ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2013/05/31
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
永靖炳霊寺石窟の後、北魏後期の都洛陽郊外の龍門石窟までに、天水麦積山石窟があるので、先に麦積山石窟を調べてみた。
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『中国石窟天水麦積山』は、第74、78窟は炳霊寺石窟の第1669窟に造形が近いので、西秦期には造像があった。
太武帝が太平真君4年(443)にこの地を平定し、同7年(446)に仏寺を焚毁した。
452年に文成帝が跡を継ぎ、仏教が回復発展した。
5世紀後半に造像の改革期があり、一時的に涼州造像様式の影響がある。麦積山の早期龕窟は雲崗曇曜期の作品に近いという。
雲崗石窟は曇曜によって453年に開鑿が始まった(『図説中国文明5魏晋南北朝』より)ので、麦積山石窟も北魏時代は、5世紀後半からということになる。
菩薩立像 第133窟第1号龕内右壁 北魏時代
『中国石窟天水麦積山』は、典型的な秀骨清像で、腰、胯部で曲がっているという。
鰭状の天衣には肩に丸い飾りがあり、一番内側から斜めに下がって、腰よりも低い位置で左右の天衣はX字状に交差する。そしてそれぞれ上向きになって腕を通り、ひらひらと細かく揺らぎながら裙に添って垂下する。
北魏時代としか記されていないが、中国式服制の僧祇支を着けているところから、拓跋鮮卑族の孝文帝が漢化政策の一つ胡服禁止令を出した495年以降、つまり北魏後期様式の菩薩像と思われる。
交脚菩薩像 第142窟右壁 高1.6m 北魏後半(493-535)
同書は、瓔珞宝珠は貴石で装飾され、天衣は飛揚し、巾帯は長く垂下する。未来仏の弥勒であるという。
中国では、両肩に先の広がる部分を天衣、そこからのびる長い帯は巾帯と呼ぶらしい。
巾帯は膝の間でX字状に交差して、両手首に懸かり、それぞれ膝の外側に垂下する。
また、長いもの、珠状のもの鳳凰の形らしきものなど、様々なものを繋いだ瓔珞は、首から下がって、天衣の上をたどり、両手首から垂下していたらしい(現在は外側が欠損している)。
交差部には丸い半球状の飾りがついている。
交脚菩薩像 第159窟正壁右側中層 北魏時代
浮彫像の間に碧緑色の蓮華が描かれ、清新な格調という。
何も書かれていないので、北魏時代そのままの色彩を留めているのだろう。
像が小さいためか、天衣は上腹部でX字状に交差し、長く垂下することなく両腕にまわっている。
左:右壁 文殊菩薩倚像 高1.20m 右:正壁左側 菩薩立像 第102窟 西魏時代(535-557)
文殊菩薩は、手に桃形の物を持つという。
双方とも腹前で、天衣が輪っかの中で交差するが、文殊菩薩の方は右の天衣が輪っかの上を通って、下を通った左の天衣をくぐっていて、菩薩立像の方はその反対になっている。
菩薩立像 第127窟正壁龕内右側 高1.22m 西魏時代
束ねた髻は高く、僧祇支、天衣、披巾、長裙、瓔珞を着けるという。
膝上までしか垂れない短めのX字状の天衣の上にX字形瓔珞が重なる。
もう少し時代が下がり、東魏の後の北斉時代(550-577)に山東省龍興寺遺跡より出土した菩薩像の瓔珞によく似ている。数本の数珠を束ねたものの間に宝飾品が嵌っている。
このような瓔珞は、西から東へと伝わったのだろう。
菩薩立像 第135窟正壁中間龕上 涅槃経変部分 西魏
浮彫では装飾的な瓔珞が細かく表現されているが、壁画ではX字状の天衣のみ描かれている。
天衣はやはり短めで、敦煌莫高窟第285窟の脇侍菩薩像の天衣とは長さも、描き方もかなり異なっている。
菩薩立像 塑造 第22窟正壁左壁 高1.19m 北周(557-581)
右肩から下がる天衣が、輪っかの上で、左肩から下がって輪っかの下を通る天衣をくぐってている。
麦積山石窟では西魏以来のX字状に交差する天衣の表し方だ。
炳霊寺石窟では北魏後期にすでにみられた輪っか部分で交差する天衣は、麦積山石窟では西魏時代に入ってから採り入れられたようだ。
また、装飾的な瓔珞が天衣に添ってX字状に表されるのも西魏からである。
龍門石窟ではどうなっているのだろう。
つづく
関連項目
X字状の天衣と瓔珞8 X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞
※参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「図説中国文明5 魏晋南北朝 融合する文明」 稲畑耕一郎監修 2005年 創元社
2013/05/28
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
炳霊寺石窟は河西回廊の要衝蘭州郊外に位置する。
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甘粛省永靖にある炳霊寺石窟について『中国石窟永靖炳霊寺』は、西秦(鮮卑族)が開鑿し、431年に滅び、445年に北魏の統治となったが、446年に太武帝の排仏に遭い、452年文成帝が仏教を重んじ大いに栄えたという。
従って、炳霊寺の北魏時代は452-535年の間ということになる。
炳霊寺石窟には、北魏時代の菩薩像にX字形瓔珞と天衣がみられたが、着衣からみて、北魏後期のものだった。
菩薩立像 壁画 第184窟北壁上部 北魏後期
同書は、北壁の一方に高1.06、幅1.38mにわたって二仏並坐像及び七仏が描かれているという。
その左隅と思われる箇所に私にとって貴重なX字状に交差する天衣を着けた菩薩立像が描かれていた。しかも気になる輪っかもある。
左肩から下がった天衣は輪っかの上を通り、右肩から下がった天衣は下から通って輪っかの中で左の天衣を越えている。これで輪っかははずれることなく固定されるが、重いものであれば、下にずれてしまうだろう。
交脚菩薩像 高1.87m 第126窟北壁 北魏、延昌2年(513)
菩薩は交脚して方座に坐り、台座の下に踞る2頭の獅子が浮彫されているという。
二の腕までにも達する長い羽衣から伸びた天衣は、ここでも輪っかを通ってX字状に交差している。天衣は衣服の裾のように見えるほどしっかりと表されている。
残念なことに剥落がはげしいが、浮彫像だけでなく、平面にも色彩が残っていて、そこにも小さな仏像あるいは天人が描かれていたらしいことが伺える。
天衣の交差の仕方は184窟菩薩立像とは反対で、左肩から下がった天衣は輪っかの下を通り、右肩から下がった天衣は輪っかの上を通って左の天衣をくぐり、輪っかの上に抜けている。
左:126窟北壁左脇侍菩薩立像 高1.40m 北魏後期
中尊の菩薩同様に、輪っかで交差する天衣を留めている。右肩から下がった天衣は輪っかを越え、左肩から下がり輪っかの下を通る天衣を、輪っかの中央部でくぐっている。
右:126窟南壁左脇侍菩薩立像 高1.40m 北魏後期
天衣はX字状に交差するが、輪っかはない。
交脚菩薩像 高2.55m 第132窟北壁 北魏後期
菩薩が両足を支えているという。
左肩から下がった天衣は輪っかの上を通り、右肩から下がり輪っかの下を通る天衣を輪っかの中でくぐっっているのだが、その輪っかがほとんどわからない。
炳霊寺石窟では、X字状に交差する瓔珞は見られなかった。
敦煌莫高窟では北魏時代には天衣は交差するが輪っかはなかった。炳霊寺石窟は敦煌よりも北魏後期の都洛陽に近いので、敦煌より先に輪っかが出現したということになるのだろうか。
ということは洛陽郊外にある龍門石窟の北魏窟には輪っかのあるX字状天衣があるはずだ。
つづく
関連項目
X字状の天衣と瓔珞8 X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞
※参考文献
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
2013/05/24
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
敦煌莫高窟ではX字状に交差する天衣や瓔珞はどのように表されてきたのだろう。
脇侍菩薩立像 塑造 第437窟中心柱東向面 北魏後期(494-535)
『中国石窟敦煌莫高窟第一巻』は、塔柱には北魏晩期当初の部分が残るという。中国では中心柱を塔柱といい、後期を晩期と呼ぶらしい。ちなみに初期又は前期は早期と記されている。
腹前でX字状に交差した天衣(中国語では披巾)は三角に広がり、あまり下には垂れないで腕に回している。
脇侍菩薩立像 第435窟南壁前部 北魏(439-535)
天衣は腹前でX字状に交差している、というよりも複雑に捻れている。すぐに折れて腕にまわるのだが、天衣の幅が広く三角状に垂下する。
また、天衣は腕に通しているのか、上に乗っているだけなのか、よく分からない描き方だ。
天衣自体は腕の下で終わる長さだが、その端が2本に分かれて長くのびている。
脇侍菩薩立像 説法図うち 第285窟北壁上層部 西魏、大統4-5年(538-539)
天衣は腹前でX字状に交差し、北魏時代のものよりは長めに垂下し、三角状に広がって上向きとなり、腕にまわって折れながら長く垂れている。
脇侍菩薩立像 塑造 第432窟中心柱北向龕東側 西魏(535-557)
天衣は腹前でX字状に交差するが、そこには輪っかが出現している。同時代中国の東半分を領土としていた東魏では、武定7年(549)銘の菩薩立像にも輪っかがあるので、北朝では広い範囲で輪っかが見られたことになる。
天衣はX字状に交差するが、輪っかに天衣は通っておらず、白い腰紐の長い緒が輪っかを通っている。
脇侍菩薩 塑造 第290窟中心柱東向龕西側 北周(557-581)
右肩から斜めに下がる天衣は輪っかの下にあり、左肩から斜めにに垂れる天衣が輪っかの上から右の天衣をくぐって輪っかの上に出ている。このようにしないと輪っかは留まらないだろう。同じやり方で、武定7年銘の菩薩立像は輪っかを通しているので、輪っかの出現は同じ頃としても、輪っかの正しい通し方は東側の方が早かったといえる。
菩薩立像 第420窟西壁南側 隋(581-618)
数珠状瓔珞は、敦煌莫高窟では隋になって現れる。正確にはX字状とは言えないくらい繁雑な作りになっている。
交差部分の金具も小さいが、とりあえず、敦煌莫高窟では数珠状のX字形瓔珞は隋時代になって出現した。しかし、天衣はX字状に交差せず、腰と膝でU字状に下がっている。
そういえば菩薩の腹布が菱繋文だ。
菱繋文についてはこちら
菩薩坐像 第334窟南壁阿弥陀経変 初唐(618-712)
首から下がった長い珠と丸い玉を連ねた瓔珞が腹前の丸い飾りに連結し、1本は右膝を回り、もう1本は右ふくらはぎに懸かって左膝の上へと向かう。
長い珠が多いため弧を描くようにしか曲がらない、固い瓔珞を描いたのだろう。
菩薩坐像 第103窟南壁法華経変 盛唐(712-781)
菩薩の瓔珞は、貴石を象嵌した部品もあるようだが、ほぼ小さな丸い珠が連なるため、滑らかに体に添う。
ボストン美術館所蔵法華堂根本曼荼羅図の脇侍菩薩が付けた瓔珞に近い作品だ。
菩薩の顔はボストン本の方が柔らかいが、弧を描く眉といい、坐った足の雰囲気といい、よく似ている。
輪っかが出現するのは西魏時代からで、数珠状のX字形瓔珞は隋に入ってからだった。
また、ボストン美術館所蔵法華堂根本曼荼羅図の脇侍菩薩に非常に似た菩薩坐像が盛唐期の敦煌莫高窟で見られるので、双方が手本とした仏画が、都の長安にあったのだろうと想像できる。
ボストン本が唐で制作され奈良に請来されたものか、奈良に請来された仏画を元に日本で模写された作品が残っているのか、これだけでは判断できない。
→敦煌莫高窟19 428窟は一仏二弟子二菩薩像の最初
関連項目
X字状の天衣と瓔珞8 X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞
※参考文献
「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌文物研究所 1987年 文物出版社
関連項目
X字状の天衣と瓔珞8 X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞
※参考文献
「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌文物研究所 1987年 文物出版社
2013/05/21
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館所蔵の法華堂根本曼荼羅図は8世紀の貴重な仏画である。その中の菩薩に数珠のX状瓔珞があるのを見付けた。
それは、日本では飛鳥時代にのみ見られるもので、奈良時代に入るとなくなってしまったようだ。
それについてはこちら
菩薩坐像 法華堂根本曼荼羅図うち 8世紀 ボストン美術館蔵
数珠状の瓔珞が、腹部腹部の金具部分で交差し、それが脚部に垂れている。それが平安仏画のように平面的ではなく、膨らみの感じられる脚に添っている様子がよく表現されている。
では、この菩薩のX字形の数珠状瓔珞は何を手本にして描かれたのだろう。X字状に交差するものを中国の仏像に見ていくと、
青銅菩薩倚像 高12.3㎝ 北魏時代(386-534年) 浜松市美術館蔵
『中国の金銅仏展図録』は、三弁冠を頂き太目の冠帯を張り出させ、天衣を肩で幅広とし、その先を両脇に張り出させて、広がった裳裾の端と接するという。
北魏だけでは時代に幅があり過ぎるが、着衣の左右対称性や細身の点から、後半の作品と思われる。
天衣がX字状に交差しているのが、その後のX字形瓔珞へと発展していったのではないかと思わせる。
また、小さな挙身光の縁、その中の頭光らしき枠、冠帯、そして裙には等間隔で魚々子による連珠文が連なっている。殊に、天衣は襟側から細くなって先端まで連珠文が続いていて、後の数珠状のX字形瓔珞の原型にも思える。
金銅菩薩立像 高24.0㎝ 北魏時代、太和8年(484) 個人蔵
同展図録は、宝髻の根元に回した紐の先が後方で誇張されて翻るのは、古代イラン王が頭部のディアデム(冠帯)を翻すに由来するか?ガンダーラの石像菩薩像にも見える。五胡時代の菩薩像とは瓔珞や天衣の形も大きく変わったという。
天衣は肩の外側を巡って腕に掛かる。
X字形瓔珞はそれ自体別にあるのだが、腹前で交差した瓔珞はそれ以上垂下せず、裙の腰の位置で後ろに回っているらしい。
ササン朝ペルシアの王の翻る冠帯の図はこちら
『金銅仏展図録』は、通肩の大衣をまとい、その上に円形装飾を中心にX字状に交差する瓔珞をつける。下半身では膝のあたりで天衣がX字状に交差し、その下には裳の襞を装飾的に表す。裳・天衣・瓔珞は重なり合って重厚な表現をみせ、また肘と裾で左右に翻る天衣も心地よいリズムを奏でている。
本像は重厚な着衣表現に重点を置いた北魏後期様式の典型的な作例であるという。
数珠状の瓔珞は大きな円形の飾りの箇所でX字状に交差し、その下で天衣もX字状に交差している。
菩薩立像 北魏-東魏(6世紀) 石灰石・彩色 像高97.2cm 博興県崇徳村龍華寺遺跡出土 山東省蔵
『中国・山東省の仏像展図録』は、両肩に懸かる先端がカールする垂髪、腹前でX字状に交差する天衣、下腹を少し前に突き出すように立つ姿勢など、北魏後期様式を基本としている。また、瓔珞中央の大きな半球形飾りや珊瑚形、蝉形の飾り ・・略・・という。
MIHO MUSEUMに所蔵されていた頃は「蝉の菩薩」などと通称されていた。
この菩薩立像にまつわる話はこちら
天衣と瓔珞がほぼ重なって腹前でX字状に交差している。
どの仏像で見たのかもう忘れてしまったが、天衣または瓔珞が円形の輪っかを通っているのが明瞭に表現された仏像があるので、元はそのような役割を持つ飾りだった。
それが、段々装飾的になって、この作品ではもはや金具を通らず、半球形飾りに珠状の金具で数珠状瓔珞が取り付けられているように表されている。
法華堂根本曼荼羅図の菩薩坐像(最初の画像)も中央の円形飾りに突起を4つ付け、そこに数珠状瓔珞が取り付けられてX字形になっている。
瓔珞も途中で珊瑚形、蝉形の飾りといわれる飾りが等間隔に挟まれているので、その一つ一つが複数の数珠を束ねてトウモロコシのように見える。
山東省の仏像にみられるX字状に交差する瓔珞や天衣についてはこちら
観音菩薩立像 菩薩三尊像うち 56.8㎝ 東魏時代、武定7年(549) 大阪市立美術館蔵(山口コレクション)
『中国の石仏 荘厳なる祈り展図録』は、太行山脈の東麓、河北一帯で盛行した白玉造像の一つ。冠繒の結び目や各部の衣文を花弁形に整え、長く垂れる天衣を雲気状に表すなど、着衣は浅く鎬をたてた彫法で装飾を凝らすという。
数珠状の瓔珞は着けていないが、天衣が腹前でX字状に交差している。
やっと天衣をくぐらせる輪っかがでてきた。X字形瓔珞、あるいは天衣は北魏時代からあるので、このように長いものを通して固定する器具というのは例外的なものだったのか。
それについては後日。
金銅菩薩立像 高18.2㎝ 北斉時代武平5年(574) 個人蔵
『中国の金銅仏展図録』は、垂髪を両肩下に魚鰭状に表し、太い瓔珞をつける。瓔珞の交叉する部分にメダイヨンをつけることも幾つかの例に見た。北魏様式を残す魏斉様と呼ばれるものであるという。
肩に懸かる天衣は両側に張り出して袖のように見える。そのまま腕の内側を通り脚部の両側に複雑な軌跡を描いて垂れている。
数珠状瓔珞のみがX字状に交差している。
菩薩像残欠 漢白玉・金箔 現状高83.0㎝ 北斉時代(550-577) 1996年清州市龍興寺遺跡出土 清州市博物館蔵
『中国・山東省の仏像展図録』は、天衣を腹上で結んでX字状に交差し、 ・・略・・ ことを除けば、瓔珞が腹前の環状飾りでX字状に交差しているのも伝統的であるという。
同じ北斉時代の菩薩像でも、武平5年銘像とは全くことなった装飾的な様式のものもある。
トウモロコシ状の数珠とその繋ぎ目にいろんなものが挟まる装飾的な瓔珞は、北魏-東魏-北斉と受け継がれたようだ。
この像は裳の裾に截金による亀甲繋文が残っている。
それについてはこちら
金銅菩薩立像 高65.0㎝ 北周(557-581) 東京藝術大学美術館蔵
『金銅仏展図録』は、左右に大きく翻る天衣、下裳の繁雑な衣襞の表現は北魏後期の伝統を引くが、全体を覆う瓔珞の華麗な表現や随所に見られる立体表現への志向に新時代の造形感覚が顕著に見られる作品であるという。
瓔珞は複雑な形が間に入ってもはや数珠状とは言えなくなり、また、あちこちで枝分かれしてX字状でもなくなっているが、大きく見れば腹部の飾り部分でX字状に交差している。
あまりにも華麗な雰囲気のため、この作品は隋時代のものだとばかり思っていた。たまには解説を読んで間違いを正さねば。
体の両側に長く垂下する天衣を除けば、龍華寺遺跡出土の蝉の菩薩とよく似ている。北周が北斉を滅ぼした後の山東省で制作されたのだろうか。
菩薩立像 銅製 像高36.6㎝ 隋時代(581-618) 山東省博物館蔵
『中国・山東省の仏像展図録』は、円形肩飾りから下がっているように見える瓔珞は、腹前の円形飾りでX字状に交差しているが、ここには円形の飾りとともに、古風な珊瑚形と蝶形の飾りが見えている。天衣は両肩を覆い、肘上で小さな張りを見せながら、裳の縁辺りで結ばれてX字状に交差しており、膝下で反転して両手の前膊に懸かり、長く蓮肉下まで外側を垂下しているという。
小像のためか、北斉や北周期の仏像よりも簡素なつくりの菩薩である。
頭光の立体的な装飾がなければ、隋時代の仏像とは思わないだろう。
円形飾りは平たい板の中央に高い突起がある。
その後に数珠状のX字形瓔珞をつけている菩薩像といえば、8世紀末の龍門石窟のものになる。
救苦観世音菩薩銘龕立像 高2.3m 中唐貞元7年(791) 龍門石窟
『中国の仏教美術』は、腰を右に傾け、前後の厚み、左右の幅といった量感の点で申し分ないが、肉付けに抑揚がなく、全体に膨張しているような体で緊張感がない。彫刻として一頂点を過ぎた、中唐様式というものを理解することができるという。
数珠状の瓔珞はどこに垂下しているのか、その上に天衣が2本体に密着しているので、途中で消えてしまったような感じだ。
円形飾りも数珠状となっている。
とりあえず、数珠状のX字形瓔珞は、中国では8世紀末までは存続していたことはわかった。
つづく
関連項目
X字状の天衣と瓔珞8 X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞
新羅石仏の気になる着衣を山東省に探す
MIHO MUSEUMの山東省の仏像展は蝉の菩薩の見納めか
中国・山東省の仏像展で新発見の截金は
敦煌莫高窟9 285窟に南朝の影響
※参考文献
「ボストン美術館 日本美術の至宝展図録」 2012年 NHK
「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館
「金銅仏-東アジア仏教美術の精華展図録」 2002年 泉屋博古館
「中国・山東省の仏像-飛鳥仏の面影展図録」 2007年 MIHO MUSEUM
「中国の仏教美術 後漢代から元代まで」 久野美樹 1999年 東信堂
「中国の石仏 荘厳なる祈り展図録」 1995年 大阪市立美術館
「小金銅仏の魅力 中国・韓半島・日本」 村田靖子 2004年 里文出版
2013/05/17
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞
法華堂根本曼荼羅図は、1983年の『ボストン美術館所蔵日本絵画名品展図録』では、霊鷲山を描く部分は黄土地帯と思われる荒けずりの大地と寒林風の樹木がみえるが、これらは釈尊の相好とともに唐画の形式に学ぶところ大なるものがあったとみられる。事実、本図はかって唐画と言われて来たが、これと相近い栄山寺八角堂壁画の諸菩薩像との比較において、奈良時代後期の日本作と考えて疑いないとされるが、2012年の『ボストン美術館日本美術の至宝展図録』には唐で制作されたものか、日本でつくられたものかは明記されていない。
背景の霊鷲山についてはこちら
『日本の美術204飛鳥・奈良絵画』は、本図の制作の時期と場所については従来より議論が多い。ボストン美術館東洋部長であった岡倉天心が熟慮の末唐画の部門に入れて久しかったが、その後日本の研究者によって日本画とされた。しかしなお決定的な結論に至っていないのが実情であるという。
同書は、麻布に描かれ、重畳と続く山水を背景に朱衣の釈迦を中心に左右に菩薩の他、比丘形などが囲繞する、いわゆる釈迦が法華経を説く情景とされる霊鷲山説法図であるという。
褪色ということもあるだろうが、あまり色のない背景に、説法の場面が白く浮かび、釈迦の着衣の朱色が目立つ仏画だ。
同書は、釈迦はぴったりとした朱衣を身にまとい蓮華座に結跏扶坐する。二重円相の光背を負い、軽く足を跏坐させて坐る。肉身は白肉色で柔軟かつ鮮やかな朱線の鉄線描によって描起す。朱の条帛と、現在紫褐色に見える裙をつけているという。
偏袒右肩に着けた衣には全く文様は見られない。文様は身光にのみ見られる。
拡大すると光背の輪郭が金色の二重線となっていた。金箔か金泥か、太さが均一なので、截金だろうか。
また、内側も外側も墨線で草花文が描かれているように見えるが、これも銀泥かも知れない。花弁には赤い色が残っているので、制作当時はもっと華やかな仏画だったはずだ。
左右の脇侍菩薩各々の左右に2、3体の小さな菩薩がとりまいている。ことに白肉色の菩薩では鮮やかな朱の唇などに極めて異国的な印象をうける。胸飾りや腕釧には金箔が用いられて朱のまさった肉身によく映えるという。
脇侍菩薩の両腕には羽衣の襞の重なりもあり、腕釧は羽衣の上に着けて描かれている。
X状瓔珞は金色の数珠を連ねたもので、飛鳥時代の菩薩立像にもあったような記憶がある。
観音菩薩立像 銅造鍍金 38.0㎝ 7世紀 法隆寺献納宝物183号
『法隆寺献納金銅仏展図録』は、豪華なつくりの胸飾や瓔珞で飾られているが、瓔珞は腹部の花形飾を中心にしてほぼ上下左右に対称的に構成されたもので、動きのある構成はみられず、より古様な感覚であるという。
数珠状瓔珞は、それぞれ花形飾に近い3つの珠の形が数珠部分と異なっているので、長い数珠が花形飾の内側でX字状に交差しているのではなく、花形飾に4本の数珠が取り付けられているようだ。
しかし、持統2(688)年頃、あるいは養老2(718)年頃と、まだその制作年代が決定していない薬師寺金堂日光菩薩立像にはもうX字形瓔珞は見られない。
奈良時代になると、もうX字形瓔珞は日本では菩薩を飾ることはなくなってしまったらしい。
つづく
関連項目
ボストン美術館展8 法華堂根本曼荼羅図4 容貌は日本風?
ボストン美術館展7 法華堂根本曼荼羅図3 霊鷲山説法図か浄土図か
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展5 法華堂根本曼荼羅図1風景
ボストン美術館展4 一字金輪像
ボストン美術館展3 如意輪観音菩薩像
ボストン美術館展2 普賢延命菩薩像
ボストン美術館展1 馬頭観音菩薩像
※参考文献
「ボストン美術館 日本美術の至宝展図録」 2012年 NHK
「ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展図録」 東京国立博物館・京都国立博物館編集 1983年 日本放送網株式会社
「日本の美術204 飛鳥・奈良絵画」 百橋明穂 1983年 至文堂
「法隆寺献納金銅仏展図録」 1981年 奈良国立博物館
2013/05/14
ボストン美術館展5 法華堂根本曼荼羅図1風景
ボストン美術館展の仏画室で、これまで採り上げてきた作品とは雰囲気のことなる仏画があった。それは奈良時代のものだった。奈良時代の仏画!いったい日本にどれだけ残っているのだろう。
法華堂根本曼荼羅図 麻布着色 縦107.1横143.5 奈良時代(8世紀) 1911年寄贈 ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション
同展図録は、本図は霊鷲山で釈迦が諸尊や衆生に囲まれ法華経を説く光景をあらわしており、西洋における東洋美術コレクションの中でも傑出して重要な作品の一つである。背景描写については、苧麻(東南アジア原産の麻の一種)が暗褐色に変色しており岩絵具も剥落が激しいことから判読は難しいが、険しく聳える山容と深い峡谷が描かれているのがわかるという。
なんとなく山の中で説法しているような雰囲気はわかった。
添えられた赤外線写真で、下の方は小さな襞が重なり合い、上方は切り立った崖となっている山容などがうかがえるが、実景を描いているようではなさそうだ。
きっとこのような説法図が唐から請来されていたのだろう。
『日本の美術204飛鳥・奈良絵画』は、背景の山水は左右に懸崖の続く谷間をぬって蛇行する水流があり、その間の山々は幾重にも峰々が折り重なり、そこには鬱蒼とした樹木が繁っている。花の咲いた樹木もあり、寒林の枝を屈曲させた松樹も見出させる。
山水の表現には複雑な懸崖や樹林が錯蒼し、空間的な広がりがあり、優れた遠近感の表現が見られるという。
それにしても、奈良時代の風景画?そんなものがあっただろうか?
せいぜい正倉院宝物の琵琶に描かれたものを思い出すくらいだ。
楓蘇芳染螺鈿槽琵琶 捍撥部分 奈良時代(8世紀) 正倉院南倉
『第56回正倉院展目録』は、捍撥には皮を張り白色下地に彩絵を施した上にその保護のために油を引く。密陀絵の一種である。縦約40㎝、横約16㎝の小さい画面に、縦方向に近景から遠景まで懸崖、渓谷、遠山を配して奥行きのある図様を作り、盛唐期山水画の「咫尺千里」を彷彿させる。墨や彩色による陰影法、暈繝彩色の青-赤、緑-紫を対比させる配置などは唐朝8世紀に入ってからの新しい技法とみられ、図は盛唐期の画風を伝えるきわめて貴重な作品である。
なお白色顔料の一部からは、純正鉛白ではなく塩化物系化合物が検出され、本図をわが国における製作とみる有力な根拠とされるという。
崖は切り立っているが、法華堂根本曼荼羅図に通じる山の描き方ではない。
紫檀木画槽琵琶、捍撥部分 正倉院南倉
『第61回正倉院展目録』は、画面は、下方から上方にかけて近景・中景・遠景の三段に描きわけられており、まず近景には3人の騎馬人物が配される。中景には、獲物の鹿を担いで帰る2人の人物、四弦琵琶を演奏して音楽に興じる酒宴の様子が描かれる。遠景には山中で弓を射る4人の人物とこれに立ち向かう虎、さらに遠方には水平線上に三山形式の遠山が描かれる。これらの人物の服制や、懸崖・土坡の形状、ベルト状の皴法などは、中国・六朝様式を濃厚に受け継ぐ初唐の様式を示しており、朝鮮半島・高句麗の古墳壁画に描かれる狩猟図とも近似するという。
法華堂根本曼荼羅図の山の描法とはもっと隔たっている。
ベルト状の皴法というものは法華堂根本曼荼羅図には見当たらないので、おそらく、初唐期(618-712年)にぎりぎり引っ掛かる奈良時代初期に請来された琵琶が、どのような経緯でか、後に正倉院に納められることになったのだろう。
『日本の美術204飛鳥・奈良絵画』は、法華堂根本曼荼羅は、もと東大寺法華堂に伝来したもので、裏面に貼付されてあった修理銘によれぱ、久安4年(1148)画僧珍海によって修補され、当時「法華堂根本曼荼羅」と呼ばれたことがわかる。
ただ山の稜線や懸崖、樹林があまりにも重畳と重なり合いそれらの間の前後関係の把握を困難とし、これを日本における転写の際の写し崩れとみる考え方もある。
本図の制作の時期と場所については従来より議論が多いという。
唐画の可能性も残されているようだ。
つづく
関連項目
ボストン美術館展8 法華堂根本曼荼羅図4 容貌は日本風?
ボストン美術館展7 法華堂根本曼荼羅図3 霊鷲山説法図か浄土図か
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞
ボストン美術館展4 一字金輪像
ボストン美術館展3 如意輪観音菩薩像
ボストン美術館展2 普賢延命菩薩像
ボストン美術館展1 馬頭観音菩薩像
※参考文献
「ボストン美術館 日本美術の至宝展図録」 2012年 NHK
「ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展図録」 東京国立博物館・京都国立博物館編集 1983年 日本放送網株式会社
「日本の美術204 飛鳥・奈良絵画」 百橋明穂 1983年
「第56回正倉院展図録」 2004年 奈良国立博物館
「第61回正倉院展目録」 奈良国立博物館監修 2009年 財団法人仏教美術協会
2013/05/10
雷文繋ぎ文
ボストン美術館展で展観されていた一字金輪像の裳には雷文繋ぎ文という文様があった。
雷文繋ぎ文 一字金輪像 裳 鎌倉時代(13世紀初) 1911年寄贈 フェノロサ・ウェルドコレクション
四角い渦が3周して中心に向かっているが、周囲の雷文とは繋がっているようには見えない。卍繋文の変化した文様ではなさそうだ。
鎌倉時代の文様について『日本の美術373截金と彩色』は、文様は定形化した地文にかえて新しい文様や技法も見出すことができるという。その中に雷文繋ぎ文があった。
雷文繋ぎ文は仏眼仏母像にもあったと思われる。
雷文繋ぎ文 仏眼仏母像 裳 鎌倉時代(12世紀末-13世紀初) 京都高山寺像
裳には雷文繋ぎ文があるように思える。卍繋文ではなさそうだ。
『日本の美術33密教画』は、彩色も全般に白い乾いた感じの胡粉地で、自身白衣の幽玄な白の色彩感など、宋仏画に通うところがあるという。
日本に請来された宋の仏画にも、截金あるいは銀泥で表された雷文繋ぎ文があり、それが請来されたということだろう。
雷文繋ぎ文 孔雀明王像 裳 鎌倉時代(12世紀末-13世紀前半) 京都安楽寿院蔵
上の2点同様、格子の枠のどこかの辺に雷文は繋がっているのだが、それに規則性は見られない。
雷文繋ぎ文 山越阿弥陀図 着衣 鎌倉時代 京都金戒光明寺蔵
『日本の美術373截金と彩色』は、11世紀の仏画は「地文彩色・主文彩色」かあるいは「地文截金・主文截金」のどちらかで「地文截金・主文彩色」の組み合わせは仏像にならいそのあとに使用された表現法である。彩色地に地文も主文もすべて截金で表すものの次に鎌倉時代になって黄地の上に截金を置き、肉身も黄(金泥)で表すいわゆる悉皆金色と呼ばれる新しい表現法が仏像や仏画に使用されるようになったという。
悉皆金色というが、黒っぽい截金と、金色がよく残る部分とがある。金色部分は金箔だけの截金だったために現在でも金色、他の截金文様は合わせ箔のため、内側にあった銀箔が現れた箇所は黒く変色したのだろう。
雷文繋ぎ文は一重格子の中に、各辺3巻きの雷文が置かれていて、中には金色の残る線もある。その上の自由文による草花文も合わせ箔で、部分的に金色が残っている。長網文は金箔だけで表されたようで、金色がよく残っている。
合わせ箔についてはこちら
雷文繋ぎ文 聖観音立像 二間観音梵釈立像うち 鎌倉時代(13世紀) 東寺蔵
同書は、素地に截金を置くのは、漆や色地に置かれる華やかな截金とは違った奥ゆかしさを求める別の美意識から使用されるようになったものと思われる。素地截金は中国の檀像に先蹤があるが、日本の素地截金のように「地文截金・主文截金」の組み合わせになる遺例は現在知られていない。東寺二間観音梵釈立像の細緻さは瞠目に値するという。
二重格子の中に各辺3巻きの雷文が収まっている。
上の麻葉繋文も鎌倉時代の新しい文様。
同書は、平安後期から鎌倉時代にかけて截金文様で新奇なものが現れるが、それが中国南宋の影響によることはおよその察しはつくが、中国製のものは遺例に乏しく、出土品の染織文様を参考にして比較できるぐらいである。むろん中国で白大理石に金箔を押し(北斉武平元年[570]白大理石台座・白鶴美術館蔵)、截金・截箔を置く(8世紀中頃、西安大安国寺遺址出土宝生如来坐像、陝西省博物館蔵)ことに長い歴史があり、北宋康定元年(1000)8月には、金箔を以て仏像を飾ることが禁ぜられる(『宋史』巻10)ほど截押金箔は盛んであったという。
雷文繋ぎ文は、今まで見てきた仏画にはありそうでないもので、南宋から請来された文様だった。
日本では、もたらされた当時はもちろん、後の時代にまで、雷文や雷文繋ぎ文は長く表される文様となった。
関連項目
卍文・卍繋文はどのように日本に伝わったのだろう
メアンダー文を遡る
卍繋文の最古は?
ボストン美術館展4 一字金輪像
截金の起源は中国ではなかった
唐の截金2 敦煌莫高窟第328窟の菩薩像
唐の截金1 西安大安国寺出土の仏像
※参考文献
「日本の美術373 截金と彩色」 有賀祥高 1997年 至文堂
「日本の美術33 密教画」 石田尚豊 1969年 至文堂
2013/05/07
ボストン美術館展4 一字金輪像
ボストン美術館展は第1室が仏画だった。照明を落とした中で、あまり大きいとは言えないそれらを鑑賞していくと、それぞれに特徴を持つ作品群であることがわかってきた。
一字金輪像 絹本着色 縦117.9横78.5 鎌倉時代(13世紀初) 1911年寄贈 フェノロサ・ウェルドコレクション
同展図録は、密教では、全てを悟る智慧の徳を、その智慧の宿る仏の頭頂になぞらえて人格化した仏頂尊と呼ばれる一群の仏たちを説く。本図はその仏頂尊の中でも最も優れた力をもつ一字金輪仏頂を描いたものである。さらに本図は金剛界大日如来と同じ印(智拳印)を結ぶので、大日如来と同体の大日金輪と呼ばれる像である。
白い蓮華座に座す本尊は火炎光背を負っており、神秘的なエネルギーを放つさまを暗示しているという。
彩色鮮やかな仏画の中で、光背以外は白描画のような仏画だが、じっくりと眺めていると、着衣にはこれまで見てきた截金の文様に満ちていた。
頭光の下は静かな仏画だ。着衣の文様は墨線か、それとも銀の截金か。
条帛には立涌文から変化したと思われる文様で埋め尽くされている。
この文様は、すでに東寺旧蔵十二天図(平安時代、1127年)の羅刹天の胴に巻いた紐に同じものが見られる。『日本の美術373截金と彩色』は渦文入り立涌文と呼んでいる。
立涌文についてはこちら
条帛の裏側は截金の地文には見られなかった雲文のようなもので埋め尽くされている。
これらの線には肥痩があり、銀截金が硫化して黒くなったのではないことがわかる。
左脚を覆う衣を上から見ていくと、円文繋ぎとでもいうような文様で、中央に三角形のメシベが4つ、外側をオシベが一周し、更に外側に円内いっぱいに何枚かわからない花弁が描かれている。
この円文というのは、東寺旧蔵十二天図中羅刹天の足袋にみられたものが発展したのだろう。二重円繋文とでも呼べばよいのだろうか。
円文についてはこちら
次は亀甲繋文。ここにも三角形が4つ配されている。おそらく、截金なら菱形にしたものを、一つ一つ描かねばならなかったために、描き易い三角形にしたのではないだろうか。
亀甲繋文についてはこちら
膝頭にあるのは雷文?『日本の美術373截金と彩色』は、雷文繋ぎ文としてる。
雷文繋ぎ文については次回。
他には卍繋文もみられ、それぞれの文様の間には、連珠文、パルメット唐草文などの文様帯、そして二重鋸歯文のような文様帯もあるなど、截金による文様が筆で描かれている。
卍繋文についてはこちら
金の截金があるとしたら、垂れ下がった円文繋ぎの紐の輪郭や衣文、あるいは蓮台の蕊くらいしか見当たらない。
この一字金輪像は高山寺の仏眼仏母像とよく似ているなあと思っていた。
仏眼仏母像 絹本着色 縦197.0横127.9 鎌倉時代(12世紀) 京都高山寺蔵
『王朝の仏画と儀礼展図録』は、仏眼仏母(仏眼尊)は一切を見通す智の力を尊格化した尊像である。これを本尊とする仏眼法は息災・延命などに効果があるとされる。この画像は有名な高山寺明恵の念持仏であり、画像の余白に明恵直筆の賛文が記されている。私的修法の代表格といえようか。
画像は大白蓮華に獅子冠を戴き白の着衣をまとって端然と坐る姿である。白色に包まれた像容は平安仏画とは違った清新さを醸し出している。着衣線や蓮弁には截金ではなく金泥を用い、冠や装身具も裏箔として色調を損なわないように心掛けている。意志的表情や引き締まった体軀が緊張感をもたらしているという。
墨線ではなく金泥だった。
また、『日本の美術33密教画』は、顔貌は面長で鼻梁に二条の線を引き、彩色も全般に白い乾いた感じの胡粉地で、自身白衣の幽玄な白の色彩感など、宋仏画に通うところがある。細勁な描線は藤原風の優雅さには欠けるが、伝統的な作風を踏襲しているという。
着衣の文様がかすかに残っている程度なので、非常にわかりにくいが、ひょっとすると裳には新しい雷文繋ぎ文が表されているのかも。
蓮台に垂れた紐は二重菱繋文らしい。
それにしても、金というよりも硫化した銀に近い色だ。
ところが、銀の截金でなければ墨で描いたのだろうと思っていたこれらの文様は、銀泥によるもという説もある。
『日本の美術373截金と彩色』は、銀截金は、感覚あるいはイメージとしては太陽の明るさとに対して、月の光りの小暗さを想起させる。平安時代後期12世紀の世紀末に輝かしい金に対して控えめな奥ゆかしい銀が荘厳美に加えられたことは興味深い。銀泥文様は白あるいは淡紫の下地に描かれるが、これは黄あるいは金泥の下地に截金を置くのと同じ効果を求めたものであろうという。
確かに銀泥で描いたように見える。この文様は法華寺阿弥陀三尊像うち勢至の条帛にある五重矢筈形斜格子文と同じだ。
縦に走る衣文線は裏側から金の截金を置いた裏箔という手法だろうか。
金泥や銀泥で文様を描くというのは、截金が技術的に難しいからか。それともただの流行なのか。
つづく
雷文繋ぎ文についてはこちら
関連項目
メアンダー文を遡る
卍繋文の最古は?
ボストン美術館展8 法華堂根本曼荼羅図4 容貌は日本風?
ボストン美術館展7 法華堂根本曼荼羅図3 霊鷲山説法図か浄土図か
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞
ボストン美術館展5 法華堂根本曼荼羅図1風景
雷文繋ぎ文
ボストン美術館展3 如意輪観音菩薩像
ボストン美術館展2 普賢延命菩薩像
ボストン美術館展1 馬頭観音菩薩像
東寺旧蔵十二天図10 截金9円文
東寺旧蔵十二天図6 截金5立涌文
東寺旧蔵十二天図5 截金4卍繋文
東寺旧蔵十二天図4 截金3亀甲繋文
※参考文献
「ボストン美術館 日本美術の至宝展図録」 2012年 NHK
「ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展」 東京国立博物館・京都国立博物館 1983年 日本テレビ放送網株式会社
「日本の美術373 截金と彩色」 有賀祥高 1997年 至文堂
「王朝の仏画と儀礼 善をつくし 美をつくす 展図録」 1998年 京都国立博物館
「高山寺展 明恵上人没後750年図録」 1981年 朝日新聞社
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