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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/12/24

石棺の形の変遷 木棺から長持形石棺まで


石棺の形はどのように変化していったのだろう。

『王者のひつぎ』は、3世紀後半以降、奈良盆地東南部に巨大な前方後円墳が陸続と造営されました。巨大古墳の発生は、ヤマト王権の成立を意味すると考えられます。
発生段階(古墳時代前期前半)の大王墓の埋葬施設は、竪穴式石室に、割竹形木棺だったよ うです。王のひつぎはコウヤマキやヒノキの大木を2つに割って埋葬空間を刳り抜き、両端を仕切り板でふさぐ構造です。大半の木棺は経年で朽ち果てて残されていません。中型・小型古墳は竪穴式石室を築かず、割竹形木棺を粘土で被覆するだけの構造もあります。いずれも、木製のひつぎだったようです。
割竹形木棺は全長10m以上ある場合も知られます。ヤマト王権が採用した王者のひつぎを非常に大きくつくる発想は、弥生時代にはなかった思想ですという。
まず王者の最初期のひつぎの材料とされたのは木だった。

割竹形木棺 クワ 古墳時代前期 奈良県天理市黒塚古墳
黒塚古墳の説明パネルは、古墳の調査で後円部において竪穴式石室が検出された。石室は南北8.3m、幅約0.9-1.3m、高さ約1.7mあり中央部には長さ約6.2mの粘土棺床が残存していた。
木棺はクワの巨木を刳り貫いて作られたが、すべて腐って残存していないという。
クワとは珍しい。
奈良県天理市黒塚古墳 『王者のひつぎ』より

コウヤマキ製木棺 桜井茶臼山古墳 
見学会でもらった『桜井茶臼山古墳の調査』は、竪穴式石室の内部は水銀朱を塗布した石材に囲まれた南北に細長い長方体の空間であり、南北長6.75m・北端幅1.27m・高さ1.60m前後を測ります。基底は南北に続く浅い溝状になっており、板石を二・三重に敷き詰め、棺床土をおき、その上に木棺を安置していましたという。
桜井茶臼山古墳 木棺 見学会の説明パネルより

木棺は腐朽と盗掘による破壊で原形を失っていましたが、遺存した棺身の底部分は、長さ4.89m・幅75㎝・最大厚27㎝を測る長大なものですという。
桜井茶臼山古墳 木棺 見学会の説明パネルより


『王者のひつぎ』は、ヒノキやコウヤマキの大木を真っ二つに割る技術は、ノコギリのなかった時代、丸木舟や木樋をつくる技術に共通するものかもしれません。
古墳時代前期の鉄のクサビはいまだ発見されていませんが、クサビを打ち込んで大木を割る技術と、岩盤にクサビを打ち込んで石材を割り取る技術は通じるものだったと考えますという。
竹中大工道具館では、丸太から板をつくるのに木製のくさびを使っている。しかし、石を割るには木製ではだめなので、鉄製のくさびを使うようになったのだろう。
大木から板をつくる実験 『竹中大工道具館 常設展示図録』より


『王者のひつぎ』は、古墳時代前期後半世(4世紀後半)刳り抜き式舟形石棺が登場します。この時期、石切り場や石工集団をもたない近畿・吉備地域はもっぱら讃岐や肥後からの搬入に頼ります。
讃岐では、西部の鷲の山と東部の火山(ひやま)を産地とする石棺が盛んにつくられました。もっとも古いとされる丸亀市快天山古墳には3基の舟形石棺があり、知られているものとしては最古です。 快天山古墳の出現においても非常に唐突な出来事だったようです。それまでに数多くつくられた前期前方後円墳が全長40m程度であったことに対し、突然全長100m級の出現です。 また、大和に共通する円筒埴輪を讃岐で最初に樹立し、複数の主体をもちます。
快天山古墳の特徴を継承し、快天山古墳石棺とわずか5㎝の誤差しかない形態の棺を火山石でつくり、納めた古墳がさぬき市赤山古墳です。以降、鷲の山石と火山石の石棺製作が発展、その製作技法などは、阿蘇や福井の石棺製作にも影響したことがわかっています。
快天山古墳や赤山古墳の被葬者が岐の石工集団を組織化し、ヤマト王権とも交流をもっていたことは確かです。そもそも、石棺製作の契機は、大王からの要請で始まった可能性もあり、大王墓のひつぎの解明が期待されますという。
文化財オンライン快天山古墳でも、割竹形石棺となっている。


割竹形石棺へ 古墳時代前期後半(4世紀後半)
『王者のひつぎ』は、古墳時代前期後半(4世紀後半)、讃岐の鷲の山石を刳り抜いた石棺が登場します。割竹形木棺など、大木のひつぎを模倣したのでしょうが、蓋の頂部を山形にするなど、舟を意識した可能性もあります。短辺に大きな縄掛け突起をつくり出すことが特徴です。 
これらは地元の讃岐で使われたほか、河内・大和の古墳にも運ばれました。
前期後半の巨大古墳は大和盆地北部に営まれました。このうち、垂仁陵古墳・日葉酢媛陵古墳・成務陵古墳などに石棺があったという伝承が残ります。4世紀後半のヤマト王権は讃岐の勢力と密接な関係をもち、当地の石材でひつぎをつくらせて、はるばる運ばせたと推定します。大王墓の埋葬施設はほとんど調査されておらず、どの大王から石棺を採用したのか、どんな形の石棺だったのかはわかりませんという。
石材の産出地では、石材を切り出すだけではなく、石棺に加工していたのだった。


割竹形石棺 刳り抜き 古墳時代前期 
『石棺から古墳時代を考える』は、刳り抜いた蓋と身を合わせた形が、ちょうど竹の節を縦に二分したようにみえ、蓋も身も断面が半円形で、垂直に切ったような両端面に繩掛突起をつくり出した姿のものを割竹形石棺と呼ぶことがある。
割竹形石棺は、古墳前期に行われた長大な割竹形木棺の形を石材で製作したものと考えられ、一般的には舟形石棺よりも形式的には古い要素だとみられてきた。 
割竹形石棺といえるものは大変数が少なく、舟形石棺との区分が困難な事例があることから、全体を舟形石棺と呼ぶこともある。また、総称として割竹舟形石棺と書いたりもする。
割竹形石棺は、古墳前期に行われた長大な割竹形木棺の形を石材で製作したものと考えられ、一般的には舟形石棺よりも形式的には古い要素だとみられてきた。実際に、割竹形石棺といえるものはいわゆる前期古墳に用いられ、舟形石棺は前期の後半から始まり中期古墳に使用されているという。
割竹形石棺 『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺』より

そして、間壁夫妻の調査の結果、畿内中心地域で割竹形石棺の典型として注目を集め、この系譜の石棺の源流を示すかと思われていたものが、香川県讃岐に由来するものとなったのであったという。

割竹形石棺 鷲の山石 高松市峯山町石清尾山石船古墳出土 
蓋と身の短辺側に一つずつ繩掛突起が彫り出されている。
割竹形石棺 香川県高松市石清尾山石船古墳出土 『石棺から古墳時代を考える』より

割竹形石棺の蓋 刳り抜き 鷲の山石 大阪府柏原市玉手山丘陵上の玉手山3号墳 全長約100mの前方後円墳 安福寺蔵
『石棺から古墳時代を考える』は、安福寺の石棺は、玉手山丘陵の北部尾根上の前方後円墳玉手山3号墳(勝負山 かちまけやま 古墳とも呼ばれる)から出土した。同丘陵上の主要な前方後円墳出土との伝えを残している。
この棺蓋は身との合わせ口に近い外面に直弧文がめぐることで有名で、断面が半円形、両端の縄掛突起は欠けており、剥落した痕跡を残すのみであるが、垂直な半円形の端面をみせている。いわば、典型的な割竹形石棺なのである。
そのような割竹形石棺の数少ない一例が、応神天皇陵として宮内庁が比定している誉田山の古墳をはじめとする古市古墳群を含む河内平野の有力古墳集中地を西に見おろす玉手山丘陵の上に存在する。その丘陵上にある前期古墳群は、河内の巨大古墳を生み出すより少し前に、この地域に勢力を得ていた者の奥津城だと考えられているから、安福寺の割竹形石棺も畿内中枢部に位置した前期古墳の棺であったことになるという。  
大阪府柏原市安福寺 割竹形石棺の蓋 鷲の山石 『石棺から古墳時代を考える』より

割竹形石棺の身 刳り抜き 鷲の山石 香川県高松市三谷丸山古墳出土 全長約90mの前方後円墳
香川県高松市三谷丸山古墳 割竹形石棺の身 鷲の山石 『石棺から古墳時代を考える』より


舟形石棺 刳り抜き 古墳時代前期後半-中期 
『石棺から古墳時代を考える』は、蓋と身の断面が平たい半円形になって、蓋の中央に稜をつくったり、両端に傾斜面をつくったものを舟形石棺と呼び、両端の他に側面へも繩掛突起をつくり出したものがある。
刳り抜きの木棺に由来して、それを石材でつくろうとして成立したものであったと考えられている。
舟形石棺は前期の後半から始まり中期古墳に使用されているという。
舟形石棺 『王者のひつぎ』より


舟形石棺 刳り抜き 阿蘇凝灰岩 京都府八幡市茶臼山古墳出土 
同書は、古墳文化の中枢、畿内地方に中心をおいたものではなく、地方の王者の棺であった。しかも、地方の王者の棺であるといいながら、有力な古墳の所在地で舟形石棺が採用されていない地方も多く、限られた地方の有力首長が用いているという。
舟形石棺 京都府八幡市茶臼山古墳出土 『石棺から古墳時代を考える』より

舟形石棺 刳り抜き 阿蘇凝灰岩 京都府蛭子山古墳出土 
文化財オンライン蛭子山古墳に出土状況の写真があった。その写真ではすでに短側側に石が一つずつ挟まっているが、不整形のため、発掘時に挟まれたものと思われる。
京都府蛭子山古墳 『王者のひつぎ』より


『石棺から古墳時代を考える』は、香川県讃岐では、鷲の山とは別の石材、火山石による舟形石棺が東部地域でみられる。

その火山石の地元で、同石材により製作された石棺も鷲の山石の石棺と同様に、有力な前期古墳に納められている。

火山石を切り出した山丘のすぐ北には、北から南に向かって湾入した入江が見え、海岸砂洲には美しい松原がある。ちょうど天然の良港という地形になっている。その山丘上には前方後円墳を主にした前半期の古墳群がある。これは、その時期の港湾として、津田湾が瀬戸内海航路の有力な位置を占め、海上交通にかかわったこの地の首長の墳墓が、入江を見おろす丘上に営まれたものと推定されているのであるという。


火山石(ひやまいし)の舟形石棺には蓋を屋根形につくるものが含まれる。

舟形石棺図面 刳り抜き 讃岐火山石 大川郡津田町岩崎山4号墳 全長約50mの前方後円墳
同書は、竪穴石室内中に石棺を納める。この石棺は、蓋身ともに短側にのみ縄掛突起をつくり、蓋には田の字状に帯を彫り出し、身の両端に枕を彫り出している。石枕つくり付けということでは鷲の山石製石棺との共通性が知られるのであるという。
枕も石材から彫り出したものもある。
香川県岩崎山4号墳 『石棺から古墳時代を考える』より


半環状突起のある舟形石棺 刳り抜き 阿蘇凝灰岩 佐賀市久保泉町川久保熊本山古墳
『石棺から古墳時代を考える』は、火山石の舟形石棺には蓋を屋根形につくるものが含まれる点にも眼を向けておく必要があろう。 屋根形の蓋をもつ舟形石棺は、九州阿蘇の石のもので多くが知られている。それだけではなく、鶴山丸山古墳の屋根形蓋の両端には、半環状の縄掛突起がある。この形の縄掛突起も、九州阿蘇の石による舟形石棺にみられる特性であるという。 
佐賀市熊本山古墳の半環状突起のある石棺 阿蘇凝灰岩 『石棺から古墳時代を考える』より

半環状突起のある舟形石棺 刳り抜き 阿蘇凝灰岩 兵庫県たつの市御津町中島 
『石棺から古墳時代を考える』は、棺の身は不明で蓋のみが残ってお り、出土古墳の内容はわかっていない。しかし、棺の両側の 短辺に半環状縄掛突起をつくった阿蘇の石による舟形石棺が、宇土市向野田古墳、佐賀市熊本山古墳とも前期に属すると考えられており、石材が火山石である鶴山丸山古墳も同じ頃の古墳である。 屋根形で一端が幅広く他端で幅狭くつくられた細長い形態をみせる御津町出土例 も、ほぼ同時期のものとみてよかろうという。
しかも蓋が屋根の形になっている。ひょっとして家形石棺の先駆けとなるものでは・・・
それにしても、蓋石は薄く加工されている。
たつの市御津町中島の半環状突起のある石棺 阿蘇凝灰岩 『石棺から古墳時代を考える』より


長持形石棺 5世紀
『王者のひつぎ』は、身と蓋の内側を刳り抜く大木形の石棺にかわって、古墳時代中期(5世紀)になると板材を組み合わせる箱形で背が高い石棺が登場します。長持形石棺と呼んでいます。
長持形石棺は蓋石が山形に盛り上がり、各長辺・短辺に大きな円筒形の縄掛け突起を備えます。また、底石は厚くて平らな板石です。四辺の石を固定する溝が切られます。古墳時代前期前半の京都府椿井大塚山古墳・岡山県湯迫車塚古墳の埋葬施設は床面が平坦です。有力者のひつぎに組み合わせ式の木棺を想定する意見も古くから聞かれます。 
その一方、古墳時代前期末の京都府妙見山古墳石棺や大阪府松岳山古墳石棺は、組み合わせ式ですが、箱形ではなく長細い大木形で、舟形石棺と長持形石棺の過渡的な石棺という意見があります。これらは古墳時代前期と中期の石棺を連続した形態変化でとらえる意見ですという。

その初現について『石棺から古墳時代を考える』は、箱式石棺が、一般的には底石をもたず、長辺に1材でなく複数の石材を立て、蓋石も複数の石を用いることが多いのに対し、長持形石棺は、1枚の底石の上にのせる側石、蓋石をそれぞれ1枚の材で製作する。
この長持形石棺の組合せ方と類似した大型の組合せ石棺を竪穴石室でおおったものが、前期形式の古墳に用いられた例がある。大阪府柏原市国分町の松岳山古墳であるという。

松岳山古墳出土 蓋と底石は花崗岩、 側石4枚は鷲の山石 大阪府柏原市国分町 同丘上 全長約130mの前方後円墳  
同書は、玉手山丘陵上から大和川を1㎞ほどさかのぼった南岸の小山が松岳山であり、その丘上が松岳山古墳である。大きな組合せ石棺が納められており、長持形石棺の祖形であろうといわれて注目を集めている。
その石棺の底石と蓋石は花崗岩製であるが、四枚の側石は鷲の山石であることを、安福寺石棺踏査と同じ時に確かめたのであった。鷲の山石による組合せ石棺は、この松岳山古墳が唯一の例である。安福寺石棺と近接した場所の有力古墳へ同じ石材が運びこまれていたことは、見逃せないことである。それは、単に石棺石材のことだけでなく、松岳山古墳が積石塚である点とも関係する。
前期古墳の積石塚は、高松市石清尾山古墳群で典型をみるように讃岐で注目される。畿内地方ではめずらしい積石塚である前期の有力古墳が、石棺の石材をその讃岐から得ていることは、決して無縁ではないと思わせるのである。讃岐石清尾山積石塚群の中でも石船古墳に鷲の山石による刳り抜き石棺が用いられている。
長持形石棺の初源形態をみせる数少ない事例の一つである松岳山古墳では、側石4枚の凝灰岩が、鷲の山石であった。鷲の山石では、刳り抜き石棺を製作するのが原則であり、組合せ石棺の石材になったことがわかっているのは、この松岳山古墳が唯一の例である。割竹舟形系石棺の中では全体として古い形態を示す鷲の山石による刳り抜き石棺と、松岳山古墳の組合せ石棺部材の一部が鷲の山石である点は、割竹舟形系石棺と長持形石棺誕生への動向を結ぶ糸のようにも思われるという。

石棺の後方に丸い穴のある石板が立ててある。

大阪府柏原市国分松岳山古墳 長持形石棺の祖型 『石棺から古墳時代を考える』より 

柏原市のホームページ松岳山古墳には、同古墳の構造や発掘調査状況、石棺と立石の写真など、詳しく記載されています。

柏原市松岳山古墳の長持形石棺 『石棺から古墳時代を考える』より


長持形石棺 組み合わせ 4世紀後半 津堂城山古墳出土 大阪府藤井寺市 前方後円墳
『石棺から古墳時代を考える』は、津堂城山古墳は全長200mを超す前方後円墳で二重の周濠をもつ巨墳という。

底石1枚、長側石両側各1枚、短側石も両側の各1枚、蓋石1枚の計6枚の石材で構成された石棺には、長側石と底石の両端に各々一個の縄掛突起をつくり出し、蓋には、長辺、短辺とも各2個の縄掛突起がついている。両側の短辺になる板石を長辺の石材ではさむように底石の上で組み合わせ、かまぼこ形とでもいうような姿の蓋石をのせる。このような石棺を長持形石棺と呼ぶのであるが、津堂城山のものはその典型品であり、蓋の上面には格子状の浮彫文様まで加えた見事な加工がみられる。

この津堂城山の石棺は、全長3.5m近く、幅1.5mを超すという巨大なものであり、その頃の研究者にとっても強い関心を呼ぶものであったらしいという。

津堂城山古墳出土長持形石棺(レプリカ) 『王者のひつぎ』より 


『古墳時代のシンボル』は、古市古墳群で、最も古い大型墳の埋葬施設が1912年(明治45)に神社合祀の建碑の際に見つかった。凝灰岩製天井石内面には朱が塗られ、なかに竜山石製石棺があった。 長持形石棺は奈良県天理市櫛山古墳、大阪府藤井寺市津堂城山古墳例が古い。古いものほど精巧で、新しくなるとそれぞれの約束事がくずれて粗雑になるという。
加工した板状の石板を、まず底部、続いて両長側辺の板石を置く。長側辺のに彫り込んだ凹みに短側辺の板石を嵌め込み、遺体や副葬品を安置して蓋石を被せるという順序で良いかな?
津堂城山古墳 竪穴式石室と長持形石棺 『古墳時代のシンボル 仁徳陵古墳』より

竜山石の長持形石棺

『石棺から古墳時代を考える』は、この石材が石棺に用いられ始めるのは、確立した長持形石棺の製作からである。それが、畿内中心地域で、5世紀・古墳中期に王者の棺となる。畿内中心勢力が棺とする石材を、播磨の地で発見採用した経緯が伝承された物語となって、その片鱗がとどめられている可能性がある播磨国風土記の記事は、播磨国印南郡大国里美保山の記事として、「神功皇后が、夫の仲哀天皇の遺骸を奉じて、讃岐の羽若の石を求め、その後、播磨にわたって、そこで引き連れていた石作連大来が御廬(みいほ 殯宮)の場所を発見した。これが美保山の名の起源だ」という話であった。

羽若は、現在羽床の地名を残すあたりのことであろうとされ、鷲の山石産出地を含む地名だったと考えられ、印南郡は竜山石の主要産出地にあたる。松岳山古墳の初源的長持形石棺のようなものの部材の一部に鷲の山石を用い、やがて畿内中心部の長持形石棺が竜山石で製作されたことと、あまりにもよく符合するという。


で、とりあえず竜山石の長持形石棺から。


長持形石棺 組み合わせ式 竜山石 高槻市岡本前塚古墳 円墳 60m

蓋の盛り上がりが顕著である。

高槻市岡本前塚古墳 長持形石棺 竜山石 『石棺から古墳時代を考える』より

長持形石棺の蓋 竜山石 大阪市四天王寺所在 
蓋の短辺側の傾斜が長く、家の形に近い。
大阪市四天王寺所在 長持形石棺 竜山石 『石棺から古墳時代を考える』より

長持形石棺 竜山石 姫路市壇場山古墳山の越古墳

壇場山古墳は後円部端部に石棺が露出していたので、主被葬者の近くに近親者などが陪葬された石棺なのかと思っていたが、この図面では蓋だけで棺の身がない。ということは、被葬者の石棺の蓋を開けて丁寧に脇に置き、副葬品を盗んだ者の仕業のようだ。
山の越古墳は部分的だが、身も残っていた。
姫路市壇場山古墳・山の越古墳 『石棺から古墳時代を考える』より

長持形石棺 竜山石 岡山県朱千駄古墳
長側辺の板石は繩掛突起の形が崩れているようだ。
岡山県赤磐市山陽町朱千駄古墳 長持形石棺 『石棺から古墳時代を考える』より

『石棺から古墳時代を考える』は、長持形石棺は、畿内を中心とした地域で5世紀の巨大古墳に用いられた棺だとされている。しかし、その時期の畿内巨大古墳の大部分は、宮内庁が陵墓指定あるいは、陵墓参考地指定しており、内部の棺構造までがわかっているものは、わずかな数である。しかも、以前の調査で長持形石棺の所在が知られるものでも、現在実見できて石材まで観察可能なものとなると、さらに少ない数になる。出土の古墳がほほ明確で、石材が竜山石による点も明らかにできた例は、畿内五国で7例、他の石材による長持形石棺は全くみられない。そうして、それらが畿内五国全域にわたり、河内、和泉の巨大古墳分布地域と、大和の巨大古墳分布地域である佐紀古墳群周辺にも及んでいるのである。

その点からみると、石材を点検できない河内津堂城山古墳、和泉の大山古墳(伝仁徳陵)の前方部、堺市石津町乳岡古墳(ちのおか 前方後円 150m)、泉南郡岬町西陵古墳(前方後円 200m)などの長持形石棺が竜山石だったに違いないと推定でき、また、大和の伝神功陵古墳(前方後円 278m)、伝成務陵古墳(せいむりょう 前方後円 204m)などで存在の伝えがある長持形石棺についても、その伝えが正しければ、同様に竜山石だったと考えられるのである。さらに、棺形態が不明な畿内の巨大古墳中の多くに、おそらく長持形石棺を採用したものが存在するとの推察が一般的な理解であり、それらも竜山石によるに違いないと思われるという。

竜山石がこれほど多く畿内の大型古墳に採用されていたとは。




         石棺の石材←       →石棺の変遷 家形石棺へ

関連項目

参考サイト

参考文献
「石棺から古墳時代を考える 型と材質が表す勢力分布」 真壁忠彦 1994年 同朋舎出版
「古墳時代のシンボル 仁徳陵古墳」 一瀬和夫 2009年 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」055
「桜井茶臼山古墳の調査 現地見学会資料」 2009年 奈良県立橿原考古学研究所
「王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺」 2018年 大阪府立狭山池博物館

2021/12/17

石棺の石材


『石棺から古墳時代を考える』では、昔の考古学界では石材については関心がなかったこと、それを間壁夫妻が交通の不便なところにも出掛けて突き止められていったことが随所に記されている。
実は私も、石棺がどんな岩石でできているかなどは関心がなかったが、奈良県桜井市の兜塚古墳の家形石棺が阿蘇ピンク石ということを知り、はるばる九州から石材を運んできたことに驚いた。被葬者には悪いが、それまでは、石棺はその辺の石を加工したものくらいに思っていたからだ。
そして石の宝殿の記事をまとめている時に、同書に巡り会ったのだった。


『石棺から古墳時代を考える』は、石棺として利用されている加工しやすい石材の良質な産出地があると、その周辺の地域では、同じ石材による石棺が単数ではなく複数発見される傾向が知られる。しかし、よい石材産出地があり、その石による石棺があっても、古墳時代に行われた石棺のうちの、舟形石棺、長持形石棺、家形石棺の全種類にわたって、同種の石材で製作し続けている例は、稀なのである。一種類の石材で、舟形石棺のみとか、家形石棺に限って製作されているという場合の方が、むしろ一般的だったといえる。
6、7世紀に比較的長期間にわたって使用されている家形石棺では、その中のごく一部の時期にだけ石棺をつくっているに過ぎないような石材もある。石棺材産出地では石棺が製作された約300年の間に、石棺用石材を切り出した期間は、比較的短かった事例が多いのである。
そのことは、それぞれの地方で石棺が使用されたことの意味を考える時、見過ごすことのできない点となる。
また、古墳の棺としては、木棺が用いられるのが普通で、石棺は不朽の材質であるためによく眼につくが、決して一般的な棺ではない。石棺は木棺に比較するとむしろ特別な棺であった。それでは、良好な石材が入手しやすい地域で、木棺に代わって石棺を使用したのかといえば、そのような簡単なことではなかったのであるという。

西日本各地の石棺に使われた石材の産出地
『石棺から古墳時代を考える』は、考古学資料として、石棺が記録され、論考も加えられだした大正時代の頃以来、石棺の材質については、凝灰岩という記述が圧倒的に多い。凝灰岩は、火山の噴火による噴出物が固まってできた岩石であり、比較的軟らかく、粘りがあって脆くないという性質をもっている。日本列島は火山列島だといわれ、凝灰岩と呼ばれる岩石を産出する場所は少なくない。火山噴出物が固結する時、高温を保ったまま固まった溶結凝灰岩、凝灰岩質の砂粒が固まってできた凝灰質砂岩などが、石棺材に用いられることもあるが、考古学の記載では、それらも普通、単に凝灰岩と呼ぶのが一般であった。凝灰岩以外で、砂岩製であるとの記録も時にみられる。砂粒が膠結した岩石が砂岩であり、そのうちで細粒の石英を多く含んだ砂岩が石棺材になっていることがある。これも加工しやすく切り出 しやすいことから、利用された岩石であろう。凝灰岩や砂岩など、比較的軟らかい岩石の他、火成岩の中で、花崗石や安山岩のように硬質な岩石による石棺も、多くはないが点在的に知られている。しかし、これはむしろ例外的なものと考えてよいという。
加工し易い石材から石棺をつくるというのは、道具も限られていた時代には当然のことと思うが、それが遠隔地から取り寄せるとなると、運搬技術も加わり、何よりも石材のある場所の情報が必要だろう。
西日本の主な石棺材産出地 『石棺から古墳時代を考える』より


今回は各地の石材の中から、実際に見たことのあるものを中心にいくつか。

播磨の竜山石
『石棺から古墳時代を考える』は、兵庫県西部の瀬戸内海沿岸、播磨南部地域は、長持形石棺と家形石棺が多い地域である。加古川下流右岸域のかなり広い範囲に産出する凝灰岩が使用されている。全体としては淡い黄色を呈し、小さな石英粒と青色や黄色の小角礫がみえるのが普通であるが、時に白青色を呈するものであるという。

兵庫県下には、400基にものぼる石棺が存在するといわれ、その数は全国的にも群を抜いた多さであるという。
へーえ、石棺は奈良県や大阪府が一番多いのかと思っていた😮

その大部分がこの石材で製作されている。長持形石棺と家形石棺は盛んに製作されたが、舟形石棺系のものは全くといってよいほど利用されなかった。また、筆者らの点検の結果、奈良、大阪、京都、滋賀、岡山、広島、山口の各県にわたって、この石材による石棺の所在が明らかとなり、従来の石棺研究に新視点を与えることになった。また、この石材は、古代寺院址や都城址でもかなり広く使用されているという。 

家形石棺蓋石(天磐舟) 5世紀末-6世紀初頭 勤労者体育センターと研修センターの間
説明パネルは、生石神社の社記に「この山頂に石あり、土中に入る。その形舟の如し、故に磐舟と名づける。むかし大己貴神、少彦名神 乗り来たり給う」云々とあるのがこれであるという。
もとは伊保山の南面に背部を下向けにし、落下寸前の状態となったため、現在地に移設したもので、5世紀末から6世紀初頭ごろの家型石棺の蓋石である。播磨地方に多く遺存する石棺中でも、大きさにおいても屈指の遺品であるという。
かなり風化しているが、縄掛け突起が長辺に2つ、短辺に1つある。
こんな立派なものが産出地に残っていたとは。持ち出す前にひびが入ったのだろうか。


龍山石採石場(兵庫県高砂市)から西方にある壇場山古墳(姫路市、前方後円墳)では、龍山石製の長持形石棺が出土している。

壇場山古墳 5世紀前半
説明パネルは、5世紀前半に築かれた前方後円墳である。墳丘の全長は約143mで、県下第2位西播磨では最大規模を誇る。
墳丘は三段築成で、周濠をめぐらし、部分的に周堤が残る。
壇場山古墳の墳形は、大阪府仲津山古墳の約2分の1の相似形となっており、畿内政権との密接なつながりをうかがわせる。
周囲にはかつて数基の陪塚があったとされるが、現在では櫛之堂古墳、林堂東塚古墳の2基が残るのみである。また、北西には一辺約60mの方墳、山ノ越古墳があるという。
5世紀といえば、巨大前方後円墳が築造されていた時期で、中国南朝の宋に記述されている倭の五王の時代でもある。

長持形石棺 
説明パネルは、後円部墳頂には繩掛け突起を有する竜山石製長持形石棺の蓋の一部が露出している。また、墳丘上では円筒埴輪をはじめ、家形・盾形・短甲形などの形象埴輪も採集されているという。
緑色に見えるのは苔なので、実際の石材の色は分からなかった。


長持形石棺 古墳時代中期初頭(5世紀初頭) 竜山石 奈良県御所市室宮山古墳出土 246m 1950年発掘 
『古墳時代のシンボル』は、長持形石棺は組合せ式のもので、近畿地方中央部、のちに畿内と称される大和・河内・山城・摂津を中心とした範囲に集中する。石材は兵庫県加古川流域に産する竜山石(流紋岩質凝灰岩)がほとんどに用いられている。蓋は蒲鉾形で長側辺・短側辺に円柱状の突起をもつという。

『石棺から古墳時代を考える』は、大型で立派に製作した例には、蓋の上面に格子状の浮彫を加えたものがあり、長側石の内面へも、四周に長方形の縁を残しその内側を浅く彫りくぼめている例があるという。


長持形石棺 屋敷山古墳 北葛城郡新庄町 竜山石
『石棺から古墳時代を考える』は、畿内中心地域で盛期巨大古墳の時代に使用された長持形石棺は、いわば畿内の石棺の代表の一種である。これこそ、この地域の中心部二上山産の凝灰岩が使用されているかと思っていたら、完全にはずれていた。典型的な長持形石棺で実見できるもの全ては、播磨の竜山石製なのである。それだけでなく、長持形石棺を竪穴石室に納めている例では、石室の蓋石にまで竜山石が使用された例が知られる。5世紀の長持形石棺の時代には、二上山の凝灰岩はまだ石棺には利用されていなかったという。
繩掛突起には円文が浅浮彫されている。
北葛城郡新庄町屋敷山古墳 長持形石棺 竜山石 『石棺から古墳時代を考える』より


讃岐 鷲の山石

『石棺から古墳時代を考える』は、『播磨国風土記』には、「讃岐の羽若に石を求めた」という羽床盆地の一角、綾歌郡国分寺山内町の鷲の山には、最近まで石切丁場があった。淡い黄褐色ないし青灰褐色の凝灰岩で、鷲の山石と呼ぶ。周辺地域には、この石材による舟形石棺系の刳り抜き石棺(割竹形石棺)が10基たらず知られていて、香川県内の主要な前・中期古墳の棺となっているという。


石棺 香川県高松市峯山町石清尾山石船塚 鷲の山石
左が身、右が蓋という。
高松市峯山町石清尾山石船鷲の山石による石棺 『石棺から古墳時代を考える』より


阿蘇溶結凝灰岩 黒灰色
『石棺から古墳時代を考える』は、阿蘇山は九州のほぼ中央に位置する巨大な火山。南北25㎞、東西18㎞にも及ぶ大きなカルデラは、更新世の後期にいく度かにわたって大噴出したあとが陥没してできたものである。噴出物が高温を保ったまま固まった溶結凝灰岩が広範囲にわたって堆積したのが、阿蘇溶結凝灰岩。
全体としては黒灰色に見える場合が多く、阿蘇灰石といわれることもあるが、ここでは阿蘇の凝灰岩と呼ぶ。阿蘇凝灰岩噴出地近くでは、台地状に堆積し、続いては谷を埋め、さらに遠く山を越えた広域にもみられるという。
えっ、阿蘇の凝灰岩はピンク色ではなかったの?

家形石棺 石人山古墳 福岡県八女市広川町一条 阿蘇凝灰岩
八女市広川町一条 石人山古墳の家形石棺 『石棺から古墳時代を考える』より

舟形石棺 臼杵市稲田臼塚古墳 阿蘇凝灰岩
『石棺から古墳時代を考える』は、短甲形の石人が立つ。臼塚古墳から少し海岸寄りで、阿蘇凝灰岩の石切丁場にも出合ったという。
臼杵市 臼塚古墳 舟形石棺 阿蘇凝灰岩 『石棺から古墳時代を考える』より


阿蘇ピンク石
『石棺から古墳時代を考える』は、阿蘇の凝灰岩噴出は数度にわたったもののようで、一般的には黒灰色の凝灰岩で、噴出時の違う堆積層の場合でも素人にはその差異がわからないほど類似した石材にみえる。ところが数度の噴出のうちで、一度は、ピンクの凝灰岩の堆積となったのだという。その凝灰岩が石材切り出し可能な露頭をみせている地点は多くないが、主要な露頭をみせる一カ所が熊本県の宇土半島の山中にみられるのであった。
しかし、このピンク石による石棺が、地元の熊本県ではまだ一例も発見されていない。この石材を二上山ピンク石と呼んでいたが、阿蘇ピンク石と呼ばなければならないことになったという。
なんと、阿蘇ピンク石という名称に違和感を持っていたが、阿蘇ピンク石と名付けられたのは間壁夫妻だった。

ピンク石の家形石棺が九州阿蘇の石材によることが明らかになってみると、その形態が身と蓋の合わせを印籠合わせにしているのが九州的であり、畿内勢力自身は、組合せの長持形石棺をつくっても刳り抜き石棺は製作しなかったのであるから、九州の舟形石棺系譜の中から成立したものであるとして合理的である。
蓋の全体形をみると、ピンク石家形石棺の四注屋根は、丸みをもったつくりのものが多く、長持形石棺の中で、短辺側の上面を外側に傾斜させて、かまぼこ形につくるものと似ているように思われるという。

築山古墳 刳り抜き家形石棺 岡山県邑久郡長船町西須恵
同書は、長さ82mの前方後円墳、前方部幅が66mと広いのに対し後円部径は38mで、前方部が著しく発達している。後円部の竪穴石室中に家形石棺を納め、古く王氏作神人竜虎画像鏡、甲冑、馬具類などを出土しており、古墳中期から後期への移行期に限れば、大型古墳が多い岡山県でも最大の墳丘をもつものである。後円部上に、現在も石棺が露出しており、竪穴石室の痕跡もうかがえる。
石室は長さ約2m、幅1m弱で、身と蓋の合わせ目を印籠蓋合わせにし、四注屋根形の蓋には、長辺側へ各2個、計4個の縄掛突起をつけている。その石材は、色がピンクにみえる凝灰岩であるという。


兜塚古墳 5世紀後半-6世紀初頭 奈良県桜井市
奈良県桜井市観光協会兜塚古墳は、 石室周辺は1954年に調査されています。石室の場所は後円部の中央部から東に偏った場所にある小型の河原石を用いた独特の磚積状の石室です。規模は長さ約3.7m、幅1.4mで床面に粘土を敷きつめ、その上に石棺を安置していますという。

熊本県総合博物館ネットワーク馬門石というページに、馬門石の石切場跡の写真が掲載されている。
同ページは、ここで紹介するピンク色をした石は、宇土市網津町馬門地方にしか見られない珍しい石です。
火砕流は熱を保ったまま堆積し、多くの場合、中に含まれている軽石は溶けてつぶれた状態になり、黒いレンズ状の模様をつくっています。このようにしてできた岩石は、高温であったため全体も溶けて固まったようになっており、たたくと焼き物のように響く音がします。そこで、溶結凝灰岩とも呼びます。
しかし、この馬門地方の阿蘇火砕流堆積物は、火口から離れているためか軽石が比較的溶けておらず、全体的にも柔らかい岩石となっているものが多いようです。近くの網津川周辺や川底には、灰色の阿蘇火砕流堆積物がよく露出しています。理由はよく分かりませんが、馬門地方のものはなぜかピンク色をしています。宇土市中心部の船場橋も、馬門石で造られていることでよく知られており、石の観察にも適しています。
さらに古墳時代では中国地方や近畿地方まで運ばれ、豪族を埋葬する石棺として使われたという歴史も明らかにされていますという。

わざわざ遠く離れた地方の石材を取り寄せ、石棺をつくるという行為は、時の権力者が、同盟関係にあったクニから石材を切り出し、運び出させた。そして副葬品だけでなく、その石材そのものも威信財だったのかも。


間壁夫妻が阿蘇ピンク石を知るまでは二上山ピンク石と思われていた二上山白石も石棺材に使用されるようになる。

二上山白石
『石棺から古墳時代を考える』は、大阪府南河内郡太子町山田あたりの二上山の南部は、白色の凝灰岩産出地である。
古墳時代の中心地域である奈良県や大阪府で盛んに家形石棺がつくられており、最初に記した高松塚の石槨、藤ノ木古墳、都塚の石棺なども、この石材によるものである。寺院建立が始まって後の終末期古墳の家形石棺や石槨にもなっているが、6世紀の主要な古墳に納められた家形石棺も多く、寺院建立に先立つ時代から加工石材として利用されていたのである。奈良、大阪を中心として、分布の濃淡はさまざまながら、二上山産出の凝灰岩による家形石棺が発見されており、小片に破砕されてしまうものまで含めると200基にも及ぶ数が知られることになるという。
近くに産出地がありながら、石棺として使用されるようになるのは、古墳時代も後期になってから。

滋賀県高島市稲荷山古墳 家形石棺 二上山白石
『石棺から古墳時代を考える』は、全国有数の後期古墳として、しばしば考古学の書物に登場し続ける古墳の1基で、近江勢力が6世紀の時点できわめて有力な位置を占めていたことを物語るとされる前方後円墳でもある。
基部のみが残存した横穴石室に安置された石棺を眺めると、奈良や大阪で見なれていた二上山凝灰岩の白い色が眼に入り、独特の小さな黒い斑点もある。畿内二上山の石材が、はるばる琵琶湖畔まで運び上げられたことになるという。 


同書は、二上山凝灰岩も竜山石も、ともに最有力の古墳の棺となり、また中・小の古墳で用いられることもあり、古墳終末期まで続くという。 

そして、かつてみたことのある石棺の石材はというと、

備中の浪形石(貝殻石灰岩)
『石棺から古墳時代を考える』は、岡山県南西部、井原市、小田郡美星町、同郡矢掛町がせっするあたりの海抜250mばかりの高原状山地に、貝殻を含んだ泥岩を産出する。岩石の性質から貝殻石灰岩ということもあり、主な産出地が井原市野上町浪形であることから、浪形石または浪形石灰岩の名で呼ぶこともある。岡山県下でわずか数例の家形石棺に用いられているのみであるが、刳り抜きと組合せの両者が知られ、いずれも傑出した内容を示す横穴式石室に納められているという。
地産地消の石材もあったのでした。
岡山県井原市浪形の浪形石産出地 現在は寺の庭園 『石棺から古墳時代を考える』より


こうもり塚 6世紀頃 貝殻石灰岩
石棺内には遺体と馬具があり、石棺の奥には2つの木棺が置かれていたらしい。
写真にはよく写っていないが、床は小石が敷き詰められていた。
解説員によると、石室石はこのあたりに多い花崗岩で、朱で塗られていたという。
横穴は後円部の縦軸に掘られるものだと思っていたが、斜めから中心に向かって掘られている。

 

関連項目

参考サイト

参考文献
「古代からのメッセージ 播磨国風土記」編者播磨古代学研究所 監修者上田正昭 1996年 神戸新聞総合センター
「石棺から古墳時代を考える 型と材質が表す勢力分布」 真壁忠彦 1994年 同朋舎出版

2021/12/10

築山古墳 


岡山県瀬戸内市長船に前方後円墳の築山古墳がある。
須恵器の里案内板 須恵古代館のパネルより


築山古墳 1995年の航空写真 須恵古代館のパネルより
『石棺から古墳時代を考える』は、岡山県内の石棺石材の点検を始めた時、一基の刳り抜き家形石棺の石材が私たちを大いに手こずらせた。岡山県の南東部、備前でも南東部にあたる邑久郡長船町西須恵の築山古墳の石棺である。
長さ82mの前方後円墳、前方部幅が66mと広いのに対し後円部径は38mで、前方部が著しく発達している。後円部の竪穴石室中に家形石棺を納め、古く王氏作神人竜虎画像鏡、甲冑、馬具類などを出土しており(東京国立博物館に収蔵)、古墳中期から後期への移行期に限れば、大型古墳が多い岡山県でも最大の墳丘をもつものである。後円部上に、現在も石棺が露出しており、竪穴石室の痕跡もうかがえるという。
頂上の木に隠れているが、石棺あるいは石室の石材が見えている。
築山古墳の航空写真(1995年) 須恵古代館館内の展示パネルより

通路から眺める築山古墳
ここからでも後円部分がはっきりとわかる。

瀬戸内市教育委員会作成の説明パネルは、この古墳は、北に伸びた低い丘陵の端部を加工して造られた全長82mの前方後円墳です。前方部は東向きで幅66m、高さ約10m、後円部径38m、高さ9mを測ります。 墳丘は、二段築造で、各段の縁と墳丘の裾に円筒埴輪が巡っていたことが知られています。

1907年、後円部中央の割り石小口積みの石室が掘られ、現在その上部は失われ家形石棺が露出しています。 石棺は凝灰岩製で、これまで奈良県と大阪府の境の二上山産と推測されていましたが、最近の検討により熊本県の阿蘇山産と考えられてい ます。

遺物として鏡のほか玉類、武具、馬具などが出土しており、現在東京国立博物館に収蔵されています。これらの遺物により、この古墳は5世紀後半から6世紀前半頃の築造と考えられていますという。


後円部を回り込むと登り口があった。結構急だった。

後円部の頂上が見えたところで、家形石棺と、そのまわりに大きな石。
竪穴式石室は割り石小口積みということだが、それにしては大きな石が複数ある。 

『石棺から古墳時代を考える』は、石棺は長さ約2m、幅1m弱で、身と蓋の合わせ目を印籠蓋合わせにし、四注屋根形の蓋には、長辺側へ各2個、計4個の縄掛突起をつけている。その石材は、色がピンクにみえる凝灰岩である岡山県の石棺の材質が、竜山石、阿蘇の黒灰 色を呈する凝灰石、浪形石と順次判明してきた過程で、このピンク凝灰石も岡山県に産する石材ではなく、遠くから運ばれたものとの推定ができたという。
著者の間壁忠彦氏ご夫妻は、この時代にはまだ阿蘇ピンク石であることが解明されていなかったので、同書には日本各地の石材の産地を踏査され、やっと熊本県の馬門石に行き当たったことが記されていて、「阿蘇ピンク石」と名付けられたのがご夫妻であることも知った。

同書は、石材産地が不明であるのに、同じ石材による同じ形態の石棺は、次々と明らかにできたのである。
それらの石棺は、畿内的な古式の家形石棺だと理解されてきたものであったという。
以前桜井市の兜塚古墳の家形石棺(5世紀後半-6世紀初頭)よりも、屋根の下方に繩掛突起がある。
家形石棺は赤っぽいが、周囲の石は黒っぽい。竪穴式石室の外縁に使われた石だろうか。

短辺側に繩掛突起はない。
この時代の繩掛突起は4個が標準になっているようだ。『石棺から古墳時代を考える』は阿蘇凝灰岩は有明海の港から運び出されたとされているが、石棺の形に成形してから運ばれたのか、それとも石の塊のまま運ばれたのか?
それについては後日

苔も生えていたりするので、見る方向によっては緑っぽいし、周囲の石は白っぽい。

割れた箇所から中がどうなっているのか覗いてみる。

石棺の蓋が分厚いので、なかなか中が見えない。

こういうときはスマホが便利😉
当たり前の話だが、中には何も残っていない。

何時の時代に石棺が露出したのか分からないが、盗掘者も一苦労だっただろう。


後円部から前方部へ向かう。あまり高低差のない前方後円墳である。西側にの低いところは段にしたら広すぎる。

前方部(高さ9m)から後円部(高さ10m)を眺める。

西側は段も、ましてや二重周濠もわからない。

前方部の石段

前方部の南東角


ちょっと隠れて石碑があった。

前方部と後円部の間の括れ部辺り。段が分かる・・・気がする。

最後に前方部を振り返る。

『石棺から古墳時代を考える』は、瀬戸内沿岸の吉備は、巨大古墳の時代に畿内以外では存在しない大規模な前方後円墳を築いた地方だった。その地の中で、いわば東南のはずれにあたる地にピンク石の家形石棺をもった築山古墳がある。これが古墳中期から後期への移行期では、この地方でも最大規模の前方後円墳である。
その石棺が、畿内新興勢力の棺と同形態、同石材であることは、畿内の新勢力との同質性を築山古墳が主張しているのだと読み取ってよいであろう。新しい意味をもって、畿内中心地と結ばれた吉備勢力は、巨大古墳の時代の中心地であった備中の総社盆地や備前の山陽町周辺からは、東南に離れた位置にある邑久平野の南寄りに位置していたのである。この付近から低い山を一つ越えると、瀬戸内海の海岸に出て、そこは、南に小豆島をのぞむ天然の入江をつくった牛窓湾である。牛窓湾をめぐる丘上や湾の入口の小島上には、前方後円墳が5基も築かれている。その大部分は、築山古墳とあまり時代差のない古墳中期末から後期に入る時期のものである。この牛窓湾が、古墳時代の瀬戸内海航路の要所であったことを、それらの古墳が示しているわけであるが、築山古墳が位置的にみて牛窓湾の古代港湾と深いかかわりをもった首長墓だったことは確かであろう。そうした性格が畿内新勢力との結びつきにつながったと思われるのであり、その勢力を支える重要な一翼をになった地方首長の存在を推測させるのであるという。


土日は開いているけれど、コロナ禍ではどうかなと期待しないで行ったら、幸いなことに、須恵古代館は開いていた。

内部は1室

中央の台にあるのは瀬戸内市の遺跡の分布



正面の展示品は須恵器が主
館内の展示パネルは、この地方の須恵器生産は6世紀の後半からはじまり、7世紀前半から8世紀ごろまで栄えました。西谷遺跡からは須恵器の蓋杯、長頸壷、こね鉢など様々な須恵器が出土しました。製作技術の高さがうかがえる出上品ですという。

邑久古窯趾群邑久古窯址群
同説明パネルは、古墳時代から奈良・平安時代にわたる岡山県下最大の窯跡群です。
窯跡は、備前市と長船町の境に位置する西大平山南麓を北限とし、牛窓町の錦海湾を南限として、備前市、長船町、邑久町、牛窓町の4市町にわたって分布しています。
これらの中最古の窯跡とみられているものが、6世紀中頃の木鍋山1号窯で、桂山南麓には、これに続くと思われる窯跡が分布しています。その後、7世紀前半には、広高山から邑久牛窓町に広がり、さらに備前市佐山にかけて分布範囲を拡大しています。平安時代になると佐山の丘陵から北上し、初期備前焼窯へと発展していきますという。
長頸壺はすっきりと格好いいので昔から好きだったが、真ん中のが反射して写っていない😥

須恵器大甕 西谷遺跡出土 中央の写真パネル
説明パネルは、白っぱい胎土を使用し表面に鮮やかな緑色の自然釉が流れているのが特徴で寒風式土器といわれます。釉の流れる美しさなどに備前焼のルーツを見ることができる貴重な出土品です。また、平城京跡の発掘調査からも出土していますという。
備前焼は、丹波、信楽、常滑、瀬戸、越前などと合わせて六古窯と呼ばれる古くからの窯。

甑(こしき、蒸し器)と小壺 古墳-奈良時代 西谷遺跡出土
甑の穴は中心に1つ、周囲に5つと凝ったもの。5つというのは作りにくそうに思うが、五弁の花がそこここに咲いていたりして、馴染みのある形だったのかも。

甑・甕・竃 須恵器 8世紀 西谷遺跡出土 
須恵古代館のリーフレットは、3点からなる炊飯器によって食材を蒸し、食していたと推定されます。このような移動式のカマドのセットは、特に西日本を中心に出土例が多く、古墳にはミニチュアが副葬されることもありますという。

国立慶州博物館でも似たような高坏や子持ち土器を見た。やはり脚に三角の穴が並んでいた。


木鍋山遺跡
須恵古代館の説明パネルは、長船町土師宮下に所在し、町営グランド建設にともない、昭和55年8月 から56年6月にかけて発掘調査が行われまし た。
調査は、標高約30mの北へ舌状に伸びた低丘陵上、約9000m²の範囲で実施され、弥生時代中期の住居址15以上、建物3棟、弥生時代後期末から古墳時代初期の住居址3、木鍋山1号墳、5世紀末から6世紀初頭の溝状埋葬遺構19、6世紀中葉の窯跡、中世の溝などが発見され、長い期間にわたる複合遺跡であることがわかりましたという。
木鍋山遺跡全景 須恵古代館のパネルより

木鍋山遺跡の出土物 主に弥生時代

古墳時代の出土物

木鍋山遺跡の出土物 古墳時代



軒丸瓦と軒平瓦 須恵廃寺跡出土
軒丸瓦は単弁蓮華文、軒平瓦はパルメット蔓草文だが、これまでにみてきたものに類似の文様はなかった。


右壁入口近くには陶棺が展示されていた。

桂山十二ヶ乢5号墳
説明パネルは、丘陵谷部に造られた古墳です。 当初、円墳と考えられていましたが、調査の結果、一辺が12mの方墳であることがわかりました。主体部は横穴式石室で、盗掘により天井石は取り外されていましたが、内部には家形石棺が納められていました。出土遺物から8世紀前半の築造と考え 642(大化2)年の薄葬令後、全国的に古墳は造られなくなりますが、この地方で続き小型の古墳が造られていたことが判明しましたという。

『石棺から古墳時代を考える』は、播磨の西に接する岡山県の備前、美作、備中では、古墳の最終段階に盛んであった陶棺を小型につくって火葬骨蔵器に使用した事例が明らかになっているから、それらと同様な性格とみるのが合理的な解釈と思えるのであるという。
家形石棺は縦横比率が2:1程度だが、陶棺は幅がずっと狭い。

足の付いた石棺は見たことがないが、この陶棺には6対の太い足が付いている。

発掘当時の写真
何故こんなに太くたくさんの足が陶棺に付いているのか。


陶棺は東須恵の他の遺跡からも出土している。

蓮華文装飾付陶棺 本坊山古墳出土 東須恵 東京国立博物館提供
亀田修一氏の備前邑久窯跡群出土陶棺と鴟尾に関する覚書に詳しい図面がある。それによると、足は3列に8本ずつある。
同論文は、陶棺は、須恵質切妻家形陶棺で、身の一方の小口部に複弁八葉蓮華文を2個横に並べて飾った珍しいものである。屋根の妻部に円孔はない。身は外面上端部に凸帯がつく。2分割されており、屋根は全長176㎝、幅54.6-56.4㎝、高さ24.6-28.0㎝、棟は幅5.5㎝、高さ0.9㎝で、身を含めた総高は85㎝である。
この大きさであれば、遺体を伸展葬で納めることができ、「大」グループに属する。
という。
軒丸瓦の蓮華文を陶棺に貼り付けてある。
瀬戸内市長船町東須恵本坊山古墳出土 蓮華文装飾付陶棺 東京国立博物館提供

短側辺に一対の蓮華文
蓮華文は複弁八葉蓮華文で、直径5.2㎝の中房内に1+6+8の蓮子が配されている。中房と蓮華文の間に溝を持つ特徴がある。蓮華文の直径は12.7-13.0㎝である。左右2個の蓮華文ははっきりしないが、同笵のようであるという。
複弁の蓮弁そして中房にかすかに7つの蓮子が浮彫される。一番似ている蓮華文は、粟原寺跡出土垂木先瓦(複弁八葉蓮華文 白鳳時代)である。
本坊山古墳出土 蓮華文装飾付陶棺 東京国立博物館提供

写真パネル

馬鐸 錦鶏塚古墳出土 最大高16.7㎝ 東京国立博物館提供
丸い出っ張りを中心に帯状の線が八方に出て、それぞれに隙間なく円文を並べている。
錦鶏塚古墳出土馬鐸 東京国立博物館提供 

神人竜虎画像鏡 5世紀 築山古墳出土 直径20.3㎝ 東京国立博物館提供
築山古墳出土神人竜虎画像鏡 5世紀 東京国立博物館提供

内行花文鏡 4世紀 花光寺古墳出土 直径24.5㎝ 東京国立博物館提供
この鏡によって、花光寺古墳は築山古墳よりも古いものであることがわかる。
花光寺古墳出土内行花文鏡 4世紀 東京国立博物館提供






関連項目

参考サイト

参考文献
「石棺から古墳時代を考える 型と材質が表わす勢力分布」 間壁忠彦 1994年 同朋舎出版