同書は、古市古墳群の南西、中位段丘から低位段丘へと移行する 傾斜変換点に位置し、西側は平坦な一方、東側は段丘崖となっています。
本古墳から出土する円筒埴輪と、北に約2.5㎞離れた津堂城山古墳の後円部東側でみつかった円筒埴輪とは、器壁が薄く、黒斑の範囲が大きいなど類似した特徴がみられます。
埴輪の時期は、津堂城山古墳のものよりやや古いとの意見と、同時期とする意見があります。
古市古墳群の小規模墳は、その出現期から同時期の大型前方後円墳との関わりをもっていたと考えられます。このことから、本古墳は津堂城山古墳とほぼ同時期の、4世紀後半に築造されたと考えられます。
なお、津堂城山古墳の埴輪の特徴からは、異なる複数の制作集団が想定されており、古墳の築造に伴って、在地的な複数の製作集団が統合されたと考えられるようです。本古墳の被葬者は、津堂城山古墳の出現により王権下に統合された在地の中小首長の一人でしょうかという。
羽曳野市五手治古墳発掘状況 4世紀後半 『古市古墳群の小規模墳』より |
土師の里古墳群 4世紀後半-5世紀中頃
『古市古墳群の小規模墳』は、古市古墳群内で最も早く小規模古墳群を営み始めます。同様な小規模墳である陪家は、この段階にはすでに古市古墳群内でみられます。そのため、小規模古墳群の被葬者集団は陪家被葬者集団とは異なる性格を持っていたと考えられます。土師の里遺跡では、遺跡内の南東側で4世紀後半に成立する集落跡があり、この集団の中小首長層が被葬者の候補となりそうです。
土師の里古墳群は、5世紀中頃まで造墓が継続され、5世紀前半には多くの小規模墳が築かれます。この背景としては、誉田御廟山古墳築造や、それに伴う埴輪窯の成立と、遺跡内での新たな集落の成立との関わりが考えられます。古墳群の中には、西清水2号墳(土師の里12号墳、方墳、10mもしくは帆立貝形墳、35m)のような、大型の円筒埴輪や豊富な 形象埴輪を含む小規模墳もみられ、大型前方後円墳との関わりが推定できます。古墳群の中でも帆立貝形墳を上位とする階層性がうかがえますという。
藤井寺市土師の里古墳群 『藤井寺市土師の里古墳群』より |
⑦盾塚古墳 4世紀末-5世紀初頭 帆立貝形墳 大阪府藤井寺市道明寺
墳丘長73m、円丘部径59m、突出部長16.4m、幅25m、造出し: 幅10.5m、長さ北側5.8m、南側6.8m
埋葬施設 粘土槨 長さ7.8m、幅1.8m、その上に11点の革製盾(赤と黒)
割竹形木棺 長さ6.5m
副葬品 棺内 鏡、銅釧、筒形銅器、銅鈴、刀剣類、鉄鏃と多量の農工具、長方板革綴短甲などの武具、
碧玉製玉類(玉類については次回)
棺外 刀剣類
突出部 刀剣類、斧、鍬、矛、鎌
周溝 円筒埴輪、家・蓋・靴・草摺形などの形象埴輪
『古市古墳群の小規模墳』は、誉田御廟山古墳の前方部北東方向に位置します。墳丘は帆立貝形墳で、南側に突出部(前方部)があり、円丘部(後円部)西側に造出しをもっています。周濠は楕円形で、周濠を含めた全長は88mです。
埋葬施設は円丘部中央に主軸と直交して築かれた粘土槨ですという。
この粘土槨全体に赤や黒に染められた革製の盾が被せてあったとは。
盾塚古墳主体部全景 5世紀前半 『玉からみた古墳時代』より |
同書は、帆立貝形墳の出現時期は、前方後円墳に造出しが現れる時期であることから円墳に造出しを付けたものとする考え方があります。しかし、帆立貝形墳の中でも古相である盾塚古墳は、造出しを別にもって出現しています。造出しが墳丘1段目の少し下から張り出しており、突出部の張り出し位置と異なることから性格に違いがあるのかもしれません。なお、同様の墳形である鞍塚古墳は同系列の古墳と考えられますという。
盾塚古墳の突出部 『古市古墳群の小規模墳』より |
⑥鞍塚古墳 5世紀前半 造出しのある帆立貝形墳 藤井寺市道明寺
墳丘長51m、円丘部(後円部)径40m、突出部(前方部)幅21m
埋葬施設 長さ4.7m、幅0.5mと推定 組合式箱形木棺直葬
周濠 円筒埴輪・朝顔形埴輪、家・鳥形などの形象埴輪、柵形埴輪
副葬品 棺内 刀剣類、三角板鋲留衝角付冑、三角板革綴短甲、脇当、鉄鏃など
鏡や玉類(玉類については次回)
棺外 馬具一式、武器、農工具、鉄鋼
『古市古墳群の小規模墳』は、盾塚古墳の北西方向に近接して位置する、主軸を東西に向けた造出しを持つ帆立貝形墳です。円丘部南西側くびれ部付近には、突出部に近接して、幅9.5m、長さは北辺で6m、南辺で7mの造出しが付きます。
墳丘の周囲には、盾塚古墳と類似する楕円形の周濠がめぐっています。
木棺の小口部は粘土で固められていました。掘方は、長さ6m、幅1.5-1.8mを測りますという。
『玉からみた古墳時代』は、棺外に鞍金具、木心鉄板張輪鐙、鏡板付轡、雲珠、辻金具など馬具 一式、武器、農工具、鉄艇などが納められていました。馬具は初期の様相を示すとされ、古墳の名前の由来になっていますという。
鞍塚古墳主体部全景 『玉からみた古墳時代』より |
『古市古墳群の小規模墳』は、特筆されるのが柵形埴輪で、上部には鋸歯状の突起、側面には柵の立て板を止めた横木と考えられる表現などがみられます。この柵形埴輪は、誉田御廟山古墳の陪家と考えられる狼塚古墳から出土した導水施設形埴輪を構成する柵形埴輪と類似点がみられます。時期的にも近く、使用方法も同様の可能性があります。ほかに、土師器高坏が多数出土していて、造出しで儀礼が行われたと考えられます。
隣接する盾塚古墳は、造出しを持つ帆立貝形墳で、楕円形の周濠をもつなど特徴が共通しており、同一系列の古墳と考えられますという。
埋葬施設 東西方向に主軸をもつ2基の粘土槨(南槨・北槨)
南槨 長さ5.1mの割竹形木棺、北槨には長さ3.8mの組合式箱形木棺。
副葬品 南槨の棺内 銅鏡、甲冑、武器類や玉類、
棺外 武器、武具、農工具
北槨 銅鏡、甲冑、武器、農工具や玉類が出土
玉類については次回
『玉からみた古墳時代』は、埋葬施設棺内には2遺体の埋葬が推定され、東側では滑石製勾玉と緑色凝灰岩製管玉が散乱していました。また、棺内中央部西寄りでは、鏡とともにガラス製の丸玉・小玉がまとまって出土し、その西側ではヒスイ製の勾玉・棗玉、緑色凝灰岩製管玉、ガラス製小玉がまとまっていました。このまとまりは被葬者に添えられていた可能性が指摘されています。このほか棺内西端部分でも緑色凝灰岩製管玉が、竪櫛などとともに容器等に納められたような状況で見つかっています。
南槨に次いで北槨の順で築造されたと考えられますという。
珠金塚古墳主体部全景 『玉からみた古墳時代』より |
a珠金塚西古墳(土師の里7号墳) 5世紀中頃 方墳 1辺約30m
周溝 方形に巡らずに楕円形
埴輪 円筒埴輪 底径20㎝以下や20㎝程度のものが多く、25-30㎝、40㎝や、それ以上と推定できるものが少量
『古市古墳群の小規模墳』は、珠金塚古墳の西に接して位置し、その西には狼塚古墳、南には誉田御廟山古墳を間近に望みます。発掘調査によって、墳丘の南西辺と南・北・東隅が確認され、1辺約30mの方墳であることがわかりました。また、墳丘の1段目は地山を削り出して形成されていることや、墳丘斜面に拳大の葺石が存在することがわかりました。墳丘南西では、周溝縁から約1m墳丘側で、埴輪列の痕跡が確認されています。
また、墳丘より南側の調査では、周溝の一部が確認でき、ほかの方墳のように周溝が方形にめぐらずに楕円形であるとされます。この形状から、盾塚古墳の系列とする意見があります。
出土した円筒埴輪は、表面に黒斑がみられないことから窖窯焼成と考えられ、その外面の調整には、二次調整の精緻なヨコハケが施されているものがみられます。
土師の里遺跡の小規模墳には、立地や眺望によって違いがあることが指摘されています。盾塚・鞍塚・珠金塚 古墳などと珠金塚西古墳は、東側にのみ眺望が開け、その方向に土師の里遺跡の集落があります。一方、珠金塚西古墳の西に近接する、狼塚古墳や誉田丸山古墳は、それらよりやや高まった位置で眺望もより開けています。前者のまとまりが小規模古墳群、後者のまとまりが陪冢という違いが、立地や眺望からもうかがえますという。
周辺の調査でみられる落ち込みや埴輪などからは、この周溝が造出し部をめぐるものと考えることもでき、この場合墳丘長35m前後の帆立貝形墳と推定することも可能ですという。
西清水2号墳の周溝 5世紀中頃 『古市古墳群の小規模墳』より |
できる個体はありませんが、多くは4条突帯5段と推定されています。また埴輪の年代は、表面の二次調整のヨコハケや口縁の形態、突帯貼り付けの特徴などから5世紀中頃と考えられています。
西清水2号墳の特徴として、多様な形象埴輪が狭い範囲に集中して出することが挙げられ ます。これを、造出しに並べられていた形象埴輪群が周溝内に落ち込んだためと考えるのであれば、墳形として帆立貝形墳の可能性が高くなります。また、多くみられる小型の円筒埴輪が造出しの形象埴輪群を区画するために用いられ、墳丘ではそれよりも大きい円筒埴輪が用いられたと考えられていますという。
西清水2号墳家形埴輪の出土状況 『古市古墳群の小規模墳』より |
c小森塚古墳(土師の里12号墳) 5世紀中頃 円墳 藤井寺市道明寺
埴輪 円筒埴輪 底径20㎝以下、20㎝程度、27㎝程度のもの
2点の柵形埴輪 平面が長方形の箱形、内部が粘土板で仕切られ、底板をもつ
1点は短辺14.8㎝、残存長40.5m、高さ31.0㎝
1点は短辺14.4㎝、長辺63.2㎝、残存高34.2㎝、底板の中央部に径約11㎝の円孔
『古市古墳群の小規模墳』は、鞍塚古墳の東約160mに位置し、円墳と考えられますが、墳丘規模は不明です。発掘調査では、南西から北東方向へいびつな弧を描く掘り込みがみつかり、その埋土から多くの埴輪が出土したことから、掘り込みが古墳の周溝と推定されています。
円筒埴輪の外面調整は、二次調整のヨコハケを施すものが主で、窖窯焼成と考えられる個体が多くみられます。
小森塚古墳の東約60mの地点における土師の里遺跡の集落跡からは、底板を持つ類似した柵形埴輪が出土しており、関連性がうかがえます。一方、西約400mにある狼塚古墳からは、底板を持たない柵形埴輪が出土しています。
狼塚古墳にみられるような埴輪と、小森塚古墳と周辺にみられるような柵形埴輪の違いが時期差なのか、系統差なのかなどはよくわかっていません。しかし、その出現や変遷について考えるうえで貴重な資料といえますという。
小森塚古墳出土柵形埴輪 5世紀中頃 『古市古墳群の小規模墳』より |
青山・軽里古墳群 5世紀前半
『古市古墳群の小規模墳』は、青山・軽里古墳群は、古市古墳群南側、墓山古墳の南西、前の山古墳(白鳥陵古墳)の北西で、両古墳と同じ中位段丘に位置する古墳群です。古墳群は、北半が藤井寺市青山古墳群、南半が羽曳野市軽里古墳群で、行政単位により別呼称ですが、一連の古墳群と捉えられていますという。
青山古墳群
同書は、1号墳に続き、4号墳(造出し付方墳、20m)が5世紀中頃、2号墳(帆立貝形墳、33m)が5世紀後葉に築かれたと考えられ、1号墳からの系列とする意見があります。これらは、古墳群の北から北西に位置する、はざみ山遺跡の集落からの眺望を意識した可能性があります。なお、1号墳南東の7号墳(円墳、32m)はやや大型ですが、立地からはその一群とは別系列と考えられ、東側の白鳥古墳群など、低位段丘に展開する古墳群との関わりも推定できます。また、これら20m以上の古墳とは別に、小型の方墳の一群があり、6号墳(14m)、5号墳(7m)、3号墳(8m)の順に、5世紀中頃から後半にかけて築造されたと考えられますという。
青山・軽里古墳群 『古市古墳群の小規模墳』より |
㉙青山1号墳 5世紀前半 帆立貝形墳もしくは造出し付円墳 墳丘長は72m
同書は、古墳群内で墳丘が現存するのが、盟主墳と考えられる、最大規模の青山1号墳(青山古墳)です。帆立貝形墳もしくは造出し付円墳で、墳丘長は72mを測ります。この墳形と規模は、土師の里古墳群の盟主墳である、盾塚古墳と類似し、周濠の形も同様の楕円形と考えられます。このことから、両集団がそもそも同一の集団であった可能性があります。築造時期は、誉田御廟山古墳と同様の5世紀前半と考えられます。土師の里古墳群よりも古墳群形成を開始する時期は少し遅いものの、その当初の盟主墳のあり方はよく似ていると考えられますという。
d青山4号墳 5世紀中頃 造出し付方墳 1辺20m
1号墳の南側に位置する墳丘長約20mの、墳丘西側に幅が広い造出しを持つ方墳です。墳丘は削平を受けており、埋葬施設や副葬品は不明です。
墳丘斜面からは、葺石と考えられる、拳大の丸石が出土しています。
周溝からは、円筒埴輪、朝顔形埴輪のほか、蓋・盾・家・靫・柵・甲冑形埴輪、人物埴輪、馬・猪形などの動物埴輪など、豊富な埴輪が出土しています。5世紀中頃の築造と考えられていますという。
青山4号墳 5世紀中頃 『古市古墳群の小規模墳』より |
e青山2号墳 5世紀後葉 帆立貝形墳、33m
同書は、1号墳の南側に位置する墳丘長約20mの、墳丘西側に幅が広い造出しを持つ方墳です。墳丘は削平を受けており、埋葬施設や副葬品は不明です。
墳丘斜面からは、葺石と考えられる、拳大の丸石が出土しています。
周溝からは、円筒埴輪、朝顔形埴輪のほか、蓋・盾・家・靫・柵・甲冑形埴輪、人物埴輪、馬・猪形などの動物埴輪など、豊富な埴輪が出土しています。5世紀中頃の築造と考えられていますという。
青山2号墳 5世紀後半 『古市古墳群の小規模墳』より |
出土した円筒埴輪は、底部径20㎝、器高40㎝程度の四条突帯5段のものが多いものの、三条突帯4段のものもみられ ます。外面調整は、二次調整のヨコハケを施すも のもありますが、この二次調整を省略するものが多くみられます。
築造時期は、埴輪列中から出土した須恵器有蓋高坏から、5世紀後葉と考えられますという。
青山2号墳出土円筒埴輪 5世紀後半 『古市古墳群の小規模墳』より |
『古市古墳群の小規模墳』は、2号墳(円墳、25m)、3号墳(帆立貝形墳、33m)、1号墳(若子塚古墳、円墳、23m)、4号墳(帆立貝形墳、18m)の順に、5世紀前半から末にかけて築造されたと考えられます。なお、両古墳群の古墳のうち、青山2号墳と軽里4号墳は、墳丘の一部が古市大溝に削られています。
1・2号墳が円墳で、3・4号墳が帆立貝形墳です。いずれの古墳からも円筒埴輪、朝顔形埴輪に加えて、1号墳からは盾・家形などの形象埴輪、3号墳からは蓋・盾・家形などと共に鶏・猪形などの形象埴輪が出土し、4号墳からは盾形埴輪、人物埴輪(武人)・馬形埴輪などが出土しています。いずれの古墳も豊富な形象埴輪を立て並べていたことが知られています。なかでも、3号墳出土の埴輪については、前の山古墳(白鳥陵古墳)や青山1号墳との類似性が指摘されていますという。
f軽里2号墳 円墳 直径25m
同書は、墳丘は削平されていましたが、幅1m、深さ0.6mの周溝の一部が検出され、直径25mの円墳と考えられています。
周溝からは、葺石と考えられる川原石や埴輪、須恵器、土師器などが出土しています。
出土した埴輪には、円筒埴輪、朝顔形埴輪に加えて、形象埴輪として、人物埴輪が知られています。円筒埴輪は、無黒斑のものが中心ですが、有黒斑のものも認められるようです。それらの底径は20㎝以下のものが多く、20㎝程度かやや大きいものもみられますという。
羽曳野市軽里 軽里2号墳 5世紀前半 『古市古墳群の小規模墳』より |
白鳥古墳群
『古市古墳群の小規模墳』は、墓山古墳の南東、同墳が位置する中位段丘から一段下がった低位段丘に位置する古墳群です。現在までに1号墳(円墳、20mもしくは10m)と2号墳(円墳、20mもしくは16m)の2基が確認されています。これらの古墳は、いずれも葺石は施されておらず、円筒埴輪は 底径20㎝未満のもので、6世紀前半の築造と考えられています。
遺跡北側には、西馬塚古墳(方墳、45m)があります。同墳は、北側の向墓山古墳など墓山古墳周辺の古墳と共に、その陪冢と考えられていましたが、それらが立地する中位段丘ではなく、谷を挟んだ南側の低位段丘に立地すること、築造時期が墓山古墳やその陪冢が5世紀前半頃と考えられるのに対し、5世紀後葉と考えられることから、陪家ではなく白鳥古墳群形成の契機となった盟主墳と考えられます。墳丘には葺石が施され、円筒埴輪には底径30㎝程度のものがみられます。形象埴輪には、蓋・盾・家・ 水鳥形などが確認されています。西馬塚古墳の築造時期と同様な時期に築造された、市野山古墳の陪家と墳丘規模を比較すると、その中では比較的大型の部類です。しかし、誉田御廟山古墳までとは異なり、市野山古墳の陪家に大型の方墳はないことから、この時期においては、規模に比べて下位に位置付けられる墳形だったのかもしれません。
また、誉田白鳥遺跡の西側には翠鳥園古墳群があり、ここでも小規模墳6基が確認されています。1号墳(古墳01)は1辺12X10mの方墳、2号墳(古墳02)は1辺6.5mの方墳で、いずれも5世紀末頃の築造と考えられています。3号墳(古墳09)は1辺13mの方墳、4号墳(古墳10m)は規模不明の推定方墳、5号墳(古墳12m)は直径15mの円墳、6号墳は規模不明の推定方墳で、いずれも6世紀前半の築造と考えられています。各古墳出土の円筒埴輪は、底径が20㎝程度かそれ以下のものが多いものの、1号墳では40㎝程度の大型品や形象埴輪もみられます。
白鳥古墳群と翠鳥園古墳群との間には、古墳が確認されていない範囲があること、白鳥古墳群が円形の墓である一方、翠鳥園古墳群が方形を基本とすることなどから、立地は同様ではあるものの、別集団による造墓の可能性が考えられています。墳丘規模の小ささや墳丘表飾の貧弱さ、古墳群の時期の遅さなどから、西側の青山・軽里古墳群の被葬者集団よりも下位 に位置する集団と推定できますが、墳丘規模にそぐわない埴輪類の多さからは、近在する誉田白鳥遺跡で推定される埴輪生産集団に関わっていた被葬者像が推定できますという。
羽曳野市白鳥・翠鳥園古墳群 『古市古墳群の小規模墳』より |
㉝西馬塚古墳 5世紀後半 方墳 1辺45m2段構成 羽曳野市白鳥
『古市古墳群の小規模墳』は、羽曳野丘陵から派生する段丘の低位段丘に立地し、谷を挟んだ北西方向の中位段丘には、墓山古墳やその陪冢と考えられる方墳がみられます。
現状では、宅地などが隣接しており、もとの墳丘は削平されていますが、1辺約30m、高さ約8mの方形の墳丘が確認できます。宮内庁により、「応神天皇恵我藻伏崗陵は号陪冢」として管理されています。発掘調査では、古墳北側と南西部の墳丘裾や周濠、外堤などが確認され、1辺約45m2段築成の方墳に復元されますという。
羽曳野市白鳥西馬塚古墳 5世紀後半 『古市古墳群の小規模墳』より |
周濠からは、墳丘や外堤から転落したと考えられる直径約30㎝の葺石が多数みつかっており、葺石が墳丘と外堤の内側法面に施されていたと考えられますという。
羽曳野市白鳥西馬塚古墳 5世紀後半 『古市古墳群の小規模墳』より |
そのほかに、円筒埴輪や形象埴輪、須恵器、土師器などが出土しています。円筒埴輪は、底径35㎝程度のものが多くみられます。斑のない窖窯焼成のもので、土師質と須恵質のものが確認でき、表面には二次調整のヨコハケを施すものと、それを省略するものがみられます。古墳の築造時期は、5世紀後葉と考えられますという。
朝顔形埴輪が出土している。
西馬塚古墳出土朝顔形埴輪 5世紀後半 『古市古墳群の小規模墳』より |
g白鳥1号墳 6世紀前半 円墳 径約20(10)m 大阪府羽曳野市白鳥
周溝と埴輪列
『古市古墳群の小規模墳』は、西馬塚古墳の西約40m、白鳥2号墳は、南西約150mにあり、西馬塚古墳と同様に低位段丘に立地します。発掘調査によりその存在が明らかになった埋没古墳です。
墳丘は削平されていましたが、古墳の平坦面と周溝の一部が確認されており、直径約20m(もしくは10m)の円墳に復元されます。周溝に沿って埴輪列がみつかり、円筒埴輪には土師質と須恵質のものがみられます。底径12-16㎝、高さ40㎝前後と小さめで、三条突帯4段のものが標準のようです。表面の二次調整のヨコハケを省略するものが多くみられますという。
h白鳥2号墳 6世紀前半 円墳 径約20(16m) 大阪府羽曳野市白鳥
周溝に陸橋部 円筒埴輪
形象埴輪 石見型埴輪(鰭状の突起のある盾形)
同書は、周溝の一部が確認され、復元すると直径約20m(もしくは16m)の円墳と考えられています。
古墳の北東部では、陸橋部と考えられる、周溝底が浅くなる部分がみつかりました。周溝内からは円筒埴輪や形象埴輪が出土しました。全体のわかる円筒埴輪は1個体のみですが、三条突帯4段に復元され、底部 径14㎝、高さ45㎝と1号墳と同様な大きさです。表面の二次調整を省略するものが多いことなどから、古墳の築造は6世紀前半と考えられますという。
『古市古墳群の小規模墳』は、古市古墳群における100mを越える規模の前方後円墳の築造は、6世紀中頃までには終了していたと考えられます。主墳の築造がなくなれば陪冢も築造されなくなるのは当然ですが、陪冢ではない小規模墳の築造も、行われなくなります。
ただし、古市古墳群の範囲内で集落がなくなったのではなく、6世紀代から7世紀にかけても継続的に集落は営まれていることが、これまでの調査でわかっています。この点で、陪冢のような大型前方後円墳に直接関わると考えられる古墳だけでなく、6世紀前半になり顕在化する小規模単独墳の築造や、5世紀以来みられるものの、わずかに残る程度となった小規模古墳群も、大型前方後円墳の築造と関わっていたことを物語っていると考えられます。古市古墳群の古墳は、あくまでも大型前方後円墳との関連の中で築造されるものだったのでしょう。
では、継続的な集落の存在から、小規模墳の被葬者集団がその一部であれ古市古墳群内に残存していたとしてよければ、その有力者層の墓域はどこに行ってしまったのでしょうか。大型前方後円墳の造営に関わることによって古墳の築造が可能であったので、大型前方後円墳の築造が行われなくなれば古墳を営みうる集団ではなくなっていった可能性もあります。
そうではなく、継続的に古墳を営みうる層がいたとしてよければ、その全てではないかもしれませんが、後期群集墳の被葬者となったという可能性を考えてもよいと思われます。しかし、古市古墳群の小規模墳の築造数は、6世紀前半になり減少し、被葬者が限定的となっていくと考えられます。一方、群集墳出現については、それまで古墳の造営が認められていなかった有力家族層を、ヤマト王権が新たにその身分秩序に取り込んだ結果と想定されており、被葬者層数は拡大します。このため、被葬者層・数の傾向は不一致です。小規模噴被葬者集団の6世紀後半の古墳については、古市古墳群の範囲内の集落遺跡における当該期のさらなる検討が必要ですという。
関連項目
石棺の形の変遷 木棺から長持形石棺まで
石棺の変遷 家形石棺へ