ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2014/11/04
中国の山の表現5 西夏
安西楡林窟には西夏時代に開かれた石窟が幾つかある。
西夏について『図説中国文明史6遼・西夏・金・元』は、宋と遼が対立していた時期、宋政府は遼に対抗するため積極的にタングートと連合しました。宋と遼が「澶淵の盟」をむすんだ翌年(1005)、タングートは「遼に依って宋と和する」という政策によって宋に臣属し、代わりに宋朝から大量の「歳賜」を得て、本格的に河西回廊の経営に着手することで、急速にその勢力を拡大しました。そして1038年、李元昊が皇帝を称して国を建て、国号を「大夏」としました。歴史上「西夏」(宋の西に位置することから)とよばれ、以後、北宋・遼・西夏が並び立つ三国鼎立の局面を形成します。1227年モンゴルによって滅ぼされましたという。
「敦煌石窟精選50窟鑑賞ガイド」は、宋の景祐3年(1036)、西夏王の李元昊は沙州を統治していた回鶻を破り、瓜州、沙州を占領した。それ以来、敦煌と安西は190年にも及ぶ西夏の支配期に入る。
西夏の歴代の王たちはいずれも篤く仏教を信仰し、篤信の王たちは宋王朝に6度にわたって「大蔵経」を請い、朝廷には仏教の専門機構が設けられた。瓜州の安西・楡林窟では前代の窟を重修したほか、新たに四つの窟を開鑿したという。
敦煌郊外に出てすぐのT字路で莫高窟へと向かう道(S217)を右手に、新しくできた敦煌駅を左手に見て、楡林窟はS314号線で安西方面へ。
右手遠方に山脈が見えてきたのは、莫高窟東側に聳える三危山から続く祁連山脈の支脈。
道路沿いに烽火台がいくつか。
この日は曇り気味で写真の映えない一日だった。東の方はゴビ灘と地平線、そして白い空だけしか見えない。
30分もすると、祁連山脈は道路に近づいてきた。
ところどころに烽火台が残っている。ここでは建物跡もあった。
楡林窟に行くには、この山脈をどこかで越えなければならないはず。何時舗装していない山岳道路になるのか、険しい峠を越えるのかと、いつも狭い日本の地形でしか測れない。
ところが、ある交差点で、安西に向かう北への道路と分岐して、南へと折れた。舗装道路はそのまま、峠を越えることなく山脈がとぎれた地点を南へ。
10数分後、遺跡が突然左窓に飛び込んできた。
版築の城壁が道路沿いに延びている。
ここは破城子と呼ばれる唐時代の城跡やん。写真ストップくらいはしてほしかったなあ。
それにしても、北・西・南の城壁はよく残っている。
また10数分後、鎖陽城鎮という十字路だけの小さな集落に到着。信号も人気もない町だった。
漢の武帝が敦煌西方に開いた関所は玉門関、唐の時代にはその関所が安西に移され、敦煌以上に栄えたらしい。当時の町は鎖陽城といって、現在のこの町の20㎞ほど東に遺構が残っている。
ここで早めの昼食となった。鎖陽城酒楼という豪華な名前だが、お婆さんが一人でやっている、鄙びた食堂だった。
9品並んでそれぞれ美味しかったが、一番はこのラグメン。他の料理も麺の鉢に盛って食べた。
早めの昼食後、この町唯一の交差点を南下。すると再び祁連山脈のような山が現れた。
右手には水面が見えた。楡林水庫というダムだった。
楡林窟の崖の間を流れる踏実河の下流になるのかな。その源は南方の祁連山脈の雪解け水だろう。
樹木の生えることのなかった岩山と、川の両側に並ぶ木々。人が植えたのだろう。
川幅の広いところもあったが、
西側に崖が出てきたと思ったら、いつの間にか踏実河は両側が崖に挟まれていた。
鎖陽城鎮を出発して30分ほどで楡林窟に到着。周囲は平たい土色の世界。目印がなかったら見落としそう。
階段を下りて行く途中に見える崖は、敦煌よりも脆そうだった。
踏実河の対岸の西崖にも幾つか石窟が開かれたが、研究員でさえ入ったことがないほど、保存状態はよくないらしい。
河床は岩、水は澄んでいるが、流れが浅いので色は河床と同じに見える。ニレの木がなかったら、ここも土色の世界だ。
『安西楡林窟』の発行された1997年に近い頃に撮影された楡林窟の東崖
2012年現在、階上窟は通路で結ばれている。
楡林窟は唐代に開鑿が始まった。当然ながら、水害を避けるため上層に窟を開いていったので、上側に余地がなくなると、下層にも窟を造営することとなった。
唐代の第25窟についてはこちら
西夏時代は東崖の下層に4窟が開かれた。その中で、当時は都でも描かれなかった大画面の水墨画の残っているのが第3窟である。
普賢経変図部分 西夏(1038-1227) 甘粛省瓜州県安西楡林窟第3窟西壁南側
『世界美術大全集東洋編5五代・北宋・遼・西夏』は、経変の舞台として、壮大な山岳と江水の景観を北宋の華北山水画の伝統に従って描いている点が注目される。水墨の皴刷によって山岳の塊量性を表し、また、淡墨による空気遠近法も、かなり柔軟にこなしている。山岳の中に隠見する壮麗な寺院建築の描写では、定規を用いた屋木の技法を駆使し、細部における建築部材の結構や建築物の左右向背の関係が、的確に表現されている。このような山水景観の特色や寺院建築の様式は、金の正隆3年(1158)に創建された山西省厳山寺の壁画にも通じるもので、この壁画の制作も、12世紀の後半ごろと考えられよう。彩色は、西夏の壁画の基調色でもある青緑を、尊像の描写を中心に使用しているが、水墨の効果をそこなうことを恐れてか、かなりひかえられているという。
弥勒とその眷属たちは、沸き立つ雲の上に立っていて、その周囲は岩や水面が細い線精緻に描かれている。
左の岩峰は、上の装飾帯にまで進入して頂部が描かれている。ずっと以前、南北朝期の石彫にも枠をはみ出した光背などがあったが、水墨画でこんな風に描かれるとは。筆の勢いが余って、はみ出してしまったのだろうか。
仏画と山水図はそれぞれ別の専門画家の手になるようだ。
宋代に広まった玄奘(602-664)の西天取経説話にもとづいて、画面左側の岸辺に、経典の荷物を積んだ白馬と猴顔(猿面)の侍者をつれた玄奘一行を挿入しているという。
左の崖から玄奘と侍者が普賢菩薩に向かって合掌している。崖は水墨画家、一行は仏画師かな。
中国の山の表現4 五代から北宋←
関連項目
平成知新館5 南宋時代の水墨画
中国の山の表現1 漢時代山岳文様は博山蓋に
中国の山の表現2 三国時代から隋代
中国の山の表現3 唐代
※参考文献
「中国石窟 安西楡林窟」 敦煌研究院 1997年 文物出版社
「世界美術大全集東洋編5五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館
「図説中国文明史6 遼・西夏・金・元 草原の文明」 稲畑耕一郎監修 2006年 創元社
「敦煌石窟 精選50窟鑑賞ガイド 莫高窟・楡林窟・西千仏洞」 樊錦詩・劉永増 2003年 文化出版局