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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/06/21

今城塚古代歴史館 三島古墳群の最後は阿武山古墳


三島古墳群は高槻市だけでなく、茨木市や島本町にまでひろがる広範囲の丘陵に散在している。5世紀中葉に太田茶臼山古墳(宮内庁が継体天皇陵としている)、6世紀前半に今城塚古墳(発掘調査で継体天皇陵と比定されている)という巨大な前方後円墳が築造された後はどうなったのだろう。

三島の後期・終末期古墳-群集墳の時代
三島の後期・終末期古墳 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より

三島群集墳からの出土品
金属製の馬具、大刀の環頭などと須恵器類


昼神車塚古墳 6世紀中頃 前方後円墳 全長56m
平面図
『今城塚古代歴史館図録』は、天神山丘陵の南端に位置する昼神車塚は、6世紀中頃につくられた全長56mの前方後円墳です。
昼神車塚を最後に、三島の王墓から前方後円墳は姿を消し、ほどなく大王墓も方墳や八角形墳に移行していきますという。
昼神車塚古墳平面図 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より

前方部のテラスには、犬や猪、角笛をもった狩人などの埴輪が並べられ、猪狩りの様子をあらわしていましたという。
今城塚古墳(6世紀前半)の埴輪群とは異なって、狩猟の場面を表している。
昼神車塚古墳形象埴輪の復元配置 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より

今城塚古代歴史館でも展示されていた。
犬、イノシシ、力士像
力士は首に何かをさげている。トンボ玉だったりして😀

前方部墳丘盛土断面
土を突き固めて、層にして積み重ねている。荒い版築とでも表現できるかな。
昼神車塚古墳平面図 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より


群集墳の時代へ
『今城塚古代歴史館図録』は、6世紀中頃から、横穴式石室をおさめた小形の古墳が密集する群集墳が各地に営まれるようになります。集落内の有力な家族が、新たに古墳づくりを許されるようになったと考えられています。三島では、梶原、安満山、塚脇、片ヶ谷、塚原、 安威、新屋などの群集墳が知られています。
7世紀に入ると、古墳はさらに小形化し、副葬品の種類や量も減少して、古墳時代は終わりを迎えますという。
三島塚原A62・63号墳の発掘調査 『今城塚古代歴史館 常設展示図録』より 


『今城塚古代歴史館 常設展示図録』は、継体以後、大王中心の政治は大王家が主導する国づくりへと向かいます。継体直系の曾孫である聖徳太子の政治や、中大兄皇子と中臣鎌足による大化の改新は、新しい政治の方針を示したものです。中国・唐にならって律令がつくられ、天皇を頂点とする中央集権的な律令国家が成立しました。
三島は鳴上郡と嶋下郡にわけられ、嶋上郡は古墳時代以来の伝統ある三島県主家が郡の長官・郡司をつとめ、山陽道に面して郡役所や郡寺を設けましたという。


阿武山古墳 7世紀中頃 径82mの墓域
阿武山は7世紀中頃につくられた円墳です。尾根先端部に溝をめぐらせ、直径82mの円形に区画した墓域の中央に地下式の墓室がありますという。
阿武山古墳外観 今城塚古代歴史館説明パネルより

阿武山古墳平面図
説明パネルは、尾根の先端に周溝をめぐらせ、直径82mの墓域としていますという。
何故飛鳥の地から遠く離れた三島の山に造られたのだろう。
阿武山古墳外観 今城塚古代歴史館説明パネルより

墓室の内側は漆喰を塗りこめ、塼で全体をおおっていましたという。
墓室内部 今城塚古代歴史館説明パネルより

出土した塼や土器

墓室におさめられた夾紵棺
説明パネルは、阿武山は、昭和9(1934)年4月、京都大学の地震観測施設の建設中にみつかりました。発見直後に撮影されたX線写真などを分析し、葬られた人物は事故で背骨と肋骨を骨折していたことが明らかになっています。
外表部の発掘調査では、墓室からのびる排水溝を検出し、当時供えられた土器も出土しています。
漆喰で仕上げられた墓室内には、麻布を漆で塗り固めた夾紵棺が安置されたという。
奈良時代の仏像、例えば阿修羅像などに用いられた脱活乾漆という技法で棺が作られた。それを見たいと思っていたが、探しても分からなかった。
見学していると、背後から「藤原鎌足に興味がありますか?」という声が。
はいと言うと、「昭和9年に発見されて調査が済むと、そのまま埋め戻されたので、見ることは出来ません」とのこと😆
墓室におさめられた夾紵棺 今城塚古代歴史館説明パネルより

出土時の夾紵棺と複製品

 
発掘時の夾紵棺と複製品 今城塚古代歴史館説明パネルより

漆で塗り固められた麻布
夾紵棺の漆で塗り固められた麻布 今城塚古代歴史館説明パネルより

葬られた人物は、60歳前後の男性とみられており、大化の改新で活躍し、大織冠の位を授けられた藤原(中臣)鎌足と考える説が有力ですという。
藤原鎌足の墓とされるものが何故飛鳥の地から遠く離れた三島の山に造られたのだろう。

高槻市阿武山古墳夾紵棺内部 7世紀中葉 『未盗掘古墳の世界』より

棺内からは遺骸とともに華やかな錦の断片や玉枕、金糸の刺繍がほどこされた冠帽の残片がみつかりましたという。

冠帽(複製品)
説明パネルは、棺に横たえられた遺体の頭部付近には、金糸や布の残片が残っていました。X線写真を解析すると、金糸で刺繍した頭市状の冠帽であることがわかりました。当時は、官位によって冠の色や形が定められており、この冠帽は当時の最高官位を示す、「大織冠」にあたるとみられていますという。
この大織冠は地文様に連珠円文があったり、連珠のある葉のような形のものがあったり、その間には唐花文様が大きく配置されたりと、華やか。金糸の刺繍はそれを損ねないようにあっさりと横縞にして格調が高い。これは複製品でも間近でみないと分からない🤗
しかし、今までみてきた連珠円文の織物にこのような組み合わせの文様はなかった。

玉枕
鎌足の愛用品だったのか、埋葬のためのものだったのか。


「日本書紀」によれば、鎌足は大化改新の前に三島の別邸にいたとされます。また死後は、三島の安威へ葬られ、のちに大和多武峰に改葬されたとする史料があり、三島にゆかりの深い人物といえます。
6世紀末に巨大な前方後円墳が姿を消した後、大化2(646)年には薄葬令が出され、豪華な副葬品や大きな墳丘をもつ古墳が規制されるようになります。この時期の古墳は終末期古墳とよばれ、石槨内に画が描かれたキトラ古墳や高松塚古墳が有名ですという。
鎌足が大化改新(近年は乙巳の変と呼ばれる)の前、鎌足が若い頃に三島で暮らしていたことが、この地に墓を造る動機となったということか。
天智天皇陵が山科にあるのも不思議だ。



関連項目


参考文献
「高槻市立今城塚古代歴史館 常設展示図録」 2012年 高槻市立今城塚古代歴史館 

「王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺 展図録」 2018年 大阪府立狭山池博物館