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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/12/24

石棺の形の変遷 木棺から長持形石棺まで


石棺の形はどのように変化していったのだろう。

『王者のひつぎ』は、3世紀後半以降、奈良盆地東南部に巨大な前方後円墳が陸続と造営されました。巨大古墳の発生は、ヤマト王権の成立を意味すると考えられます。
発生段階(古墳時代前期前半)の大王墓の埋葬施設は、竪穴式石室に、割竹形木棺だったよ うです。王のひつぎはコウヤマキやヒノキの大木を2つに割って埋葬空間を刳り抜き、両端を仕切り板でふさぐ構造です。大半の木棺は経年で朽ち果てて残されていません。中型・小型古墳は竪穴式石室を築かず、割竹形木棺を粘土で被覆するだけの構造もあります。いずれも、木製のひつぎだったようです。
割竹形木棺は全長10m以上ある場合も知られます。ヤマト王権が採用した王者のひつぎを非常に大きくつくる発想は、弥生時代にはなかった思想ですという。
まず王者の最初期のひつぎの材料とされたのは木だった。

割竹形木棺 クワ 古墳時代前期 奈良県天理市黒塚古墳
黒塚古墳の説明パネルは、古墳の調査で後円部において竪穴式石室が検出された。石室は南北8.3m、幅約0.9-1.3m、高さ約1.7mあり中央部には長さ約6.2mの粘土棺床が残存していた。
木棺はクワの巨木を刳り貫いて作られたが、すべて腐って残存していないという。
クワとは珍しい。
奈良県天理市黒塚古墳 『王者のひつぎ』より

コウヤマキ製木棺 桜井茶臼山古墳 
見学会でもらった『桜井茶臼山古墳の調査』は、竪穴式石室の内部は水銀朱を塗布した石材に囲まれた南北に細長い長方体の空間であり、南北長6.75m・北端幅1.27m・高さ1.60m前後を測ります。基底は南北に続く浅い溝状になっており、板石を二・三重に敷き詰め、棺床土をおき、その上に木棺を安置していましたという。
桜井茶臼山古墳 木棺 見学会の説明パネルより

木棺は腐朽と盗掘による破壊で原形を失っていましたが、遺存した棺身の底部分は、長さ4.89m・幅75㎝・最大厚27㎝を測る長大なものですという。
桜井茶臼山古墳 木棺 見学会の説明パネルより


『王者のひつぎ』は、ヒノキやコウヤマキの大木を真っ二つに割る技術は、ノコギリのなかった時代、丸木舟や木樋をつくる技術に共通するものかもしれません。
古墳時代前期の鉄のクサビはいまだ発見されていませんが、クサビを打ち込んで大木を割る技術と、岩盤にクサビを打ち込んで石材を割り取る技術は通じるものだったと考えますという。
竹中大工道具館では、丸太から板をつくるのに木製のくさびを使っている。しかし、石を割るには木製ではだめなので、鉄製のくさびを使うようになったのだろう。
大木から板をつくる実験 『竹中大工道具館 常設展示図録』より


『王者のひつぎ』は、古墳時代前期後半世(4世紀後半)刳り抜き式舟形石棺が登場します。この時期、石切り場や石工集団をもたない近畿・吉備地域はもっぱら讃岐や肥後からの搬入に頼ります。
讃岐では、西部の鷲の山と東部の火山(ひやま)を産地とする石棺が盛んにつくられました。もっとも古いとされる丸亀市快天山古墳には3基の舟形石棺があり、知られているものとしては最古です。 快天山古墳の出現においても非常に唐突な出来事だったようです。それまでに数多くつくられた前期前方後円墳が全長40m程度であったことに対し、突然全長100m級の出現です。 また、大和に共通する円筒埴輪を讃岐で最初に樹立し、複数の主体をもちます。
快天山古墳の特徴を継承し、快天山古墳石棺とわずか5㎝の誤差しかない形態の棺を火山石でつくり、納めた古墳がさぬき市赤山古墳です。以降、鷲の山石と火山石の石棺製作が発展、その製作技法などは、阿蘇や福井の石棺製作にも影響したことがわかっています。
快天山古墳や赤山古墳の被葬者が岐の石工集団を組織化し、ヤマト王権とも交流をもっていたことは確かです。そもそも、石棺製作の契機は、大王からの要請で始まった可能性もあり、大王墓のひつぎの解明が期待されますという。
文化財オンライン快天山古墳でも、割竹形石棺となっている。


割竹形石棺へ 古墳時代前期後半(4世紀後半)
『王者のひつぎ』は、古墳時代前期後半(4世紀後半)、讃岐の鷲の山石を刳り抜いた石棺が登場します。割竹形木棺など、大木のひつぎを模倣したのでしょうが、蓋の頂部を山形にするなど、舟を意識した可能性もあります。短辺に大きな縄掛け突起をつくり出すことが特徴です。 
これらは地元の讃岐で使われたほか、河内・大和の古墳にも運ばれました。
前期後半の巨大古墳は大和盆地北部に営まれました。このうち、垂仁陵古墳・日葉酢媛陵古墳・成務陵古墳などに石棺があったという伝承が残ります。4世紀後半のヤマト王権は讃岐の勢力と密接な関係をもち、当地の石材でひつぎをつくらせて、はるばる運ばせたと推定します。大王墓の埋葬施設はほとんど調査されておらず、どの大王から石棺を採用したのか、どんな形の石棺だったのかはわかりませんという。
石材の産出地では、石材を切り出すだけではなく、石棺に加工していたのだった。


割竹形石棺 刳り抜き 古墳時代前期 
『石棺から古墳時代を考える』は、刳り抜いた蓋と身を合わせた形が、ちょうど竹の節を縦に二分したようにみえ、蓋も身も断面が半円形で、垂直に切ったような両端面に繩掛突起をつくり出した姿のものを割竹形石棺と呼ぶことがある。
割竹形石棺は、古墳前期に行われた長大な割竹形木棺の形を石材で製作したものと考えられ、一般的には舟形石棺よりも形式的には古い要素だとみられてきた。 
割竹形石棺といえるものは大変数が少なく、舟形石棺との区分が困難な事例があることから、全体を舟形石棺と呼ぶこともある。また、総称として割竹舟形石棺と書いたりもする。
割竹形石棺は、古墳前期に行われた長大な割竹形木棺の形を石材で製作したものと考えられ、一般的には舟形石棺よりも形式的には古い要素だとみられてきた。実際に、割竹形石棺といえるものはいわゆる前期古墳に用いられ、舟形石棺は前期の後半から始まり中期古墳に使用されているという。
割竹形石棺 『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺』より

そして、間壁夫妻の調査の結果、畿内中心地域で割竹形石棺の典型として注目を集め、この系譜の石棺の源流を示すかと思われていたものが、香川県讃岐に由来するものとなったのであったという。

割竹形石棺 鷲の山石 高松市峯山町石清尾山石船古墳出土 
蓋と身の短辺側に一つずつ繩掛突起が彫り出されている。
割竹形石棺 香川県高松市石清尾山石船古墳出土 『石棺から古墳時代を考える』より

割竹形石棺の蓋 刳り抜き 鷲の山石 大阪府柏原市玉手山丘陵上の玉手山3号墳 全長約100mの前方後円墳 安福寺蔵
『石棺から古墳時代を考える』は、安福寺の石棺は、玉手山丘陵の北部尾根上の前方後円墳玉手山3号墳(勝負山 かちまけやま 古墳とも呼ばれる)から出土した。同丘陵上の主要な前方後円墳出土との伝えを残している。
この棺蓋は身との合わせ口に近い外面に直弧文がめぐることで有名で、断面が半円形、両端の縄掛突起は欠けており、剥落した痕跡を残すのみであるが、垂直な半円形の端面をみせている。いわば、典型的な割竹形石棺なのである。
そのような割竹形石棺の数少ない一例が、応神天皇陵として宮内庁が比定している誉田山の古墳をはじめとする古市古墳群を含む河内平野の有力古墳集中地を西に見おろす玉手山丘陵の上に存在する。その丘陵上にある前期古墳群は、河内の巨大古墳を生み出すより少し前に、この地域に勢力を得ていた者の奥津城だと考えられているから、安福寺の割竹形石棺も畿内中枢部に位置した前期古墳の棺であったことになるという。  
大阪府柏原市安福寺 割竹形石棺の蓋 鷲の山石 『石棺から古墳時代を考える』より

割竹形石棺の身 刳り抜き 鷲の山石 香川県高松市三谷丸山古墳出土 全長約90mの前方後円墳
香川県高松市三谷丸山古墳 割竹形石棺の身 鷲の山石 『石棺から古墳時代を考える』より


舟形石棺 刳り抜き 古墳時代前期後半-中期 
『石棺から古墳時代を考える』は、蓋と身の断面が平たい半円形になって、蓋の中央に稜をつくったり、両端に傾斜面をつくったものを舟形石棺と呼び、両端の他に側面へも繩掛突起をつくり出したものがある。
刳り抜きの木棺に由来して、それを石材でつくろうとして成立したものであったと考えられている。
舟形石棺は前期の後半から始まり中期古墳に使用されているという。
舟形石棺 『王者のひつぎ』より


舟形石棺 刳り抜き 阿蘇凝灰岩 京都府八幡市茶臼山古墳出土 
同書は、古墳文化の中枢、畿内地方に中心をおいたものではなく、地方の王者の棺であった。しかも、地方の王者の棺であるといいながら、有力な古墳の所在地で舟形石棺が採用されていない地方も多く、限られた地方の有力首長が用いているという。
舟形石棺 京都府八幡市茶臼山古墳出土 『石棺から古墳時代を考える』より

舟形石棺 刳り抜き 阿蘇凝灰岩 京都府蛭子山古墳出土 
文化財オンライン蛭子山古墳に出土状況の写真があった。その写真ではすでに短側側に石が一つずつ挟まっているが、不整形のため、発掘時に挟まれたものと思われる。
京都府蛭子山古墳 『王者のひつぎ』より


『石棺から古墳時代を考える』は、香川県讃岐では、鷲の山とは別の石材、火山石による舟形石棺が東部地域でみられる。

その火山石の地元で、同石材により製作された石棺も鷲の山石の石棺と同様に、有力な前期古墳に納められている。

火山石を切り出した山丘のすぐ北には、北から南に向かって湾入した入江が見え、海岸砂洲には美しい松原がある。ちょうど天然の良港という地形になっている。その山丘上には前方後円墳を主にした前半期の古墳群がある。これは、その時期の港湾として、津田湾が瀬戸内海航路の有力な位置を占め、海上交通にかかわったこの地の首長の墳墓が、入江を見おろす丘上に営まれたものと推定されているのであるという。


火山石(ひやまいし)の舟形石棺には蓋を屋根形につくるものが含まれる。

舟形石棺図面 刳り抜き 讃岐火山石 大川郡津田町岩崎山4号墳 全長約50mの前方後円墳
同書は、竪穴石室内中に石棺を納める。この石棺は、蓋身ともに短側にのみ縄掛突起をつくり、蓋には田の字状に帯を彫り出し、身の両端に枕を彫り出している。石枕つくり付けということでは鷲の山石製石棺との共通性が知られるのであるという。
枕も石材から彫り出したものもある。
香川県岩崎山4号墳 『石棺から古墳時代を考える』より


半環状突起のある舟形石棺 刳り抜き 阿蘇凝灰岩 佐賀市久保泉町川久保熊本山古墳
『石棺から古墳時代を考える』は、火山石の舟形石棺には蓋を屋根形につくるものが含まれる点にも眼を向けておく必要があろう。 屋根形の蓋をもつ舟形石棺は、九州阿蘇の石のもので多くが知られている。それだけではなく、鶴山丸山古墳の屋根形蓋の両端には、半環状の縄掛突起がある。この形の縄掛突起も、九州阿蘇の石による舟形石棺にみられる特性であるという。 
佐賀市熊本山古墳の半環状突起のある石棺 阿蘇凝灰岩 『石棺から古墳時代を考える』より

半環状突起のある舟形石棺 刳り抜き 阿蘇凝灰岩 兵庫県たつの市御津町中島 
『石棺から古墳時代を考える』は、棺の身は不明で蓋のみが残ってお り、出土古墳の内容はわかっていない。しかし、棺の両側の 短辺に半環状縄掛突起をつくった阿蘇の石による舟形石棺が、宇土市向野田古墳、佐賀市熊本山古墳とも前期に属すると考えられており、石材が火山石である鶴山丸山古墳も同じ頃の古墳である。 屋根形で一端が幅広く他端で幅狭くつくられた細長い形態をみせる御津町出土例 も、ほぼ同時期のものとみてよかろうという。
しかも蓋が屋根の形になっている。ひょっとして家形石棺の先駆けとなるものでは・・・
それにしても、蓋石は薄く加工されている。
たつの市御津町中島の半環状突起のある石棺 阿蘇凝灰岩 『石棺から古墳時代を考える』より


長持形石棺 5世紀
『王者のひつぎ』は、身と蓋の内側を刳り抜く大木形の石棺にかわって、古墳時代中期(5世紀)になると板材を組み合わせる箱形で背が高い石棺が登場します。長持形石棺と呼んでいます。
長持形石棺は蓋石が山形に盛り上がり、各長辺・短辺に大きな円筒形の縄掛け突起を備えます。また、底石は厚くて平らな板石です。四辺の石を固定する溝が切られます。古墳時代前期前半の京都府椿井大塚山古墳・岡山県湯迫車塚古墳の埋葬施設は床面が平坦です。有力者のひつぎに組み合わせ式の木棺を想定する意見も古くから聞かれます。 
その一方、古墳時代前期末の京都府妙見山古墳石棺や大阪府松岳山古墳石棺は、組み合わせ式ですが、箱形ではなく長細い大木形で、舟形石棺と長持形石棺の過渡的な石棺という意見があります。これらは古墳時代前期と中期の石棺を連続した形態変化でとらえる意見ですという。

その初現について『石棺から古墳時代を考える』は、箱式石棺が、一般的には底石をもたず、長辺に1材でなく複数の石材を立て、蓋石も複数の石を用いることが多いのに対し、長持形石棺は、1枚の底石の上にのせる側石、蓋石をそれぞれ1枚の材で製作する。
この長持形石棺の組合せ方と類似した大型の組合せ石棺を竪穴石室でおおったものが、前期形式の古墳に用いられた例がある。大阪府柏原市国分町の松岳山古墳であるという。

松岳山古墳出土 蓋と底石は花崗岩、 側石4枚は鷲の山石 大阪府柏原市国分町 同丘上 全長約130mの前方後円墳  
同書は、玉手山丘陵上から大和川を1㎞ほどさかのぼった南岸の小山が松岳山であり、その丘上が松岳山古墳である。大きな組合せ石棺が納められており、長持形石棺の祖形であろうといわれて注目を集めている。
その石棺の底石と蓋石は花崗岩製であるが、四枚の側石は鷲の山石であることを、安福寺石棺踏査と同じ時に確かめたのであった。鷲の山石による組合せ石棺は、この松岳山古墳が唯一の例である。安福寺石棺と近接した場所の有力古墳へ同じ石材が運びこまれていたことは、見逃せないことである。それは、単に石棺石材のことだけでなく、松岳山古墳が積石塚である点とも関係する。
前期古墳の積石塚は、高松市石清尾山古墳群で典型をみるように讃岐で注目される。畿内地方ではめずらしい積石塚である前期の有力古墳が、石棺の石材をその讃岐から得ていることは、決して無縁ではないと思わせるのである。讃岐石清尾山積石塚群の中でも石船古墳に鷲の山石による刳り抜き石棺が用いられている。
長持形石棺の初源形態をみせる数少ない事例の一つである松岳山古墳では、側石4枚の凝灰岩が、鷲の山石であった。鷲の山石では、刳り抜き石棺を製作するのが原則であり、組合せ石棺の石材になったことがわかっているのは、この松岳山古墳が唯一の例である。割竹舟形系石棺の中では全体として古い形態を示す鷲の山石による刳り抜き石棺と、松岳山古墳の組合せ石棺部材の一部が鷲の山石である点は、割竹舟形系石棺と長持形石棺誕生への動向を結ぶ糸のようにも思われるという。

石棺の後方に丸い穴のある石板が立ててある。

大阪府柏原市国分松岳山古墳 長持形石棺の祖型 『石棺から古墳時代を考える』より 

柏原市のホームページ松岳山古墳には、同古墳の構造や発掘調査状況、石棺と立石の写真など、詳しく記載されています。

柏原市松岳山古墳の長持形石棺 『石棺から古墳時代を考える』より


長持形石棺 組み合わせ 4世紀後半 津堂城山古墳出土 大阪府藤井寺市 前方後円墳
『石棺から古墳時代を考える』は、津堂城山古墳は全長200mを超す前方後円墳で二重の周濠をもつ巨墳という。

底石1枚、長側石両側各1枚、短側石も両側の各1枚、蓋石1枚の計6枚の石材で構成された石棺には、長側石と底石の両端に各々一個の縄掛突起をつくり出し、蓋には、長辺、短辺とも各2個の縄掛突起がついている。両側の短辺になる板石を長辺の石材ではさむように底石の上で組み合わせ、かまぼこ形とでもいうような姿の蓋石をのせる。このような石棺を長持形石棺と呼ぶのであるが、津堂城山のものはその典型品であり、蓋の上面には格子状の浮彫文様まで加えた見事な加工がみられる。

この津堂城山の石棺は、全長3.5m近く、幅1.5mを超すという巨大なものであり、その頃の研究者にとっても強い関心を呼ぶものであったらしいという。

津堂城山古墳出土長持形石棺(レプリカ) 『王者のひつぎ』より 


『古墳時代のシンボル』は、古市古墳群で、最も古い大型墳の埋葬施設が1912年(明治45)に神社合祀の建碑の際に見つかった。凝灰岩製天井石内面には朱が塗られ、なかに竜山石製石棺があった。 長持形石棺は奈良県天理市櫛山古墳、大阪府藤井寺市津堂城山古墳例が古い。古いものほど精巧で、新しくなるとそれぞれの約束事がくずれて粗雑になるという。
加工した板状の石板を、まず底部、続いて両長側辺の板石を置く。長側辺のに彫り込んだ凹みに短側辺の板石を嵌め込み、遺体や副葬品を安置して蓋石を被せるという順序で良いかな?
津堂城山古墳 竪穴式石室と長持形石棺 『古墳時代のシンボル 仁徳陵古墳』より

竜山石の長持形石棺

『石棺から古墳時代を考える』は、この石材が石棺に用いられ始めるのは、確立した長持形石棺の製作からである。それが、畿内中心地域で、5世紀・古墳中期に王者の棺となる。畿内中心勢力が棺とする石材を、播磨の地で発見採用した経緯が伝承された物語となって、その片鱗がとどめられている可能性がある播磨国風土記の記事は、播磨国印南郡大国里美保山の記事として、「神功皇后が、夫の仲哀天皇の遺骸を奉じて、讃岐の羽若の石を求め、その後、播磨にわたって、そこで引き連れていた石作連大来が御廬(みいほ 殯宮)の場所を発見した。これが美保山の名の起源だ」という話であった。

羽若は、現在羽床の地名を残すあたりのことであろうとされ、鷲の山石産出地を含む地名だったと考えられ、印南郡は竜山石の主要産出地にあたる。松岳山古墳の初源的長持形石棺のようなものの部材の一部に鷲の山石を用い、やがて畿内中心部の長持形石棺が竜山石で製作されたことと、あまりにもよく符合するという。


で、とりあえず竜山石の長持形石棺から。


長持形石棺 組み合わせ式 竜山石 高槻市岡本前塚古墳 円墳 60m

蓋の盛り上がりが顕著である。

高槻市岡本前塚古墳 長持形石棺 竜山石 『石棺から古墳時代を考える』より

長持形石棺の蓋 竜山石 大阪市四天王寺所在 
蓋の短辺側の傾斜が長く、家の形に近い。
大阪市四天王寺所在 長持形石棺 竜山石 『石棺から古墳時代を考える』より

長持形石棺 竜山石 姫路市壇場山古墳山の越古墳

壇場山古墳は後円部端部に石棺が露出していたので、主被葬者の近くに近親者などが陪葬された石棺なのかと思っていたが、この図面では蓋だけで棺の身がない。ということは、被葬者の石棺の蓋を開けて丁寧に脇に置き、副葬品を盗んだ者の仕業のようだ。
山の越古墳は部分的だが、身も残っていた。
姫路市壇場山古墳・山の越古墳 『石棺から古墳時代を考える』より

長持形石棺 竜山石 岡山県朱千駄古墳
長側辺の板石は繩掛突起の形が崩れているようだ。
岡山県赤磐市山陽町朱千駄古墳 長持形石棺 『石棺から古墳時代を考える』より

『石棺から古墳時代を考える』は、長持形石棺は、畿内を中心とした地域で5世紀の巨大古墳に用いられた棺だとされている。しかし、その時期の畿内巨大古墳の大部分は、宮内庁が陵墓指定あるいは、陵墓参考地指定しており、内部の棺構造までがわかっているものは、わずかな数である。しかも、以前の調査で長持形石棺の所在が知られるものでも、現在実見できて石材まで観察可能なものとなると、さらに少ない数になる。出土の古墳がほほ明確で、石材が竜山石による点も明らかにできた例は、畿内五国で7例、他の石材による長持形石棺は全くみられない。そうして、それらが畿内五国全域にわたり、河内、和泉の巨大古墳分布地域と、大和の巨大古墳分布地域である佐紀古墳群周辺にも及んでいるのである。

その点からみると、石材を点検できない河内津堂城山古墳、和泉の大山古墳(伝仁徳陵)の前方部、堺市石津町乳岡古墳(ちのおか 前方後円 150m)、泉南郡岬町西陵古墳(前方後円 200m)などの長持形石棺が竜山石だったに違いないと推定でき、また、大和の伝神功陵古墳(前方後円 278m)、伝成務陵古墳(せいむりょう 前方後円 204m)などで存在の伝えがある長持形石棺についても、その伝えが正しければ、同様に竜山石だったと考えられるのである。さらに、棺形態が不明な畿内の巨大古墳中の多くに、おそらく長持形石棺を採用したものが存在するとの推察が一般的な理解であり、それらも竜山石によるに違いないと思われるという。

竜山石がこれほど多く畿内の大型古墳に採用されていたとは。




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関連項目

参考サイト

参考文献
「石棺から古墳時代を考える 型と材質が表す勢力分布」 真壁忠彦 1994年 同朋舎出版
「古墳時代のシンボル 仁徳陵古墳」 一瀬和夫 2009年 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」055
「桜井茶臼山古墳の調査 現地見学会資料」 2009年 奈良県立橿原考古学研究所
「王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺」 2018年 大阪府立狭山池博物館