この展示については後日
その先に埴輪が並んでいるが、それらも今城塚古墳の遺物ではなかった。
薄暗いところに当時の土木工事用の道具が立てて展示されていて、ここが結界のようになっていて、その先が今城塚古墳に関する展示になっていた。
実物大の人たちが、後円部に石を葺いている。手前の部分は、石組の排水溝を再現している。
まずはジオラマ、しかも等身大
周辺の山の上には古墳が築かれ、また、近くにも前方後円墳がある。そんなところに今城塚古墳(継体天皇陵)が築かれようとしていた。『常設展示図録』は、今城塚の墳丘には盛土を堅固にするための工夫のあとがみえます。後円部には、川原石を積み上げた石積(墳丘内石積)が埋め込まれ、その下部からテラスに向けて石組の排水溝がつながっています。これらは、墳丘にしみこんだ雨水をいち早く外に排出するためにつくられたものですという。
説明パネルは、葺石により、墳丘の盛土が崩れにくくなり、外観も立派にみえましたという。
前に出っ張っている箇所は排水溝のよう。
今城塚古代歴史館説明パネルより |
今城塚古代歴史館説明パネルより |
下の方に大きめの石、上の方に小さめの石を積んでいるのかな。
後円部表面の石積みと墳丘内の石積み
今城塚古墳の歴史(『常設展示図録』より)
❶ 継体25年(531) 継体2月死去、12月埋葬 『日本書紀』
❷ 弘安11年・正応元年(1288) 『公衡公記』に「島上陵の墓荒らしの犯人逮捕」と記載
下図では墳頂及び石室などが破線で表されているので、3基の石棺は露出していたか、それ以降砦となった頃には壊されていた可能性も
❸ 文禄5年(1596) 伏見地震発生。墳丘が崩落し、内濠の大半が埋没
もし石棺が無事だったとしても、この地震で壊れただろう
❹ 文禄5年-20世紀 村の共有地として利用
伏見地震で崩れた石室基盤工
今城塚古墳後円部 地震で崩れた石室基盤工 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より |
円筒埴輪と朝顔形埴輪
今城塚の円筒埴輪には、ヘラ描きされた「船絵」がしばしばみつかります。墳丘、とくに後円部では、ほとんどの円筒埴輪に船絵が描かれていたとみられます。
船絵は、円筒埴輪の最上段に大きく一つ。三日月形の船体に2本マストを立て、船体の右端から下へ、2本の碇綱がのびています。船首を右に向け、帆をおろして停泊する大形帆船を描いたとみられます。船絵のある円筒埴輪がずらりと並んだ様子は、あたかも多くの船が停泊する港の場景のようですという。
2本マストの船想像図
こんなに立派な船だったのか😮
次の展示室にはいよいよ石棺が登場。なんといっても今城塚古墳には3基の家形石棺が納められていたのだ👀
説明パネルは、後円部の発掘調査で、3種類の石棺材の破片が大小多数みつかり、本来は3基の家形石棺がおさめられていたことがわかりました。石材は、九州熊本の阿蘇ピンク石(馬門石)、兵庫の竜山石、大阪・奈良にまたがる二上山白石のいずれも凝灰岩です。
海路を850km以上も運ばれた阿蘇ピンク石をはじめ、大王墓の築造にいかに広範な資材と労働力を結集したかがうかがえますという。
竜山石の家形石棺レプリカ
竜山石の石棺破片
阿蘇馬門石(俗にピンク石と称される)の石棺
展示にはさまざまな工夫がされている。
内部がよく見えるように、1/3ほどを横にずらせてある。
今城塚古墳の1/100の模型
ぐるりと回って、石棺の別の面を見ていった。
二上山白石の石棺
最初は展示の仕方に驚いたが、この石棺の蓋は家形になっていないことに、やっと気が付いた。
『石棺から古墳時代を考える』は、縄掛突起を省略した河内の南河内郡太子町山田の二子塚(双方墳全長60m、1辺25m)の2棺などは、蓋の屋根形の上面も丸くつくって四注家形屋根の形状さえ失いかけており、これは、さらに新しい形態だと考えられている。同じ太子町山田では、松井塚古墳や仏陀寺古墳の場合も縄掛突起をもたず、羽曳野市蔵の内の徳楽山古墳などとともに横口をもった古墳終末期二上山白石による刳り抜き石棺ないし石榔とされる範疇に入れられている。この系列の最終段階のものは縄掛突起をつくらないのである。
こうして、二上山白石による刳り抜き家形石棺は、古墳後期のほぼ全体の時期にわたって、畿内で中心的位置を占める古墳と、その勢力とかかわりを深めたと考えられる近江の有力古墳で用いられる。この棺に葬られていることが、それぞれに畿内中央政権内で強力な地位を得ていたことの表現だといってよいという。
この石棺は組み合わせ式横口石槨のよう。他の2棺のように家形にせず、平たい蓋にしたことに、何か根拠となるものはあったのだろうか。
短辺側にも繩掛突起があるが、いかにも形だけ。
『王者のひつぎ』は、継体天皇の真の陵墓については、高槻市今城塚古墳が有力です。この古墳は高槻市教育委員会によって発掘調査され、史蹟整備されています。発掘の結果、主体部の横穴式石室は取り去られていましたが、3種類の石棺が納められていたことが判明しました。石棺は細かく砕かれた小片で、形態はよくわかっていません。ただし、竜山石・阿蘇石・二上山白石製の3種が判明しました。
3種類の異なる石材産出地を掌握し、石棺を運び込んだ大王はそれまでいませんでした。継体天皇は仁徳・履中王統から続く竜山石の石切り場と、はるか九州にある允恭王統の石切り場を掌握し、さらに二上山の石切り場を新たに開発してその石材も利用しはじめていたのです。
竜山石や二上山の石切り場を掌握できたのは、葛城氏の配下にあって台頭しはじめた蘇我氏との連携を示すという説があります。
ところが、畿内の有力豪族との連携とは対照的に、それまで連携関係にあった九州の豪族との関係は揺らぎつつありました。6世紀前半のある段階になって突然、阿蘇石製石棺の搬入がなくなります。それと入れ替わるように、二上山白石製石棺が数多くつくられるようになるのです。
これは、継体天皇の晩年に北部九州でおこった磐井の乱による連携関係の決裂を意味するとされています。
継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳に阿蘇石製石棺が納められたのはいつでしょうか。
ひとつは、磐井の乱以前に亡くなった継体天皇の近親者のためのひつぎという考えです。この場合、今城塚古墳の造営と完成は磐井の乱以前としなければなりません。
もうひとつは、磐井の乱は速やかに平定され、阿蘇石の輸送には影響せず、阿蘇石石棺の衰退は、大伴金村の失脚など、別の理由とする説です。
もうひとつは、継体天皇は古墳造営に着手する以前、自らの石棺は生前に九州から運び込んでいたという説です。この場合、3種類の石棺のうち、継体天皇のひつぎは阿蘇石製だったとしなければなりませんという。
別々の産地から取り寄せた3つの石棺、それは近しい家族と共に埋葬されるためかと思ったこともあったが、この展示室を見ていて、自分一人のために、あるいは、大王として自分の力を見せるために方々から運ばせたのではと思うようになった。
『常設展示図録』は、後円部2段目の上部には、堅固な石組みが埋め込まれていました。この石組みは、地盤を安定させ、重い横穴式石室を支えるための工夫です。これほど大規模で、整然とした石室基盤工が見つかったのは日本で初めてのことですという。
盗掘や地震もあったが、副葬品もいくらかは出土している。
『常設展示図録』は、埋葬施設におさめられていた副葬品の数々は、残念ながら細かい破片となってしまいました。青、緑、黄、赤のガラス玉や金銅板などの装飾品のほか、鉄の刀や鏃、矢をいれる胡籙、甲冑の小札といった仏教・武具、さらに馬具が確認されていますという。
各種の須恵器
金属製品
鮮やかな色のものはガラスで、古墳出土のガラス玉の中では透明度が高いのでは。
関連項目
参考文献
「シリーズ古代史をひらく 前方後円墳 巨大古墳はなぜ造られたか」 吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編 2019年 岩波書店
「高槻市立今城塚古代歴史館 常設展示図録」 2012年 高槻市立今城塚古代歴史館
「王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺 展図録」 2018年 大阪府立狭山池博物館