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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/02/27

日本の瓦4 パルメット唐草文軒平瓦



法隆寺で出土した軒丸瓦は、パルメット唐草文(忍冬唐草文)が表されている。

『日本の美術358唐草紋』(以下『唐草紋』)は、日本で初めて瓦葺き建物が建立されたのは、崇峻天皇元年(588に造営を開始した飛鳥寺(法興寺)においてであった。軒先に葺かれる軒瓦としては軒丸瓦だけがあって、対になるべき軒平瓦を欠くところも百済のばあいと一致する。
7世紀初めに造営に取りかかった斑鳩寺、坂田寺や四天王寺において初めて軒平瓦が導入された。軒平瓦を造り出そうとする意欲は日本独自のものであったが、しかしなにぶん手本がないので、様々な試行錯誤を繰り返したようだ。若草伽藍跡と坂田寺跡からは一つずつ手で彫刻した軒平瓦出土しているという。
どこかでこのような文様をみたことがあるような・・・
そう思って調べてみると、どれも上の軒平瓦の図版だった。
しかし、こんな唐草文があったような気がする。ひょっとすると、古墳時代末期の金具などにあったのでは。

棘葉形杏葉 古墳時代末期(6世紀後半) 鉄地金銅張り 奈良県斑鳩町藤ノ木古墳出土
『唐草紋』は、杏葉は馬に提げる飾り。双鳳紋の間を全パルメット、半パルメットで埋めてある。
鳳凰頭上のパルメットは、主体的にパルメットを表現しようとする意図がうかがえるようであるという。
瓦より古い時代に、パルメット文はこのような完成した形で請来されていた。この中の半パルメット文をみた瓦工が、不慣れな手彫りだからといって、上の軒平瓦に見られるような、雲とも樹木ともつかない文様に仕上げるかな。
ひょっとして輪郭の丸いものを参考にしたのでは?

心葉形鏡付板付轡 古墳時代末期(6世紀後半) 奈良県斑鳩町藤ノ木古墳出土 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館蔵
『金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録』(以下『藤ノ木古墳の全貌展図録』)『唐草紋』は、心葉形鏡板を十字に4分割し、それぞれに五葉半パルメットをあらわす。その表現は、もっとも長い葉の先端が分かれない通常のもの、3つに分かれるものを含むという。
中の文様が違い過ぎる。 
環形飾り金具 古墳時代末期(6世紀後半) 金銅 藤ノ木古墳出土
『唐草紋』は、用途不明の金銅製飾金具。外側に猪目形透しを連続して配置、内側にパルメット波状唐草紋を巡らしてある。
おそらく馬の頭上のたてがみを飾ったと思われるこの金具には、四葉半パルメットが透彫されている。その形態は半パルメット唐草の最も長い葉が伸びて、次の単位のパルメットのもっとも短い葉と共有するという特色あるものである。同様の例は雲岡石窟第6洞・第9洞にも類例があるという。
軒平瓦の文様は、猪目を並べたものではない。
障泥の縁金具 古墳時代末期(6世紀後半) 金銅 藤ノ木古墳出土
『唐草紋』は、障泥(あおり)とは、馬に装着した鞍の左右に振り分ける泥よけのこと。藤ノ木古墳出土の場合は、本体が皮革で、その四周に金銅製の飾り金具を巡らせていた。飾り金具は上半部と下半部からなり、どちらも半パルメット偏行唐草が半パルメット偏行唐草が施されているが、それぞれ技法や表現法がまったく異なるものである。 
上半部では半肉彫の三葉半パルメットを背中合わせに配置し、中央に蓮華と思われるものをあらわしている。全体が一つの花紋のような華麗な印象を与えるものである。一方、下半部は四葉半パルメットの線刻による偏行唐草であるという。
偏行唐草ではあるが、このようなパルメット唐草を手彫りしたら、雲のような形になってしまったとも思えない。

慶州天馬塚出土の白樺製障泥にもパルメット文のようなものが並んでいたはず。

障泥 5世紀 白樺樹皮、彩色 5世紀 国立慶州博物館蔵
法隆寺出土の軒平瓦に彫られたパルメット文は、一応左右で反転しながらも、茎は続いて蔓草文となっているのだが、この障泥の周囲のパルメットは、互いにくっついているものの、1本の蔓で繋がってはいない。
猪目形の蔓に囲まれたパルメットはそれぞれ独立した文様で、隣接する部分の上下に蕾状のものを付けるが、唐草文にはなっていなかった。これも若草伽藍出土軒平瓦のパルメット文の源流ではなかったのだ。

しかし、パルメットが上下反転せずに並ぶ文様というのもパルメット系唐草文の一種とされている。
『唐草紋』は、中国石窟寺院の唐草紋を研究した長広敏雄は、雲崗石窟のパルメット系唐草紋を羽状唐草、並列唐草、環つなぎ唐草の3群に分類した(『雲崗石窟』京都大学人文科学研究所 1951)。環つなぎ唐草のばあい、その単位モチーフは圧倒的に三葉形と半パルメット、あるいは両者の組合せからなる。北魏時代の石窟寺院におしいては、一般的に肉づきのよい、太めの、先端の尖った葉に、時に葉脈風の一本線の刻みを入れ、あるいはこれを中心に斜面彫りにするばあいが多いという。
雲崗石窟は460-524年に開鑿された石窟なので、新羅の天馬塚が築造された時期よりも、この唐草紋とどちらが先かわからない、というよりも、このような文様が雲崗石窟のどの時期の窟にあるのかを確かめていないからだが・・・

『唐草紋』は、若草伽藍跡から出土した手彫り唐草紋軒平瓦は、羽状に反転しながら伸びる茎が形成した山と谷に、掌形の葉とも花ともつかぬ単位を上下に向きを変えながら一つずつ彫刻したもので、内部をさらに扇形にくり抜く。全パルメット唐草紋の仲間である。
大きく2種類に分類できる。各単位モティーフが七葉のもの(A類)と五葉のもの(B類)とで、B類は製作技法の違いによってBⅠ類とBⅡ類に細分できる。3類ともに右偏行と左偏行とがあり、さらに細かく分類可能だ。
若草伽藍の手彫り唐草紋A類は一見七葉のように見えるが、渦巻形萼の上に五葉全パルメットを乗せたものと考えることもできよう。しかも内部に扇形の空間を備え、最古式の一つである207A型式には茎から扇形が派生する分岐部には蕾がある。諸例の影響を受けて成立したことは確実だ。すべてが日本の独創、とは言えないのであったという。 
上の3つがA類、一番下の右がBⅠ類、左がBⅡ類に分類されている。
A類の①に小さな蕾が付いているように見える。これが207A型だろう。

同書は、若草伽藍の手彫りの軒平瓦の紋様の類例はや輯安西崗第17号墳など高句麗古墳の壁画、臨川靖恵王簫宏墓碑など南朝の陵墓に求められるが、年代が判るのは隋開皇20年(600)の独孤羅墓誌蓋である。これらに共通する構成要素として、左右に開く渦巻形萼の上に扇形の空間を介して七葉ないし五葉の掌形(すなわち全パルメット)を乗せること、萼の根元からのびる支茎と主茎との分岐部に栓形花紋すなわち蕾が生えること、の2点が指摘できるという。

江西中墓奥室天井平行持ち送り側面に忍冬唐草文 高句麗時代(7世紀初) 平安南道南浦市江西区域三墓里
『高句麗壁画古墳展図録』は、第1段の側面には、赤で塗られた忍冬文を唐草文でつなぐ文様がみられ、それは日本の法隆寺金堂釈迦三尊像の大光背文様(7世紀前半)にみられる文様とよく似る。また第2段の側面の蓮華文を唐草文でつなぐ文様は、法隆寺若草伽藍金堂創建時の軒平瓦文様(7世紀初頭)に似る。このように、江西の古墳と日本の飛鳥文化との関係を文様によって知ることができる。そして、江西中墓の年代も7世紀初頭とみることができるという。
『唐草紋』で「平壌遇賢里中墓」と呼ばれている古墳に相当する。
確かに、上下にくねりながら横に伸びる蔓草の渦の中にある白っぽいものの形は、若草伽藍出土軒平瓦の全パルメットによく似ている。しかも、茎から出たところに丸く表されているものは、若草伽藍出土軒平瓦の扇形に刳り抜いたものだとわかる。若草伽藍出土軒平瓦に欠けるのは、主径と支茎の分岐部分の蕾である。
それにしても、どんなものの意匠としてこのような文様が日本に請来されたのだろう。
江西大墓奥室天井平行持ち送り側面 高句麗時代(6世紀末~7世紀初) 同地区
同書は、天井は、第1平行持ち送りの側面に忍冬唐草文がみられ、これは日本の法隆寺夢殿救世観音の光背文様に似る。
高句麗の25代王の平原王(559-590)の墓と推定されているという。
すると、7世紀初とされる江西中墓には、その次の王が埋葬されているのかも。
古い墓のパルメット唐草文が、若草伽藍よりも後につくられた救世観音の光背に採り入れられているというのも興味深い。

で、中国での全パルメット羽状唐草文は、

上:臨川靖恵王簫宏墓碑(普通7年、526)
五葉で、萼が蔓のように表される。茎の分岐部分に蕾が表されている。

下:独孤羅墓誌蓋(開皇20年、600) 
五葉で、幅広の萼が反り返り、花心が大きく表される。茎の分岐部に表されているのは、葉のようにも見えるが、開きかけた蕾だろうか。
若草伽藍出土軒平瓦A類では両端の葉のようなものが反り返り、七葉とされるが、五葉と萼と見えなくもない。


以上が、見たことのあるパルメット唐草文だったかどうかは確信がもてないが、若草伽藍出土軒平瓦のパルメット文は、やはり請来された何かにあった文様で、それを飛鳥の人々は軒平瓦に採り入れようと、まずはその形を紙に描き、手彫りで浮彫にしたのだった。


ところで、若草伽藍の軒平瓦に見られる丸いパルメット唐草とは異なった文様が、同じ時期に建立された坂田寺の軒平瓦に表されていた。

手彫り唐草紋軒平瓦 明日香村坂田寺跡出土 奈良文化財研究所蔵
『唐草紋』は、反転する各単位は三葉の半パルメットで、葉は細長く分岐部には蕾も結節もない。右偏行に限られるが、ごく一部に左端の1単位に左行きのものがあり、これらは樋巻き作りの製品で、紋様は円筒を分割する前に彫刻しており、起点部のみ左行きにした、と考えるのが妥当である。フリーハンド施紋、樋巻き作り曲線顎という特徴から、若草伽藍BⅡ類に併行すると考えられるという。
フリーハンドによるものなら、その前段階の、型紙を当て、手彫りした軒平瓦もあったのでは。

同書は、河南省鄧県画像磚墓の楽舞磚に見られるように、南朝斉や梁の磚墓、北魏の石窟寺院や金銅仏に豊富な三葉・四葉の半パルメット唐草紋を重視するべきであろうという。
下図の2番目、福建省南山嶼磚墓(時代不明)に表された半パルメット唐草文に似ている。

均整忍冬唐草文軒平瓦 7世紀 法隆寺出土 法隆寺蔵(それぞれの均等に縮小したものではありません)
『唐草紋』は、笵(木の板に紋様を陰刻した雌型、これに粘土をつめれば同じ紋様の軒瓦を多数作ることができる)によって、製作された最古の軒平瓦は、斑鳩宮跡と想定される法隆寺東院下層遺構から出土した、均整忍冬唐草紋軒平瓦215A型式である。宝珠形の中心飾りを主茎の上に乗せて結節で結びつけ、その左右に三葉半パルメットを各3単位反転させた唐草紋を半肉浮彫で残す。斑鳩宮は643年に蘇我入鹿らによる焼き打ちに遭っているから、この型式の軒平瓦はそれ以前に作られたものであるという。
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』の図版では、1の斑鳩寺所用のものと、2・3の斑鳩宮所用ものは似ているが葉の肥痩などが異なる。
4・5は別の笵によるものだが、茎が二重となっている。

上図の最初の軒平瓦(215A型式)については、日本の瓦2でも採り上げたように、『法隆寺日本仏教の黎明展図録』は、西院綱封蔵付近から顎面にも文様を刻んだ均整忍冬唐草文軒平瓦が出土している。特徴のある宝珠形の中心飾の左右に忍冬唐草文を配し、顎(凸面)にも同様の文様を篦描する。綱封蔵は若草伽藍の北方に位置し、斑鳩寺に関わる瓦ともみられ、また斑鳩宮出土品とも関連深いと、『唐草紋』と同様の斑鳩宮あるいは斑鳩寺のものとしているが、出土場所が異なる。一応、新しい文献のデータを基にすることにする。

やや趣を異にするが、百済でも半パルメット唐草文の軒平瓦が出土している。

軒平瓦 百済 益山王宮里帝釈寺出土 公州国立博物館蔵
『唐草紋』は、パルメット羽状唐草紋は三国時代の古墳に副葬された金属工芸に豊富で、慶州忍冬塚出土の銅鋺に金象眼されたものをはじめ、馬具、冠、飾金具などに見え、また仏教美術にも取り入れられた。百済、新羅の軒瓦にもパルメットは見えるが、唐草には構成されていない。唯一の例外は益山王宮里帝釈寺出土の軒平瓦。唐草紋が花開くのは統一新羅時代という。
日本には、パルメット唐草文の施された銅鋺あるいは馬具、飾金具などが半島より請来され、それが軒平瓦の装飾へと応用されたということになりそうだ。

         日本の瓦3 パルメット文のある瓦←  →雲崗石窟の忍冬唐草文 

関連項目
日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦
日本の瓦2 法隆寺出土の軒丸瓦と軒平瓦
韓半島の瓦および塼
積石木槨墓の構造は慶州天馬塚で

※参考文献
「飛鳥の考古学図録⑤-古代寺院の興隆-飛鳥の寺院」 2009年 財団法人明日香村観光開発公社
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也編 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 1998年 至文堂
「仏法の初め、茲(これ)より作(おこ)れり-古墳から古代寺院へ-展図録」 2008年 滋賀県安土城考古博物館
「法隆寺 日本仏教の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」 2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
「日本の美術358 唐草紋」 山本忠尚 1996年 至文堂
「図説韓国の歴史」 金両基監修 2002年 河出書房新社
「世界遺産高句麗壁画古墳展図録」 総監修平山郁夫 2005年 社団法人共同通信社