ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2014/10/31
中国の山の表現4 五代から北宋
唐が滅亡して宋が建国するまでの間の期間を、五代十国時代と呼ぶ。
山水図 五代、後唐・同光2年(924) 白土・水墨 167.0X220.0㎝ 河北省保定市曲陽県王処直墓前室北壁
『世界美術大全集東洋編5五代・北宋・遼・西夏』は、墓道・墓門・甬道のほか、左右に耳室2室を持つ方形の前室1室と長方形の墓室(後室)1室の4室からなり、前室に山水図・侍女図・花鳥図・侍男図、前室や甬道の壁龕には十二支像浮彫などを置く、後唐の荘宗の皇子に娘を嫁がせた当時の王都の勢威をうかがうに足りる。
「山水図壁画」は、前室北方に門扉などを設置せず、墓室となる後室を保護する構造をとっていたものの、盗掘者により、右上方に破壊口が開けられている。山水画の基本的な構図の一つとなる一水両岸構図を採り、後世の披麻皴と斧劈皴双方の淵源となる唐の面的な線皴を用いながら樹高比を正確に画いて遠近関係を計量化する意図を持たない、筆の山水画に属する旧い手法を採るとはいえ、一室の正面が山水図で荘厳されたという事実は、その手法の古様さにかかわらず、きわめて重大な絵画史的意義を担うということができるという。
唐代では壁面を六曲屏風に見立てて、各区画に同じテーマの別々の絵を描くということを行っていたが、五代になると変わるのか、この墓独特の趣向なのか、前室と墓室を隔てる開口部を壁にして、そこに区画のない水墨画が描かれていた。
遠くの山は影のように、頂部に樹木のある高い山はすっきりと表されているが、近くの山肌は複雑に描かれている。
五台山図部分 五代 高3.42幅13.45m 敦煌莫高窟第61窟西壁
『敦煌莫高窟5』は、五台山は文殊菩薩の住む地として、北魏以来仏教徒の信仰を集めてきた。唐龍朔年間(661-663)に沙門会が小さな五台山図を作った。長慶4年(824)、吐蕃の遣使が唐王朝に五台山図を求めた、これが五台山図が河西回廊に伝わった最初で、敦煌一帯に五台山図が出現した。莫高窟で現存最古の五台山図は開成年間(836-840)の第159・361窟の屏風絵で、五代に至るまで屏風絵が壁に描かれた。本図は文殊堂のような窟内で、西壁の横断して描かれた巨幅で、仏画であり、山水人物画であり、歴史地図である。各寺院が並び、川が蛇行し、その中で人物が旅をし、商売をし、高僧が説法をしているのが描かれているという。
61窟は広い窟で、その正壁の横長画面に五台山図は描かれていた。下図はその左半分に過ぎない。
山は頂上から手前に、段々に小さくなる三角形の重なりという表現となっていて、そこにはたくさんの人物の往来がある。
なお、現存最古級の仏光寺は、右に続く画面に描かれている。それについてはこちら
秋山晩翠図 原本・五代(10世紀) 絹本墨画淡彩 140.5X57.㎝ 伝関仝(同)筆 台北故宮博物院蔵
『世界美術大全集東洋編5五代・北宋・遼・西夏』は、関仝は、長安の人で、李成とならんで五代北宋初期の華北を代表する山水画家。荊浩に学んで、「出藍の誉れ」と称された。
本図は無款ながら現在もっともよく彼の作風を伝える作品として評価されている。近景に巨大な岩塊を配し、その上に山岳を積み重ねた画面には重厚な雰囲気が漂うが、この点は、「坐しては巍き峯を突き、下りては窮き谷を瞰おろす」、「大石は叢立すること、萬仞に矻然として、色は精鉄の若し」などの関仝画に対する北宋時代の記述に符合するものといえる。また、縦方向の動きを基調とする皴法も、荊浩の皴法を継承したものと考えられ、伝承に矛盾しない。
写し崩れと考えられる部分のあることや、たどたどしい筆線が見られることから模本と判断され、北宋期の作と見るのが穏当であろうという。
岩峰の縦に重なる襞が目立つが、それが、前方より左右に出た背後の岩峰の重なりとして、塊量感のある唐時代の岩山の描き方を継承している。
中程右の樹木の背後の岩が白っぽく、襞も描かれていないのは、そこだけ靄がかかっているのだろう。
「近景の巨大な岩」には縦の襞はなく、岩の割れ目から生えた木がその姿を隠し気味に大きく表される。最後に樹木に辿り着いた紅葉する樹木もまた、幹は地面からではなく、巨岩から伸びていることに気づく。
遠景の山が小さく描かれていて、よく見ないと気づかないくらいだ。
この景色の中には、旅する人も、自然を楽しむ人もいない。滝と呼ぶには穏やか過ぎる水の流れが、何段か続く、静かな静かな山の景観である。
谿山行旅図 北宋(10世紀後半-11世紀前半) 紙本墨画淡彩 206.3X103.3㎝ 笵寛筆 台北故宮博物院蔵
同書は、笵寛は、はじめ李成を学んだとも伝えられるが、みずからの暮らす陝西周辺の風土に根ざした高遠山水に新生面を切り開き、李成と華北を東西に二分する一大様式を作り上げた。
本図は、その彼の画業を今に伝える大作であり、卓越した画面構成と初発性の高い写実的な表現から、真筆ないしその忠実な模本と考えられている。切り立った山岳の描写は、侵食によって形成された黄土高原の断崖に由来するものであり、後に笵寛派の特徴となる山頂の叢樹や、短い線描を重ねる雨点皴も、その自然にもとづいたものである。高遠の手法により、見上げるようにしてとらえられた主山の描写は、伸び上がるような圧倒的な迫力を持っているが、一方では、滝の落下する麓に、楼閣が樹林に隠れるように描き込まれるなど、細部にも雅趣を高めるための配慮がなされているという。
岩は塊量感をもって迫ってくるが、私の見た黄土高原にはこのような切り立った山はなかった。
江山楼観図巻部分 北宋(10世紀後半-11世紀前半) 紙本墨画淡彩 32.0X161.0㎝ 伝燕文貴筆 大阪市立美術館蔵
同書は、燕文貴は、北宋前期から中期の画院画家。呉興(浙江省湖州市)の出身。彼の山水画は、大観的な景観の中に建造物や樹木・人物などを細密に描き込む点に特色があったと考えられ、「燕家の景致」と称された。
本図は、北宋期の模本と見られるものの、巻尾に落款があり、彼の作風を考える上で基準となる作品である。江水の開けた前半部から画面はしだいに険しい山中へと入り込んでいくが、その間には、風雨に吹き付けられる樹木や道を急ぐ人々、屋舎や船舶などが、いずれも精細に描き出されている。
滋潤な墨法や、景物を近景から遠景へと積み上げていく構成法などに、彼の出身地である江南の山水画とのつながりを指摘する意見もあるという。
上半分には雨の気配は感じられないが、岩山の下の木々は風に枝を揺らせ、その下には吹き降る雨を防ごうと傘を傾けている人がいる。雨は高い山には降っていなくても、里の方には降ることもある。そんな自然を表しているのだろう。
巨大な主山の描写や短線を重ねた皴法は、笵寛の影響を受けたものと考えられるという。
岩肌の表現が、笵寛の「谿山行旅図」の雨点皴よりも長く鋭い。
山水図部分(上下が切れている) 北宋(11世紀後半-12世紀前半) 絹本墨画淡彩 130.0X48.5㎝ 李公年筆 プリンストン大学附属美術館蔵
同書は、本図は、近景の懸崖の下部に「公年」の隠し落款があり、北宋後期から晩期の文人画家・李公年の作とされている。哲宗-徽宗朝(1086-1125)の中堅官僚。
本図は、夜の景で、画面右上隅に小さく月が描かれ、月明かりに照らされる山々と渓谷が、微妙な階調をともなった筆墨によって表されている。枝を湾曲させた蟹爪樹や、近景水際の形式化の進んだ雲形の岩塊に、李郭然の影響が認められることから、このような本図の造形態度は、系統の異なる表現を共存させることで新たな山水表現を追求したものであり、北宋後期の華北・江南山水画総合の動きを示すものである、という解釈がなされている。
右上から左下への対角線を意識した近景や、画面の中心線から重心を左にずらし、山裾をぼかした山岳表現、中景の腰をおろしてくつろぐ人物などには、南宋院体画へとつながる要素が指摘でき、この点でも注目される作品であるという。
月はほとんど目立たない。
中景(近景が画面に入りきらなかったので、近景のようになってしまった)の濃い崖や蟹爪樹から、遠くの山の極淡彩までの墨のグラデーションが非常に豊かな図である。
中国の山の表現3 唐代← 中国の山の表現5 西夏
関連項目
平成知新館5 南宋時代の水墨画
中国の山の表現1 漢時代山岳文様は博山蓋に
中国の山の表現2 三国時代から隋代
※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟5」 敦煌文物研究所編 1987年 文物出版社
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館