高井田山古墳 五世紀後葉 円墳 直径22m 早期の横穴式石室 大阪府柏原市
『玉からみた古墳時代』は、生駒山地南端の大和川を南に見下ろす丘陵上に立地しています。
埋葬施設は安山岩の板石を積み上げた右片袖式の横穴式石室です。玄室上半部は壊れていましたが、天井部はドーム状に積み上げられていたようです。木棺2基が安置されていました。
畿内でも早い段階に築かれた横穴式石室です。石室構造や副葬品だけでなく、男女合葬や須恵器の副葬などの埋葬方法や儀礼から、百済との強い関係性が窺われ、被葬者は百済からの渡来人との考えもありますという。
円形平面で板石を内側に持ち送っていくとドーム状の天井になる。
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柏原市高井田山古墳横穴式石室 『玉からみた古墳時代』より |
西棺は、荒らされていましたが、東棺からは、神人龍虎画像鏡と青銅製熨斗、耳環、金層ガラス玉を玉類3連、鉄刀1点、銀装の刀子2点が出土しています。頸飾りは被葬者頭上の熨斗の柄部分に置かれていました。玉類は、この被葬者の頸飾りと推定され る一群のほかに、体部両脇と足部両側から、いずれも玉を繋ぐと20㎝弱の長さの玉類が見つかりました。後者の玉類は、出土位置から考えて手玉と足玉と考えられています。このことから、東棺の被葬者は女性と推定され男女の合葬と考えられていますという。
ガラス玉の加工痕跡
加熱して引き延ばし、管状にしたガラス棒を切り、再加熱して整形して丸みを付けたガラス丸玉です。孔と平行に走る空隙が引き延ばしの痕跡ですという。
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高井田山古墳東棺出土ガラス丸玉 『玉からみた古墳時代』より |
金層ガラス玉と丸玉の頸飾り 金層ガラス玉長 1.38㎝
内外二重のガラスの間に金箔が挟まれています。金箔を張ったガラス管を太いガラス管に通して整形しています。金層ガラスについては、地中海方面で作られ百済を経由してもたらされたと考えられていますという。
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高井田山古墳東棺出土金層ガラス玉と丸玉の頸飾り 『玉からみた古墳時代』より |
珠城山1号墳 6世紀前半-後半 奈良県桜井市
前方後円墳 墳丘長55m、後円部径25m、前方部幅20m
石室 片袖式 玄室長3.4m、玄室幅1.6mを測ります。組合式箱形石棺
『玉からみた古墳時代』は、桜井市北部の穴師山から西へ派生する支尾根の先端近くの頂部に、東から西へ順に並ぶ1-3号墳の3基の前方後円墳で構成される古墳群です。6世紀前半に2号墳、中頃に1号墳、後半に3号墳が連続して築造されたと考えられます。
石室周辺から須恵器、土師器などの土器類、金銅装馬具類、三葉環頭大刀、銀 象嵌大刀などの武器類、武具類、工具類とともに玉類がみつかりました。
玉類は、ガラス小玉のほか金銅製空勾玉26点、銀製空玉12点、琥珀製棗玉4点で、金製耳環などの装身具類なども出土しました。
金銅製空勾玉としては時期的に古い例です。徐々に石製玉類の存在感が薄れていく状況を示す資料ですという。
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珠城山1号墳出土金銅製空勾玉 『玉からみた古墳時代』より |
星塚2号墳 6世紀前半-中頃 帆立貝形墳 墳丘長約40m 領袖式横穴式石室 組合式家形石棺 奈良県天理市
埋葬施設 全長7m、玄室長4.7m、同幅2.25m
『玉からみた古墳時代』は、墳丘は削平を受けていたものの、二重の馬蹄形の周溝が確認されています。盗掘を受けていたものの組合式家形石棺の底部分が残り、金銅製鋺、六角形の亀甲文の中に向かい合う鳳凰の金象眼が施された円頭大刀柄頭、心葉形の垂下部をもつ垂飾付耳飾りや玉類などが出土しています。
また、周溝からは、外面に鳥足文タタキが施された大甕や蓋など、百済・馬韓系の陶質土器が出土しています。これらの出土遺物から朝鮮半島とのつながりが深い被葬者像が考えられそうです。
出土玉類には、水晶製三輪玉、ガラス勾玉、丸玉、トンボ玉、小玉、瑪瑙製管玉、丸玉のほか、金箔貼ガラス製梔子玉や、地中海地方で作られ百済経由でもたらされたと考えられる金層ガラス玉などがありますという。
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星塚2号墳出土金箔梔子玉・金層ガラス玉 『玉からみた古墳時代』より
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瑪瑙製管玉は、類例のあまり多くない珍しい玉のひとつで、朝鮮半島の玉類との関係や女性の副葬品との推定など、興味深い指摘があります。梔子玉は、側面に穿孔と同様な方向に稜のある丸い玉です。垂飾付耳飾りは、時期的にも新しく、退化した形態のものです。高度な技術で作られた豊富な種類のガラス製玉類は、5世紀代にはみられなかったものですという。
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星塚2号墳出土副葬品 『玉からみた古墳時代』より |
富木車塚古墳 6世紀中頃 前方後円墳 大阪府高石市
全長48m、後円部25m、高さ5m
『玉からみた古墳時代』は、後円部に横穴式石室、粘土槨、組合式木棺の3基、前方部には組合式木棺が3基の合計6基の埋葬施設が設けられていますという。
後円部第Ⅰ埋葬施設(後円部Ⅰ) 右片袖の横穴式石室 組合式木棺の両小口に粘土塊をおく
盗掘を受けて元位置を保ってはいませんが、鉄製武器と挂甲、馬具、須恵器などとともに耳環、水晶製切子玉、ガラス製小玉、 銀製空玉、碧玉製管玉、ガラス製丸玉・琥珀製棗玉などが出土しています。碧玉製管玉は、典型的な濃緑色の片面穿孔の管玉ですという。
副葬品:鉄剣、銅芯金貼耳環、銀製空勾玉・水晶製勾玉・水晶製切子玉のセットとともに水晶製切子玉、ガラス製小玉
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富木車塚古墳前方部Ⅱ-1出土 水晶製切子玉・銀製丸玉 『玉からみた古墳時代』より
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後円部第Ⅱ埋葬施設(後円部Ⅱ) 粘土槨 組合式木棺 報告書は2体の埋葬を推定
遺骸の周囲を粘土槨のような構造とし、鉄刀、須恵器などが出土していますという。
副葬品:鉄鏃、銅芯銀貼耳環、ガラス製丸玉など。
手玉や耳玉と考えられる単純な構成のセット、頸飾りと考えられる金属製玉類を含む多種類で構成されるセッが含まれていることが注目されますという。
トンボ玉が初めて出てきた。
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富木車塚古墳前方部Ⅱ-2出土ガラス製丸玉・トンボ玉 『玉からみた古墳時代』より
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後円部第Ⅲ埋葬施設(後円部Ⅲ) 組合式木棺
鉄刀・土師器とともに、埋木製棗玉が16点まとまって出土しました。報告では頭飾りを外して置いたとされていますが、位置的には遺骸の上で手を組んだ状態と考えると手玉とみることもできますという。
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富木車塚古墳後円部Ⅲ出土埋木算盤玉 『玉からみた古墳時代』より |
前方部第Ⅲ埋葬施設(前方部Ⅲ) 組合式木棺
鉄刀・鉄鏃のほか、銅芯金貼耳環、手玉とされるガラス製丸玉90点(右手46点・左手44点))、 耳玉とされるガラス製小玉70点(右28点・左42点)、頸飾りと考えられる銀製空玉38点が出土。
前方部Ⅲ埋葬施設の棺外からヒスイ製勾玉、滑石製臼玉がまとまって出土このような組合式木棺からの玉類の出土状況から、当時の玉類の組合せの一端を知ることができる貴重な出土事例ですという。
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富木車塚古墳前方部第Ⅲ埋葬施設棺外出土勾玉 『玉からみた古墳時代』より |
廿山南古墳 6世紀前半 円墳 径約22m 大阪府富田林市
埋葬施設 古墳の頂部 長さ約5.7m、幅約3.5mの墓壙 木棺
副葬品 鉄製品(大刀・刀子・鉄鏃)や金製耳環、玉類、 土師器・須恵器
『玉からみた古墳時代』は、羽曳野丘陵の支尾根に造られた。未盗掘の古墳。
玉類は、近接して見つかったものの、出土状況から碧玉製管玉とガラス製小玉、微細な重層ガラス玉で構成される群と、琥珀製棗玉で構成される群に分けられると考えられています。両群とも、出土位置から被葬者の胸元に置かれていたとみられますが、琥珀製棗玉の群で25㎝、その他の玉類で26㎝といずれも成人の頸飾りとしては短い状況です。こうしたことから、手玉の可能性が指摘されていますという。
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廿山南古墳埋葬施設と遺物の出土状況 『玉からみた古墳時代』より |
碧玉製管玉は、当該時期の代表的な太身の濃緑色の管玉ではありませんが、この時期に見られる資料のひとつですという。
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廿山南古墳出土琥珀製棗玉・緑色凝灰岩製管玉他 『玉からみた古墳時代』より |
重層ガラス玉
特異な遺物である重層ガラス玉は、装飾効果を高めるためにガラスとガラスの間に金属箔を挟み込んだ玉のことです。細いガラス管に金属箔を貼り付け、そのガラス管が内径に収まる太いガラス管をかぶせて加熱し、両管を密着させたガラス玉です。細長く作られたこのガラス管に工具でくびれを入れると連玉になります。必要に応じて切断されたようです。廿山南古墳の重層ガラス玉は、ほぼ無色透明のものと、淡黄褐色半透明のものがあり、直径3㎜前後、一つ分の長さは約2㎜以下です。
平成17(2005)年に独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所による科学分析の結果、銀箔がはさまれている可能性が指摘されています。重層ガラス玉は、他のガラス玉に比べると出土事例が大変少ない資料です。ひとつの古墳からの出土数としては、国内で最多クラスの事例となります。廿山南古墳のように七連になっている 重層ガラス玉は、国内において現在公表されている資料の中では類例がありませんという。
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廿山南古墳出土重層ガラス玉 『玉からみた古墳時代』より |
寬弘寺75号墳 6世紀中頃-後半 円墳 直径約15m 横穴式石室 2つの木棺 大阪府河南町
埋葬施設 横穴式石室、玄室部 (棺1)、羨道部(棺2)木棺
『玉からみた古墳時代』は、石川の支流である千早川と佐備川の支流である宇名田川に挟まれた、標高80-120m程の丘陵上に造られた古墳群です。古墳時代前期から終末期と長期にわたって築造されました。
未盗掘であったこともあり、豊富な副葬品がみられましたという。
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近つ飛鳥風土記の丘に移築された寛弘寺75号墳 『玉からみた古墳時代』より |
棺1 6世紀中頃
銀製耳環1点、琥珀玉2点、鍍金銀製空玉3点、大刀1点、金製飾り金具をもつ小刀1点がありますという。
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寛弘寺75号墳棺1出土鍍金銀製空玉・銀製耳環 『玉からみた古墳時代』より |
棺2 6世紀後半の追葬
銀製耳環1点、水晶製切子玉18点、大刀1点、鉄刀子1点
棺外からは衝角付冑や挂甲の武具や、鉄地金銅張の馬具のセットが見つかっています。
水晶製切子玉は、長さ40㎝程度で、頸飾りとしてギリギリの長さがあります。出土状況からは、被葬者の上もしくはその周囲におかれていたようですという。
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河南町寛弘寺75号墳棺2出土水晶製切子玉 『玉からみた古墳時代』より |
藤ノ木古墳 6世紀後半 円墳 径約50m 奈良県斑鳩町
埋葬施設 全長14.0m、玄室長6.0m、玄室幅2.7m 横穴式石室で、凝灰岩の刳抜式家形石棺
『玉からみた古墳時代』は、法隆寺から西に約350m、矢田丘陵の南端から広がる緩斜面に築造されています。墳丘には埴輪が並べられていたとみられますが、葺石は見られません。
石棺内には南北に2人の遺体が納められていました。横穴式石室や須恵器などの型式からは、古墳は6世紀後半に築造されたと考えられますという。
北側被葬者の副葬品 画文帯環状乳神獣鏡、仿製画文帯仏獣鏡、神獣鏡の銅鏡3面、金銀葬刀剣2点、耳環、金銅製の装身具、ガラス製玉類
玉類は銀製鍍金空玉、金銅製の空勾玉・半球形空玉・梔子玉・空丸玉・有段空玉とともに多数のガラス製丸玉・小玉・粟玉などが見つかっています。人骨の一部も依存していたことから、金銅製空丸玉が頸部分をとりまいている状況が明らかとなっており、頸飾りと考えられています。 ガラス小玉などは出土状況などから、頭部周辺の美豆良の飾りとして復元されていますという。
北側被葬者の装身具推定復元
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藤ノ木古墳出土北側被葬者の装身具推定復元 『藤ノ木古墳の全貌展』より |
ガラス製丸玉・小玉・粟玉 丸玉大1.9㎝程度
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藤ノ木古墳出土北側被葬者のガラス製副葬品 『藤ノ木古墳の全貌展』より |
南側被葬者の副葬品 獣帯鏡1面、金銀装飾大刀4点、耳環や金銅製の装身具、ガラス製玉類など
南側被葬者は人骨がほとんど残っていませんでした。出土状況から銀製空丸玉の頸飾りと金銅製耳環、ガラス製丸玉の足玉を装着していたと考えられますという。
ガラス製棗玉・粟玉 粟玉1.25㎝程度
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藤ノ木古墳出土南側被葬者のガラス製副葬品 『藤ノ木古墳の全貌展』より |
藤ノ木古墳の装身具には石製玉類が全くみられません。また、金属製玉類もほとんどが金銅製品です。一方で、空勾玉やガラス製棗玉などからは、伝統的な玉類のあり方の片鱗を見ることができますという。
飛鳥寺 五重塔心礎 6世紀末
埋納品 土器も甲冑、耳環や金属製金具、玉類など
『玉からみた古墳時代』は、『日本書紀』推古元(593)年条に蘇我馬子が塔心礎に仏舎利を納め、塔の心柱を立てたと伝える日本最古の寺院が飛鳥寺です。
金属製の飾り金具などは、藤ノ木古墳の髪飾りとの共通性なども含めて6世紀後半の古墳の副葬品と共通する品目であることが注目されてきました。
五重塔心礎出土品
ヒスイ・瑪瑙・ガラス製勾玉、碧玉製管玉、水晶製切子玉、瑪瑙製丸玉、ガラス製丸玉・小玉を含む数多くのガラス製玉類など
玉類は石製のものが中心で、ヒスイ製勾玉の存在を考えれば、伝統的な組合せということができるでしょうという。
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飛鳥寺五重塔心礎に埋納された玉類 『藤ノ木古墳の全貌展』より |
飛鳥時代
『玉からみた古墳時代』は、終末期古墳の造営にあたっては、埋葬施設の小型化のなかであまり多くの副葬品を埋納しなくなります。玉類もガラス製丸玉・小玉のほかは琥珀製玉類や金属製空玉などが僅かに見られる程度になります。
大阪府阿武山古墳では、被葬者頭蓋骨の下からガラス製小玉を銀線で束ねて枕状にしたものが復元されています。ガラス製玉類を銀線で繋いだものは、飛鳥の牽牛子塚古墳などでも見つかっています。こうしたことから、終末期古墳の玉類については、棺にかかわる装飾など、装身具以外の用途の可能性が指摘されていますという。
阿武山古墳 7世紀中葉 横口式石槨 未盗掘 大阪府高槻市
埋葬施設 花崗岩と塼で構築された横口式石槨
内法 長さ2.575m、幅1.1m、高さ1.19m
夾紵棺 全長197㎝、幅62㎝、高さ51㎝
『未盗掘古墳の世界』は、1934年、京都大学地震観測所建設に伴い、偶然発見された。 標高281mの阿武山山頂から南へ伸びる丘陵端部に位置する。明確な墳丘をもたず、巧みに自然地形を利用して古墳を築造している。
横穴式石室はいわゆる横口式石槨と呼ばれる棺を入れるだけのスペースに縮小し、しかもその棺は大型の石棺から夾紵棺などの軽量・小型で持ち運びが可能なものに変わり、再び単葬へと変化する。そこには、竪穴式石室から横穴式石室に変化した時と同じく、葬制が大きく変質したことを示している。この現象は推古朝の支配体制、大化改新、天武朝の政治と、中央集権化への一連の流れの中でとらえることができ、竪穴式石室から横穴式石室に変化したとき以上に当時の東アジア情勢の動向と不可分の関係にあったといえるであろう。
棺台上には、完形の爽符棺が東に寄って置かれていた。棺は蓋と身からなり、外面には黒漆、内面には朱漆が塗られていた。棺内には、南枕の60歳前後、身長165㎝の男性人骨が仰臥伸展の状態で検出された。遺骸は、衣服を着用して埋葬されたものと考えられる。
大刀や鏡などはなく、質素な副葬品であり、薄葬そのものである。『元亨釋書』には、藤原鎌足の墓は摂州阿威山にあると記されており、この阿武山古墳こそが大化改新を推し進めた藤原鎌足の墓と推定されているという。
大化改新については、近年その首謀者が変わってきたが、鎌足は当時の重要人物であることは確か。そんな人物が何故飛鳥から遠い、淀川中流域の丘につくられたのだろう。
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高槻市阿武山古墳夾紵棺内部 7世紀中葉 『未盗掘古墳の世界』より |
玉枕と冠帽 同書は、葬制の変化は当然多くの副葬品にも変化をもたらしたことはいうまでもない。
棺内には大中小のガラス玉を銀の針金で綴り合わせた玉枕と金糸の刺繍で飾った冠帽が発見されているが、これらは遺体の枕の飾りや衣服の飾りであって厳密には副葬品といえるものではない。これまでの他の畿内の終末期古墳から出土しているガラス玉や金糸などは、その量にもよるが阿武山古墳のような玉枕や衣服の飾りの 一部であった可能性も考慮しておかなければならない。
副葬品によっては、被葬者の性格や埋葬時における葬送儀礼の状況等を知ることができる。時には、その儀礼に見られる政治的背景をも推察することが可能となるという。
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阿武山古墳出土玉枕、冠帽 7世紀中葉 『仏法の初め、これより作れり』より |
『玉からみた古墳時代』は、当時は、中央集権的な古代国家形成の中で、中国のあらたな衣服制度を取り入れるなど、服飾文化の大きな変革の時期です。こうした変化の中で、玉は徐々にその役割を狭めていくこととなります。そして、ここであげたような、寺院の鎮壇具や装飾品に限定されるようになります。寺院の鎮壇具としての使用については、古墳時代同様な祭祀・儀礼における祭祀具としての側面があると考えられますという。
その後は副葬そのものが習慣としてなくなるが、ガラスでものをつくることが絶えたわけではない。
それらは正倉院宝物として伝わっている。その中でも私のお気に入りでもあり、阿武山古墳出土の枕と似た作り方のように思えるものを1点。
雑色幡 正倉院宝物
幡と称されているが、華籠(けご)。仏会の散華の時に花を盛る器。聖武天皇の法要の時にでも用いられたのだろうか。
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正倉院宝物 雑色幡 『第56回正倉院展図録』より |
関連項目
参考文献
「玉からみた古墳時代」展図録 2021年 大阪府立近つ飛鳥博物館
「王権麾下の古墳とその被葬者 古市古墳群の小規模墳」展図録 2020年 大阪府立ちかつ飛鳥博物館
「ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳」 千賀久 2008年 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」049
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌」展図録 2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
「未盗掘古墳の世界-埋葬時のイメージを探る」展図録 2002年 大阪府立近つ飛鳥博物館
「仏法の初め、玆より作れり-古墳から古代寺院へ-展図録」 2008年 滋賀県立安土城考古博物館 「第56回正倉院展図録」 2004年 奈良国立博物館