ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2015/03/03
日本の瓦5 点珠のない素弁蓮華文
日本最初期の軒丸瓦は素弁蓮華文だった。
『飛鳥の寺院』は飛鳥寺について、明日香村大字飛鳥に所在する、我が国最初の本格的な寺院。発願は蘇我馬子とされる。法興寺、元興寺とも称する。588年、仏舎利・僧侶・寺工などが百済から献上され、605年(推古13)、鞍作鳥によって仏像が作られるという。
発掘調査によって軒丸瓦が出土した。
同書は、飛鳥寺軒丸瓦の文様は、百済の影響をうけた素弁の蓮華文で、花弁状に表現するものと、角端にして、その先端に珠点を表現するものがある。前者を「花組」、後者を「星組」と呼ぶ研究者もいるという。
星組についてはこちら
飛鳥寺第一様式 花組 素弁十葉蓮華文
『日本の美術66古代の瓦』(以下『古代の瓦』)は周縁は細くなんらの飾りもなく、全体に簡潔な文様であるという。
中房の蓮子は中央に1つ周囲に5つあり、蓮子の延長線上に花弁の境界線がある。そして、蓮子と蓮子の間に2枚の花弁が表されているのだが、その大きさは均一ではない。
『古代の瓦』は、こうした百済直伝形式を模範として、多少とも形式化の認められるものに2つの傾向かがある。その一つは奈良・豊田廃寺や飛鳥寺などにおいて、花弁が十一葉ないし十二葉に細弁化する傾向であり、その2は奈良・法起寺金堂址の直下に散乱堆積した2種類の鐙瓦にみる退化傾向であるという。
法起寺の軒丸瓦1 素弁十葉蓮華文・稜
同書は、素弁十葉蓮花文は、飛鳥寺第一様式を模倣した瓦であり、花弁の端を円形とし、弁央に稜をたてるなどの変化をみせているという。
花弁の切れ込みがないので、同じ十葉でも細く感じる。
蓮子は周囲に4つしかなく、それにも関わらず蓮弁は10枚もある。
法隆寺の軒丸瓦3と軒平瓦 飛鳥時代 素弁八葉蓮華文・型押扇形忍冬唐草文
『古代の瓦』は、花弁の端を円形にした鐙瓦と、忍冬文の1単位を型に彫刻して、これを上下交互にスタンプして、あたかも扁行唐草文らしき文様をあらわす宇(のき)瓦という。
稜は見られないものの、花弁に立体感がある。
『古代の瓦』は、百済から初めて仏教が伝来したとき、蘇我稲目が向原の家を寺とした故地には推古天皇11年(603)に豊浦(とゆら)寺が建立される。その鐙瓦には飛鳥寺の第2様式をまねた百済様式のほかに、高句麗様式と称される瓦が各種出土している。その特徴とするのは、花弁が厚肉で中央に稜線を通し、しかも、花弁の1枚1枚が分離した形であらわされていることである。これらは大きく2形式に分けられるが、その一つは弁間の空隙に珠粒を配する形であり、その2は下重の覗花弁を退化した楔形に表す形である。この両者はあたかも中国北朝様式を受け継いだ高句麗瓦の文様と基本的に一致するので高句麗様式と称されるが、しかし、両者を比較してみると、かなり温雅な特色を示すので、藤沢一夫氏はこの様式は高句麗から直接わが国へ伝来したのではなく、いったん、百済に伝わり、百済的に消化されてからわが国へ伝来したものと考えられているという。
高句麗の軒丸瓦 出土地・所蔵不明
同書のいう弁間の空隙に珠粒を配する形である。極端に盛り上がりのある花弁と、平たく凸線で葉脈?を表した花弁が、それぞれ4枚交互に配されている。
中房は二重の同心円文で蓮子は表されない。
豊浦寺の軒丸瓦1 飛鳥時代 八葉素弁蓮花文・稜・珠粒 豊浦寺址出土 天理参考館蔵
中房は横から見ると半球形になっているのではないかと思うくらい出っ張っている。中央の蓮子は大きく、周囲の8個は互いに接している。全体に見れば、同心円文と見えなくもない。
中房から出た肉厚の花弁は、稜が通り弁端は丸みがある。
弁間の空隙に珠粒があるが、残っているのは一つだけ。
豊浦寺の軒丸瓦2 飛鳥時代 八葉素弁蓮花文・稜・楔形覗花弁 豊浦寺址出土 東京国立博物館蔵
同書のいう下重の覗花弁を退化した楔形に表す形である。今まで見てきた軒丸瓦の蓮華は一重だったが、ここで八重が出現したということかな。
やや肉厚だが、上のものと比べると平たくなった花弁は弁端が広く、隣接する花弁と接するように表されている。
中房も大きく、蓮子は粒状で、稜線も弁端までのびている。
奥山廃寺(奥山久米寺)の軒丸瓦3 飛鳥時代 八葉素弁蓮華文・稜 明日香村大字奥山 東京国立博物館蔵
『飛鳥の寺院』は、伽藍配置は塔・・金堂・講堂が南から直線上に並ぶ、四天王寺式もしくは山田寺式が想定されるという。瓦は、角端点珠の素弁蓮華文軒丸瓦が創建期のものと考えられている。金堂が7世紀前半から、塔が7世紀後半に造営されたと考えられているという。
豊浦寺址出土の軒丸瓦1の弁端がやや広がった形をしている。
中房は小さく、蓮子は中心のものがずれ、周囲に5つある。
法起寺の軒丸瓦3 白鳳時代 素弁八葉蓮華文軒丸瓦 法起寺金堂出土
『古代の瓦』は、百済様式の素弁蓮花文を飾る鐙瓦のなかで、周縁の幅が広く、また、高くなり、花弁も肉厚で、中房も半ば球状を呈するか、あるいは比較的大きくなった形がみられる。こうした厚造りの鐙瓦は百済の故地では「己丑」(629)の刻印瓦を伴って扶余・旧衙里廃寺などから出土し、百済末期様式の初現形式と目されている。わが国ではこれより多少遅れて、舒明10年(638)に僧福亮が建立した奈良・法起寺金堂出土例が初現形式である。これをもって白鳳様式の発足とすれば、古瓦の編年は政治史的な大化改新(645)をわずかに先だつこととなるという。
花弁の境界線が盛り上がっているため、一見高句麗様式の瓦を押しつけて型をとったようにも見えるが、中房は出ているし、花弁も明確な稜はないものの盛り上がりがあるので、別物である。
椿市廃寺の軒丸瓦 白鳳時代 素弁八葉蓮華文軒丸瓦 佐賀県
同書は、百済末期様式は百済に近い北九州にも分布している。その初現形式の一つは佐賀・基肄城址から出土するが、同城は百済滅亡の際に帰化した百済工人を用いて天智4年(665)に築城した百済式山城であり、瓦はその付属寺院に属したものであろうという。
中房が大きいため、外側に押しやられた感のある8枚の花弁は幅広で立体的だ。より花びらに近づけたのか、それとも弁端の切れ込みが変化したのだろうか。
楔形覗花弁がある。
寺町廃寺の軒丸瓦 白鳳時代 素弁八葉蓮華文・稜 広島県
同書は、『日本霊異記』上巻第7には備後三谷郡の大領が百済滅亡後、百済の禅師弘済を伴って帰り建立した三谷寺の記事をのせているが、同寺址に否定される広島・寺町廃寺出土瓦は稜をたてた厚肉の花弁で、平縁には重圏文を飾り、顎には尖った水切りを付けるのが特異であるという。
下重の花弁がしっかりと表され、楔形覗花弁が発展した形となっている。花弁が内側に巻いた様などをみごとに表現している。
中宮寺址からも、豊浦寺址出土の軒丸瓦1によく似た高句麗様式の軒丸瓦が出土しているが、白鳳時代の特異な文様の軒丸瓦がある。
中宮寺の軒丸瓦・軒平瓦 白鳳時代 中宮寺址出土 忍冬・蓮華文軒丸瓦・均正忍冬唐草文軒瓦 中宮寺蔵
同書は、六葉蓮花文の花弁中に忍冬文を配した鐙瓦と、均正忍冬唐草文宇瓦の組合わせであるという。
素弁蓮華文の瓦を見ていると、パルメット文が現れた。奈良・西安寺出土の忍冬・蓮華文交飾軒丸瓦(飛鳥末期)とよく似た形をしている。
これが子葉の最初期のものでもないのかな。
ところで、伝橘夫人念持仏(白鳳時代)は阿弥陀三尊像で、それぞれの台座は厨子の床から蓮茎が伸び、蓮華が開くというものである。そして脇侍の蓮華座だけが単弁で、子葉にパルメットが線刻されている。
パルメットはこの頃に請来された文様でだろうが、軒丸瓦と仏像台座のどちらにあったものがもたらされたのだろう。
日本の瓦4 パルメット唐草文軒平瓦← →日本の瓦6 単弁蓮華文
関連項目
雲崗石窟の忍冬唐草文
日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦
日本の瓦2 法隆寺出土の軒丸瓦と軒平瓦
日本の瓦7 複弁蓮華文、そして連珠文
韓半島の瓦および塼
蓮華座3 伝橘夫人念持仏とその厨子
※参考文献
「飛鳥の考古学図録⑤-古代寺院の興隆-飛鳥の寺院」 2009年 財団法人明日香村観光開発公社
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也編 1971年 至文堂