室にはいよいよ石棺が登場。なんといっても今城塚古墳には3基の家形石棺が納められていたのだ👀

説明パネルは、後円部の発掘調査で、3種類の石棺材の破片が大小多数みつかり、本来は3基の家形石棺がおさめられていたことがわかりました。石材は、九州熊本の阿蘇ピンク石(馬門石)、兵庫の竜山石、大阪・奈良にまたがる二上山白石のいずれも凝灰岩です。
海路を850km以上も運ばれた阿蘇ピンク石をはじめ、大王墓の築造にいかに広範な資材と労働力を結集したかがうかがえますという。


竜山石の家形石棺レプリカ

竜山石の石棺破片

竜山石石切場

今城塚古代歴史館説明パネルより


阿蘇馬門石(俗にピンク石と称される)の石棺
展示にはさまざまな工夫がされている。

内部
継体天皇の埋葬が復元されているのに、阿蘇ピンク石の石棺作りの写真にピントが合っていまった😅

石棺の破片
背後のパネルに馬門石の運搬路が示されている。

熊本県馬門


二上山白石の石棺
内部がよく見えるように、1/3ほどを横にずらせてある。
家形石棺ではない、平らな蓋石

朱で塗られた内部

二上山白石の石棺片

二上山白石採石場



今城塚古墳の1/100の模型


ぐるりと回って、石棺の別の面を見ていった。

二上山白石の石棺
最初は展示の仕方に驚いたが、この石棺の蓋は家形になっていないことに、やっと気が付いた。
『石棺から古墳時代を考える』は、縄掛突起を省略した河内の南河内郡太子町山田の二子塚(双方墳全長60m、1辺25m)の2棺などは、蓋の屋根形の上面も丸くつくって四注家形屋根の形状さえ失いかけており、これは、さらに新しい形態だと考えられている。同じ太子町山田では、松井塚古墳や仏陀寺古墳の場合も縄掛突起をもたず、羽曳野市蔵の内の徳楽山古墳などとともに横口をもった古墳終末期二上山白石による刳り抜き石棺ないし石榔とされる範疇に入れられている。この系列の最終段階のものは縄掛突起をつくらないのである。

こうして、二上山白石による刳り抜き家形石棺は、古墳後期のほぼ全体の時期にわたって、畿内で中心的位置を占める古墳と、その勢力とかかわりを深めたと考えられる近江の有力古墳で用いられる。この棺に葬られていることが、それぞれに畿内中央政権内で強力な地位を得ていたことの表現だといってよいという。

この石棺は組み合わせ式横口石槨のよう。他の2棺のように家形にせず、平たい蓋にしたことに、何か根拠となるものはあったのだろうか。


阿蘇ピンク石(馬門石)の縄掛突起付き家形石棺。長辺に2対の突起がある。


竜山石の繩掛突起付き家形石棺
短辺側にも繩掛突起があるが、いかにも形だけ。

『王者のひつぎ』は、継体天皇の真の陵墓については、高槻市今城塚古墳が有力です。この古墳は高槻市教育委員会によって発掘調査され、史蹟整備されています。発掘の結果、主体部の横穴式石室は取り去られていましたが、3種類の石棺が納められていたことが判明しました。石棺は細かく砕かれた小片で、形態はよくわかっていません。ただし、竜山石・阿蘇石・二上山白石製の3種が判明しました。
3種類の異なる石材産出地を掌握し、石棺を運び込んだ大王はそれまでいませんでした。継体天皇は仁徳・履中王統から続く竜山石の石切り場と、はるか九州にある允恭王統の石切り場を掌握し、さらに二上山の石切り場を新たに開発してその石材も利用しはじめていたのです。
竜山石や二上山の石切り場を掌握できたのは、葛城氏の配下にあって台頭しはじめた蘇我氏との連携を示すという説があります。
ところが、畿内の有力豪族との連携とは対照的に、それまで連携関係にあった九州の豪族との関係は揺らぎつつありました。6世紀前半のある段階になって突然、阿蘇石製石棺の搬入がなくなります。それと入れ替わるように、二上山白石製石棺が数多くつくられるようになるのです。
これは、継体天皇の晩年に北部九州でおこった磐井の乱による連携関係の決裂を意味するとされています。
継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳に阿蘇石製石棺が納められたのはいつでしょうか。
ひとつは、磐井の乱以前に亡くなった継体天皇の近親者のためのひつぎという考えです。この場合、今城塚古墳の造営と完成は磐井の乱以前としなければなりません。
もうひとつは、磐井の乱は速やかに平定され、阿蘇石の輸送には影響せず、阿蘇石石棺の衰退は、大伴金村の失脚など、別の理由とする説です。
もうひとつは、継体天皇は古墳造営に着手する以前、自らの石棺は生前に九州から運び込んでいたという説です。この場合、3種類の石棺のうち、継体天皇のひつぎは阿蘇石製だったとしなければなりませんという。
別々の産地から取り寄せた3つの石棺、それは近しい家族と共に埋葬されるためかと思ったこともあったが、この展示室を見ていて、自分一人のために、あるいは、大王として自分の力を見せるために方々から運ばせたのではと思うようになった。


ところで、奥のおっちゃんたちが長々と眺めているのは石室基盤工の一部だった。
『常設展示図録』は、後円部2段目の上部には、堅固な石組みが埋め込まれていました。この石組みは、地盤を安定させ、重い横穴式石室を支えるための工夫です。これほど大規模で、整然とした石室基盤工が見つかったのは日本で初めてのことですという。

その説明パネルの図より
石室基盤工の上に組み合わされた片袖式石室が黒い色で表されている。


盗掘や地震もあったが、副葬品もいくらかは出土している。
『常設展示図録』は、埋葬施設におさめられていた副葬品の数々は、残念ながら細かい破片となってしまいました。青、緑、黄、赤のガラス玉や金銅板などの装飾品のほか、鉄の刀や鏃、矢をいれる胡籙、甲冑の小札といった仏教・武具、さらに馬具が確認されていますという。

各種の須恵器

馬具


甲冑(復元品)

金属製品
今城塚古墳埋葬施設出土の金属製品 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より

玉類
鮮やかな色のものはガラスで、古墳出土のガラス玉の中では透明度が高いのでは。
また、ガラス玉で黄色は珍しい。奈良県天理市の星塚2号墳(6世紀前半-中頃)出土の小さな玉を連ねた首飾りくらいしか見たことがない。
今城塚古墳埋葬施設出土の玉類 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より






関連項目

参考文献
シリーズ古代史をひらく 前方後円墳 巨大古墳はなぜ造られたか」 吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編 2019年 岩波書店
「高槻市立今城塚古代歴史館 常設展示図録」 2012年 高槻市立今城塚古代歴史館 
「王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺 展図録」 2018年 大阪府立狭山池博物館