JR灘駅から海に向かって歩いて行くと、建物に見え隠れしながら、妙なカエルっぽいものが、幾何学的な建物の屋根から顔と手を出しているらしいのが段々と見えてきて、それが美術館に違いないことがわかってきた。
こんな建物やったっけ? あんな妙なものがあったかなあ😮
展示室に入ると、この特別展は写真撮影可とのこと。いつもデジカメで写しているようにスマホで撮影する訳にはいかなかった。何枚撮れるのかさえ分からないのだから。それで壁面に展示されているものを一つ一つ写すのは止めることにした。
カエルの右手が二人のアアルト展のポスターを、左手がコレクション展のポスターを押さえていた。海風が強いのからとも思えないが。海とは反対側やし。
天邪鬼の私は写真を写しただけで、
西の入口から入ると、ロビーに座り心地の良い椅子や簡素なテーブルなどが展示されているのが目に入った。もう二人のアアルト展は始まっていた。
他の人たちは北入口か入場していった。こんな風に見ると、美術館というよりも、どこかの街に入っていくような感覚に。
美術館の外側を西側から南側へと回ると、オブジェがいろいろと並んでいた。美術館のホームページに紹介されていたものを見に来た。黄色と水色で「人」の形になっているのが永定正氏の「きいろとぶるう」という作品。
でもあの女の子はその中になかった。女の子は何かを持って、海に向かっているみたい。
段々とオブジェを増やして、楽しい美術館になっていくのだろう。
兵庫県立美術館のホームページにはカメラ撮影はだめとあったので、今日はカメラは持ってきていなかったが、この展示だけは写しても良いらしく、他の人たちも撮影していた。せっかくなのでスマホで写す。
長い間外出していなかったので、美術展を見るというよりも、別世界にやって来たような気がした😄
『アイノとアルヴァ 二人のアアルト 展図録』(以下『二人のアアルト展図録』)は、アルヴァ・アアルトとアイノ・マルシオはヘルシンキ工科大学の建築科で出会う。
1923年、アルヴァはユヴァスキュラに建築設計事務所を開設。
1924年、アイノはアアルト事務所にアシスタントとして勤務し始め、同年にアルヴァと結婚する。1925年に娘ヨハンナ、1928年に息子ハミルカルが生まれる。
1933年、ミラノ・トリエンナーレにおいて、パイミオのサナトリウムの家具が国際的に賞賛されると、アイノとアルヴァは世界的に活躍の場を広げていくという。
とりあえず「図面収納付き木製ライティング・ビューロー」を写してみる。
今でもパソコンのモニターを上に置いて、キーボードを開いた板に置いて使えそう。それに小さな引き出しの間には3連アーチと円柱が2本、まるで建物の柱廊のよう。🤩
同展図録は、アルヴァがユヴァスキュラに初めて設計事務所を構えた頃、建築図面を入れるために自身でデザインした机と推定されるという。
それで引き出しが多いのか。
住宅部分中庭側
左の白い建物が事務所
アイノによるガラス器のデザイン 1932年 プレスガラス カルフラ社 フィンランド国立ガラス美術館蔵
中央の照明がこんなに下に。
『二人のアアルト展図録』ではサヴォイベースと呼ばれているものだが、『フィンランド・デザイン展図録』ではアールトの花瓶と呼ばれ、カルフラ社で1930年代後半に制作され、1954年からイッタラ社でシリーズ製造、2012年現在も製造中しているという。
サヴォイベースに飾られているのは自由に茎を伸ばした野の花?
同展図録は、1924年の秋に結婚したアイノとアルヴァの新婚旅行の主な行き先はヴェネツィアとフィレンツェであったという。
妻のアイノが撮影した写真。夫のアルヴァは手前の横向きの人物? それとも後方で前向きにポーズをとっている人?
フィレンツェの中庭 1924年撮影
同展図録は、ユヴァスキュラの都市問題は、若い建築家たちの関心を呼んだ。アルヴァは、ルネサンスの都市宮殿、広い遊歩道、注意深く配置されたマーケット広場や記念碑のある広場によって活気づいた1920年代の低層木造都市を計画しているという。
同展図録は、ユヴァスキュラをフィレンツェ、フィンランド人を新ルネサンス人に見立てるロマンチックな夢。その計画はあたかもフィンランドの小さな町に移築されたイタリアの修道院といった趣きであるという。
ユヴァスキュラの実現しなかった葬儀礼拝堂スケッチ アルヴァ 1925年 『二人のアアルト展図録』より |
労働者会館 1924-25年 ユヴァスキュラ
同展図録は、アルヴァの古典主義時代の主要な作品の一つである。
委託内容は、建物に付随する家具や照明器具、さまざまなディテールのデザインにも及んだ。この建築には「総合芸術」の概念が魅力的に取り入れられ、完成した建築作品の細部に至るまで建築家の刻印が残されている。アイノもアルヴァにアドバイスや影響を与えており、労働者会館のデザインに多大な貢献をしている。
労働者会館はヴェネツィアの都市のパラッツォ(特にドゥカーレ宮殿)としばしば比較されてきた。実際、ファサードを特徴づけるピアノ・ノビーレ(ルネサンス様式の建築物の主要階をさす。2階であることが多い)の手すりを備えたパッラーディオ式窓など多くの部分がルネサンス建築から引用されているという。
労働者会館内の劇場ホール
劇場ホールの照明
照明器具の形状には、ルネサンスとバロックの主題が盛り込まれ、自然の中の花や木の葉、貝を表したモチーフがみられるという。
これはどう見ても夜空に輝く星😊
装飾的な塗装が施された半円壁は、レオン・バッティスタ・アルベルティ設計のルチェライ礼拝堂(1467)がモデルであるという。
思いのほか鮮やかな赤い色で覆われている。
隣の窓枠のある部屋には簡素なパイプベッドや椅子などがある。
次の展示室は木材曲げ加工による家具、特に椅子が木材の曲面の中にあった。
劇場フォワイエの半円形装飾壁 『二人のアアルト展図録』より |
正面入口のドアハンドル アルヴァ 1924-25年
大きなもので、照明器具かと思っていた。
ヴィラ・フローラ 柱廊テラスのある西側 1926年 アラヤルヴィ
同展図録は、アイノは、家族のためにつつましい夏の家を設計した。この建物はオストロボスニア地方のアラヤルヴィにある。
白い簡素な木造建築はルネサンス精神を込めて建てられ、湖に面した側は建物の端から端まで柱が並ぶテラスとなっているという。
ところがその柱廊の写真はピントがあっていなかった😣ので、図録より。
柱廊といっても5本の細い丸太で支えている。そしてその上には草屋根👀
建物の図面
同展図録は、建設当初は延52㎡の平屋で、一寝室、リビング・ダイニング(簡易ベッドが1台付帯)、台所の三つのゾーンからなるシンプルな構成であった。建設当初暖炉の表面にあった古典的な装飾は、1930年代には白漆喰で覆われていた。アアルト夫妻が二人の子どもと短い夏を謳歌したことは、1938年に寝室が2室増築されたこと、彼らが撮影した映像記録からも見て取れるという。
2つの小さな窓と台所の勝手口のある東側から
建物を一周してみる。草屋根の感じがよくわかる。
北東側外観
テラスの天井は半円よりも浅いので、軽い感じがする。しかも板を長手に並べたヴォールトというのは、北欧では珍しくないのかも知れないが、ちょっと驚いた。
湖岸で遊ぶヨハンナとハミルカルを見つめるアルヴァ 1930年代前半
ヴィラ・フローラのテラス 『二人のアアルト展図録』より |
湖岸で遊ぶヨハンナとハミルカルを見つめるアルヴァ 1930年代前半
ムーラメの教会 1926-29年
同展図録は、1924年秋、アイノとアルヴァの北イタリアへの新婚旅行は、アルヴァにとって初めてのイタリアであり、彼と伝統的古典主義建築との関係を強めることになります。
この時の主要な古典主義の教会。円柱で支えられたアーケード回廊を持つイタリアの田舎の教会の特徴を備えたものでした。この回廊にみられるアーチというテーマは。同時期の建築作品やアルヴァの仕事机といった家具にも現れています。アルヴァが初めて旅したイタリアで受けた印象が、このムーラメの教会には強く現れている。
計画の終盤で設計された家具調度には、アルヴァのモダニズムへの転換期の要素が取り入れられ、ポール・ヘニングセンによるランプが内部の照明として採用されているという。
入口側上部から内部を眺めたが、アクリルのカーテンのようなものがあって、内陣はぼんやりとしか見えなかったが、ポール・ヘニングセンによるランプが2列並んでいるのと内陣に壁画があるのは分かった。
入口から内陣を望む 2016年撮影
壁画が何を表しているのかは分からないし、十字架も彫像もない。どんな宗派なのだろう。
天井を切り開いたような造りで、梁や青いヴォールト天井などが見えている。
各テーブルの中央通路側にはろうそくが準備されている。
各テーブルの中央通路側にはろうそくが準備されている。
右奥には教区ホールがある。
同展図録は、この教会は、円形内陣の片側にヴォールト天井が掛かり、教区ホールが付属礼拝堂としての内陣として内陣の右側に配されている。このホールから階段で回廊に続く出口へ降りることができ、当初の計画ではこの回廊はバラ園で囲まれていたという。
同展図録は、アルヴァは1927年に南西フィンランド農業協同組合ビル(1927-28)の設計競技で優勝し、設計を依頼された。トゥルク中心部に建つこのビルは。商業施設や事務所、住宅のほか、ホテル、レストラン、劇場施設が入る複合ビルであった。道に面したファサードは、伝統的なシンメトリーの雰囲気を持ち、古典的な装飾モチーフが施されているが、内部は古典主義の厳密なシンメトリーから脱却した、全く新しい機能的な平面プランとなっている。
このビルが完成すると、アアルト一家は設計事務所とともに最上階へ転居した。アイノは住宅のインテリアを手がけ、子どもの家具もデザインした。また家具は夫妻による特注モデルのものが使われた。アイノが手がけたモダンなインテリア・デザインは1929年の『トゥレンカタヤトゥ』誌に大きく紹介されたという。
アイノのデザインによる子ども用家具の置かれた子ども部屋
つぎの展示室は集合住宅の一室が再現されていて、まず2つの窓枠が見えた。最小限住宅展の展示である。
同展図録は、アルヴァが出席したCIAMの会議にインスピレーションを受け、1930年、アイノとアルヴァは良質なモダン住宅のデザインについての考えを提示する展覧会を開催したという。
平面図
同展図録は、アルヴァは展覧会に関する論文で、次のように書いている。「250㎡のアパートを70㎡に住み替える時代がくるだろう。 57
内部の様子を見ながら回り込んでいった。
黒い窓枠の向こうにある大きな写真パネルは南西フィンランド農業協同組合ビル(1928年アイノ撮影)で、その最上階に2人の設計事務所と住居があった。
反対側にはLDK(Kの展示はなかった)
同展図録は、アイノは使いやすいキッチンを、特に人間工学と衛生に配慮して設計したという。
大きな台の左半分にまな板とシンクを組み合わせたものが置かれているのかな。
ダイニングルームには壁がなくリビングに続いている。現在の日本では一般的。
その奥には木製の調度品と4パイプを使った椅子やソファーベッドのある部屋になっていた。カーテンも淡い色で光が入るようになっている。
黒いテーブルにはノートパソコンは置けるだろうが、私のように不要な書物も積み上げてしまう人間には不向き😁
同展図録は、パイミオのサナトリウムの結核患者のための椅子として開発された。フレームも座面も全て自国の木材を使用して積層し、曲げ加工した大判の成形合板を使用することを思いついた。背もたれの角度は、腰かけたときに呼吸が楽になるように設計されたという。
家具デザインと内装にはアイノが大きく関わり、パイミオのサナトリウムの建築が世界的名声を得るとともに、アアルト夫妻を家具デザイナーとしても一躍有名にしたという。
右からアームチェア(赤、1933)、サイドテーブル(黒、1932)、壁付け棚(図録の写真と反対、1935)、
木材曲げ加工の道具
左がアームチェア(緑、1932)、右がパイミオチェア(黒、1932)。やっと椅子の形で現れた。
丸椅子もいろんなデザインがある。
左がアームチェア(緑、1932)、右がパイミオチェア(黒、1932)。やっと椅子の形で現れた。
パイミオのサナトリウム
同展図録は、パイミオのサナトリウムは、モダニズム建築の不動の傑作である。この機能主義建築の結核療養所は総合芸術であり、その建物、内装、照明、そして静かな環境のための音響に至るまで、患者が回復し静養できるように設計されている。1933年、このサナトリウムが完成すると、海外で大きく注目された。多くの人が現地を訪れ、専門誌にも広く取り上げられた。このように、この建物はアイノとアルヴァの国際的なキャリアにおいて極めて重要なものであるという。
病室棟ではなさそうだが、シェードが暖色の落ち着いた色になっている。
サナトリウム最上階テラス
講義室
同展図録は、ヨーロッパの建築家の同志たち同様、アアルト夫妻は家具の素材にスチールパイプや合板を使用することをすでに試みていた。しかしこの療養所においては、家具をさらに美しいものに、そして人が触れる部分に温かみのある国産の開発に取り組み始めた。その家具は、やがて機能主義建築家によってデザインされたスチールパイプの家具とは全く対照的なものとなった。
その背後には、ヴィープリの図書館の模型や椅子、壁面には大きな写真パネル
閲覧室のスカイライト 2014年撮影
奥の壁には図書館の講堂 1935年撮影
「子どものスケール」展で展示された家具
曲げ木と合板の試みは、新しい革新的な家具をいくつも生み出すこととなった。サナトリウムで使用されたパイミオチェアと呼ばれる有名な椅子は、今日ではアアルトデザインの象徴となっているという。
バイミオチェアが並んでいる。
次にみえてきたのはフィンランドの森
複雑な曲面は、後に「うねる壁」と呼ばれるものだ。
豊かな森林と湖のフィンランドとはいえ細い木々ばかり。これでは材木にはならないだろう。
図書館の模型
閲覧室 1935年撮影
閲覧室の採光のスタディ 1934-35年 アルヴァ
左下に大きな本を開いた人とどこからでも光が入ることを矢印で示している。
ヴィープリの図書館閲覧室の採光のスタディ 『二人のアアルト展図録』より |
閲覧室のスカイライト 2014年撮影
天井の厚みの部分で光が乱反射するのか。
閲覧室のスカイライト 2014年撮影 『二人のアアルト展図録』より
右よりスツール(1933年)、チェア(1935年)、アームチェア(1933年)で全てアルヴァがデザインした。
丸椅子や背もたれのある丸椅子がびっしりと並び、ときどき立てて使われていた曲面の壁、後に「うねる壁」だと判明する壁面を天井に使っているようで、それが木材でできている。
アルテック社
同展図録は、インテリアデザイン会社アルテックは、アイノとアルヴァ・アアルト、ニルス・グスタフ・ハール(1904-41)、マイレ・グリクセン(1907-90)によって、ヘルシンキで1935年10月に設立され、第1号店を開店した。
1階にはモダンな暮らしを提案するアルテック家具のショーウインドウが、上階にはデザイン室が設けられ、アイノの仕事場となった。
創立者のハールとマイレは芸術の普及の目を持ち、アルテックストアに併設するアートギャラリーの設立を推進した。1930年代の後半にはアートギャラリーによる展覧会を実現したという。
同展図録は、アイノは社会貢献への思いを強く持ち、新しい分野、通称「子どもの家」のインテリアデザインに熱心に取り組んでいる。フィンランドでは20世紀初頭の数十年で児童福祉の体系的な手法が確立した。就学前児童の健康管理や保育のための新しい施設が開設され、そのための家具が必要になった。
幼稚園は狭い場所で運営されることが多く、家具には軽量かつ実用的であることが求められた。フィンランド健康協会の認定を受けて、数多くの製品が何年にもわたって製造された。このようにアアルト家具はフィンランドの幼稚園の定番になり、そのシンプルな優美さを理解する子どもたちを育むことになったという。
つづいてはカルフラの子どもたちのための施設
同展図録は、アイノは社会貢献への思いを強く持ち、新しい分野、通称「子どもの家」のインテリアデザインに熱心に取り組んでいる。フィンランドでは20世紀初頭の数十年で児童福祉の体系的な手法が確立した。就学前児童の健康管理や保育のための新しい施設が開設され、そのための家具が必要になった。アルテックではアイノが中心となり、乳幼児や妊婦の計測や検査をするためのテーブルなどをアアルト家具の特別シリーズとして製作している。
このようにアアルト家具はフィンランドの幼稚園の定番になり、そのシンプルな優美さを理解する子どもたちを育むことになったという。
マイヤ・ヘイキンヘイモによるインテリアのためのデザインスケッチ 1938年
次の展示室には2つの模型があったが、まず奥の方から
アアルトハウス ヘルシンキ 1935-36年
同展図録は、1934年、アイノとアルヴァは、ヘルシンキの郊外ムンッキニエミのリーヒティエ通りに、ほとんど手つかずの自然に囲まれた土地を購入した。そこに二人が設計したのは、シンプルな自然の素材を使うことによって、モダニズム建築の形態言語を柔らかに表現した建物である。
アアルトハウスは1936年8月に完成した。この住宅は、自宅兼事務所として設計され、これら二つの機能は外観からもはっきりと見て取れるという。
左の白い建物が事務所
奥に展示されているアアルトハウスのダイニングルーム
同展図録は、ダイニングルームと給仕用廊下との間にはキャビネットが備えられ、ダイニングルーム側はガラスの引き戸のついた木製の棚となっており、給仕側は一部がカジュアルな白で塗装されている。
キャビネットの上部には曲線が使われ、緩やかに周囲につながるダイニングルームとキッチンを分割してるという。
イタリア旅行から持ち帰った装飾的な椅子が4客と籐椅子が2客。装飾のない大きなテーブルの上にはサヴォイ・ベース(後述)。
キャビネットの引き出しや小窓はどちらの部屋からも開けることができ、小窓は食事を給仕する側の動線に配慮しているという。
台所からリビングルームを望む
食器を置く棚は開かないのは、角をなくして曲面にしているからだろう。私のようなそそっかしい人間にとっては頭をぶつけなくて重宝する。
食器棚には懐かしいガラス器が飾れていた。2013年に大阪市立東洋陶磁美術館で見た「森と湖の国 フィンランド・デザイン展」(以下『フィンランド・デザイン展』)でも見たようなコップ類や花瓶などだった。
このコップ類にはイッタラ社のシールが貼ってあるものもあるが、形としては、アイノが1932年にカルフラ社に製造させたプレスガラス。
『フィンランド・デザイン展図録』は、その年にカルフラ社=イッタラ社デザイン・コンペティション第2位となったもの。1951年までカルフラ社、1960年までイッタラ社、1983年から現在も製造中という。
『フィンランド・デザイン展図録』は、1932年カルフラ社=イッタラ社デザイン・コンペティション第2位
1951年までカルフラ社、イッタラ社で1938年から2012年。現在製造中という。
その隣にはアアルトハウスのリビングルームが再現されていた。面取りになった正方形のテーブルの上にはサヴォイベースが2つ。
このガラス器にもイッタラ社のシールがある。
1937年に製造されたアアルトの花瓶はガラスの面にゆらぎのあるものだった。
幅が広くて低いので、そそっかしい私でも倒すおそれはない😉
また、サヴォイ・ベースについて『二人のアアルト展図録』は、1936年にカルフラ=イッタラ社が製品のデザイン案を募集した時、アルヴァは「エスキモー女性のズボン」というテーマの花器を提出し、採用されました。
fig.1 初期段階のデッサン
手が動くままに絵描き出したような、地面に落ちた水滴とも花弁ともとれる自由な形
fig.2 開口部の意匠はより特徴的
アルヴァがCIAMの書記長だったギーディオンを通じて知り合ったハンス・アルプやアレクサンダー・コールダーらの作品に現れる有機的な、しかし何者ともとれない一連の形態も想起されます。また一方で、花器の側面が強調されていることからその波打つ意匠が浮き上がってきており、まるで重なり合う木々の幹やオーロラのよう
fig.3 2の片隅の製品として完成した後の使用例の拡大
背の高い花器には茎の長い植物を、背の低いものにはサボテンを置くなどして、実用性にも配慮しているという。
「エスキモー女性のズボン」案 アルヴァ 1936年 『二人のアアルト展図録』より |
『二人のアアルト展図録』は、花器を組み合わせることで使用方法のバリエーションを増やすという考え方は、アアルト夫妻によるガラス製品に共通して見られる特徴です。アルヴァは、1935年以降、建物を全体として捉えるのではなく、より小さな構成単位に着目し、それらを指してセル(細胞)という生物学的な表現を使っており、そうした思考がこのガラス製品の考案にも及んでいるようです。これらの花器は1937年のパリ万博フィンランド館で展示されて高い評価を得ました。
この後アルヴァはヘルシンキのレストラン・サヴォイのためにこの案を改良した「サヴォイベース」を発表しました。広く人気を博したこのデザインは、今日ではフィンランドの典型的なデザインの一つになっていますという。
レストラン・サヴォイ 1937年撮影 『二人のアアルト展図録』より |
サヴォイベースに飾られているのは自由に茎を伸ばした野の花?
レストラン・サヴォイのサヴォイベース 1937年撮影 『二人のアアルト展図録』より |
もう一つの建物模型 マイレア邸 1937-39年 ノールマック
同展図録は、アアルト夫妻とマイレおよびハッリ・グリクセン夫妻の親好は、フィンランド各地のA.アールスロム社の工場や住宅プロジェクトの数々など、広範な成果をもたらした。しかしながら、最も美しい作品といえるのはグリクセン家のために設計された邸宅だろう。マイレア邸は、アアルトの有機的モダニズム作品として、世界に名だたる至宝となっているという。
同展図録は、アアルトハウスと同様、マイレア邸は、白い立体の機能主義と、ふんだんに使われている温かみのある色合いの木や贅沢な手仕事による細部とが調和したモダンな邸宅である。その室内空間は、まるで一つの森を端から端まで歩くような感覚を味わわせてくれる。つまり移動するにつれて光と影の量が変化するのである。狭い玄関ホールはリビングルームに通じ、そのリビングはさらにプールと芝屋根のサウナのある庭に大きく開いているという。リビングの庭に出る窓辺にたたずむマイレとアイノ 1940年代
中庭の奥にサウナの建物が見えている。
マイレア邸のマとアイノ 1940年代 『二人のアアルト展図録』より |
マイレア邸のリビング 二面が窓になっている側。
左下の黒っぽい出っ張りがメインエントランス
参考文献
「アイノとアルヴァ 二人のアアルト 展図録」 2021年 株式会社国書刊行会
「森と湖の国 フィンランド・デザイン展図録」 サントリー美術館・朝日新聞社 2012年