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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/05/06

今城塚古墳は継体天皇陵


家形石棺が3基も納められていた今城塚古墳は、古墳に入ることもでき、また今城塚古代歴史館も付設されていることを知って高槻市に出掛けた。


まずは古代歴史館裏の古墳を見に行く。
墳丘盛土を雨水からまもる工夫 後円部テラスの施設 重い石室を支えた石組 地震で崩れた墳丘 築造当初の姿をのこす南西隅部 儀式の場(北造出) 儀式の場(南造出) 墳丘をとりまく水濠 内濠をかこむ堤 埴輪まつりのステージ(埴輪祭祀場) 聖域をあらわす垣根 内濠をかこむ堤 水をためない濠 地鎮のまつりと内堤の断面 大王の埴輪まつり(はにわバルコニー) 6世紀の大王墓今城塚古墳(古墳模型)
今城塚古墳図 高槻市今城塚古代歴史館のリーフレットより


案内にそって行くと、はにわバルコニーに行き着く。少し高いところから眺められる。
そこから眺めるが、350mもある総長は、一枚の写真の画面には収まらない(3枚をパノラマ合成)。左手が後円部分
同前方後円墳は二重の周濠に囲まれていて、2つの周濠の間の土手(内堤)に埴輪祭祀場がある。
高槻市立今城塚古代歴史館 常設展示図録』(以下『常設展示図録』)は、内堤の北側には65mにわたって張出が特設され、塀で区切られた4つの区画に、精巧な形象埴輪が200点以上も整然と配置されていました。
今城塚古墳最大の特徴である大規模な埴輪祭祀場は、復元埴輪でかつての壮大な姿のままに再現され、古代王権の儀礼を今に伝えていますという。

埴輪祭祀場について説明パネルは、東西9m、南北5mの範囲に円い小石を敷き詰めた石敷遺構です。淡路島の洲本市周辺の海岸から運び込まれた特別な石が使われています。今城塚がつくられた当時の地面の上に直接おかれていて、古墳づくりのはじめにおこなわれた土地を鎮めるまつりの跡と考えられますという。
今城塚古墳の説明パネルより

古墳づくりのまつり(今城塚古墳の説明パネルより)
『常設展示図録』は、古墳は亡き王を葬りまもる場所であり、清浄を保ち邪悪な霊などを寄せつけないように、古墳づくりのさまざまな場面でまつりや儀礼をおこなう場が設けられています。内堤では盛土の下から円い小石を敷きつめた石敷遺構がみつかりました。 古墳づくりのはじめにおこなわれた土地を鎮めるまつりの跡と考えられますという。
ことある毎に儀礼が欠かせなかったのだ。
今城塚古墳の説明パネルより


埴輪祭祀場を遠望してみると、内堤には二列に円筒埴輪がほぼ隙間なく巡り、家形や笠(きぬがさ)、人物、そして結界のように並んだものも。

1区
同展図録は、東端に位置し、南側に器台と蓋(きぬがさ)の列、片流れの家が、また北側には魚と鳥の絵のある祭殿風の家と鶏が配置されています。亡き大王が安置されている空間を暗示し、2区との間の塀には門がありましたという。
片流れの家はなかった。
太い円柱で支えられた二階建ての建物が祭殿風の家で、継体天皇を埋葬するまでの仮の家ということかな。

2区 
内堤寄りの南側には大刀の列と甲冑が並び、その北側には開放的な祭殿風の大きな家や鶏、巫女、さらに小形の家も配置されています。3区との間の塀には門が設けられていますという。
ここにも同じ形の祭殿風の家があり、それに向かって巫女が盃を捧げている。

3区 
南寄りに大刀の列と小形水鳥の列、盛装した男子など、また北側には日本最大の祭殿風の家や楽座の男子などが所狭しと配置されています。
中央には両手を高く掲げる巫女を先頭に、供物や祭具を捧げもつ巫女が2列に立ち、西寄りには矢を入れる靭や盾もあります。もっともにぎやかで祭祀場の中心的な空間です。
4区との間の塀に設けられた門には、扉も表現されていました。特異な獣脚埴輪もありましたという。
ここにも同じ形の祭殿風の家。

4区 
南側に白鳥の列や牛・馬の列、北側には武人や鷹飼人が並べられ、東側の塀の近くには、門をまもるかのように盾や力士が配置されていますという。
力士が守っていたのは門だった。

『前方後円墳』の「前方後円墳とは何か」で和田晴吾氏は、今城塚古墳の埴輪群を各種埴輪の構成から、全体を王宮と理解し、4区を 王宮前の広場、3区を王宮内の政治・儀式・饗宴などの場、女子のみの2区を王の 生活の場、人物がいない1区を王の寝所と厠と推察する。そして、そこに並べられた人物・動物埴輪は、それぞれの職掌に応じて王や王宮に仕える人物(武人、楽人、力士、鷹匠、給仕する女子など)と動物(馬、牛など)として作りだされたものと考える。それが人物・動物埴輪群の本質なのであろう。
当時におけるこのような形態の王宮の存否はともかく、この公的空間(3・4区)と私的空間(1・2区)の配置関係は後の律令期の王宮を思わせるものがある。中国の墳墓の画像石などに見られる建物の図像の影響があるのかもしれないという。


下に目を移すと、今城塚古墳の模型が。葺石に覆われて白く光っているのを表しているのかな。

はにわバルコニーからおりて模型へ。
『常設展示図録』は、今城塚は、奈佐原丘陵の南にひろがる富田台地の中央につくられた、6世紀前半の前方後円墳です。二重の濠にかこまれた長さ181mの墳丘は、前方部が2段、後円部は3段に築かれ、くびれ部の両側に造出をそなえていました。濠をふくめた全長は354mの規模を誇り、この時期につくられたものとしては日本最大の古墳です。
今城塚のように巨大な古墳は、「寿墓」といって、生前から形や大きさを決め、墓所を定めてつくりはじめたと考えられます。淀川右岸にひろがる三島の藍野が選ばれたのは、この地を重視した被葬者の深慮があったからでしょう。
実際の古墳づくりは、草木をはらい、地鎮のまつりをおこなって、現地に古墳の設計図をうつすことからはじまりました。土を掘る場所、積む場所が決まると、いよいよ大土木工事が動き出しますという。

実測図(『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺』の図版を左右反転)
前方後円墳は何故首長の埋葬される円部が後ろなのだろうと以前から不思議だった。それについて『前方後円墳』に明解な記述を見つけた。
同書は、学術用語としての「前方後円墳」は、江戸時代の儒家である蒲生君平が『山陵志』のなかで、垂仁から敏達天皇までの墳墓の形態を宮車に象る。而して前方後円となさしめ、壇をつくりて三成とし、かつ環らすに溝を以てす。
と記したことに由来する。周濠のある三壇(段)築成の前方後円墳の特徴について、古墳を横から見た形を「宮車」(天子らの乗る車)と捉え、方形部分を「前方」、円形部分を「後円」と名づけたのである。
ただし、古墳時代に車があったという証左は、まだ見つかっていないという。
何ともええ加減な見立てで付けられた名称が、今でも使われているとは😬
高槻市今城塚古墳 6世紀前半 『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺』より

外濠には水がなく、近隣の人々の和みの場であったり、通路となっていたりしている。こんなところが近くにあったらなあ🤗


古墳へは内堤のトンネルから

内堤の土層断面図
説明パネルは、内濠と外濠の間にある内堤は、上面幅約18m、1周の長さ約950mあります。西側での高さは約5m、東側は約2.5mで、ほぼ地形の傾斜に沿ってつくられています。現在地は、江戸時代に内堤を崩して水路を通していた場所です。発掘調査の結果、古墳築造時の地面がみつかり、この付近では約2mの盛土をして内堤を築いていたことがわかりました。盛土は、下の方に黒灰色系、上の方に黄灰色系の土を用い、縁から内側へ敷きならすようにほどこされていましたという。

調査時に剥ぎ取られた層が貼り付けてある壁面を見ながら内堤へ。


墳丘をとりまく内濠(芝生広場)
説明パネルは、幅25-28m、深さが約2m。
墳丘側と内堤側、ともに水際に護岸列石をめぐらせ、濠底はほぼ水平に仕上げられていました。
濠底には分厚く泥土が堆積し、円筒埴輪片や倒木にまじって、古墳づくりに用いた鋤や鍬、ざる、掛矢、杭などが出土していますという。
前方部の一部にだけ水を溜めているので、広々としたところを歩ける。


写真中央の木が1本だけあるのが北造出(儀式の場)。
ここから見ると分かりにくいが、境目の括れの向こう、前方部にある。
また、墳丘の裾に巡る石積みは、葺石で覆われていた。


後円部の1段目へ。奥に2段目への階段が見えている。

墳丘の1段目とはいえ今ではただの通路

2段目への階段脇でシャガが咲いていた。ずいぶん久しぶりに見る花だ。

子供の頃は裏の藪の中に咲く、やや気持ち悪い花と思っていたが、老いた今では水色や柿色などが見えて華やかに感じる。

2段目から埴輪祭祀場を眺める。

上の方から話し声が聞こえるのだが、はて、どこから上がっていくのだろうと、後円部の端へと歩いて行くと、

3段目、墳頂への階段があった。

ところが、墳頂にはそれと分かる何の目印もなく、パネルがあるだけだった。階段の途中から写せば墳頂の形が分かっただろうが、写し忘れていた。

墳丘盛土を雨水からまもる工夫 墳丘内石積と排水溝
説明パネルは、後円部2段目の盛土内から、中心部の盛土を取り巻くように川原石を積み上げた大規模な石組墳丘内石積と、そこからテラスへのびる石を組んだ排水溝がいくつもみつかりました。盛土に浸透した雨水をいち早く排出し、墳丘のゆるみや崩落を防ぐための施設ですという。

イラストのおかげで、当時の人々の力仕事に従事する様子がよく分かる。
排水溝を掘って底と側面に石を並べている人、その向かい側には石を運ぶ人がいて、少し大きな石で排水溝に蓋を被せている。


重い石室を支えた石組 石室基盤工
説明パネルは、北側の崖下には、大規模な川原石の石組・石室基盤工が埋まっています。文禄5(1596)年の伏見地震で割れて盛土ごと滑り落ちたものです。もとは後円部2段目の上面中央 (現在地付近)に埋め込まれた人工地盤ともいうべきもので、重い横穴式石室が沈下しないように築かれましたという。
横穴式石室の下にそんな装置があったとは。

重い石室を支えた石組
「橋」のような通路を造って石や土を運んだ。


反対側の内濠を見におりていく。

こちらも芝生広場になっているが人気のない、静かな空間だった。南造出(儀式の場)が見えたところで引き返す。

後円部2段目は巡らず、

墳頂へ戻る。



幅の広いところはなく、どこから前方部なのか分からない。幹が下の方で2本、3本に分かれる大きな木があちこちにあり、森の中を歩いているみたいだった。


ところどころに白っぽい土を固めたようなものが露出している。墳丘の表面には粘土質の土を被せたのだろうか。


地震で崩れた墳丘
説明パネルは、墳丘は後円部が3段、前方部が2段に築かれていました。この一画は文禄5(1596)年の伏見地震による地滑りをまぬがれ、本来の高さをほぼとどめていました。
発掘調査によって埴輪列が確認されています。テラスとは違って、底径35㎝ほどの小ぶりの円筒埴輪がまばらに立て並べられていましたという。

水濠と円筒埴輪列が見えてきた。


築造当初の姿をのこす南西隅部
説明パネルは、斜面の途中に設けられた通路状の平坦部をテラスとよびます。墳丘は伏見地震の地滑りによって大きく変形していますが、前方部の両隅は当初の形を残しています。この一画ではテラス外縁をめぐる円筒埴輪列が発掘され、コーナーには朝顔形が立っていたことがわかりましたという。

水濠の南西角

何やら小さな白いものが地面に散らばっている。

見上げると、雪が積もったようにびっしりと小花が咲いている。アセビのようだが、こんなに大きく育つ木とは思わなかった。


久しぶりにヤエムグラを見たと思ったが、輪生する葉は6枚。

やがて内堤の芝生広場に戻ってきた。入ってきた内堤のトンネルの脇に階段が設けてあった。


⑫内濠をかこむ堤と⑪北西角
説明パネルは、墳丘をとりまく内濠は、幅25-28m、深さが約2m。
墳丘側と内堤側、ともに水際に護岸列石をめぐらせ、濠底はほぼ水平に仕上げられていました。
濠底には分厚く泥土が堆積し、円筒埴輪片や倒木にまじって、古墳づくりに用いた鋤や鍬、ざる、掛矢、杭などが出土していますという。

後円部と角張った造出しを見ながら通路まで戻り、


脇の階段から埴輪祭祀場へ。

1区
蓋(きぬがさ)

大王が安置されたことを示す祭殿風の家には魚と鳥の絵が線刻されている。


2区
背の高い埴輪が林立する。これが大刀を表している。

大刀に続いて甲冑(武人ではない)、そして鶏の埴輪
祭殿風の家に向かって二人の巫女が盃を向けている。

3区
横を向いた小型水鳥、大刀の向こうの盛装した男子が祭殿風の家を向いて横に並ぶ。

その横には巫女たちが何かに向いている。


水鳥は背中に鞍をのせている。それは人を乗せるためのもの?
塀の手前には靫(矢入れ)や盾が並ぶ。

4区
力士が縦に並び、その向こうに武人たち。一人は鷹飼い。

馬具で飾られた馬の列の後方に牛。ここにも鞍をつけた水鳥が列を成す。


埴輪には空気抜きの大きな丸い穴があるが、その大きさは円筒埴輪のものとあまり変わらない。
『最初の巨大古墳』は、吉備地方の特殊器台から大和のメスリ山古墳の円筒埴輪へと変遷。器台の形態もさることながら、表面に描かれた弧帯文様が大きく変化し、畿内に入ると形式化してゆくという。
吉備の特殊器台から逆三角形の穴の大和のメスリ山古墳の円筒埴輪へと受け継がれた弧帯文様は、時代を経て今城塚古墳にずらりと並べられた円筒埴輪のような丸い穴だけのものとなってしまった。

最後になってしまったが、高槻市の今城塚古墳とほぼ同じ大きさの太田茶臼山古墳が隣の茨木市にある。
どちらが継体天皇陵かについて、『前方後円墳』は、ほぼまちがいなく指摘できるのは、継体天皇陵の場合である。継体陵は、『古事記』では「三島之藍陵」、『日本書紀』では「藍野陵」という。『延喜式』(967年施行)の諸陵式では「三島藍野陵〈磐余玉穂宮御宇継体天皇。在摂津国島上郡(略)」と記す。宮内庁は、大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体陵として指定している。この地域で最大の前方後円墳であり、墳丘長は226mを数える。
ところが、この太田茶臼山古墳から出土している埴輪や須恵器をみると、古墳の築造は5世紀半ばから後半の時期だという。『書紀』によれば、継体の没年は、531年(『古事記』では527年)であり、時期がまったくあわない。
この古墳から約1.5㎞東に、高槻市所在の今城塚古墳がある。この地域では太田茶臼山古墳につぐ規模の前方後円墳であり、墳丘長は186m。6世紀前半の築造という。真の継体陵はこちらの方であろうという。
つまり、太田茶臼山古墳は継体天皇の没年の100年ほど前に造られているので、その時代に築造された今城塚古墳が継体天皇陵ということになる。


               →今城塚古代歴史館 継体天皇陵に3つの石棺

関連項目

参考文献
「高槻市立今城塚古代歴史館 常設展示図録」 2012年 高槻市立今城塚古代歴史館 
「王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺 展図録」 2018年 大阪府立狭山池博物館
シリーズ古代史をひらく 前方後円墳 巨大古墳はなぜ造られたか」 吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編 2019年 岩波書店