次の展示室では崩れそうな木造の構造物が見えてきた。しかもそれはV字形の細い板で支えられているのだった。これが「うねる壁」で、今回の展覧会でも、フィンランドの森のパネルにあったものだが、ここでは上方でうねっていた。
これがニューヨーク万国博覧会フィンランド館の再現だった。
『二人のアアルト展図録』は、訪れた人々に向かって壁が傾いていることにより、展示が低い位置からでも見やすくなり、包み込まれるような感覚が生まれたという。
ニューヨーク万国博覧会フィンランド館の展示の前に小さな模型があった。それは1937年に開催されたパリ万国博覧会のフィンランド館の模型だった。
パリ万国博覧会フィンランド館の模型
『二人のアアルト展図録』は、1917年に独立してまもなくの頃、フィンランドはさまざまな展覧会や博覧会へ積極的に参加していた。国が自国の製造を海外へ輸出することを奨励したのである。第一次世界大戦後のこれらの催しの増加に伴い参加の機会も増えていき、1930年代はかつてないほど多くの万国博覧会や大規模な展覧会が催された。
1937年の万国博覧会はパリでの開催で、それに先立つ1936年、フィンランド館の公開設計競技にアルヴァは2案を提出した。その結果、「森は動いている」が優勝した。フィンランド館のもとになった優勝案は、アイノともに設計したものである。二人はパビリオンとその展示物の全体構想を明確にし、フィンランドの森林と木材製品をアピールしながら、パビリオンの構造から内装、家具調度に至るまであらゆるデザインの統一感を大切にして設計をしたという。
大きな建物の上には丸い羽根のようなものが並んでいる。
シャイヨ宮はこの万国博覧会の時に建てられたもので、左右対称の広げた翼のような形をした2つの建物からなる。その中央の広場からセーヌ川を挟んで、1889年のパリ万国博覧会の時に建造されたエッフェル塔が正面に見えるように設計された。
この付近はセーヌ川に向かって傾斜しているところなのだ。
アルヴァは、傾斜地を下るに従って小さな部屋が雁行し、一番低い場所に大きな建物があるというパビリオンを設計した。
正面立面図
訪れた人々は、敷地の高い方の中庭へと招き入れられ、一連の囲われたテラスや展示ギャラリーを散策し、最後に天井の高い大空間の閉じた展示ホールへと導かれたという。
その長方形の展示ホールは中央部分が低くなっており、その空間は円筒型のスカイライトから降り注ぐ光で満たされていた。この複合建築は日本の影響を受けた日陰の多い庭に沿って曲線を描いて配置され、さまざまな木製の柱や細部は、敷地内に生い茂る木々を引き立てたという。
内部
パビリオンでは、フィンランドの応用芸術やアアルト夫妻デザインのオブジェなどが展示された。1936年のガラス器デザインコンペで優勝した「エスキモー女性の革ズボン」シリーズの自由な形のガラス器は、このパリで初めて紹介されているという。
これがサヴォイベースになっていく。
ウィンターガーデン(温室)
同展図録は、またこのパビリオンには、アルテック単独の展示「ウィンターガーデン」が設けられた。このガーデンには夫妻の以前の家具が用いられていたが、新たにデザインされたアルヴァのティー・トローリーとアイノのラウンジチェアが目玉として展示されたという。
ティー・トローリーとはラウンジチェアの前に置かれた可動式のワゴンで、ほぼ同じ形のものが現在でも製造されている。
アルテック「ウィンターガーデン」の展示風景 1937年つ撮影 『二人のアアルト展図録』より |
そしてニューヨーク万国博覧会フィンランド館 1939年
『アイノとアルヴァ 二人のアアルト展図録』(以下『二人のアアルト展図録』)は、ニューヨーク万国博覧会フィンランド館の設計競技は1937年のパリ万国博覧会のアアルト設計によるフィンランド館が完成を迎える頃に始まった。フィンランドが独自のパビリオンを建設する余裕がなかったことから、建築家、主催国がいくつかの小国に割り当てた狭い箱のようなもので妥協しなければならなかった。
アルヴァの2案とアイノの1案はテーマがとても似ており、建設されたパビリオンは3案すべての要素を取り入れたようなものであった。
同展図録は、壁には「国、人々、労働」の三つの展示テーマを象徴する巨大な写真がラミネート圧着され、フィンランドの製品や陶器、ガラスデザイン、コンパクトな家具コーナーは、壁の下の階にまとめられたという。
ニューヨーク万国博覧会フィンランド館うねる壁 1939年 『二人のアアルト展図録』より |
同展図録は、バルコニーのレストラン上部には、波状の木板で覆われた映写機ボックスが吊り下げられ、出口側の壁にはめ込まれたスクリーンボックスへフィンランドの映像が投影された。レストラン上部の音をたてて回転する木製のプロペラは天井扇として機能し、展覧会の展示品でありながら歓喜装置の役割も果たしていた。レストランの高い部分からは、うねる壁の巨大な写真を一望することができたという。
フィンランド館、アルテック家具の展示風景 1939年 『二人のアアルト展図録』より |
「二人のアアルト展」での家具の展示 2021年
ここにティー・トローリーがあった👀
奥の壁にかかる家具のパーツ
ガラスと陶磁器の製品を展示したショーケース 1939年
同展図録は、1932年の禁酒法の廃止は、おりから高まっていた安価な生活用品への需要を促進しました。アアルト夫妻も1930年代に集中してガラス器のデザインを手がけていますという。
ガラスと陶磁器の製品を展示したショーケース 1939年 『二人のアアルト展図録』より |
アイノがデザインしたガラス器「マイヤ」と「ボルゲブリック」
「ボルゲブリック」シリーズ アイノ 1932年
同展図録は、1932年にガラス器製造会社のカルフラ=イッタラが開催したコンペは、機能主義的なガラス製品の開発と普及を飛躍的に前進させるきっかけになりました。この時にアイノが提案した「ボルゲブリック」(スウェーデン語で「水の波紋」、また「アアルト」はフィンランド語で波を意味する)のテーブルウェア・シリーズは、少し幅広の段を重ねたデザインで光を反射して美しく、プレートなどはまさに波紋のよう。
デザイン性と機能性の両方を備えたこの案はコンペに入賞し、さらに1936年にはミラノ・トリエンナーレで金メダルを獲得して、デザイナーとしてのアイノの名を広く知らしめることになりましたという。
同展図録は、アイノは、1936年にもカルフラ=イッタラのコンペに参加しており、この時に提案した「マイア」(スウェーデン語で「5月」)シリーズのうち、コールドカット用の四角いガラス皿が製品化されていますという。
ガラス器「アーロン・クッカ」Glassware”Aalto Flower” アイノとアルヴァ 1939年
同展図録は、1933年にリーヒマキのガラス器製造会社によってかいさいされたコンペのために、アアルト夫妻は後に「アーロン・クッカ」(アアルトの花)と名付けられるセットを考案しました。これは、皿、二つのボウル、花瓶で構成されており、重ねるとまさに可憐な花のように見える美しいデザインでした。
その後、ニューヨーク万博に向け改良され、「サヴォイベース」により近づけたデザインとして発表されています。
二人の協働作品であるこの仕事には、アルヴァの自由奔放さとアイノの実用性への指向が同居していますという。
無色透明なガラスで製作されたアーロン・クッカにはゆらぎが感じられる。
ガラス器「アーロン・クッカ」 アイノとアルヴァ 1939年 『二人のアアルト展図録』より |
今回展示されていたイッタラ社のアーロン・クッカはやや厚手。ガラス器と影とが一体化している。
アーロン・クッカのデザインスケッチ アイノとアルヴァ 1939年
同展図録は、二人が一緒にデザインをしたガラス器「アーロン・クッカ」が初めて紹介されたのが、この展覧会だったという。
また、ガラス器のコーナーにはサヴォイベースも並んでいた。
『二人のアアルト展図録』は、サヴォイベースのデザインがカルフラ社・イッタラ社のコンペで大賞を取ったのは1936年であった。応募時は「エスキモー女性の革ズボン」という名称で提出され、サーミの女性の伝統的な衣装から着想を得たとされている。
生活環境のなかですりこまれた自然への憧憬、感性が志向する不定形なカタチ、これを創り出す上で液体から成形されるガラスという素材は最適の材料であったという。
木型に溶融ガラスを吹き付けて成型された。
同展図録は、平面的には五つの弧を持ったフリーハンドの曲線を基本とし、型抜きの制約もあって、高さがあるタイプは底面に向けてほんのわずかだが細くなっている。吹きガラスによりつくられているということで、ガラスの肉厚は一つの製品の中でも一定ではない。当然二つとして同じものは存在しないが、今日でも人の手によって一定量製造されている奇跡的プロダクトであるという。
木型に溶融ガラスを吹き付けて成型 『二人のアアルト展図録』より |
サヴォイベースを通った光の影
同展図録は、吹きガラスゆえに生じるガラスの肉厚の変化は光を複雑に拾い、新たな質感を付与している。ガラス器を通した光の影はこれを雄弁に語るという。
田上拓氏ならもっと素晴らしい写真になると思うわ😉
サヴォイベースを通った光の影 『二人のアアルト展図録』より |
同展図録は、コンペ時のスケッチに示されたラインは、製造上の理由からアアルト財団のロゴにあるように、鋭く湾曲した部分が少し緩やかなカーブに修正されているが、ほぼ原形に近いという。
アアルト財団のロゴ 『二人のアアルト展図録』より |
ミュージアムショップでは小さなものもあって価格も手頃だったが、それを安心して置けるところが拙宅にはない😆
この建物はチャールズ川沿いを走る交通量の多い幹線道路に隣接している。アルヴァは個室からの眺めを重要視した。建物を蛇行させて壁面を長く取り、道路に対して角度のついた眺めにしたという。
この建物形状にともない、個室もさまざまな形になった。各フロアには43の個室があり、その形は似てはいるが、22タイプに分かれるという。
同展図録は、学生の個室の内装や質の高い家具はアイノによるデザインである。テキスタイルもまた、このベイカーハウスのために新たにデザインされ(「MITファブリック」)、椅子やソファの張地に使用されたという。
「地球・街角ガイド タビト パリ」 1995年 株式会社同朋舎出版フィンランド館の展示の一番最後には、当時のように写真が並んだ壁面のミニチュアが設えられていた。
クンストハレ・ヘルシンキで開催されたアイノとアルヴァ・アアルト25周年記念展
同展図録は、アイノとアルヴァの協働は、三つの建築様式、北欧古典主義、機能主義そしてモダン・コンテンポラリーを通して続き、そのどの様式でも実りあるものだったといえるでしょうという。
クンストハレ・ヘルシンキは1928年に開館した美術館
アイノとアルヴァ・アアルト25周年記念展 1947年撮影 『二人のアアルト展図録』より |
ガラス器の展示
さて、「うねる壁」は意外な物に引き継がれた。それはマサチューセッツ工科大学(MIT)の学生寮である。
同展図録は、MITの新学生寮(通称ベイカーハウス)は、アイノとアルヴァが協働した最後の作品である。アイノは竣工前に亡くなってしまったため、完成した建物を見ることはなかった。建築本体にについてはアルヴァが大部分を設計したという。
MITの学生寮 1946-49年 『二人のアアルト展図録』より |
この建物はチャールズ川沿いを走る交通量の多い幹線道路に隣接している。アルヴァは個室からの眺めを重要視した。建物を蛇行させて壁面を長く取り、道路に対して角度のついた眺めにしたという。
MITの学生寮 1946-49年 『二人のアアルト展図録』より |
この建物形状にともない、個室もさまざまな形になった。各フロアには43の個室があり、その形は似てはいるが、22タイプに分かれるという。
MITの学生寮 1946-49年 『二人のアアルト展図録』より |
同展図録は、学生の個室の内装や質の高い家具はアイノによるデザインである。テキスタイルもまた、このベイカーハウスのために新たにデザインされ(「MITファブリック」)、椅子やソファの張地に使用されたという。
MITの学生寮 1946-49年 『二人のアアルト展図録』より |
知らない街に入り込んだような、わくわくする非日常の世界に浸れるひとときだった。