狭山池から石棺が多数出土していることを『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺』(以下『王者のひつぎ』)展図録で知った。
大阪狭山市のホームページ水面のある風景-狭山池ガイドは、大阪狭山市内に数あるため池の中で、最も広い面積を誇っているのが狭山池です。その歴史は古く、築造は7世紀前半にさかのぼります。『古事記』や『日本書紀』にも登場し、現存するものとしては国内最古のため池です。
その狭山池は、長い歴史の中で幾度も改修が繰り返されてきました。奈良時代の行基(ぎょうき)や鎌倉時代の重源(ちょうげん)、安土桃山時代の片桐且元(かたぎり・かつもと)など、歴史上著名な人物が数多く池の改修にかかわってきました。また、各時代の最先端の土木技術を用いて改修工事が行われていたことも、最近の調査で明らかになってきました。狭山池がこの地域にとっていかに重要な池だったかは、こうした史実からも読み解くことができますという。
平家の焼き討ちで東大寺復興の大勧進を務めた重源さんは、現山口市で柱に使う樹木の伐採、搬送を指揮した。その際にダム状のものを造って水かさを増し、材木を流したと聞いたことがある。土木工事にも長けた人物だったらしいが、狭山池の改修をしたことは知らなかった。
同ページは、平成の改修が行われた狭山池では、工事と並行して総合的な学術調査が行われました。日本最古のため池である狭山池には、たくさんの埋蔵文化財が眠っていることが知られ、それらの発見に大きな期待が寄せられていました。また、実際に見つかった遺構や遺物のかずかずは、当初の予想を大きく上回るものでした。
中でも注目を集めたのが北堤下から見つかった「東樋(ひがしひ)」です。樋というのは池から水を取る設備のことで、狭山池には、慶長13年(1608年)の改修の際に西樋、中樋、東樋の3つの樋が設置されたことがわかっていました。しかし、東樋は敷設後間もなく土砂に埋もれてしまったために、その行方が400年もの間わからなくなっていました。東樋の下からは、時代の異なる樋(下層東樋)が見つかりました。下層東樋は狭山池が築造された当初に設置された古代の樋で、使われている木材の年代測定の結果、西暦616年ごろに伐採されたものであることもわかりました。それは狭山池が築造された時期を示すもので、それまで狭山池がつくられた時代は謎だっただけに、池の歴史を解き明かす大発見になりましたという。この調査で見つかった樋と、鎌倉時代に重源が狭山池の改修に関わったことが記された「重源狭山池改修樋」は平成26年(2014年)に国の重要文化財に指定され、現在は狭山池博物館で展示・保存されていますという。
『王者のひつぎ』は、狭山池では堤の内側(取水部)から13以上、堤の外側(放水部)から9以上の石棺が発見されています。狭山池石棺群と呼びます。いずれも、古墳時代の刳り抜き式家形石棺で、大半は兵庫県高砂市・加西市などの加古川流域でとれる、いわゆる竜山石製です。その他、大阪と奈良の境にあたる二上山でとれる凝灰岩製の石棺も2基あります。加えて、竪穴式石室の天井石となる石英閃緑岩の板石が1石、横口式石槨の一部となる花崗岩が1石あります。
狭山池石棺群の大半は、後期古墳から掘り出された竜山石製の刳り抜き式家形石棺です。鎌倉時代の重源による改修時に古墳から運び出されたと推測されています。重源の活動業績を記した『南無阿弥陀仏作善集』に「河内国狭山池は…すること石の樋を六段・・・」と記されているからです。6段は約64.5mにあたり、当時の北堤の幅にほぼ対応します。
さらに、発掘調査で狭山池石棺群とともに発見された「重源狭山池改修碑」の銘文にも「以4月8日始伏石樋・・・」と刻まれていました。
残念なことに 『南無阿弥陀仏作善集』や「重源狭山池改修碑」には石棺調達の詳細が記されておらず、どの古墳から石棺が掘り出されたのかわかっていませんという。
重源さんの時代には、すでに巨大な丘のようなものは墓で、その中には家形石棺があったことは周知のことだったらしい。家形石棺は初期には後円部頂部に竪穴を掘って安置されたが、その後横穴式石室になっていく。家形石棺を搬出するなら、横穴式石室の方が運び出しやすかったのでは。
ただし、下図の遺構は、重源さんがつくったものではなく、慶長の改修のものだった。重源さんはどんな風に石棺を利用したのだろう。
竜山石製家形石棺について『王者のひつぎ』は、狭山池石棺群には全長2.3m以上で、蓋を合わせると重量が6tを越えるような大型石棺が4基あります。
遠く播磨の石切り場で切り出されたこれらの石棺は、大王級のひつぎと考えます。
現在、狭山池石棺群をのぞき、大阪府内で確認されている刳り抜き式石棺は伝承を含め20基程です。このうち竜山石製と確認できるものは10基もありません。狭山池石棺群の大半が竜山石製で、20基以上であることをふまえれば、掘り出された石棺は驚異的な数量です。したがって、狭山池周辺の古墳のみならず、大和の古墳や、播磨の石切り場周辺などからも掘り出されたのではないかという推測があります。石棺の調達を広範囲に見積もる案ですという。
また、大型石棺については、全長2.3m以下の石棺は生駒山麓や羽曳野丘陵の古墳、全長2.3m以上の大型石棺は、二上山西麓の磯長谷古墳群などと、狭山池周辺10㎞圏内の古墳と見積もる案があります。
ところが、生駒山麓や二上山西麓の古墳から発見される石棺の大半は、二上山でとれる凝灰岩製で、葉室石塚古墳や推古陵古墳など、石棺が抜き取られずに残されている大型古墳も多くあります。以上を考慮すれば、重源が大和川や石川をまたいでその東岸から石棺を搬入したかどうかさえ疑わしくなります。特に、大型石棺は狭山池に近い百舌鳥・古市古墳群の大王墓から掘り出された可能性が高いのですという。
狭山池放水部の石棺群
同書は、狭山池博物館には大小20以上の石棺が展示されています。
平成の改修に伴う狭山池北堤の発掘調査によって、中樋の取水部(堤の南側)から数多くの石棺が発見されました。主なものは石棺1-10として報告、大半は近年重要文化財に指定されました。
なお、本書に示す石材番号は大阪狭山市教育委員会刊行の『狭山池総合学術調査報告書』 2014年にある整理番号に準拠しました。報告のないものは今回新たに番号を付けましたという。
江戸時代に積み直された石棺群 『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺』より |
同書は、また、石棺Aは狭山池東堤の稲荷神社境内にながらく置かれていたもので、本来は池の取水部付近に埋没していたものだったとされます。大阪府の文化財指定を受けていますという。
そして狭山池博物館の研究者たちは、狭山池に持ち込まれた石棺群がどの被葬者の者か推測している。
同書は、狭山池石棺群はどの古墳にあったものなのか、今となっては確定することが非常に困難です。ただし、大型の刳り抜き式家形石棺の存在は、5-7世紀の大王墓級の墓から掘り出されたことを推測させます。また、重源の狭山池の改修期間を信用すれば、鎌倉時代の狭山池水下の人々が遠隔地から狭山池に石棺を運び込んだとも思えません。
5-7世紀の河内に陵墓伝承をもつ天皇は限られます。石棺の年代的特徴などを考慮すれば、いくつかの石棺については、候補となる古墳や被葬者をあげることが可能です。
本章では、限られた手掛かりから大胆に推理して狭山池石棺群のいくつかの石棺について、被葬者や掘り出された古墳を検討します。
ところで、6・7世紀の『日本書紀』の記事についても多くが疑われています。しかし今回は、その原史料となる原帝紀などが6世紀には成立し、天皇の実在や陵墓の地名伝承については、おおよそ信頼できるという前提にたちましたという。
① 仁賢天皇のひつぎ 石棺6 5世紀後半 竜山石の家形石棺?
『王者のひつぎ』は、石棺6は、平成の改修で発見されたもので、一般公開はされていません。
この石棺の特徴は、外形が箱形であることに対し、内刳りが断面U字形で、舟形石棺の名残りをとどめることです。つまり、家形石棺創出期のひつぎと考えるのですという。
家形石棺創出期の石棺6 『王者のひつぎ』より |
同書は、幅1.38mの竜山石製刳り抜き式石棺で、欽明天城ひつぎの候補とされる奈良県五条野丸山古墳の前棺(幅約1.45m)につぐ大きさです。残念ながら中央で割られており、全長は不明ですが、約2.7mにおよぶと思われ、大王墓級のひつぎです。
さらに、狭山池石棺群には石英閃緑岩を加工した巨大な板石があります。これについても、形態の詳細が再調査され、竪穴式石室の天井石と判明しました。
この板石は規模からみて、幅広の石棺6を納めた石室の天井石にぴったりで、両者は狭山池にほど近い大王墓から同時に運び込まれた可能性が高いのですという。
短辺側に2つずつ繩掛突起があるのは、長持形石棺の特徴では? これも家形石棺への過渡期という見方ができるのかな。
石棺6と石室天井石の復元 『王者のひつぎ』より |
割られた石棺6 現長138㎝(270㎝前後)幅138㎝現高64㎝(100㎝以上)
棺身は火山礫凝灰岩で、伊保山付近の竜山石。丸い矢穴があり、その対になる石片も見つかっている。
『王者のひつぎ』は、5世紀の王権を2系統に色分けできるという説が史実とすれば、各大王が調達できうる石棺にも反映されている可能性があります。
百舌鳥・古市古墳群では、竜山石製の石棺を納めた古墳と九州の阿蘇石製の石棺を納めた古墳がみつかっています。陵墓古墳の石棺は未調査のために断片的な見通ししか示せませんが、おおよそ允恭系王統は阿蘇石製の石棺を、仁徳・履中系王統は竜山石製の石棺を使用していることがわかります。
前節に示した石棺6が5世紀後半の河内の大王墓から掘り出されたものであるとすれば、阿蘇石製の石棺を使用したと推定する允恭天皇・雄略天皇・清寧天皇は除外できるはずです。
そうすると、竜山石製石棺を納めた5世紀後半の河内の大王は仁賢天皇に絞り込めるのです。つまり、狭山池に運ばれた石棺6は仁賢天皇が葬られたとされるボケ山古墳から掘り出されたと推定するのですという。
仁賢天皇は、その孫娘・手白香皇女と継体天皇との子である欽明天皇の曾祖父になる。
倭の五王には、允恭天皇が済、雄略天皇が武に比定されいるが、仁賢天皇は後補にあがっていない。
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仁賢陵古墳(ボケ山古墳、被葬者もあっと驚くこの名称😲) 5世紀後半
『王者のひつぎ』は、『日本書紀』は仁賢天皇を埴生坂本陵に葬ったと記します。「埴生」は『日本書紀』履中天皇即位前紀に「埴生坂」としても登場する地名です。竹内街道(丹比道)は羽曳野市野々上付近で丘陵を東西に横断します。この坂道が埴生坂と呼ばれていたようです。
仁賢陵古墳は地名伝承を手掛かりに江戸末期の文久年間に仁賢陵と治定され、現在に至ります。古墳名である「ボケ山」は仁賢天皇の名の億計王(おけおう)がなまったと理解されています。現在のところ、この古墳以外に仁賢陵を見直す有力な論拠は知られません。という。
名の「おけおう」がなまって「ボケ山」になったとは😁
残念ながら、仁賢陵古墳に関する埋葬施設の伝承はなく、副葬遺物なども知られていません。昭和50年代に大阪府教育委員会が、外堤の一部を発掘調査し、円筒埴輪列を検出しています。さらに、羽曳野市教育委員会が、古墳の北西斜面で埴輪窯を2基、発掘調査しています。以上の成果によって、仁賢陵古墳の円筒埴輪の実態が解明されていますという。
② 継体天皇のひつぎ 6世紀前半 大阪府高槻市氷室所在伝今城塚石棺 阿蘇ピンク石製・二上山白石製・竜山石製の3基の家形石棺のどれか
『王者のひつぎ』は、継体天皇の真の陵墓については、高槻市今城塚古墳が有力です。この古墳は高槻市教育委員会によって発掘調査され、史蹟整備されています。発掘の結果、主体部の横穴式石室は取り去られていましたが、3種類の石棺が納められていたことが判明しました。石棺は細かく砕かれた小片で、形態はよくわかっていません。ただし、竜山石・阿蘇石・二上山白石製の3種が判明しました。
3種類の異なる石材産出地を掌握し、石棺を運び込んだ大王はそれまでいませんでした。継体天皇は仁徳・履中王統から続く竜山石の石切り場と、はるか九州にある允恭王統の石切り場を掌握し、さらに二上山の石切り場を新たに開発してその石材も利用しはじめていたのです。
竜山石や二上山の石切り場を掌握できたのは、葛城氏の配下にあって台頭しはじめた蘇我氏との連携を示すという説があります。
ところが、畿内の有力豪族との連携とは対照的に、それまで連携関係にあった九州の豪族との関係は揺らぎつつありました。6世紀前半のある段階になって突然、阿蘇石製石棺の搬入がなくなります。それと入れ替わるように、二上山白石製石棺が数多くつくられるようになるのです。
これは、継体天皇の晩年に北部九州でおこった磐井の乱による連携関係の決裂を意味するとされていますという。
家形石棺の石材の変遷と歴史上の事件とが合致している。雄略天皇は倭の五王の最後の一人、武に比定されている。
同書は、継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳に阿蘇石製石棺が納められたのはいつでしょうか。
ひとつは、磐井の乱以前に亡くなった継体天皇の近親者のためのひつぎという考えです。この場合、今城塚古墳の造営と完成は磐井の乱以前としなければなりません。
もうひとつは、磐井の乱は速やかに平定され、阿蘇石の輸送には影響せず、阿蘇石石棺の衰退は、大伴金村の失脚など、別の理由とする説です。
もうひとつは、継体天皇は古墳造営に着手する以前、自らの石棺は生前に九州から運び込んでいたという説です。この場合、3種類の石棺のうち、継体天皇のひつぎは阿蘇石製だったとしなければなりませんという。
どの説にしろ、継体天皇の棺は阿蘇ピンク石、あとの2基は家族ということで良いのでは。
そして、わざわざ異なる石材を選んだのは、それぞれの勢力範囲なのではないかな。
大阪府高槻市今城塚古墳 6世紀前半 『王者のひつぎ』 |
また同書は、2017年8月に、高槻市内で石橋にされていた新たな石棺の破片が発見されて、大変な話題になりました。 この石は阿蘇石製で、全長1.3m、幅0.6m、石棺底石の可能性が高いと推定されています。側面や蓋石はないのですが、底面の約四分の一の大きさではないかと思われます。この場合、石棺の大きさは全長2.6m程度となり、大王のひつぎに匹敵する大型石棺に復元できるのですという。
やはり、阿蘇ピンク石は継体天皇のひつぎだったのだろう。
③ 安閑天皇のひつぎ 石棺G 古市古墳群うち安閑陵古墳出土 鉢伏山産家形石棺
石棺G
『王者のひつぎ』は、石棺Gは、大正・昭和の改修で発見されたもので、大阪狭山市指定文化財です。 刳り抜き式家形石棺の蓋石で、残念ながら四分の一程度に割られており、全長全幅は不明です。しかし、形状から復元すると、全長2.5m、幅1.5m程度の大型棺になるようです。縄掛け突起や天井部平坦面の形から、6世紀前半のものと推定できます。つまり、6世紀前半の大王墓から掘り出された大型石棺であると推定します。
この石棺は縄掛け突起が短辺近くにあり、長細い形から、長辺に3か所の突起つ特異な形状と推定します。対して、短辺に突起はありません。このような型式の家形石棺は、近畿では御所市條ウル神古墳石棺と天理市ヒエ塚古墳石棺以外知られません。ただし、條ウル神古墳にほど近い市尾宮塚古墳石棺も復元すれば、この型式の家形石棺になる可能性があります。條ウル神古墳・市尾宮塚古墳・市尾墓山古墳は巨勢氏の本拠地にある首長墓とされ、狭山池でみつかった石棺Gも巨勢氏とのかかわりを推測できる大王墓のひつぎと推定します。
巨勢氏は継体天皇時代に大臣となった巨勢男人がよく知られ、市尾墓山古墳がその墓とも指摘されています。
『続日本紀』によると、巨勢男人は継体天皇と安閑天皇に仕え、『日本書紀』は安閑天皇に二人の妃を出したという伝承もあります。石棺Gが6世紀前半の巨勢氏にかかわる大王のひつぎとすれば、河内に葬られた安閑天皇の陵墓から運び出されたと推定するのですという。
安閑天皇は継体天皇と目子媛との子。新たな権力者巨勢氏が登場。
石棺G 安閑陵古墳出土か 『王者のひつぎ』より |
安閑陵古墳
『王者のひつぎ』は、安閑天皇は『日本書紀』によれば安閑2年(535)に崩御し、陵墓は『古事記』『日本書紀』などによると「旧市(古市)の高屋」です。地名などから現在宮内庁が治定する前方後円墳、安閑陵古墳が候補です。この古墳は江戸時代の記録によれば、石室の跡があり、長さ5間(約9.1m)、幅は広い所で3間、深さは1間と記します。大きな盗掘坑でしたが陵墓の修復で埋められたようです。
ところで、『日本書紀』は安閑陵造営に際し、皇后の山田皇女と天皇妹の神前皇女も合葬したと伝えます。にもかかわらず山田皇女については『日本書紀』欽明天皇即位前紀に記事があり、このころまで存命とされるのです。二人の皇女の棺が横穴式石室に後から追葬されたとすれば、重源が狭山池に安閑天皇の石棺を運び出す際、あわせて運んだと考える必要があるでしょう。 その一方、『延喜式』は山田皇女陵を別に記述し、 『日本書紀』の合葬記事と対立します。現在、安閑陵古墳の南には山田皇女陵として治定されている高屋八幡山古墳があり、副葬品の一部も伝わります。
同書は、安閑陵古墳の北側で発見された城不動坂古墳は、石室が細長く、巨勢氏の本拠地にみられる石室形態と共通すものでしたという。
巨勢男人の陪塚かも。
④ 欽明天皇のひつぎ
河内大塚山古墳と五条野丸山古墳
『王者のひつぎ』は、河内大塚山古墳は狭山池の側3.5㎞にある全長335m、全国5位の規模を誇る巨大前方後円墳です。
巨大古墳でありながら『古事記』『日本書紀』などに被葬者を記す伝承がありません。大正末年に宮内庁は陵墓参考地として買い上げ、調査や立ち入りができません。
欽明32年(571)大和の大殿で崩御した欽明天皇が河内の古市で殯していることから、欽明天皇の初葬陵説が示されています。欽明天皇は、のちに五条野丸山古墳に改葬されたと考えます。
また、五条野丸山古墳の墳丘形態の検討もすすめられ、先に安閑陵説を示した河内大塚山古墳(全長335m)とほぼ相似形であることが確認されました。両古墳は欽明天皇時代に造営されていた可能性も指摘されています。
『日本書紀』は欽明天皇の崩御に際し、河内国古市(現在の羽曳野市古市付近)で殯したと記します。欽明天皇崩御の宮が大和の磯城(現在の桜井市)で、陵墓が檜隈(現在の明日香村)であるにもかかわらず、遺骸を仮埋葬するためだけに河内まで運んだ理由はわかっていません。
そもそも、欽明天皇の陵墓として河内に陵墓(河内大塚山古墳)を築いていたものの、蘇我氏の勢力拡大とともに、本拠地周辺に造りなおし(五条野丸山古墳)、堅塩媛とともに改葬したというのが、真相かもしれませんという。
河内大塚山古墳と五条野丸山古墳 『王者のひつぎ』より |
五条大塚山古墳のひつぎ 欽明天皇の陵墓
『王者のひつぎ』は、古墳時代の大王や諸豪族は古墳の形態と規模で格付けされ、「前方後円墳体制」などと呼ばれる政治形態で説明されることがあります。多くの考古学者は各時期ごとにもっとも大きな前方後円墳を大王墓と呼びます。
大和で最も巨大な前方後円墳は全長318mの五条野丸山古墳です。すでに円筒埴輪は樹立せず、わが国最大の横穴式石室に家形石棺をそなえることから6世紀後半の大王墓と考えられています。
近年、五条野丸山古墳の横穴式石室内部のくわしい測量図や写真が公開され、石室内に納められた2基の巨大な石棺の詳細が明らかになったのですという。
『王者のひつぎ』は、五条野丸山古墳には2基の竜山石製の家形石棺が確認されました。奥棺は縄掛け突起の形状から6世紀末以降のもので、前棺は6世紀後半、しかも奥棺よりひと回り大きく、竜山石製の家形石棺では最大規模です。やはり、6世紀後半の最高権力者たる欽明天皇の陵墓にふさわしいものだったのです。
その結果、もともと前棺に欽明天皇を納めて古墳を造営したものの、推古天皇時代に蘇我氏が堅塩媛を改葬した時、欽明の棺を手前に出して、堅塩媛の棺を奥に据えたという改葬の実態を説く意見もありますという。
石棺8と石棺9
ところで、河内大塚山古墳が完成し、石棺が納められたとすれば、重源が鎌倉時代に狭山池に運び出している可能性があります。狭山池石棺群には共通する特徴をもつ二つの石棺(棺8・石棺9)があります。重源が運び出す際に底部端面をはつった大型石棺で、同じ古墳から運び出したと推定します。ひとつ(石棺9)は五条野丸山古墳前棺(推定欽明天皇のひつぎ)につぐ全国第2位の規模をもつものです(竜山石製の比較)という。
中樋に積まれた石棺8・9 『王者のひつぎ』より |
二つの石棺が同じ石室に納められていたとすれば、五条野丸山古墳に匹敵する超巨大石室を想定する必要があるのです。
そのような石室をもつ古墳は、河内大塚山古墳をおいて他に想定できません。河内大塚山古墳は完成しており、巨大な横穴式石室に2基の竜山石製刳り抜き式石棺が納められていたと推定しますという。
五条野丸山古墳の奥石棺と前石棺 『王者のひつぎ』より |
⑤ 来目皇子のひつぎ?
石棺の蓋B 7世紀初頭-前半 全長223㎝ 幅144㎝ 全高64㎝ 竜山石
『王者のひつぎ』は、狭義の龍山付近で産出された石材による棺蓋です。蜂の巣状の風化痕跡が各所にあり、片面の長辺中央に円形の欠損があります。これは盗掘者が開棺するときに棒を差し込んだ痕跡でしょう。
6世紀末から7世紀初頭にかけて、長辺側と短辺側の突起が大きさ・形・位置が共通するようになり、7世紀前半には棺蓋斜面につくり出されます。石棺Bの形状です。7世紀中頃になると、縄掛け突起がない棺蓋になります。 棺蓋の平坦面指数は37で、7世紀初頭から前半頃の製作とされます。
掛け突起は大きさ・形・位置がめまぐるしく変化し続ける現象から、縄掛け突起にはそもそも縄を掛ける実用的価値はなく、装飾のひとつだったと考えられていますという。
えっ、繩掛突起は割竹形石棺の頃からただの装飾だったの?
同書は同時期の石棺と比較して、繩掛け突起は石棺Bがもっとも退化していますという。
狭山池放水部出土の棺蓋B 『王者のひつぎ』より |
棺蓋Bの出土状況
『王者のひつぎ』は、狭山池の大正・昭和の改修時にも、中樋の放水部(堤の北側)で多数の石棺が発見されています。石棺を転用石材として売却しようとした人夫たちは、運びやすくするために破砕を試みました。
石棺破壊の危機を知った末永雅雄氏は私費で買い取り、池堤脇に移設しました。これらはその後、大坂狭山市指定文化財となり、市立郷土資料館前庭に展示されていましたが、資料館の移転とともに、狭山池博物館の前庭に移されました。
末永氏の努力により散在・破壊を受けず保管されてきた石棺です。ところが、末永氏による土状況図の石棺数は、現存する個体数より少なく、散逸してしまった石棺もあるのですという。
狭山池放水部出土の石棺 『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺』より |
同書は、同様に蜂の巣状の風化痕跡があり、長辺中央に円形の欠損を伴う棺身が石棺3で、両者が組み合うことは確実です。石棺3の内面にはわずかに朱が残りますという。
石棺の蓋と身を一緒に運んだようだが、運び出す前に内部を確認したのだろうか。それとも、狭山池近くに運んで、加工する段階で蓋を初めて開けたのだろうか。そうだとすると、被葬者や副葬品なども残っている可能性がある。重源さんなら被葬者を供養して新たに埋葬し、めぼしい副葬品は売却して費用に充てたのかも。
植山古墳東石棺 阿蘇ピンク石 竹田皇子 600年頃没
『王者のひつぎ』は、推古天皇皇子の竹田皇子墓とされる橿原市植山古墳東石室にも石棺があります。阿蘇石製の刳り抜き式家形石棺ですが、二上山白石の工人が仕上げたと思われる整った形状です。
竹田皇子の没年はよくわかりませんが、物部守屋討伐後の600年頃と推定されますという。
家形石棺の初期で途絶えていた阿蘇ピンク石が、終末期の家形石棺に再び採用されている。再び九州の権力者とのつながりができたのだろうか。
赤坂天王山古墳石棺 二上山白石 崇峻天皇 592年没
同書は、592年に蘇我馬子の手の者によって暗殺された崇峻天皇の陵墓と推定されている赤坂天王山古墳にも二上山白石製の家形石棺が納められていますという。
狭山池出土の石棺蓋B・身3 竜山石 来目皇子? 603年没
600年前後の天皇・皇子の石棺 『王者のひつぎ』より |
来目皇子について『王者のひつぎ』は、7世紀初頭、狭山池周辺に造墓した皇族に来目皇子がいます。聖徳太子の弟で、602年に新羅征討大将軍に任命され、兵を率いて筑紫の港まで到着したのですが、病にかかり、翌年没します。
来目皇子が後に葬られたという「河内埴生山岡上」の墓とは、現在の羽曳野市塚穴古墳とされ、宮内庁が管理する1辺約50m、高さ10mの大型方墳です。羽曳野丘陵の北端にあたり、近くに「埴生」の地名が残ります。墳丘は宮内庁が治定した明治31年(1898)に修復があったといいます。近年、宮内庁書陵部や羽曳野市教育委員会が墳丘とその周辺を発掘調査し、大規模な外堤が発見され、墳形も明瞭となりました。
周辺に7世紀初頭の大型古墳は知られず、新羅征討将軍だった来目皇子の陵墓はこの古墳をおいて他には見当たりませんという。
埴生塚穴古墳
同書は、塚穴古墳は江戸時代には横穴式石室が開口しており、一部の石材は割り取られていたといい ます。石室の状況は金剛輪寺住職覚峰による略測図や記録が残されています。
それによると、切石積みの大型横穴式石室が復元でき、岩屋山型石室と考えられます。 記事には石室にたまった水の深さは2尺(約0.6m)余りで、底には小石がたくさんあったとあります。さらに「底に砕たる石多し。むかし、石棺を発き砕たるならん。今は石棺なし。」とあります。真偽は確かめられませんが、塚穴古墳に横穴式石室が残されているものの、 石棺は運び去られていることがわかるのです。
7世紀代と思われる方形墳の塚穴古墳から石棺が持ち出されていること、この古墳が狭山池にもっとも近い古墳時代後期の大型古墳であることを考慮すれば、狭山池石棺群のなかに塚穴古墳の石棺が含まれる蓋然性は極めて高くなります。
その被葬者が7世紀初頭に没した来目皇子とすれば、大王級の刳り抜き式の大型家形石棺が推定されます。そうすると、先に示した石棺B(棺蓋)・石棺3(棺身)が第一候補となるのですという。
これから調査が進んで、狭山池に運ばれた石棺の主や持ち出された古墳などが少しずつ明らかになっていくことを期待しています。
また、来目皇子について同書は、筑紫で薨去した皇子は、周防の娑婆まで運ばれて殯したというのです。
ちょうど、山口県の佐波川流域に7世紀初頭の前方後円墳、防府市大日古墳があります。大日古墳の横穴式石室には竜山石製の刳り抜き式家形石棺が納められています。竜山石製石棺の分布域のなかで300㎞も離れた最西端にあたります。
古墳の被葬者が、どの石切り場の石棺を調達できたのかは、政治事情が大きく関わり、財力だけで決められなかったという説に従えば、周防に竜山石の刳り抜き式石棺が運び込まれる事例は、極めて特異です。
結論的に、この古墳石棺は来目皇子の仮埋葬のひつぎと推定します。筑紫で亡くなった来目皇子のため、天皇の命で竜山石製の刳り抜き式家形石棺が周防の佐波郡まで船で運ばれたのです。
ちょうどこの頃、遣隋使が派遣され、返使が同じ航路で筑紫・周防を通って大和入りしたと『隋書』倭国伝は記します。さらに倭国伝は、当時の葬式の状況や、貴人の3年のモガリ期間などを伝えます。遺体は石棺ごと運ぶのではなく、船におかれ、陸地を小さなくるまに乗せてひく様子も描かれます。
倭国伝のこの記事は来目皇子の葬送を見聞したものではないでしょうかという。
当時の葬送、あるいは改葬の慣習が、『隋書』倭国伝に残っていたとは。
関連項目
参考サイト
「王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺 展図録」 2018年 大阪府立狭山池博物館