『播磨国風土記を歩く』の「印南(いなみ)の郡」は、夫の仲哀天皇と一緒に熊襲を征伐するために勇ましく筑紫へ向かって難波津を船出する。ところが内海にあるうちに早々とシケに遭って二人は苦しみ、船を印南の浦に泊める。
すると風波はおさまって海は凪いで静かになったので、そこから入浪の郡といった。印南の郡と呼ばれるはじまりである。
九州に着くと筑紫の橿日宮で仲哀が急死してしまう。すると妻の神功皇后は側近とはかって子を宿したまま海を渡って三韓を征伐したと伝えられる。どこまで史実かわからないが、播磨国風土記によると女帝の神功は勝って帰って来る時も印南の浦に立ち寄っている。
神功皇后はここに夫の墓を建てようと思い立ち、石作連大来を連れてわざわざ讃岐国まで渡って羽若の地で石を求めて帰ってくる。さらに神功皇后は住まいも印南の浦に求めようとしたらしい。
神功皇后の消息はそこでぷっつりと途切れ、あとは石の話となるという。
何故地元の竜山石を使わずに、讃岐にまで足を運んで石を求めたのだろうと疑問に思っていたところ、『石棺から古墳時代を考える 型と材質が表す勢力分布』(1998)を読んで納得😊
神功皇后と石作連大来が讃岐の羽若から持ち帰ったのは鷲の山石だった。
『石棺から古墳時代を考える』は、石作連大来をひきいて求めた石というのは、石棺製作用とみられている。 讃伎は讃岐、現在の香川県、羽若の遺跡地は綾歌郡の羽床だという。その付近は坂出市街地の東へ流れ出す綾川流域の盆地地帯をなし、今も羽床盆地と呼ばれることのある一帯である。鷲の山石は、加工石材として利用される凝灰岩の中ではかなり硬質な部類に入り、石棺製作には高度な技術と労力を要したと思われるという。
鷲の山石が石棺に使われていた頃、竜山石はまだ石棺、或いは石材として採石されていなかったのだ。
香川県綾歌郡国分寺町鷲の山石の石切丁場 『石棺から古墳時代を考える』より |
割竹形石棺の蓋と身 4世紀末-5世紀前半 鷲の山石 高松市峯山町石清尾山石船
『石棺から古墳時代を考える』は、『播磨国風土記』には、「讃岐の羽若に石を求めた」という羽床盆地の一角、綾歌郡国分寺山内町の鷲の山には、最近まで石切丁場があった。淡い黄褐色ないし青灰褐色の凝灰岩で、鷲の山石と呼ぶ。周辺地域には、この石材による舟形石棺系の刳り抜き石棺(割竹形石棺)が10基たらず知られていて、香川県内の主要な前・中期古墳の棺となっている。
鷲の山石の場合は、割竹・舟形系石棺の古い段階のみで製作が終わっているとみられるから、本格的に長持形石棺が行われる時期には、もはや、ほとんど石棺材としては利用されなくなってくるのであるという。
割竹形石棺は古墳時代でも古い頃の石棺の形である。
高松市峯山町石清尾山石船塚の石棺 鷲の山石 『石棺から古墳時代を考える』より |
同書は、鷲周辺地域には、この石材による舟形石棺系の刳り抜き石棺(割竹形石棺)が10基たらず知られていて、香川県内の主要な前・中期古墳の棺となっている。
この鷲の山石による石棺が製作されたのは、4世紀末ないし5世紀の前半頃とみられる。風土記を著述した8世紀は、それから300年も後のことになる。しかも、瀬戸内海を北東に越えた播磨の地で風土記に伝承をとどめているというのも不思議な感じを受けるだろう。しかし、実際の石棺材の産出地と風土記に書かれた地名の遺称地の符合は、何か意味を持っているように思われてならないという。
古来よりの伝承は、なにがしかの史実を伝えていると言われている。
そしてまた、その石材による石棺製作にたずさわっていた工人たちは、鷲の山石での石棺づくりが終わると、どのようになったのであろうか。畿内を中心にした長持形石棺製作が盛んに行われた竜山石も、凝灰岩としては硬質であり、鷲の山石の場合とほぼ同様な技術を必要とする石材である。その点でいえば、鷲の山石の工人たちが、新しく長持形石棺をつくり始める竜山石の採石と加工にあたったとしても、技術面からは十分可能なことと思われる。
竜山石の石棺づくり工人たちの間で、古い時期には讃岐の石工(鷲の山石工人)とのかかわりがあったとする伝承が残っていて、それを風土記の叙述にあたって、神功皇后伝説とつな げ、先のような話が成立したというような事情もあり得るのではないかと思うのであるという。
鷲の山石羽若から石工がやってきて、竜山石を石棺に加工することが始まったとしても不思議ではない。
これらのできごとを『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺展図録』(2018)は、近畿にもたらされた古墳時代前期の石棺は、主に讃岐の鷲の山石が使われました。ところが、中期になると播磨の竜山石製の石棺にとってかわります。
「播磨国風土記」は神功皇后が、夫の仲哀天皇の遺骸を奉じて、讃岐の羽若の石(鷲の山石)を求め、その後、播磨にわたって、引き連れてきた石作連大来が殯宮の場所を発見、これが美保山(竜山石)の名の起源である、という内容を記しますという。
美保山は、現在では伊保山と呼ばれている。
『王者のひつぎ』は、狭山池石棺群の大半は兵庫県高砂市・加西市などの加古川流域で産出する、いわゆる竜山石製です。竜山石製の石棺は現在、長持形石棺が39基、舟形石棺が2基、家形石棺が519基知られ、全 国で1500基以上発見されている石棺の約3分の1をしめますとしている。
石の宝殿を見に行って竜山石が石棺に使われていることを知ったので、竜山石がこんなにも石棺に使われているのに驚いた。特に家形石棺が多い。
『王者のひつぎ』は、おおよそ、古墳時代中期前半(4世紀末-5世紀前半)の大王墓は13基、中期後半(5世紀中頃-5世紀末)の大王墓は12基あり、大半は河内・大和に造営されました。これらの大王墓の多くは埋葬施設に竜山石製の長持形石棺を納めたと考えられています。
竜山石製長持形石棺や石室天井石は、大和盆地西南部、葛城と呼ばれる地域の室宮山古墳と屋敷山古墳にも運び込まれています。
『古事記』『日本書紀』は5世紀の葛城氏が王権と深く結び付き、半島にも派兵、勢いを持っていたことを伝承しています。
葛城氏と呼ばれた集団は、播磨の石工集団をも掌握し、石棺の生産と大和川を遡上する輸送にも深く関与していたと推測するのです。
ちなみに、石棺がみつかった室宮山古墳は葛城龍津彦墓、屋敷山古墳は玉田宿禰墓、石棺伝承がある掖上カンス塚古墳は円大臣墓とする説がありますという。
竜山石が長持形石棺などに使われていたのは、葛城氏が権力を掌握していた時代のことだった。
『倭の五王』は、雄略紀4年2月条によると、天皇が葛城山で射猟をしたとき、奥深い谷の向こう側に長人が出現し、面貌容姿は天皇に相似していた。天皇はすぐに神だと気づいたが、まず相手に名をたずねたところ、私は神であるから、天皇が先に名乗るようにと告げられた。天皇が「幼武尊です」と答えたところ、長人は一言主神だと名乗ったという。二人は一緒に射猟を行い、一頭の鹿を追いかけて、たがいに矢を発するのを譲りあい、轡をならべて馬を馳せ、天皇は言詞蒸しやかであった。日が暮れて別れるとき、一言主神は天皇を見送り、来目川までいたったとあり、この神との交わりが「有徳天皇」と称される所以である。
この話は葛城山の神が天皇に恭順したことになっており、それは上述の倭王権最有力の中央豪族葛城氏の屈服を反映するものと考えられる。ただし、『古 事記』では天皇が葛城山にのぼったとき、天皇一行と同じ装束の一団があらわれたので、誰何したところ、一言主神であることがわかり、天皇のほうが辞を低くして、官人たちの衣服を脱がせて、神に献上したと記されている。天皇が帰還するとき、神は長谷の山口まで見送ってくれたというが、葛城山中では天皇といえども葛城の神に屈服せねばならなかったこと、葛城氏の勢威がなお強力であったことを示すものとみることができる。
葛城の神に関する話は『続日本紀』天平宝字8(764)年11月庚子条にも記されている。そこでは高鴨神が老夫に姿を変え、天皇と獲物を争ったので、天皇は怒り、神を土佐国に流したとあって、天皇と葛城の勢力の対立を示唆しているように思われる。また雄略紀5年2月条には、天皇が葛城山で狩猟を行ったとき、暴れ猪があらわれ、舎人はおびえて木のうえにのぼって逃げたのに対して、天皇は猪を矢で射て、脚をあげて踏み殺したと記されている。『古事記』では、この話は天皇が葛城山の神の化身である猪を恐れて、木にのぼって 逃げたという内容になっており、一言主神への対応と同様に、『日本書紀』と 『古事記』は対照的な叙述を採択しているのである。
以上の葛城の地をめぐる伝承は、允恭朝から雄略朝にかけて進められてきた葛城氏の制圧が一朝一夕には完成しなかったことを反映するものといえよう。葛城の地における葛城氏の勢威は完全に駆逐された訳ではなく、葛城地域では 天皇といえどもなお葛城氏の権威に一定の配慮が必要であったことを教えてくれる。ただし、かつての葛城襲津彦が有していたような勢威が復活することは なく、その意味では最大の中央有力豪族葛城氏は雄略=倭王武の時代には昔日の勢いを失ってしまうのであるという。
中央の有力豪族葛城氏が勢いを失って、竜山石で石棺を造るのが途絶えたのだった。
宝殿山頂上から見た西側の伊保山
『王者のひつぎ』は、かつて、竜山石は陸上に噴出した火砕流の堆積物が硬化したもので、熔結凝灰岩とされてきました。ところが、岩層に熔結構造がなく、流紋岩の細片が流水で二次堆積して硬化、隆起したものとわかってきました。岩層の結晶構造が変質、脱ガラス化する中で均質化し、丈夫で加工に適した石材になったといいます。
現在の採石は採掘が進み、岩層が10m以上掘り下げられているところもあります。緑灰 色・青灰色の色調です。対して、表層に近い部分は黄灰色・褐色です。古墳時代の石切り場は概して表層に近く、石棺は黄色系です。
竜山石の石切り場は石宝殿がある伊保山地区と、 南東の龍山地区、加古川中流域の加古川市池地区、上流域の加西市高室地区・長地区に分けられますという。
現在も採石が行われる竜山
『王者のひつぎ』は、 『釈日本紀』には『播磨国風土記』 の欠損した赤石(明石)郡の逸文があります。仁徳天皇時代楠の大木を切って、飛ぶ鳥のように速く進む船をつくり、天皇の食事用の水を住吉の蔵(高津宮?)に運んだというものです。『古事記』仁徳天皇段にも枯野という船名で登場します。
このような伝承が残る手掛かりとして、加古川流域が有数の木材供給地だったとされます。『住吉大社神代記』によると住吉大社は加古川中流域に「椅鹿山領」と呼ばれる広大な杣山をもっていたといいます。柚山の木で神功皇后時代に半島出兵の軍船を造った伝承もあります。
加古川中流域は海から離れているにもかかわらず、住吉神社や住吉神を祭る社が多く残されます。杣山と関係するのでしょうという。
『王者のひつぎ』は、竜山石の石棺がどのようにして輸送されたのか、今となっては知るすべがありません。 しかし、石切り場が神功皇后時代に拓かれたという伝承、神功皇后をも祭る住吉大社と加古川中流域が深いかかわりをもっていたという伝承、その地の木材で船を造っていたという伝承などを評価すれば、住吉の人々が石棺の輸送にも関わっていたかもしれません。
加古川を下って瀬戸内海に出た石棺輸送船は、茅淳海(ちぬのうみ)を伝って、住吉津で石棺を上陸させたと推定します。さらに想像すれば、これらの石棺は住吉で保管され、有力者の葬送に際し、王権から下賜されるものだったのではないでしょうかという。
現在でも採石が続く竜山。そばを法華山谷川が流れているので、石材の運搬は楽だっただろうと考えるのは現代人だからだろうか。
『王者のひつぎ』は、ヤマト王権の代弁ともされてきた竜山石製の長持形石棺の分布をよくみると、大王家と葛城系の地域に重出する傾向があり、『古事記』『日本書紀』などによる葛城氏の力が弱まる時期に連動し、長持形石棺も消滅するという見方があります。そして、允恭陵古墳の陪塚に阿蘇石製の初源的な家形石棺が登場する現象に注目、『日本書紀』にある允恭天皇即位に反対する動きに通じる現象ととらえるのです。 大王家と葛城氏にかかわる長持形石棺を允恭天皇の周辺では意図的に避けたと推測するのですという。
竜山石の長持形石棺 壇場山古墳
説明パネルは、後円部墳頂には繩掛け突起を有する竜山石製長持形石棺の蓋の一部が露出している。また、墳丘上では円筒埴輪をはじめ、家形・盾形・短甲形などの形象埴輪も採集されているという。
緑色に見えるのは苔なので、実際の石材の色は分からなかった。
木を刳り抜いた名残のある細長い石棺と思ったが、もっと幅広いものだったのが、下図から分かった。
半環状突起のある舟形石棺 阿蘇凝灰岩 兵庫県たつの市御津町朝臣(現在)雛山出土 全長約3m
『石棺から古墳時代を考える』は、播磨の石棺行脚の中でも、揖保郡御津町出土の舟形石棺のみは、播磨東部の石材でなく、香川県観音寺室本丸山古墳と同様に、岡山の造山古墳前方部上の石棺や小山古墳の石棺と同じ溶結凝灰岩であった。優秀な石材産地があり、その石材で多くの石棺を残している播磨でもまた、讃岐と同様に別種の石材で製作した石棺がみられるのである。それは播磨竜山石の石棺が長持形石棺と家形石棺に数多く用いられているのに対し、御津町出土の石棺は形態を異にし、播磨では他に例のない舟形石棺であることと関係しているのであるという。
この舟形石棺は、竜山石が石棺に使われなかった空白の時期のものということになるのだろう。それが阿蘇凝灰岩でできている。
たつの市御津町中島の舟形石棺 阿蘇凝灰岩 『石棺から古墳時代を考える』より |
『石棺から古墳時代を考える』は、畿内的家形石棺が盛行した後半期になると、畿内地域に、播磨竜山石の家形石棺もかなりの数使用される。これも刳り抜きと組合せがある。一つの横穴式石室に二上山凝灰岩と播磨竜山石の家形石棺が納められる例も知られるという。
竜山石は、古墳中期5世紀に長持形石棺として使用された後、しばらく間をおいた6世紀末から7世紀の古墳後期後半ないし古墳終末期にも、家形石棺として播磨地方はもとより、畿内中枢部を含む広い地域の有力古墳で用いられた石材である。風土記編集に近い時期まで石棺材を産出する土地であり、またその石材を加工する工人たちもいたわけであるから、この地に石棺石材とかかわる伝承が残っていたとしても不思議ではないという。
家形石棺 古墳時代後期(5世紀末-7世紀)
『石棺から古墳時代を考える』は、古墳中期に畿内中心部の王者の棺でもある長持形石棺を製作した竜山石が、古墳後期の刳り抜き家形石棺の石材として再登場する。しかも産出地の播磨で用いられるのみならず、畿内と近江、それに山陽道の西部にまで分布を広げるのである。特に畿内中枢の主要な古墳で発見される事例が多い点で注目される。
竜山石で刳り抜き石棺の製作が本格化するのは、二上山白石の刳り抜き家形石棺が、縄掛突起を長辺に各2個、短辺に各1個の計6個つくりつけるようになる段階のものと類似した形状を示す事例からである。その形態の棺は、石材産地の地元である播磨南部地方の古墳でも使用されたが、本来納められていた古墳からは離れてしまったものがほとんどで、地元では古墳との関係をそれほど明確にできない。それに対し大和では、古墳後期ないし終末期とされる有名古墳の横穴石室内に見いだすことができるという。
竜山石は石棺に用いられなくなった時期があったが、古墳時代後期、再び畿内の有力首長の陵墓に採用されるようになったのだった。
『王者のひつぎ』は、『日本書紀』によると、継体天皇は大伴氏・物部氏の推挙と、河内馬飼いの説得で葛葉宮に即位したものの、20年にわたって大和入りしませんでした。継体天皇を推挙した大伴氏と物部氏が大和川や淀川の交通を管理して、大和の反対勢力を阻害し続けたと考えます。つまり、堀江は完成し、淀川も大和川も穏やかになったものの、継体天皇に味方しないと通行や物流を確保できないという状況を推測するのです。
難波堀江や大和川・淀川の通行阻害は、河内・大和への物流を滞らせ、長期に及んで継体天皇への恭順を余儀なくさせていきました。その間、大和には大型古墳がつくられなくなり、陶邑の須恵器や泉州の製塩土器なども一時期生産が減るのです。石棺の輸送も減り、長持形石棺や舟形石棺はつくられなくなります。
継体・欽明朝の頃、九州に定着した横穴式石室が近畿でも普及、家形石棺の発展に関連するようですという。
竜山石製家形石棺の移動 6-8世紀 『王者のひつぎ』より |
家形石棺蓋石(天磐舟) 5世紀末-6世紀初頭 竜山石採石場付近
説明パネルは、生石神社の社記に「この山頂に石あり、土中に入る。その形舟の如し、故に磐舟と名づける。むかし大己貴神、少彦名神 乗り来たり給う」云々とあるのがこれであるという。
もとは伊保山の南面に背部を下向けにし、落下寸前の状態となったため、現在地に移設したもので、5世紀末から6世紀初頭ごろの家型石棺の蓋石である。播磨地方に多く遺存する石棺中でも、大きさにおいても屈指の遺品であるという。
持ち出す前にひびが入って、産出地に放置されていたのかも知れないが、力強い縄掛け突起が長辺に2つずつ、やや小さめの繩掛突起が短辺に1つずつあって、以下にあげる石棺よりも古い時代のものに思える。
『石棺から古墳時代を考える』は、御所市稲宿新宮山古墳で、石室奥に緑色片岩の箱式石棺がある手前に置かれている例、北葛城郡広陵町三吉牧野古墳の石室奥側の棺、御所市古瀬水泥南古墳の羨道部の棺、桜井市谷からと艸墓古墳という具合で、いずれも大和の有力古墳ばかりである。その形態は二上山白石による6個の突起をもつものと大変よく似ている。それらのうちで時期が新しいと思われるものは、蓋の上面の幅を広くつくり、縄掛突起の位置も下がってくる傾向をみせるのも二上山白石の場合と同じといえるという。
刳り抜き家形石棺 水泥南古墳羨道 奈良県御所市古瀬 古墳終末期
『石棺から古墳時代を考える』は、短辺の縄掛突起端面に古代寺院の瓦当文と同様な蓮華文を彫りつけていることから石棺の年代を飛鳥時代だと推定できるとして有名な水泥南古墳の棺や、新しい形態の傾向をよく示しているのである。
竜山石の刳り抜き家形石棺は、6個の突起の形状を含め、二上山白石の棺と同じような姿に製作することを意図していると推測でき、二上山白石による同形のものに影響されて確立したものと考えてよさそうである。しかし、二上山白石による石棺製作技術者が竜山石の切り出しや加工に直接たずさわったのではなく竜山石の産出地で長持形石棺製作が終わった後にも、かろうじて、少数の石棺でもつくり続けていた技術がいかされたと思うという。
『石棺から古墳時代を考える』は、竜山石の6個の縄掛突起をもつ刳り抜き家形石棺は、兵庫県(摂津)宝塚市中山寺境内の白鳥塚古墳、広島県 (安芸) 三原市沼溜箭古墳、さらに西へ離れた山口県 (周防) 防府市右田大日 古墳でも使用されている。いずれも、蓋上部の屋根棟平坦面が広く、この形態のものの中では新しい段階とみられるものである。石材産地の地元である加古川市平荘町稚児ヶ窟古墳の例なども同様な大型棺であり、石材を産出する播磨南部を含め、畿内と山陽道で最有力とみられる古墳後期後半ないし終末期の古墳の棺となっているという。
刳り抜き家形石棺 桜井市谷からと艸墓古墳
『石棺から古墳時代を考える』は、切石の石室内にあって、終末期古墳の一例として常に取り上げられるという。
2年前の暑い日に、安倍文殊院の境内で西古墳と東古墳を見た後で、からと艸墓古墳を探したが、見つけることができなかった。
かむながらのみち~天地悠久~の艸墓古墳(カラト古墳)に詳しい記事がありますが、私が行った後に作成されているようです😆
それについてはこちら
切石の横穴式石室に家形石棺が安置されていたのは、西古墳と同じ。ただし、西古墳には現在石棺はないが、もっと天井の高い、立派な石室だった。
いかす・ならの文殊院西古墳は、安倍文殊院の文殊院西古墳は、西暦645年に築造されました。 古墳内部の石材は築造当時のままで、 花崗岩を加工し側壁の石の数は左右対称に組み上げられ、天井の岩は一枚岩で約15m²もあります。 この古墳は当山を創建した安倍倉梯 麻呂公の墓と推定され、現在まで大切に保存されてきました。
安倍文殊院は奈良時代の「安倍仲麻呂」が出生した寺院として知られています。 安倍仲麻呂公は西暦698年(又は700年)に当山で出生され、現在でも史跡・安倍寺公園(元の安倍寺本堂跡)が古来より「仲麻呂屋敷」と伝承され誕生の地とされていますという。
西古墳が安倍倉梯麻呂の墓だとすると、この付近の古墳群は安倍一族の墓所?
同じように切石積の艸墓古墳も、安倍倉梯麻呂と同時期に亡くなった一族の誰かの墓所だったのかも😎
『石棺から古墳時代を考える』は、竜山石が二上山白石とともに刳り抜き家形石棺として畿内の主要古墳で使用されている時代は、古墳後期でも新しい時期のことであった。その棺は、畿内で中心的地位を確立した者が用いたのである。合わせて近江にもみられ、山陽道の吉備、安芸、周防へと分布を広げている。それは、畿内中枢勢力の棺であり、その勢力との結合を強めた地方勢力の棺であったことを示していると思われる。
石材の産地である播磨南部では、竜山石製刳り抜き家形石棺が多い。例えば、国宝姫路城の石垣に転用された事例だけでもかなりな数である。また播磨の風物詩の一つとなっている、中世に掘り出され再利用して石棺に仏像を彫った石棺仏の中にも、刳り抜き家形石棺は多い。その他にも、古墳からは遊離している事例がかなり知られている。それらも蓋が判明するものは、6個の縄掛突起をもつものと縄掛突起をもたないものであるが、縄掛突起をつけず棟の幅を広くつくったものが多い点が注目される。しかも、一般の家形石棺に比較すると、小型のものが目を引くのであるという。
確かに、竜山付近では、遺体を納めるには小さいのではと思うような大きさの石棺を複数見た。
この石宝殿近くの駐車場裏に放置されている石棺は、蓋に繩掛突起がなく、身も小さくて浅いのだった。
蓋には縄掛け突起は見当たらない。同書は、さらに小形のものは、1m以下のものまである。小型棺の中で、さらに大・中・小があるわけで、蓋に縄掛突起をつけない新しい形態のものばかりとみてよい。石材産地で、古墳時代最終末の時期に流行した棺形態なのである。
そのうちで特に小型のものは、火葬骨を納める容器であった可能性が考えられる。それを証明する発掘例は、まだないようである。
そのように8世紀まで下るものを含む新しい時期まで、竜山石の石棺が製作されていることは、畿内で石棺以外でも、仏像の台石( 石飛鳥寺大仏)、寺院の石材(山田寺礼拝石)、終末期古墳の石材(飛鳥中尾山石榔の側石)都城の礎石(平城京羅生門礎石と推定される郡山城に残る石材)などに竜山石が相次いで用いられていて、竜山石の切り出しと加工がその頃も盛んであったことと対応するのであろう。また、小型の刳り抜き石棺には大きさの変化があるが、全体でみると、摂津西部(兵庫県)、淡路島、備前、備後へも運ばれて使用されている例が知られ、普通の大きさ、あるいはやや大型の竜山石刳り抜き家形石棺が運ばれた地域の一部に分布をみせている。それがこの系列の石棺の最終段階の様相なのであるという。
長辺は1m以上はあったが、とても大人の遺体を納められる大きさではなかった。
家形石棺になってから、竜山石がこんなに採用され続けられたとは思ってもみなかった。
関連項目
参考サイト
参考文献
「播磨国風土記を歩く」 文・寺林峻 写真・中村真一郎 1998年 神戸新聞総合出版センター
「石棺から古墳時代を考える 型と材質が表す勢力分布」 間壁忠彦 1994年 同胞舎出版
「王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺」 2018年 大阪府立狭山池博物館
「日本史リブレット002 倭の五王」 森公章 2010年 山川出版社