大阪府立弥生文化博物館の卑弥呼像 『玉からみた古墳時代』より |
卑弥呼の宝石箱 『玉からみた古墳時代』より |
『玉からみた古墳時代』は、最初の定形化した前方後円墳と考えられている奈良県箸墓古墳築造の時期に近い代表的な古墳をあげると、奈良県黒塚古墳・中山大塚古墳・京都府元稲荷古墳、滋賀県雪野山古墳、兵庫県西求女塚古墳などがあげられますという。
黒塚古墳では大量の銅鏡の他に刀剣類などが副葬されていたが、ガラス・玉類はなかった。
黒塚古墳の銅鏡・刀剣類の出土状況 天理市黒塚古墳展示館のパネルより |
こうしたことから出現期の定形化した前方後円墳の段階では、玉類は副葬品の構成要素ではなかったと考えられます。この背景は、弥生時代終末期に鉄器などの道具類の副葬が墳墓における副葬の中心的な位置を占めるようになることや、弥生時代後期の生産・流通構造の変化の中で、山陰での生産が 低調となり、さらに北陸からの供給量が増えていないため、西日本における玉の流通量が減少したという指摘がありますという。
『玉からみた古墳時代』は、定形化した前方後円墳において玉類や石製品の副葬が目立つようになるのは、次の段階の3世紀後葉頃のことです。奈良県桜井茶臼山古墳では、丁字頭のヒスイ製勾玉、碧玉製管玉やガラス玉など各種玉類、腕輪形石製品をはじめとする各種石製品が副葬されています。 当該時期は、石製品の副葬が顕在化する時期です。この時期以降、奈良県メスリ山古墳、大阪府紫金山古墳・弁天山C-1号墳、京都府平尾城山古墳など大型の前方後円墳では大型の丁字頭のヒスイ製勾玉が副葬される例が増加します。このなかでも注目されるのは、桜井茶臼山古墳などで見られる丸みが強く透明感の強い緑色部分が多い良質なヒスイ製勾玉です。弥生時代に北部九州で流通した定形勾玉をモデルとして、ヤマト王権が主導して製作した可能性が指摘されています。これらの玉類に加えて、桜井茶臼山古墳では玉杖といわれる鉄芯の通った石製品をはじめ、玉葉・弾と言われる弓の両端部の弦を引っ掛ける部分のような形を模したもの、さまざまな用途・形状の理解できないものを含 めて、多種多様な石製品が副葬されています。こうしたことから、定型化した前方後円墳への玉類の副葬は、石製品の導入と関連した事象と考えられます。玉類は、この段階に呪術的なイメージを持たれる古墳時代前期の「王者の装い」の構成要素となったのです。古墳時代前期の被葬者像については、鏡を始め石製品などの存在から、呪術的・宗教的色彩が強いとして、「神聖 「王権」的なイメージが語られてきましたという。
ヒスイ製勾玉、碧玉製管玉、ガラス玉は出土するものの、ごく少量である。
玉杖といわれる鉄芯の通った石製品をはじめ、玉葉・弭(ゆはず)と言われる弓の両端部の弦を引っ掛ける部分のような形を模したもの、さまざまな用途・形状の理解できないものを含めて、多種多様な石製品が副葬されています。こうしたことから、定型化した前方後円墳への玉類の副葬は、石製品の導入と関連した事象と考えられます。
玉類は、この段階に呪術的なイメージを持たれる古墳時代前期の「王者の装い」の構成要素となったのです。古墳時代前期の被葬者像については、鏡を始め石製品などの存在から、呪術的・宗教的色彩が強いとして、「神聖王権」的なイメージが語られてきましたという。
桜井市茶臼山古墳出土 石製品と玉 『玉からみた古墳時代』より |
メスリ山古墳出土管玉と玉杖 『玉からみた古墳時代』より |
メスリ山古墳出土様々な石製品と玉 『玉からみた古墳時代』より |
倭の五王の時代(5世紀)
玉は、この時代に大きな転換点を迎えます。4世紀中頃以降の変革とその後の歩みの中で、勾玉の材質だけでなく、丸玉や棗玉など各種の玉類の材質にも波及し、中期にはバリエーションが豊富になります。基本的な、勾玉・管玉・小玉のセット関係は踏襲されているようですが、これに加えて前期末から中期前半を中心に、特殊な形の玉類も見られます。奈良県島の山古墳の手飾りと考えられている湾曲した管玉や異形の丸玉、大阪府安威0号墳の両端の窄まった丸みを帯びた管玉など特殊な形状の玉が見られます。
材質面では、碧玉や瑪瑙、そして滑石などがさまざまな種類の玉に用いられます。このうち滑石は主に管玉・臼玉・棗玉・算盤玉などに加工されます。このなかで勾玉は、精製品とも言える通常の玉類と同様な形のものと、勾玉は扁平で形も滑らかではない粗製品が大量に出土します。管玉の場合、近畿中央部を中心にみられる軟質の細長い緑色凝灰岩製品と同様なサイズを指向する滑石製品について 「畿内系」との指摘があります。近畿や関東地方など滑石製模造品の多く見られる地域では、多量の滑石製玉類が埋葬施設及びその周辺に副葬されています。こうした製品のうち全てではありませんが、装身具としてではなく葬送儀礼で用いられ埋納されたものと考えられます。
装飾用とは別に、葬送儀礼用の玉類というものがつくられるようになった。
4世紀末-5世紀以降、ガラス製品の玉が増加します。色調も青色や緑色のものに加えて、黄色や黄緑色などのガラス小玉が多種多様になり、量的にも増加します。各種のガラス製品は、弥生時代後期にも広がった時期もありますが、その段階では一過性の事象でした。しかし、この段階の多様化はその後に続く潮流となります。
また、この時期には金属製の玉が見られるようになります。金属製の玉は、その他の金属製装身具類とともに導入されたものと考えられ、最先端モードとし「空玉」といわれる中空の金製や銀製の丸玉が副葬されています。ただし、この段階では、玉類セットの中にアクセント的に用いられる部分的なものでした。この金属製の玉が量的に増加するのは、6世紀中頃以降になりま す。5世紀代には、金属製玉類のみでセットを構成することはありません。 基本的には、ガラス製品などの装身具の一部を構成しています。
盾塚古墳主体部全景 5世紀前半 『玉からみた古墳時代』より |
盾塚古墳・鞍塚古墳出土勾玉 『玉からみた古墳時代』より |
盾塚古墳出土管玉 『玉からみた古墳時代』より |
鞍塚古墳主体部全景 『玉からみた古墳時代』より |
鞍塚古墳出土ガラス玉 『玉からみた古墳時代』より |
鞍塚古墳出土臼玉 『玉からみた古墳時代』より |
珠金塚古墳主体部全景 『玉からみた古墳時代』より |
珠金塚古墳南槨出土玉類 『玉からみた古墳時代』より |
珠金塚古墳北槨出土ガラス玉・環状ガラス玉・金箔ガラス玉・金製空玉 『玉からみた古墳時代』より |
北槨出土玉類 中央勾玉長さ2.4㎝
珠金塚古墳北槨出土の玉類 中央勾玉長さ2.4㎝ 『玉からみた古墳時代』より |
近つ飛鳥風土記の丘に移築された寛弘寺75号墳 『玉からみた古墳時代』より |
『玉からみた古墳時代』は、法隆寺から西に約350m、矢田丘陵の南端から広がる緩斜面に築造されています。墳丘には埴輪が並べられていたとみられますが、葺石は見られません。
石棺内には南北に2人の遺体が納められていました。横穴式石室や須恵器などの型式からは、古墳は6世紀後半に築造されたと考えられますという。
北側被葬者の副葬品 画文帯環状乳神獣鏡、仿製画文帯仏獣鏡、神獣鏡の銅鏡3面、金銀葬刀剣2点、耳環、金銅製の装身具、ガラス製玉類
玉類は銀製鍍金空玉、金銅製の空勾玉・半球形空玉・梔子玉・空丸玉・有段空玉とともに多数のガラス製丸玉・小玉・粟玉などが見つかっています。人骨の一部も依存していたことから、金銅製空丸玉が頸部分をとりまいている状況が明らかとなっており、頸飾りと考えられています。 ガラス小玉などは出土状況などから、頭部周辺の美豆良の飾りとして復元されていますという。
北側被葬者の装身具推定復元
藤ノ木古墳出土北側被葬者の装身具推定復元 『藤ノ木古墳の全貌展』より |
ガラス製丸玉・小玉・粟玉 丸玉大1.9㎝程度
藤ノ木古墳出土北側被葬者のガラス製副葬品 『藤ノ木古墳の全貌展』より |
南側被葬者の副葬品 獣帯鏡1面、金銀装飾大刀4点、耳環や金銅製の装身具、ガラス製玉類など
南側被葬者は人骨がほとんど残っていませんでした。出土状況から銀製空丸玉の頸飾りと金銅製耳環、ガラス製丸玉の足玉を装着していたと考えられますという。
ガラス製棗玉・粟玉 粟玉1.25㎝程度
藤ノ木古墳の装身具には石製玉類が全くみられません。また、金属製玉類もほとんどが金銅製品です。一方で、空勾玉やガラス製棗玉などからは、伝統的な玉類のあり方の片鱗を見ることができますという。
飛鳥寺五重塔心礎に埋納された玉類 『藤ノ木古墳の全貌展』より |
飛鳥時代
『玉からみた古墳時代』は、終末期古墳の造営にあたっては、埋葬施設の小型化のなかであまり多くの副葬品を埋納しなくなります。玉類もガラス製丸玉・小玉のほかは琥珀製玉類や金属製空玉などが僅かに見られる程度になります。
大阪府阿武山古墳では、被葬者頭蓋骨の下からガラス製小玉を銀線で束ねて枕状にしたものが復元されています。ガラス製玉類を銀線で繋いだものは、飛鳥の牽牛子塚古墳などでも見つかっています。こうしたことから、終末期古墳の玉類については、棺にかかわる装飾など、装身具以外の用途の可能性が指摘されていますという。
阿武山古墳 7世紀中葉 横口式石槨 未盗掘 大阪府高槻市
埋葬施設 花崗岩と塼で構築された横口式石槨
内法 長さ2.575m、幅1.1m、高さ1.19m
夾紵棺 全長197㎝、幅62㎝、高さ51㎝
『未盗掘古墳の世界』は、1934年、京都大学地震観測所建設に伴い、偶然発見された。 標高281mの阿武山山頂から南へ伸びる丘陵端部に位置する。明確な墳丘をもたず、巧みに自然地形を利用して古墳を築造している。
横穴式石室はいわゆる横口式石槨と呼ばれる棺を入れるだけのスペースに縮小し、しかもその棺は大型の石棺から夾紵棺などの軽量・小型で持ち運びが可能なものに変わり、再び単葬へと変化する。そこには、竪穴式石室から横穴式石室に変化した時と同じく、葬制が大きく変質したことを示している。この現象は推古朝の支配体制、大化改新、天武朝の政治と、中央集権化への一連の流れの中でとらえることができ、竪穴式石室から横穴式石室に変化したとき以上に当時の東アジア情勢の動向と不可分の関係にあったといえるであろう。
棺台上には、完形の爽符棺が東に寄って置かれていた。棺は蓋と身からなり、外面には黒漆、内面には朱漆が塗られていた。高槻市阿武山古墳夾紵棺内部 7世紀中葉 『未盗掘古墳の世界』より |
玉枕と冠帽
同書は、葬制の変化は当然多くの副葬品にも変化をもたらしたことはいうまでもない。
棺内には大中小のガラス玉を銀の針金で綴り合わせた玉枕と金糸の刺繍で飾った冠帽が発見されているが、これらは遺体の枕の飾りや衣服の飾りであって厳密には副葬品といえるものではない。これまでの他の畿内の終末期古墳から出土しているガラス玉や金糸などは、その量にもよるが阿武山古墳のような玉枕や衣服の飾りの 一部であった可能性も考慮しておかなければならない。
副葬品によっては、被葬者の性格や埋葬時における葬送儀礼の状況等を知ることができる。時には、その儀礼に見られる政治的背景をも推察することが可能となるという。
阿武山古墳出土玉枕、冠帽 7世紀中葉 『仏法の初め、これより作れり』より |
『玉からみた古墳時代』は、当時は、中央集権的な古代国家形成の中で、中国のあらたな衣服制度を取り入れるなど、服飾文化の大きな変革の時期です。こうした変化の中で、玉は徐々にその役割を狭めていくこととなります。そして、ここであげたような、寺院の鎮壇具や装飾品に限定されるようになります。寺院の鎮壇具としての使用については、古墳時代同様な祭祀・儀礼における祭祀具としての側面があると考えられますという。
その後は副葬そのものが習慣としてなくなるが、ガラスでものをつくることが絶えたわけではない。
それらは正倉院宝物として伝わっている。その中でも私のお気に入りでもあり、阿武山古墳出土の枕と似た作り方のように思えるものを1点。
雑色幡 正倉院宝物
幡と称されているが、華籠(けご)。仏会の散華の時に花を盛る器。聖武天皇の法要の時にでも用いられたのだろうか。
正倉院宝物 雑色幡 『第56回正倉院展図録』より |