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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/06/14

三島古墳群 太田茶臼山古墳


三島野古墳群の中でひときわ大きな太田茶臼山古墳と継体天皇陵とされる今城塚古墳、そして双方の埴輪をつくった新池遺跡
太田茶臼山古墳と今城塚古墳 『今城塚古代歴史館説明パネル』より


発掘調査によって今城塚古墳が継体天皇陵とされている。全長350m、墳丘長さ181m、前方部2段、後円部3段、二重周濠である。
三島古墳群のもう一つの巨大な前方後円墳・太田茶臼山古墳は、全長320m、墳丘長さ226mで、今城塚古墳よりも長い。以前は継体天皇陵とされ、宮内庁の指定も受けているが、出土した埴輪が世紀中葉のものであることが明らかとなり、継体天皇陵よりも1世紀ほど前の首長の墓だったことが判明した。
2つの巨大古墳と埴輪工房の位置
巨大古墳と埴輪工房 高槻市教育委員会文化財課発行のリーフレットより


太田茶臼山古墳 5世紀中葉 前方後円墳 
今城塚古代歴史館説明パネルは、5世紀の中頃、安威川東岸の富田台地に巨大な前方後円墳・太田茶臼山がつくられますという。
小さな丸いものはこの墳墓の陪塚
太田茶臼山古墳 航空写真 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より

過去に継体天皇陵とされたため、宮内庁によって域内に立ち入ることができない。
藍野病院のタイムズ駐車場に車を置いて大きな前方後円墳に近づいた。

建物などの制限があるため、こんな風にしか写せなかった。前方部の濠の向こう岸に遙拝所の鳥居が見える。


この四つ角を右折するのだが、この道は西国街道だったことが、説明パネルに記されていた。

パネルは、西国街道の名で親しまれているこの道は、京都の伏見から山崎(京都府乙訓郡)・郡山(本市)を経て西宮(兵庫県)に至る約50㎞の行程で、本市は、高田町から豊川4丁目までの約5.5㎞が通っています。
江戸時代には別名「山崎通」と呼ばれ、江戸時代には西国諸国大名の参勤交代の道として利用されました。
古代から山陽道に繋がる道として多くの人々が通った街道の周辺には太田廃寺跡や太田城跡などの遺跡がありますという。
山崎通分間延絵図(東京国立博物館蔵) 西国街道の説明パネルより

現在は住宅地になっているので、「継体天皇陵」にはどこから行くのだろうと心細く思っていたところ、運良く詳しい方と出会い、通路を教えてもらえたので、迷わず行き着くことができた(航空写真の通り斜めの道なので、道路側からはわかりにくい)。そして、小さいがタイムズ駐車場がここにもあった。

平面図
今城塚古代歴史館説明パネルは、太田茶臼山の出現は、これまで奈佐原丘陵に王墓を営んできた三島にとって、大きな画期になりますという
地上からはとてもうかがい知ることができないのが、前方部南東角が、南西角よりも短いこと。というよりも、造出を含めた前方部全体が東に捻れているみたい。
今城塚古墳が被害を受けた文禄5年(1596)の伏見地震の時に、太田茶臼山古墳も動いたのかな。
太田茶臼山古墳 平面図 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より

今城塚古代歴史館のパネルにはおもしろいものがあった。
パネルは、太田茶臼山古墳と同時期につくられた大王墓・誉田御廟山古墳は、墳丘を同じ大きさにして比べると各段の大きさなどの形が一致します。このような古墳を相似墳といい、設計図が共通していると考えられます。このことは太田茶臼山古墳に葬られた人物が、王権と密接につながっていたことを示していますという。
誉田御廟山古墳と太田茶臼山古墳が相似形であることを表す図 今城塚古代歴史館の説明パネルより

誉田御廟山古墳 5世紀前半 
墳丘長425m、長さ213m
『王権麾下の古墳とその被葬者 古市古墳群の小規模墳』展図録(以下『古市古墳群の小規模墳』)は、古市古墳群最大規模の前方後円墳である誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)は、墳丘の東側が低位段丘、西側が後背湿地で、間に誉田断層が位置します。前方部西側などの墳丘の乱れは、誉田断層を起源とする地震によるとの考えがあります。
墳丘の周囲には二重の濠と堤があり(墳丘側から、内濠・内堤・外濠・外堤)、それらを含めた全長は650mを超えます。 
墳丘および内堤内側と外側の法面には葺石が施され、墳丘平坦面や内堤、外堤には円筒埴輪列がめぐらされていましたという。
誉田御廟山古墳も5世紀前半に築造されたが、応神天皇陵とされているので発掘調査は行われず、埋葬施設は不明。伝承では竪穴式石室で長持形石棺という。


では、4世紀後半の津堂城山古墳の埋葬施設はどうだったのだろう。
『石棺から古墳時代を考える』は、津堂城山古墳は全長200mを超す前方後円墳で二重の周濠をもつ巨墳という。

底石1枚、長側石両側各1枚、短側石も両側の各1枚、蓋石1枚の計6枚の石材で構成された石棺には、長側石と底石の両端に各々一個の縄掛突起をつくり出し、蓋には、長辺、短辺とも各2個の縄掛突起がついている。両側の短辺になる板石を長辺の石材ではさむように底石の上で組み合わせ、かまぼこ形とでもいうような姿の蓋石をのせる。このような石棺を長持形石棺と呼ぶのであるが、津堂城山のものはその典型品であり、蓋の上面には格子状の浮彫文様まで加えた見事な加工がみられる。

この津堂城山の石棺は、全長3.5m近く、幅1.5mを超すという巨大なものであり、その頃の研究者にとっても強い関心を呼ぶものであったらしいという。

4世紀後半に既に大王墓に組合せ式長持形石棺が使われている。

津堂城山古墳の組合せ式長持形石棺(レプリカ) 『王者のひつぎ』より

その石槨
『前方後円墳』は津堂城山古墳ではなく、大山古墳(仁徳陵古墳)について言及している。
大山古墳の埋葬施設は、絵図・文書や同じ中期の他の例からみて、板石積みの竪穴式石槨に長持形石棺を納めたものだったと推測できるが、そうであるなら、重さ数トンもある石棺や石槨天井石には直線距離で約70㎞離れた兵庫県加古川下流右岸で採れる竜山石(溶結凝灰岩)が、数多い板石には100㎞余り離れた徳島県吉野川中流右岸で採れる片岩類が用いられた可能性が高く、ともに遠方より運ばれてきたことになる。資材の調達や労働力の徴発は広い範囲に及んだのであり、運搬自体が儀式の一部であった。

5世紀中葉の大王墓が板石積みの竪穴式石槨に長持形石棺が納められたのなら、太田茶臼山古墳もやはり、このような埋葬施設だっただろう。
津堂城山古墳 長持形石棺を納めた竪穴式石槨の模式図 『前方後円墳』より


太田茶臼山古墳周濠出土の形象埴輪
左:円筒埴輪 薄作り
右:鵜 どのように鵜と判断できたのだろう  
太田茶臼山古墳出土の形象埴輪 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より

左:甲冑 今城塚古墳にあった甲冑だけの埴輪がすでに5世紀中葉に出現している
右:馬
太田茶臼山古墳出土の形象埴輪 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より


土室(はむろ、新池)遺跡出土
甲冑 肩の防具が胸前の開き方が今城塚古墳出土の甲冑と異なる
家形埴輪 

円筒埴輪
人物


新池遺跡
『今城塚古代歴史館図録』は、太田茶臼山の築造を契機として、材料や燃料がたやすく調達でき、窯を築くのに適した斜面地のある、ここ新池に埴輪工場が開かれました。丘陵の南斜面から排水溝で囲まれた3基の埴輪窯、丘陵上で3棟の大形竪穴式工房、さらに少しはなれた東側から埴輪工人の住居跡がみつかっています。窯と工房が対になったチームが3組、太田茶臼山のために埴輪を焼いたのです。それぞれの出土品の分析から、大形円筒や朝顔形、形象、普通円筒と、チームごとに役割分担があったことがわかっています。
太田茶臼山ののちには、土保山や番山など周辺の古墳のために、そのつど窯を築いて断続的な埴輪生産がおこなわれましたという。
新池遺跡の埴輪窯群と工房 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より

『今城塚古代歴史館図録』は、巨大古墳には数千本の埴輪が必要です。そのため古墳の近くに工場がつくられ、短期間に大量の埴輪が焼かれました。新池遺跡では埴輪窯18基と埴輪工房3棟、工人集落がみつかり、5世紀中頃から6世紀中頃までの約100年間にわたって、太田茶臼山や今城塚など三島の古墳に埴輪を供給していたことがわかりましたという。
ハニワ工場公園 高槻市教育委員会文化財課発行のリーフレットより

太田茶臼山古墳用の埴輪生産
ハニワ工場公園 高槻市教育委員会文化財課発行のリーフレットより


『今城塚古代歴史館図録』は、新池の生産ピークは、今城塚のための埴輪づくりで
した。西側斜面の北方に展開する10基のうち、北端の18号窯を含む6基ほどが操業したとみられています。
この時期の工房が数棟、谷を挟んだ南側の丘陵でみつかっています。太田茶臼山のときとちがって、専用の大形工房ではなく、工人の住む住居そのもので、埴輪づくりがおこなわれていました。分業化が進展した様子がうかがえますという

今城塚古墳の埴輪を焼いた新池遺跡の最大級の18号窯の展示 C群 530年頃
ハニワ工場公園 リーフレットより


   三島古墳群 弁天山古墳群←   →今城塚古代歴史館 三島古墳群の最後は阿武山古墳

関連項目

参考サイト
土保山古墳発掘調査概報 陳顕明

参考文献
「高槻市立今城塚古代歴史館 常設展示図録」 2012年 高槻市立今城塚古代歴史館 
「王権麾下の古墳とその被葬者 古市古墳群の小規模墳」展図録 2020年 大阪府立ちかつ飛鳥博物館
「石棺から古墳時代を考える 型と材質が表す勢力分布」 真壁忠彦 1994年 同朋舎出版
「シリーズ古代史をひらく 前方後円墳 巨大古墳はなぜ造られたか」 吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編 2019年 岩波書店