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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/09/15

鹿の巻角の起源は

 
初期スキタイ時代の鹿(前7世紀末)は、実際のものよりも角がかなり曲げられ、大きく表現されていた。巻角の鹿は、様々な形態のものが北方ユーラシアで発見されている。

鹿形飾板 ロシア、クラスノダル地区コストロムスカヤ1号墳出土 スキタイ(前7世紀末-6世紀初) 金 長31.0㎝幅19.0㎝ エルミタージュ美術館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、地表に一辺が3.2mの正四角錐形の木造木組みを組み立て、その上を葦で覆ってテント小屋のようなものを造り、葬儀の後、この「小屋」には火がつけられ、それから3mほど土盛りし、全体の高さは5.4mに達していた。「小屋」の内側からはさまざまな武器が出土したが、そのなかでもっとも注目されたのが、鉄製の円形の楯の残骸の上に発見された鹿形飾り板である。この発見によって、この種の大型動物形飾り板が楯の中央につけられる装飾であることがわかったという。
木槨墳だが積石はせずに土だけ盛った墳墓のようだ。
S字形に巻いた枝角が6本、その後ろは尾のようになっていて、背中に沿っている。前には逆方向に2本ある。楯の中央につけらているために角がこれほど立派に表されたのだろうか。 鹿 チリクタ出土 サカ(前8世紀末-7世紀前半) エルミタージュ美術館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、チリクタ古墳(クルガン)群は、カザフスタン共和国と中国との国境地帯、バルハシ湖の400㎞ほど東で、ザイサン湖の100㎞ほど南にある。51基の古墳からなっているが、そのうち13基は径が100mもあり、ユーラシアの巨大古墳の中でも最大級の古墳が集まっているとこるであろう。
5号墳は径が66mで、地表面から深さ1m、7.1X8.3mの穴を掘り、東側に入口の道をつけている。穴には丸太で作られた4.8X4.6m、高さ1.2mの墓室を入れ、そこに2人の遺体を納めていた。1人は40-50歳程のエウロペオイドの男、1人は50-60歳程のエウロペオイド-モンゴロイド混合の女である。墓室の上に石を積み、それから粘土、次に小石混じりの土を被せ、表面には径15㎝ほどの石を積んでいる。築造した時には径45m、高さ10mほどの大きさであったと考えられている。
鹿の表現は、黒海沿岸の初期スキタイのケレルメス古墳群やコストロムスカヤ古墳などの出土品とよく似ており、しかもさらに写実的である
という。
積石木槨墳だが、羨道がついているらしい。慶州の天馬塚は東西60m南北51.5m高さ12.7mの円墳なので、3/4ほど小さいものだ。
ロムスカヤ古墳出土の鹿よりも古いが、ずっと写実的だ。こちらの枝角は、前に1本、後方に4本で、後方のものは互いにくっついて背中に沿っているが、先は離れている。 鹿石 前2千年紀末-前1千年紀初 モンゴル、ムルン近郊オーラン・オーシグ
『世界美術大全集東洋編1』は、モンゴル高原とバイカル湖東南地方においては、青銅器時代から匈奴時代にかけてきわめて似通った文化が見出される。この地域の青銅器時代には鹿石、板石墓などの遺跡が知られており、またヘレスクルと呼ばれる積石塚もまた青銅器時代のものと考えられる。
鹿石に表された鹿文様は、嘴のような口先を突き出し、枝角は背中に沿ってなびくように置かれ、背中には三角形の突起があり、肢は細い線で簡単に表されるだけである。このような鹿の文様が多くの場合斜めに何頭も重ねて表されるのが、典型的な鹿石である。鹿はほかにも少し異なった様式のものがあり、足先が爪先立ったような姿勢で表される
という。
肢はこれまで見てきた程ではないが、折り曲げている。そして枝角は4本が背中に沿ってくりくりと伸び、前には極端に細い枝角が2本出ている。 現在スキタイ系文化のなかで最古とされるトゥヴァのアルジャン古墳では、積石の中から鹿石の破片が発見されているが、それにスキト・シベリア様式の動物が表されていた。鹿石に典型的な様式の鹿は、スキト・シベリア様式の鹿よりも早く、殷代(前17-11世紀頃)あるいはそれに近い時期のものであり、スキト・シベリア様式の鹿は、初期スキタイ文化、あるいは東方においては夏家店上層文化(前1000-600年頃)に併行すると思われるという。
どうも巻角の鹿は、スキタイよりも以前にモンゴル高原で暮らしていた人々の方が早かったようだ。どんな系統の人々だったのだろう。

チリクタ、オーラン・オーシグの位置はこちら
積石木槨墳についてはこちら

※参考文献
「世界文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 島根県立並河萬里写真財団)
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」(1999年 小学館)