ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2009/10/30
ササン朝ペルシアの連珠円文は鋲の誇張?
法隆寺の四騎獅子狩文錦のような連珠円文で文様を囲むという、日本にももたらされた意匠はペルシア起源だと思っていた。
そして粒金細工の作品を調べている内に、連珠円文も金の細粒やそれをまねた打出し列点文を、主文の周囲に円形に並べたものから生まれたのだろうと思うようになった。ところが、
天馬を表した織物断片 エジプト、アンティノエ出土 7世紀後半 絹 ルーヴル美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、ササン朝の織物ないしその伝統をくむものは、エジプト、カフカス地方、新疆ウイグル自治区などの古墓から出土している。
また、近年ではチベットや中国南部からも出土している。また、ウズベキスタンのソグド絵画(7-8世紀前半)の人物像の衣服に描写された装飾文にも、ササン朝に起源したといわれる文様が見られる。
これら現存する織物は絹織物であり、その文様はほとんど緯錦(ぬきにしき、地と文様を緯糸で折り出す技法)で織られているといわれる。代表的な文様は、連珠文で縁取りした円文の内側に、猪、怪獣(セーンムルウ=シームルグ)、首飾りをくわえた鳥や牡羊、天馬などゾロアスター教の吉祥文をあしらったものである。
しかしながら、ターキ・ブスタン大洞(7世紀前半)の国王猪狩り図の王侯の衣服 ・・略・・ などの装飾文様と比較すると、いずれも形式的に発達したもの、すなわちササン朝の文様よりも後代の作品である蓋然性が大きいという。
主文はササン朝ペルシア起源でも、連珠円文に囲まれた動物の錦は、どうもササン朝が651年に滅亡したよりも後に作られるようになった可能性が高いらしい。この錦は6-7世紀となっているが、7世紀後半の作品のようだ。
大きな円文が並ぶが、上下左右にはもっと小さな円文で何かを囲んだモチーフがある。 7世紀前半というササン朝滅亡直前に造られたターキ・ブスタン大洞に表された衣服の文様はどのようなものだろう。
シームルグ文 イラン、ターケ・ボスターン大洞内奧浮彫 7世紀前半
『古代イラン世界2』は、今日、イランの地でサーサーン朝ペルシア錦(324-641)とされるものの出土例は知られていない。それを具体的に知りうるのが有名なターケ・ボスターンの摩崖に掘鑿された大小二洞の大洞内壁に刻まれた浮彫(7世紀前半)の織物とみられるものの模様である。それは確実にサーサーン朝ペルシア後期の錦(サミット)の模様と言ってよい。東京大学イラン・イラク調査団はこの織物の模様に関して詳細な研究を行っている。それによれば織物の模様は50パターン以上が識別され、その装飾の基本的なフォーマットは菱格子文形式、水平列の段文形式そして円文形式のおよそ3つのタイプに分けることができるという。
なるほどシームルグというササン朝独特の怪獣が草花のような円文に囲まれている。下中央には四弁花文から両側に上方向に花文が向かっている。道明三保子氏の復元図(同書)には上中央にも四弁花文がある。 確かに7世紀前半のササン錦には、主文が連珠円文に囲まれたものはないようだ。
とりあえず連珠円文そのものがどこで誕生したかを探していると、ペルシアには大きな円形の突起の並んだものがいろいろと見つかった。
ファレーラ イラン出土 6-7世紀 銀 径5.3㎝ ベルリン国立博物館イスラーム美術館蔵
馬の胸繋(むながい)や尻繋につけた円形飾り金具らしいが、大粒ながら連珠円文と呼べるのではないだろうか。体には二重円文がびっしりと並んでいるので孔雀を表しているのだろうか。トサカと蹴爪もある。 壁の装飾浮彫 テペ・ヒッサール出土 ササン朝(6世紀) ストゥッコ 高38.0幅38.0 イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展図録』は、建物の壁を飾っていたストゥッコ製の飾り板。型造りによる。穴あき連珠文の中に猪の頭部側面が表現されている。猪はササン朝の帝王による狩猟図でしばしば描かれる獲物の一つ。同種の作品はササン朝ペルシャの首都であったメソポタミアのクテシフォンでも発見され、そこでは猪の他に熊や孔雀などを表した方形ストゥッコ板も見られる。これらのストゥッコ装飾は6世紀のもので、ササン朝後期の作品という。
「穴あき連珠文」という言い方もあるのか。同書には穴あきでない連珠円文の装飾浮彫もあった。連珠猪頭文錦はササン朝のものでないなら、どこで製作されたのだろう。
リュトン イラン出土 4世紀 銀 長25.4㎝ A-M・サックラーギャラリー蔵
リュトンの口縁部にも大きな円文が巡っていた。粒金細工にも端に金の粒が並んでいるものがあった。イランの連珠円文はどれも大きいなあ。 ロゼット文の装飾タイル ペルセポリス出土 アケメネス朝(前550-330年) 石灰岩 高34.5幅33.5 ペルセポリス博物館蔵
『ペルシャ文明展図録』は、浮彫で中央にロゼット文を配し、周縁部に連珠文を巡らせているという。
これも「穴あき連珠文」に入るのだろうか。連珠文は円形に巡らせるものとは限らなかった。 嘴形注口容器 ルリスタン州ハトゥンバン出土 前1千年紀前期(前1000-500年) 青銅 高11.2長26.2 イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展図録』は、口縁部がわずかに開いた球形の胴部に嘴形の注口が付く容器。土器にも似た形のものがしばしば見られる。胴部と注口の接合部にめぐらされた連珠様の装飾は、注口を留める鋲を誇張したもの。本作と同様の容器が古墓から出土する例が報告されており、祭祀に用いられたと考えられるという。
これがペルシアで見つけることのできた最古の連珠文だった。 粒金細工から連珠文が誕生したと思っていたのに、こんなに大きな「鋲の誇張」だったとは。
※参考文献
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 (財)島根県並河万里写真財団
「ペルシャ文明 煌めく7000年の至宝展図録」 2006-2007年 朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
2009/10/27
列点文で文様を囲む
一見粒金細工のように見えても、オルモ・ベッロの墓地第2墓出土頸飾りの円盤(前750-725年)のように、じっくり見ると打出しによるものがある。『エトルリア文明展図録』は、特にエトルリアで広く普及した幾何学文の打出しという。外縁部には二重に細かな列点で円文を作り、中心に1つの点とそれを取り囲む列点による円文という1つの文様が、その間を巡っている。
打出しによる列点円文が中央の文様を囲むという構成は硬貨の文様と共通する。それは擬似粒金細工としてかなり古い時代から行われていたのだろうと思っていたが、意外にもエトルリアの前8世紀の作品が最も古かった。
ボタン アルトゥンテペ出土 前8世紀末-7世紀初 金 0.5㎝ アナトリア文明博物館蔵
アルトゥンテペは現トルコ東部のエルズンジャン付近にある、ウラルトゥ王国の遺跡である。エトルリアと変わらないくらいの時代のものだ。中央の六弁花も列点文らしい。 これらはアラジャホユックの出土の金製品に見られたような鑿による打出しではなく、型押しによる成形だろうか。
装飾板 バクトリア出土 前5-2世紀 金 4.5㎝ MIHO MUSEUM蔵
『偉大なるシルクロードの遺産展図録』は、金箔を12弁のロゼット文に切り、内側のメダリオンにはアキレス・ヒールのような意匠を押出しで形成している。アキレス・ヒールをつけた楯がオクサス神殿から発掘されている他、よく似た意匠がタキシラ出土の硬貨のパンチマークに見られるという。
同図録はこの作品を「アレクサンドロスの遺産」で紹介しているので、前4世紀後半以降のものだろう。この作品も型押しのようだ。
装飾板 バクトリア出土 前5-2世紀 金 高2.0㎝ MIHO MUSEUM蔵
円形の金板に正面向きのライオンの顔面とその周りにライオングリフィンの横顔を囲む区画を6つ打出し、裏面に小環をつけている という。
こちらは型押しではなく打出しによって製作された装飾板という。中央のライオンの顔面を囲む円と周囲の6つの区画に区切る線には打出し円文ではなく、丸鏨で刻んだような小円が並んでいる。 バクトリア出土品には型押しによる列点文の他、丸鏨による列点文も見られるが、粒金細工もたくさん出土している。バクトリア出土の粒金細工はこちら
その中には粒金細工による三角形の連続文様(鋸歯文)もあれば、円板の内部に金板を折って小さな三角形の帯文様にしたものもある。バクトリアでも粒金細工による文様を真似て、様々な工夫を凝らして金製品が作られたのだろう。
※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館)
「アナトリア文明博物館図録」
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」(2005年 (株)キュレイターズ)
「エトルリア文明展図録」(青柳正規監修 1990年 朝日新聞社)
2009/10/23
トロイにアナトリア最古の粒金細工
『知の再発見双書37エトルリア文明』は、トロイアのプリアモス王の宝物にも、この技術は見られるというが、前回は探し出せなかった。やっとプリアモスの宝から粒金細工のあるものを見つけることができた。前回につていはこちら
耳飾り 金 トロヤⅡg層宝物庫A出土 前期青銅器時代(前3千年紀第4四半期=前2250-2000年) イスタンブル考古学博物館蔵
火災により一部熔解して、互いに接合し合ったものという。
その中にある金製品には、熔けかけて平たくなっているが、金の粒が並んでいる。確かに粒金細工はトロイに存在していた。 私が確認できる範囲で、アナトリアで最古の粒金細工はキュルテペのアッシリア商人居留地出土の髪飾(前20-19世紀)だったが、製作地はアッシリアだろう。しかし、トロイの粒金細工はそれより古い。 現在まで見つけることのできた最も古いウル王墓出土の黄金の短刀に次ぐものだ。
もう1点、似たような耳飾りがある。
耳飾り 金 トロヤⅡg層宝物庫D出土 前期青銅器時代(前3千年紀第4四半期) イスタンブル考古博物館蔵
三日月形飾りの周縁は、金の細粒で縁取られている。その縁飾りの内部には、金の細かい粒の縦線によって、さらに6つの長方形の区画に分けられているという。
プリアモス王の宝物は宝物庫A出土のものを指すらしいので、D庫から発見されたこの耳飾りはそれにあたらないが、A庫の耳飾りとそっくりだ。こちらは火災にあっていないからか、金の粒は全体にやや偏平であるものの、先端は平たくなっていない。しかし、粒の並べ方がまっすぐでなかったり、粒金の上に重ねて鑞付けするなど、熟練した技術とは思えない。粒金細工が始まって間もない頃のもののようだ。 『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、前3千年紀後半、すなわち青銅器時代前期も後半になると、アナトリアにも都市と呼べるような拠点的集落が見られるようになる。
鉱物資源の開発が進められ交易のネットワークが整備されていく過程で、多くの物資が集散する拠点的な集落が出現し、富の集中が見られるようになったものと考えられる。このような動きを背景に、都市ではエリート層とも呼ぶべき特権的階層が生み出され、その権力を誇示する目的で技術的にも質の高い金属工芸の発達が要請された。こうして生み出された金属製品は、青銅器時代前期のアナトリアの美術を代表するものとなっている。
青銅器時代前期後半のアナトリアは、おそらく比較的狭い領域を統治する都市国家的小国が分立し、覇を競っていたものと考えられるという。
同じ頃に交易ネットワーク上に出現した都市国家のトロイとアラジャホユックに、同じ頃に粒金細工がもたらされた。それが契機となって、トロイでは拙いながらも金を粒にして並べて文様を作ることができるようになったが、アラジャ・ホユックでは打出し列点文や、刻線による細工などで金の粒をまねた細工として装飾が開始されたのかも。
※参考文献
「トルコ文明展図録」(1985年 平凡社)
「知の再発見双書37 エトルリア文明」(ジャンポール・テュイリエ著 1994年 創元社)
「鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘」(大村幸弘 1981年 NHKブックス)
「世界美術大全集東洋編16西アジア」(2000年 小学館)
2009/10/20
アラジャホユック出土の金製品は
アラジャホユックA墓出土の金冠には粒金を目指したような打出し列点文が施されていた。
『鉄を生みだした帝国』は、1935年、アラジャホユックの発掘調査で、王墓と思われる遺構が発見された。それはヒッタイト帝国の時代より古い初期青銅器時代、前2500年から2200年頃のものであった。王墓は全部で13発見された。墓は竪穴の形式をとっており、長方形の形をしていた。周囲は自然石で囲まれていた。
この13の王墓は、遺物の整理上、AからTまでの名称が与えられている。
その王墓群を築いたのはプロトヒッタイトでアナトリアの原住民という。
13の墓の中でもA墓は最下層に近いとろこにあり、他にも金製品が出土している。
バックル 金 長15.2㎝ アラジャホユックA墓出土 前期青銅器時代(前3千年紀後半) アナトリア文明博物館蔵
『トルコ文明展図録』は、2つの小円盤を接着した形で、内側に軽く湾曲している。輪郭にそって列点文が打出され、さらに両円盤の中を、X字形に交わる2本の列点文で打出しているという。
金冠よりも密に列点文が打出されていて、先端が丸いように見える。 腕輪 金 径6.5㎝ アラジャホユックA墓出土 前3千年紀後半 アナトリア文明博物館蔵
内側の面が平坦な、半円形の断面をもつ金環。外面は、金細粒と刻線で装飾されているという。 『世界美術大全集東洋編16西アジア』も、冠、腕輪、ピン、ビーズなどの装飾品も製作されているが、透かしや細粒を鑞付けする技法なども駆使した見事な仕上がりとなっているという。
実は、これがアナトリアで粒金細工最古だと一瞬思ったが、じっくり見ると、どうも粒金ではないようだったので除外したのだった。今見ても厚みのある金を削ったとしか思えない。金の粒を目指して製作したのではないだろうか。 これらが粒金ではないにしろ、粒金細工を真似て、あるいは粒金細工に近づけようとして製作したものだろう。また、図版がないのは残念だが、A墓出土の金製品に粒金細工のものがあるという。
今のところ私のわかる範囲では、ウルの王墓から出土した短刀の鞘に施された不揃いな金の粒が粒金細工の最古(前2600-2500年)のものだ。チグリス・ユーフラテスの河口に近いウルという都市国家からは、アナトリア中央部のアラジャホユックはかなり離れている。
A墓は最下層に近いところに位置しているので、13の墓の中でも古い部類に属する。ということは、アラジャホユックの金製品はウル王墓出土の金製品にわりあい近い時代のものということになる。
ユーフラテス川を舟で遡っても、アラジャホユックはかなり遠いと思うが、意外に早く将来されていたのかも。
グーグルマップでアラジャホユックはこちら
最古の粒金細工についてはこちら
※参考文献
「トルコ文明展図録」(1985年 平凡社)
「鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘」(大村幸弘 1981年 NHKブックス)
「知の再発見双書37 エトルリア文明」(ジャンポール・テュイリエ著 1994年 創元社)
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館)
2009/10/16
打出し列点文も粒金細工から?
粒金細工の最古の作品は今のところウル王墓出土の短刀の鞘(前2600-2500年)だが、打出し列点文はギーラーン出土の金製首飾り(前1000-500年)にあった。打出し列点文はどこまで遡るのだろうか。
豊穣の女神の首飾り 前2千年紀(前2000-1000年) ウガリット シリア国立博物館蔵
『シリア国立博物館』は、金の板を加工したものと玉を交互に連ねている。ヒトデ形の金板や筒形のもの、点状に打ちだし飾りをつけたものとさまざまな金属加工の技術が試みられている。中心にたれさがる金盤には豊穣の女神が表現されているという。
①裏向きになっているが、十字文の中央に丸く打出した点文が見える
②ヒトデ形とされている六角形の中心部に打出し列点文がある
③小さな木の葉形の周囲に打出し列点文が並び、その中央には大きな打出し点文が小さな打出し列点文に囲まれている
④大きな木の葉形を打出し列点文がを一周し、大きな打出し点文は文様にも使われている。
冠 前3千年紀後半(前2500-2000年) トルコ、アラジャ・ホユックA墓出土 金 高5.4㎝径19.2㎝ アナトリア文明博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、比較的幅があり、細かな透かし状の装飾が施されるのが特徴である。透彫りは、三角形の透かしを方向をたがえて四つ組み合わせることで格子目文にX字形文(襷状)が組み合わせた形となっている。それぞれの三角形は、外側から鑿(のみ)状の工具で3回打ってくりぬくことで作り出されているため、微妙に形が異なっている。これが水平方向に4段にわたって全周する。上縁と下縁には内側からの打出しによる点文が認められるという。
三角の形はそれぞれ異なるが、列点文はほぼ等間隔に打ち出されている。また、水平の透彫の間には3段の大きめの列点文が並んでいる。どちらの作品も、打出し文は粒金の代わりのような気がする。そうだとすると、それぞれの地に粒金細工の作品があったのか、金冠がほかの場所からもたらされたものということになる。
ところで、金冠の縁に列点文が巡るというのは新羅の金冠と似ている。また、天馬塚出土の金製冠帽では金板に文様を切り出して残った細い直線や曲線にも打出し列点文あるいは打出し文が施されている。しかし、3000年近くの隔たりは、アジア大陸の東端と西端の距離よりも大きいなあ。
※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 中央アジア」(2000年 小学館)
「世界の博物館18 シリア国立博物館」(1979年 講談社)
2009/10/13
貨幣の列点文は受け継がれて
アレクサンドロスの遠征以降、硬貨の列点文はどうなったのだろう。
アンティオコス2世硬貨(表) 銀 セレウコス朝シリア(前261-246年) 平山郁夫氏蔵
ディアデムを戴く右向きの王頭部の周囲に細かな列点文が見られる。マケドニア製のアレクサンドロス銀貨以上に小さな列点文かも。アンティオコス2世の横顔も髪の毛まで丁寧に表わされ、ヘレニズム期らしい作品となっている。 カニシュカ1世硬貨(裏) 金 クシャン朝(2世紀) 平山氏蔵
頭光、身光のある、右手施無畏印の仏陀立像はほぼ隙間なく大きめの列点文が巡っている。紀元後でも硬貨に列点文をつけることは受け継がれていたのだ。 アルダシール1世硬貨(表) 銀 ササン朝(224-241年) 平山氏蔵
鷲文と耳覆いのあるティアラ冠を戴く、右向きの国王胸像には小さな列点文が密に並んでいる。やっと硬貨らしいものに出合った。ササン朝でも列点文のある硬貨が刳られたのだ。 ホスロー2世のディナール硬貨(表) 金 ササン朝(590、591-628年)
『ペルシャ文明展図録』は、王の右向き肖像。弱体化した帝国を、西はエジプト、アラビア半島にまで広げ、一時的に帝国最大の版図を誇り「勝利者」と呼ばれた。やがて東ローマとの戦いで捕虜となり、殺害される。その後ササン朝は短命の王が乱立する混乱期に入るという。
ササン朝末期になると硬貨の縁ぎりぎりに列点文が巡っている。ホスロー2世の横顔はアルダシール1世と比べると表現に深みがなくなり、髭などやたら点々で表現されて簡略化されているが、列点文の外側の余分なものがなくなり、硬貨としては完成度が高い。 ソグド硬貨 銀 時代不明
ホスロー2世の金貨とよく似ているので、同じような時代に製作されたものだろう。こちらの方が列点文が大きい。 アレクサンドロスが遠征したあちこちで、後の時代にも各地で列点文の巡る硬貨が造られていたのだ。
※参考文献
「古代バクトリア遺宝展図録」(年 MIHO MUSEUM)
「ガンダーラとシルクロードの美術展図録」(2002年 朝日新聞社)
「ペルシャ文明 煌めく7000年の秘宝展図録」(2006-2007年 朝日新聞社)
「週刊シルクロード紀行13 タジキスタン」(2006年 朝日新聞社)
2009/10/09
粒金細工が硬貨の縁を飾る列点文に
粒金細工を探していると、粒金が円形の輪郭に沿って並んでいるものから金貨や銀貨の周囲に列点文ができていったのではないかと思うようになった。
粒金細工についてはこちら
『アナトリア文明博物館図録』は、初めてコインが作られたのは、西アナトリアのリディア王国で、前7世紀後半のこであるというが、リディアの硬貨の図版がない。現存していないのかも。
見つけることのできた周囲に列点文のある貨幣で最も古いのは、アレクサンドロス大王の銀貨だった。
アレクサンダーⅢ銀貨 マケドニア 前336-323年 平山郁夫氏蔵
東方遠征を開始したのが前334年、中央アジアまで遠征し、帰還しようとしてバビロンで没するのが前323年。マケドニアは出土地を示しているのだろうが、どこで造られたのだろう。
現在の硬貨とちがい、図柄が硬貨の外縁にきっちりと合っていないが、かなり小さな列点文である。また、アレクサンドロスの横顔の表現といい、被ったライオンの頭部の表現といい、硬貨という小さな面積の中で、これほど緻密な細工ができたのは、やはり当時のギリシア(父フィリッポス3世が前ギリシアを征服しているので、マケドニアも含んだギリシア)ではないかと思う。ギリシアの硬貨の図版がないのが残念。 もう一つアレクサンドロス・コインがあった。
アレクサンドロス・コイン ウズベキスタン出土
こちらの方は列点文が大きく、上のコインが細かいところまで表現されているのに比べ、かなり粗い表現となっている。特にライオンの口とアレクサンドロスの顔の間の髪の毛、そしてライオンのたてがみの表現が全く異なる。模倣を重ねていくとこのようになるのだろう。『アレクサンドロスの時代』は、前329年にヒンドゥークシュへ。前326年ヒュダスペス河畔でポロス王と戦うというので、この間に作られたコインだろう。アレクサンダーⅢ銀貨よりも古い列点文の巡る硬貨があるだろうか。
バビロニア領主マザエウス金貨 前332-331年 平山郁夫氏蔵
ウズベキスタン出土のアレクサンドロス・コインより以前につくられている。列点文が突起になっているものと、平たいものがあって、技術が未熟であることを示している。
ダレイオス3世金貨 前331-330年 アケメネス朝ペルシア 平山郁夫氏蔵
アケメネス朝はアレクサンドロスに征服される。最後の王ダレイオス3世はバクトリアまで敗走し、ベッソスに殺害されたのが330年なので、金貨の王はダレイオス3世だろう。
同じような時期に作成された金貨だが、アケメネス朝のものには列点文がない。 これだけで判断すると、列点文を巡らせた硬貨は、アレクサンドロスの遠征によって、征服された土地に伝えられたようだ。
※参考文献
「アナトリア文明博物館図録」
「文明の道1 アレクサンドロスの時代」(2003年 日本放送出版会)
「古代バクトリア遺宝展図録」(2002年 MIHO MUSEUM)
「ガンダーラとシルクロードの美術展図録」(2002年 朝日新聞社)
2009/10/06
動物頭の鹿角は中国の開明に?
北方ユーラシアでは、鹿の巻角は前5世紀には鳥の頭部になってしまった。中国周辺、あるいは中国でも角が他の動物の頭部になったようなものがあった。
有角獣形頭飾 金 高11.5㎝ 匈奴(前4世紀) 神木県納林高兎出土 西安、陝西省博物館蔵
『世界美術大全集東洋編1』は、四葉の上に怪獣が立っている姿を表している。その動物は一見すると枝角を持つ鹿に見えるが、口は鳥の嘴のような形で、枝角の先はそれぞれグリフォンの頭になっいる。尾もグリフォンの頭の形をしている。これは帽子あるいは冠の上につける装飾であったと考えられている。このような怪獣は、アルタイの初期遊牧民文化にも見ることができるという。
『図説中国文明史3』は、戦国時代の匈奴の貴族が使った金の装飾品。鷲のくちばし、獣の身体で、頭上には鹿の角がある。獣の身体は凸雲紋で飾られ、頸部は鬃紋(そうもん、たてがみ)で飾られている。立体彫刻、透し彫り、浮き彫りが1つの器物上に集められ、匈奴の見事な工芸水準をよく表しているという。
匈奴も巻いた鹿角に動物の頭がつけていた。今までと異なるのはその角が背中に沿っていないことだ。 金動物文飾板 前4-3世紀 内モンゴル自治区杭錦旗阿魯柴登出土 3.3X5.0㎝ ホフホト市内モンゴル自治区博物館蔵
『世界美術大全集東洋編1』は、帯を構成する飾板であったと考えられる。虎のような獣が前肢と後肢を前に出し、伏せるような姿をとる。頭の上からは枝角が背中に沿って伸びており、それぞれの端には鳥頭あるいはグリフォンの頭が表される。虎の尾にも鳥の頭がある。この怪獣は虎のような猛獣を基礎として作ったものである。しかしこのような動物も、ノヴォシビルスク地方で発見例があるという。
肉食獣にも枝角がついてしまった。鳥というよりは耳の丸いグリフォンの頭部に見える。 鏡の装飾品 内蒙古伊克昭盟ジュンガル旗西溝畔遺跡 匈奴墓出土 戦国時代(前403-221年)?
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、銅鏡の背面から発見された装飾品で、獣身鳥頭で鹿の角を持つグリフィン様の紋様が施されている。帯飾りは裏側に漢字が記されていた。字体の検討から、発掘報告では、戦国時代の秦で作られた可能性を指摘している。
戦国晩期には、すでに中国とオルドス地域との交流があったことを示すという。
巻角が動物の頭ではなく渦巻きになっているのは、戦国秦が作ったからだろうか。 帯飾り 前漢(前206-後8年) 江蘇州徐州市宛胊侯劉執墓出土
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、前漢に入ると、オルドスの黄金製品に見られるモチーフを持った飾り板は、中国の南方でも見られるようになるという。
騎馬遊牧民の動物の頭の角は、中国南方では訳が分からなくなり、動物の本体が消滅して、鳥の頭部だけが地模様のようにびっしりと並んでしまったのか。 時代はかなり下がるが、鳥やグリフォンの頭部ではなく、人頭がついたものが出現する。
開明獣 敦煌莫高窟第249窟窟頂部 西魏(後535-556年)
『敦煌莫高窟1』は、簡体字の中国語なので、わからない文字もあるが、字面で判断すると、中国の古代神話に登場する天獣「開明」は、窟頂の東・南・北に3対ある。北の開明は13の首、南の開明は11の首、東の開明は9の首がある。
山海経には、開明獣は「人面の9つの首がある」と書いてあるようだ。
しかし、下図では、左面の開明の人頭は9、右面の開明の人頭は11ある。図版が左右反転しているのかも。窟頂部全体はこちら
敦煌莫高窟第285窟(西魏)にも開明が描かれている。その窟頂部はこちら コストロムスカヤ1号墳出土の鹿形飾板を見て以来、北方ユーラシアの鹿角が巻いて繋がっているのを見る度に、頭に浮かぶのは敦煌莫高窟で見つけた人頭がたくさん並んだ怪獣だった。その怪獣が開明と呼ばれることを知って、もっとすごい名前を想像していたので意外だった。
中国の神話が作られた時代に、周辺の騎馬遊牧民は、枝角がくりくりと巻いた鹿をさかんに表現していた。それが中国ではたくさんの首がついたように解釈され、やがて人頭がたくさんある開明獣になったのでは。
※参考文献
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明」(林俊雄 2007年 講談社)
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 財団法人島根県並河萬里写真財団)
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」(2000年 小学館)
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館)
「図説中国文明史3 春秋戦国」(稲畑耕一郎監修 劉煒編著 2007年 創元社)
2009/10/02
巻いた鹿の角は鳥の頭に
鹿の巻角は、騎馬遊牧民によってどのように表現され続けていくのだろうか。鹿の巻角の起源はこちら
鹿文矢筒覆い ロシア、クラスノダル地区ケレルメス4号墳出土 スキタイ(前7世紀末-6世紀初) 金 高40.5㎝幅22.2㎝ エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、隆起線で方形に仕切られた区画の中にスキタイ美術に典型的な鹿文様が打ち出されているという。
枝角の先がそれぞれ小さな円になっている。 鹿形飾金具 ロシア、ミヌシンスク近郊出土 タガール文化(前6-5世紀) 長7.5㎝ エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、角はS字形を連ねたような形状で背の上に伸び、 ・・略・・ このような脚を折り曲げた鹿のモティーフはつね東は中国北方から西はハンガリーに至るまで、ユーラシアで各地に見出されるスキタイ系の動物文様の代表的な一例として。早くから注目を集めてきた。
頭部から前方に突出した枝角が1本である点は、2本が主流で、ときに3本のものも見られる黒海北岸を中心としたスキタイの鹿文様と区別される、カザフスタン以東の特徴であるという。
鹿の角というよりも鎌首をもたげた蛇が並んでいるようだ。 矢筒装飾板 ウクライナ、イリイチョヴォ古墳出土 前5世紀 金製 ウクライナ歴史宝物博物館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、矢筒を装飾したものと考えられており、枝角を持つ鹿を大きく表している。中央部分が欠けているが、鹿の枝角の先には鳥の頭が見えるという。
鹿に蛇・肉食獣・猛禽が襲いかかっている図だが、鹿の角には嘴の巻いた鳥の頭部がたくさんついている。 前5世紀になると、鹿の巻角はついに鳥の頭になってしまった。
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、表現されている動物のなかでもっとも多いのは鹿である。鹿の特徴はなんといってもその立派な角にある。角は古代社会ではしばしば豊饒や再生のシンボルとみなされていたというが、その鹿を猛禽や猛獣が襲う場面は、自分たちの狩人としての腕を肉食獣に表したのだろえか。 そうすると、鹿の角が鳥の頭になったのは、たくさんの食糧を得たいという願いが込められているのだろうか。
※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」(2000年 小学館)
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館)
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 (財)島根県並河万里写真財団)
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