お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/12/10

築山古墳 


岡山県瀬戸内市長船に前方後円墳の築山古墳がある。
須恵器の里案内板 須恵古代館のパネルより


築山古墳 1995年の航空写真 須恵古代館のパネルより
『石棺から古墳時代を考える』は、岡山県内の石棺石材の点検を始めた時、一基の刳り抜き家形石棺の石材が私たちを大いに手こずらせた。岡山県の南東部、備前でも南東部にあたる邑久郡長船町西須恵の築山古墳の石棺である。
長さ82mの前方後円墳、前方部幅が66mと広いのに対し後円部径は38mで、前方部が著しく発達している。後円部の竪穴石室中に家形石棺を納め、古く王氏作神人竜虎画像鏡、甲冑、馬具類などを出土しており(東京国立博物館に収蔵)、古墳中期から後期への移行期に限れば、大型古墳が多い岡山県でも最大の墳丘をもつものである。後円部上に、現在も石棺が露出しており、竪穴石室の痕跡もうかがえるという。
頂上の木に隠れているが、石棺あるいは石室の石材が見えている。
築山古墳の航空写真(1995年) 須恵古代館館内の展示パネルより

通路から眺める築山古墳
ここからでも後円部分がはっきりとわかる。

瀬戸内市教育委員会作成の説明パネルは、この古墳は、北に伸びた低い丘陵の端部を加工して造られた全長82mの前方後円墳です。前方部は東向きで幅66m、高さ約10m、後円部径38m、高さ9mを測ります。 墳丘は、二段築造で、各段の縁と墳丘の裾に円筒埴輪が巡っていたことが知られています。

1907年、後円部中央の割り石小口積みの石室が掘られ、現在その上部は失われ家形石棺が露出しています。 石棺は凝灰岩製で、これまで奈良県と大阪府の境の二上山産と推測されていましたが、最近の検討により熊本県の阿蘇山産と考えられてい ます。

遺物として鏡のほか玉類、武具、馬具などが出土しており、現在東京国立博物館に収蔵されています。これらの遺物により、この古墳は5世紀後半から6世紀前半頃の築造と考えられていますという。


後円部を回り込むと登り口があった。結構急だった。

後円部の頂上が見えたところで、家形石棺と、そのまわりに大きな石。
竪穴式石室は割り石小口積みということだが、それにしては大きな石が複数ある。 

『石棺から古墳時代を考える』は、石棺は長さ約2m、幅1m弱で、身と蓋の合わせ目を印籠蓋合わせにし、四注屋根形の蓋には、長辺側へ各2個、計4個の縄掛突起をつけている。その石材は、色がピンクにみえる凝灰岩である岡山県の石棺の材質が、竜山石、阿蘇の黒灰 色を呈する凝灰石、浪形石と順次判明してきた過程で、このピンク凝灰石も岡山県に産する石材ではなく、遠くから運ばれたものとの推定ができたという。
著者の間壁忠彦氏ご夫妻は、この時代にはまだ阿蘇ピンク石であることが解明されていなかったので、同書には日本各地の石材の産地を踏査され、やっと熊本県の馬門石に行き当たったことが記されていて、「阿蘇ピンク石」と名付けられたのがご夫妻であることも知った。

同書は、石材産地が不明であるのに、同じ石材による同じ形態の石棺は、次々と明らかにできたのである。
それらの石棺は、畿内的な古式の家形石棺だと理解されてきたものであったという。
以前桜井市の兜塚古墳の家形石棺(5世紀後半-6世紀初頭)よりも、屋根の下方に繩掛突起がある。
家形石棺は赤っぽいが、周囲の石は黒っぽい。竪穴式石室の外縁に使われた石だろうか。

短辺側に繩掛突起はない。
この時代の繩掛突起は4個が標準になっているようだ。『石棺から古墳時代を考える』は阿蘇凝灰岩は有明海の港から運び出されたとされているが、石棺の形に成形してから運ばれたのか、それとも石の塊のまま運ばれたのか?
それについては後日

苔も生えていたりするので、見る方向によっては緑っぽいし、周囲の石は白っぽい。

割れた箇所から中がどうなっているのか覗いてみる。

石棺の蓋が分厚いので、なかなか中が見えない。

こういうときはスマホが便利😉
当たり前の話だが、中には何も残っていない。

何時の時代に石棺が露出したのか分からないが、盗掘者も一苦労だっただろう。


後円部から前方部へ向かう。あまり高低差のない前方後円墳である。西側にの低いところは段にしたら広すぎる。

前方部(高さ9m)から後円部(高さ10m)を眺める。

西側は段も、ましてや二重周濠もわからない。

前方部の石段

前方部の南東角


ちょっと隠れて石碑があった。

前方部と後円部の間の括れ部辺り。段が分かる・・・気がする。

最後に前方部を振り返る。

『石棺から古墳時代を考える』は、瀬戸内沿岸の吉備は、巨大古墳の時代に畿内以外では存在しない大規模な前方後円墳を築いた地方だった。その地の中で、いわば東南のはずれにあたる地にピンク石の家形石棺をもった築山古墳がある。これが古墳中期から後期への移行期では、この地方でも最大規模の前方後円墳である。
その石棺が、畿内新興勢力の棺と同形態、同石材であることは、畿内の新勢力との同質性を築山古墳が主張しているのだと読み取ってよいであろう。新しい意味をもって、畿内中心地と結ばれた吉備勢力は、巨大古墳の時代の中心地であった備中の総社盆地や備前の山陽町周辺からは、東南に離れた位置にある邑久平野の南寄りに位置していたのである。この付近から低い山を一つ越えると、瀬戸内海の海岸に出て、そこは、南に小豆島をのぞむ天然の入江をつくった牛窓湾である。牛窓湾をめぐる丘上や湾の入口の小島上には、前方後円墳が5基も築かれている。その大部分は、築山古墳とあまり時代差のない古墳中期末から後期に入る時期のものである。この牛窓湾が、古墳時代の瀬戸内海航路の要所であったことを、それらの古墳が示しているわけであるが、築山古墳が位置的にみて牛窓湾の古代港湾と深いかかわりをもった首長墓だったことは確かであろう。そうした性格が畿内新勢力との結びつきにつながったと思われるのであり、その勢力を支える重要な一翼をになった地方首長の存在を推測させるのであるという。


土日は開いているけれど、コロナ禍ではどうかなと期待しないで行ったら、幸いなことに、須恵古代館は開いていた。

内部は1室

中央の台にあるのは瀬戸内市の遺跡の分布



正面の展示品は須恵器が主
館内の展示パネルは、この地方の須恵器生産は6世紀の後半からはじまり、7世紀前半から8世紀ごろまで栄えました。西谷遺跡からは須恵器の蓋杯、長頸壷、こね鉢など様々な須恵器が出土しました。製作技術の高さがうかがえる出上品ですという。

邑久古窯趾群邑久古窯址群
同説明パネルは、古墳時代から奈良・平安時代にわたる岡山県下最大の窯跡群です。
窯跡は、備前市と長船町の境に位置する西大平山南麓を北限とし、牛窓町の錦海湾を南限として、備前市、長船町、邑久町、牛窓町の4市町にわたって分布しています。
これらの中最古の窯跡とみられているものが、6世紀中頃の木鍋山1号窯で、桂山南麓には、これに続くと思われる窯跡が分布しています。その後、7世紀前半には、広高山から邑久牛窓町に広がり、さらに備前市佐山にかけて分布範囲を拡大しています。平安時代になると佐山の丘陵から北上し、初期備前焼窯へと発展していきますという。
長頸壺はすっきりと格好いいので昔から好きだったが、真ん中のが反射して写っていない😥

須恵器大甕 西谷遺跡出土 中央の写真パネル
説明パネルは、白っぱい胎土を使用し表面に鮮やかな緑色の自然釉が流れているのが特徴で寒風式土器といわれます。釉の流れる美しさなどに備前焼のルーツを見ることができる貴重な出土品です。また、平城京跡の発掘調査からも出土していますという。
備前焼は、丹波、信楽、常滑、瀬戸、越前などと合わせて六古窯と呼ばれる古くからの窯。

甑(こしき、蒸し器)と小壺 古墳-奈良時代 西谷遺跡出土
甑の穴は中心に1つ、周囲に5つと凝ったもの。5つというのは作りにくそうに思うが、五弁の花がそこここに咲いていたりして、馴染みのある形だったのかも。

甑・甕・竃 須恵器 8世紀 西谷遺跡出土 
須恵古代館のリーフレットは、3点からなる炊飯器によって食材を蒸し、食していたと推定されます。このような移動式のカマドのセットは、特に西日本を中心に出土例が多く、古墳にはミニチュアが副葬されることもありますという。

国立慶州博物館でも似たような高坏や子持ち土器を見た。やはり脚に三角の穴が並んでいた。


木鍋山遺跡
須恵古代館の説明パネルは、長船町土師宮下に所在し、町営グランド建設にともない、昭和55年8月 から56年6月にかけて発掘調査が行われまし た。
調査は、標高約30mの北へ舌状に伸びた低丘陵上、約9000m²の範囲で実施され、弥生時代中期の住居址15以上、建物3棟、弥生時代後期末から古墳時代初期の住居址3、木鍋山1号墳、5世紀末から6世紀初頭の溝状埋葬遺構19、6世紀中葉の窯跡、中世の溝などが発見され、長い期間にわたる複合遺跡であることがわかりましたという。
木鍋山遺跡全景 須恵古代館のパネルより

木鍋山遺跡の出土物 主に弥生時代

古墳時代の出土物

木鍋山遺跡の出土物 古墳時代



軒丸瓦と軒平瓦 須恵廃寺跡出土
軒丸瓦は単弁蓮華文、軒平瓦はパルメット蔓草文だが、これまでにみてきたものに類似の文様はなかった。


右壁入口近くには陶棺が展示されていた。

桂山十二ヶ乢5号墳
説明パネルは、丘陵谷部に造られた古墳です。 当初、円墳と考えられていましたが、調査の結果、一辺が12mの方墳であることがわかりました。主体部は横穴式石室で、盗掘により天井石は取り外されていましたが、内部には家形石棺が納められていました。出土遺物から8世紀前半の築造と考え 642(大化2)年の薄葬令後、全国的に古墳は造られなくなりますが、この地方で続き小型の古墳が造られていたことが判明しましたという。

『石棺から古墳時代を考える』は、播磨の西に接する岡山県の備前、美作、備中では、古墳の最終段階に盛んであった陶棺を小型につくって火葬骨蔵器に使用した事例が明らかになっているから、それらと同様な性格とみるのが合理的な解釈と思えるのであるという。
家形石棺は縦横比率が2:1程度だが、陶棺は幅がずっと狭い。

足の付いた石棺は見たことがないが、この陶棺には6対の太い足が付いている。

発掘当時の写真
何故こんなに太くたくさんの足が陶棺に付いているのか。


陶棺は東須恵の他の遺跡からも出土している。

蓮華文装飾付陶棺 本坊山古墳出土 東須恵 東京国立博物館提供
亀田修一氏の備前邑久窯跡群出土陶棺と鴟尾に関する覚書に詳しい図面がある。それによると、足は3列に8本ずつある。
同論文は、陶棺は、須恵質切妻家形陶棺で、身の一方の小口部に複弁八葉蓮華文を2個横に並べて飾った珍しいものである。屋根の妻部に円孔はない。身は外面上端部に凸帯がつく。2分割されており、屋根は全長176㎝、幅54.6-56.4㎝、高さ24.6-28.0㎝、棟は幅5.5㎝、高さ0.9㎝で、身を含めた総高は85㎝である。
この大きさであれば、遺体を伸展葬で納めることができ、「大」グループに属する。
という。
軒丸瓦の蓮華文を陶棺に貼り付けてある。
瀬戸内市長船町東須恵本坊山古墳出土 蓮華文装飾付陶棺 東京国立博物館提供

短側辺に一対の蓮華文
蓮華文は複弁八葉蓮華文で、直径5.2㎝の中房内に1+6+8の蓮子が配されている。中房と蓮華文の間に溝を持つ特徴がある。蓮華文の直径は12.7-13.0㎝である。左右2個の蓮華文ははっきりしないが、同笵のようであるという。
複弁の蓮弁そして中房にかすかに7つの蓮子が浮彫される。一番似ている蓮華文は、粟原寺跡出土垂木先瓦(複弁八葉蓮華文 白鳳時代)である。
本坊山古墳出土 蓮華文装飾付陶棺 東京国立博物館提供

写真パネル

馬鐸 錦鶏塚古墳出土 最大高16.7㎝ 東京国立博物館提供
丸い出っ張りを中心に帯状の線が八方に出て、それぞれに隙間なく円文を並べている。
錦鶏塚古墳出土馬鐸 東京国立博物館提供 

神人竜虎画像鏡 5世紀 築山古墳出土 直径20.3㎝ 東京国立博物館提供
築山古墳出土神人竜虎画像鏡 5世紀 東京国立博物館提供

内行花文鏡 4世紀 花光寺古墳出土 直径24.5㎝ 東京国立博物館提供
この鏡によって、花光寺古墳は築山古墳よりも古いものであることがわかる。
花光寺古墳出土内行花文鏡 4世紀 東京国立博物館提供






関連項目

参考サイト

参考文献
「石棺から古墳時代を考える 型と材質が表わす勢力分布」 間壁忠彦 1994年 同朋舎出版