お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/03/25

古代ローマ オスティア・アンティカの墓地で石積みを復習


以前に南イタリアを旅したものをまとめたものの、集中力が途切れて頓挫していたオスティア・アンティカ編だが、『古代ローマ人の危機管理』のおかげで、やっとまとめるきっかけができた。
見学の様子は旅編にて。

オスティア・アンティカのローマ門へ至る道には、ローマや他の街と同様に墓域が設けられている。市壁の外に墓地が造られたのだ。

『ANCIENT OSTIA』は、ネクロポリスは、社会的レベルの低い市民はあまり使用されていない。ポルタロマーナの墓地遺跡は、前2世紀から後3-4世紀まで、植民地の裕福な階級と役人によって使用されていた。通りの北側は港湾専用だったので、墓地は通りの南側だけを占めていた。最も古い墓は前2世紀の可能性があるが、壺に故人の遺灰を納める単純な構造で、装飾は浮彫がある程度だった。

前1世紀から、凝灰岩のブロックで作られた最初の墓域の囲壁が登場し、そこで火葬の儀式が行われ、その後壺に納められた。前1世紀の終わりに最も普及したのは納骨堂だった。これは家族の墓であり、二階建ての場合もあり、壁に沿って多数の壁龕が存在するのが特徴とであるという。

オスティア・アンティカ セポルクリ通りの納骨堂 『ANCIENT OSTIA』より

時間があればこれも見学したかったが、通りから写したアーチのある墓所がこの納骨堂だった。

ポンペイやエルコラーノでさんざん見てきたが、時をおいてオスティア・アンティカの写真を見てみると、ローマン・コンクリートの壁面はやっぱりすごい。

強度のためか、デザインなのか、網目積みとレンガ積みが入り組んでつくられている。

しかもそれが広い墓所を巡っている。


表面の網目積みの石を、赤と黒を交互に配しているのも洒落ている。
遺跡なので、壁体が部分的に残っていて、その上面が保護のために何かで充塡されているのが大半だが、この壁面の切石やレンガの間からのぞいているのは、当時のローマン・コンクリートである。ポッツォーリ産の火山灰が石の間からのぞいている。石の剥がれたところでしっかりと見えていた
🤩


ポンペイやローマだけでなく、オスティアでも、ローマン・コンクリートで建造物は造られた。
2枚のに沿って外側の石を並べ、その中に石のかけらなどの骨材を入れたコンクリートを流し込んで、固まったら板をはずすというのがローマン・コンクリートの技法である。
現代では、先に造られた壁面にタイルを貼るという2段階の作業が、古代ローマでは一度にできたともいえる。

以前にまとめたことがあるが、『望遠郷 ローマ』ではとても分かり易い解説があった。
同書は、ローマの建築は長いあいだ 大きな四角い石を使ってきたが、早くから壁の表面仕上げの石積みと壁の内部とを別々にする組積法を採用していた。
壁の内部の充填材、 オプス・カエメンティキウムは、割石をモルタル、石灰と混ぜたもので、非常に堅固だが美的ではないため、表面の仕上げが必要である。
はじめは割石積み、続いて網目積みが表面仕上げとして用いられたが、すぐにレンガ積みの表面仕上げに替り、ローマの市壁の表面を覆ったという。
 内部充填材(オプス・カエメンテキウム) ポッツォーリ産の火山灰と石灰、骨材となる割石を水で混ぜ、表面となる割石やレンガの内側で固まったもの。表面の石が剥がれると、この
 割石積み(オプス・インケルトゥム) 不定型な割石を表面に積んだもの
 ある程度は形を整えた石を斜格子に積んだもの
 網目積み(オプス・レティクラトゥム) 割石を斜格子に積んだもの
❸ レンガ積み(オプス・テスタケウム)
 切石レンガ積み 切石をレンガの積み方で積む     以上『望遠郷 ローマ』より
古代ローマ 石積みの種類 『望遠郷 ローマ』より

また、複数の積み方をすることもあった。
A:隅を大型の石組みにし、壁のほかの部分は表面を網目積み
B:隅をレンガ積みとし、壁は表面を網目積
C:レンガ積みの壁にトラヴァーチンの扉枠        以上『望遠郷 ローマ』より
古代ローマ 混合積みの方法 『望遠郷 ローマ』より

では、石材はどのように切り出したのかというと、
『望遠郷 ローマ』は、表面を覆っている岩を取り除いた後、石工が壁につるはしで溝をつけて、切石の形と大きさを決める。切石は、採掘の段階から、建築家が必要とするものに近い形と大きさで切り出されるという。
A:階段状の切出し  B:採石面  C:天井をささえるように掘り残した石柱
D:掘進面  E:石目  F:ころを使った古墳石の運搬
トラヴァーチン:ティヴォリ近郊でと れる白っぽい石灰岩
凝灰岩:火山岩の塊で、色はさまざまである        以上『望遠郷 ローマ』より
古代ローマの石切場 『望遠郷 ローマ』より

切石の運搬と据えつけの方法
左端:浮彫で残っている。巻き上げクレーンで石を挙げる作業図
1. 運搬用のロープを引っ掛けるための「ほぞ」を石の表面につくる
2. 切石の左右の側面に小さなくぼみをつくり、金属製の石ばさみの「爪」で挟む
  この機械ではてこを用いた手動ウィンチによって、石を移動させることができる
3. 切石上部に蟻ほぞ状にあけられた穴に吊り楔を差しこむ  以上『望遠郷 ローマ』より
切石の運搬と据え付けの方法 『望遠郷 ローマ』より

おまけ
オスティア・アンティカでは円柱はモノリス(一本もの)の石柱だったが、ポンペイなどでは、白い漆喰からレンガが露出した円柱を見かけた。

写真は市民広場西列柱廊


それがどのように造られたかも、同書では図解してある。

一般的な円柱と溝彫りのある円柱

同書は、ローマ人は、ついにはレンガ積みの円柱を立て、それに溝彫りの外観を与えた。柱は、化粧漆喰で仕上げられたという。

古代ローマ レンガ積みの円柱 『望遠郷 ローマ』より

割りそろえられるレンガ

『望遠郷 ローマ』は、こうした定尺ものの正方形レンガは、オプス・カエメンティキウム(充填剤)の壁の表面仕上げのためのものである。表面は、刻み目で分割されていて、切断できるようになっている。定尺の大きさにより、2、4、8あるいは18というように、三角形の仕上げ用レンガに分割されるという。

古代ローマ レンガ積みの円柱 『望遠郷 ローマ』より




古代ローマ 窓ガラスの作り方←   →古代ローマ オスティア・アンティカの消防士の宿舎

関連項目

参考文献
「ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME」 2015年 VISION S.r.t

「望遠郷 ローマ」 ガリマール社・同朋舎出版編 1995年

2022/03/18

古代ローマ 窓ガラスの作り方


『ガラスの考古学』は、宙吹きガラスの技法が確立されると、ガラス容器の大量生産が可能となり、1世紀後半のローマ帝国領内では、高級品と日用品とが明確に分離され、日用品は銅貨1枚で購入できるほど 一般化したという。 ガラスの色も、器壁が薄くなったことや、高温処理により ガラス内のガス気泡や不純物が減少したことによって、かつての有色不透明のものから、単色透明のものへと変化した。器形的にも多様化し、杯・碗・皿・ 鉢などの他、水瓶や水差しが増加し、窓ガラスまでも製作されるようになったという。
窓ガラスについては、吹きガラスを大きく長く作っておいて、切り開いて平たくするか、丸く吹いて先を切ってクリクリ回すと遠心力で平たく広がって丸い板ガラスができると聞いたことがある。
その後、ヴェネツィアやフィレンツェで丸いガラスを窓に並べたものを見て驚いた。それがロンデル窓であることが判明したのは、ガラス作家田上惠美子氏に教えてもらったからである。
それについてはこちら
しかしながら最初期の窓ガラスはロンデル窓ではなく、板ガラスだったようだ。

『ローマ人の危機管理』は、実際のポンペイの都市住宅の基本構造は、ホールの 周りを居室がとりまく構成を一つの単位とした組み合わせであり、アトリウム型であれば1単位、ドムス 型であれば複数の単位で構成された。このような構成をもつのは、ポンペイの都市住宅がコンプルウィウムや中庭を通じて自然光を取り込む必要があったからである。
この基本構造の特徴に、窓が少ないことがある。やや大きい窓でも、天井近くの非常に高い位置にあるのが一般的である。住宅の敷地によっては、居室が街路に接する場合があり、窓を街路に面して開けようとすれば可能であったにもかかわらず、ほとんどないか、小さな明かり取りの穴が空いているだけである。つまり、「窓を開けられなかった」のではなく、「意図的に窓を開けなかった」のである。その理由については、単にポンペイの人々が暗い居室を好んだ可能性も否定しないが、「防犯」以外には考えにくいという。
ポンペイやエルコラーノでガラスの嵌まった窓を見た記憶がない。いや、窓自体をほとんど見かけなかった。というよりも、小さくてしかも上の方にあったので、窓と気づかなかったのだった。
写真を見直すと、アボンダンツァ通りに面した家々にも小さな窓があったが、こんなに小さく、しかも北側にあるので、部屋に光が入ることもなく、薄暗かっただろう。

アボンダンツァ通りのジュリア・フェリーチェのプラエデイア(大邸宅)には、大きな中庭風のアトリウムに面した居室でさえも、上の方に小さな窓があるだけ。
『古代ローマ人の危機管理』は、中央広間や中庭から光を取り入れるとしても、面するのは扉だけで、居室にはほとんど窓がない。おそらく日中は扉を開け放たなければ、室内は薄暗かったに違いない。少し専門的な解説を加えると、扉から入る自然光によって照らされるのは、出入口付近だけであり、天井と扉の高さにもよるが、5、6mの奥行きがあると、部屋の奥は真っ暗であったと思われるという。
ポンペイ、ジュリア・フェリーチェのプラエデイア、水路のある庭園 現地の写真パネルより


『古代ローマ人の危機管理』の藤井慈子氏の「古代ローマの窓と窓ガラス」で、最初期の窓小さな窓に嵌め込まれていたのは、ガラスではなかったことを知った。
同書は、ポンペイのアボンダンツァ通りに面する家々では、2階以上の高所に、鉱物製透明板がはめ込まれた格子窓が使用されていた。V・スピナッツォラによって発掘された「パクイウス・プロクルスの家」のアトリウムでは、西壁の6m近い高さにin situ(本来の場所)にはまった状態で、青銅製の格子窓の残骸が発見された。その付近からは、その格子にそれぞれはめられていたと思われる、1枚22㎝X16㎝、厚さが0.15㎝の「滑石」板が、ほぼ完全な状態の8枚、そして30近い断片(少なくとも15-20枚分に相当)で見つかった。「滑石」板には、格子に固定する際に使用したと思われる漆喰の痕跡も残っていた。そこで、この窓は、25枚の滑石板が格子部分に漆喰で固定される形ではめられていた縦1.1mX横0.80mの青銅製の格子窓だったと想定されているという。
ガラスではなく透明な滑石という鉱物の薄板が嵌め込まれていたようだ。
ポンペイ「パクイウス・プロクルスの家」アトリウムの格子窓復元想像図 『古代ローマ人の危機管理』より


『古代ローマ人の危機管理』によると、発掘現場で板ガラスの残骸を見つけても、窓ガラスへの関心が高まる以前は、記録も、遺物の保管もされなかったらしい。

同書は、ピーター・キエンツルは「内向的生活-ローマ時代の建築におけるセキュリティの痕跡」の中で、ローマ時代の窓は現代とは異なり、光と換気の2つがその主な機能であり、街路に面した窓の多くは人が入れないほど小さく、現代のように防犯の必要がなかったと述べている。その窓が、大きくなったことには、ローマ帝政期に入って登場した窓ガラスが関与していると見なす。さらに、当時の板ガラスの大きさから見て、それらが華奢なつくりの木枠にはまっていたため、それだけでは簡単に壊されてしまい、防犯の役に少しでもたつとすれば、窓ガラスが割れる音くらいなので、防犯のためにはその外側に木戸が付いていたと推量するという。



エルコラーノ(古代名ヘルクラネウム)のアルコーヴの家トリクリニウム

同書は、ヘルクラネウムの「アルコーヴの家」のように、道行く人が少し背伸びすれば届きそうな高さに、方形の窓が開けられ、鉄製や青銅製の格子がはめられた家も見られる。それらの格子は錆びて膨れ上がっているが、直接漆喰に設置されたように見える。

トリクリニウム(食堂)の2つの格子窓には、格子がはまった街路側に対し、室内側には炭化した木枠が残っており、 発掘者アメディオによれば「アルコーヴの家」のトリクリニウムの2つの格子窓には、格子がはまった街路側に対し、室内側には炭化した木枠が残っており、発掘者アメディオ・マイウーリによれば、窓の下、火山泥の中に大きな板ガラスの断片が落ちていたという。

このため、外側は格子、内側は板ガラスというセットが、1階の街路に面した窓では防犯とプライバシーを意識して使用されたと思われる。プライバシー保護の可能性は、当時の板ガラスが無色透明よりも自然発色の淡青緑を帯びた半透明が多く発見されていることから類推できる。すなわち、外からの光を取り入れながら、道行く人々からのぞき見されることを防いだと考えられる。また、同トリクリニウムはフレスコ画で彩られていることから、板ガラスは、室内装飾や窓下の2人用寝椅子を雨や風から守る効果もあっただろうという。


ヘラクレニウム、アルコーヴの家トリクリニウムの窓『THE EXCAVATION OF HERCLANEUM』より


ポンペイ、スタビア浴場控え室の円窓 前2世紀
『完全復元ポンペイ』は、天井は半円筒形で、複雑なスタッコの浮き彫りが施されている。写真の奥にみえるのは運動場への出入り口、その上にガラスをはめこんだ小さくて円い採光窓があるという。
吹きガラスが誕生したのは前1世紀第3四半期頃とされているので、ロンデル窓はまだ登場していない。前2世紀では鋳造で平たいガラスを作っていたのだろうか。
ポンペイスタビア浴場待合室 『ポンペイ 今日と2000年前の姿』より

『古代ローマ人の危機管理』では、セネカが述べたような浴場の窓の出現、複数の広い側窓が実際に見て取れるのは、ポンペイの中央浴場とヘルクラネウムの郊外浴場2つのみである。
ヘルクラネウムの郊外浴場(南東角)では、噴火時には修復中であって使用されていなかったものの、海に面した南面に、それも視線上の高さに大きな窓がいくつも開けられ、さらにそこに板ガラスがはまっていた証拠が残っている。すなわち微温浴室(E)、その右の温浴室(C)、その左の温浴プール室(T)の窓である。この3室の中で、マイウーリは、E室の窓について一番詳細に報告している。すなわち、「南壁のニッチには、光が十分に入る大きな窓(長さ2.05mX高さ1.05m)が穿たれ」、その「開口部には頑丈な木枠」が残っており、「もう1つの円形の窓が、方形(0.54mX0.69m)のくぼみに穿たれ」、「その床面から収拾された多数のガラスの破片は、方形窓と円形窓に板ガラスがはまっていたことを物語っている」と記している。なお、マイウーリが記録した窓の数値は、2018年に堀研究室によってレーザースキャンされた計測値とほぼ同じで、注意深く計測・記載されたことがわかる。ただし、これらの窓の下で発見された多数のガラス片については、残念ながら現在は消息不明であるという。
ところどころの窓に格子が残っている。

小川拓郎氏作成 エルコラーノ郊外浴場の南に面した部屋と窓 『古代ローマ人の危機管理』より

エルコラーノ 中央浴場
『古代ローマ人の危機管理』は、ヘルクラネウムの中央浴場は、女性用男性用を問わずシンプルで、装飾といえるものは白黒のモザイク舗床に、白一色の円筒ヴォールト天井のリブ装飾である(むしろ天井から冷たい水滴が落ちることを防ぐ機能美)という。
見学したものの、ヴォールト天井と床のモザイク画しか見ていなかった。

女性用脱衣所の片隅に円窓から差し込んだ日光はたまたま撮れているのだが・・・

ヴォールト頂部に円形窓が設けられているのは女性用の脱衣所と微温浴室とされるが、現在でもはっきりと淡青緑のガラス片が漆喰にはまっていることが確認できるのは、脱衣所であるという。
ガラス片でも残っている窓ガラスを見ることのできるチャンスだったのに、成せ円窓を見上げなかったのだろう。
エルコラーノ中央浴場女性脱衣所の円形窓とガラス片 『古代ローマ人の危機管理』より


続けて同書は、同じような円形の窓と溝は男性用の温浴室のニッチ上部にも見られ、筆者はガラスのごく小さな断片を確認することができた。このような円形窓にはめられていたガラスは、半球円縁タイプだったとフォアらは推定しているという。

板ガラスではなく、半球形のガラスがあるのだった。


同書は、一部の窓ガラス研究では、この最初期の板ガラスが 「吹き技法」によって製造され、そのため価格も安価で人々の生活に普及したと説明されている。しかしながら、ポンペイやヘルクラネウム出土の最古の板ガラスは、

①表面がつやつやして波打ち、

②裏面がザラザラで平らで、

③表面の四方の角に丸みと周囲の縁に器具痕が残り

④中心よりも周囲に厚みがある(厚みが均一でない)、

など裏表の状態が異なり、またその四辺もカットして整えられた痕跡がない。もしも吹き技法の円筒法によって製造されたものであれば、両面ともつやつやとし、厚みも均一となる。 円筒法がいつ開発されたか定かでないが、後2世紀半ば以降と思われるという。

吹きガラス以前の技法でつくられたとなれば、スランピング?


ローマ・ガラスの技法的研究を長年にわたり続けてきたマーク・テイラーとデヴィッド・ヒルは、この最初期の板ガラスの特徴を踏まえて、再現実験を行った。その結果、最初期のガラス製の方形平板の板は、時間も手間もかかるヘレニズム時代からの熱と重力を利用した伝統的技法を駆使して製造された「流し込み+引き延ばし(pouring and stretching)」技法で製造されたことが判明したという。

以下の画像は『古代ローマ人の危機管理』に記載されたマーク・テイラーとデヴィッド・ヒルによる方形平板窓ガラスの復元より


① まず、溶けたガラスの塊を離型材の上にとぐろを巻くように流し、


② レンガなどで押しつぶす。


③ 器具を用いて円形になるよう周囲にガラスを伸ばしていく。


④ ガラスが冷えて動かなくなったら温め直し、器具で引っ張ったり、押しつぶしながら、


⑤ 方形に近づける作業を繰り返す。



近年になって窓ガラスであることが判明した半球円縁の板ガラスもまた、方形平板と同様な技法で製造されたことが、先のテイラーとヒルと共同研究したフランク・ワイゼンベルクらによって再現実験されたという。

以下の画像は『古代ローマ人の危機管理』に記載されたマーク・テイラーとデヴィッド・ヒル、フランク・ワイゼンベルクによる半球円縁窓ガラスの復元より


平らな円盤型のガラス板を製造する過程までは同じ


④ さらに半球状の腕をひっくり返したような
型は、数種類の粘土と植物を混ぜ合わせて作ったもので、円盤型の板ガラスと一緒に窯の中に入れて温め、


⑤ ヘレニズム時代の熱垂下(slumping) 技法も駆使する。
取り出して型の上に円形の板ガラスを載せると、


⑥ 熱で柔らかくなったガラスが重力で下に垂れていく。


⑦ その時を見計らって円盤のガラスが型に沿うように、器具で型の周囲を平らに整える。
  ガラスが冷えて固まったら窯に入れて温めてはその作業を繰り返し、


⑧ 完成する。


このため、加工が容易な鉱物製の板に比べ、一つ一つ手作りで仕上げる手間と時間のかかる「一点もの」であったことがわかる。大きさは、鉱物製と同程度の25㎝四方から50㎝四方まであり、中には縦の長さが1m近いものまであるという。


半球円縁の板ガラス ローマ時代初期(後1世紀) 高さ7㎝、直径25㎝前後 伝イタリア、カンパーニア地方出土 ルーヴル美術館蔵

『古代ローマ人の危機管理』は、同様な半球円縁型の板が、近年の発掘によりスペイン、ポルトガル、イタリア、フランス、イギリス、スイスなどのローマ時代の遺跡で、主に浴場址から発見され、その出土状況から窓ガラスへの見直しが図られた。なお、帝政後期の事例ではあるが、フランス南部のザンビエ島近くで発見された後3-4世紀の難破船から、方形平板タイプと共に、高さ157㎝、直径50㎝前後の半球円縁タイプが7つ入子式に重なった状態で発見されている。鉱物製とガラス製の窓ガラスに見るこのような違いは、板ガラスが単なる鉱物製の模倣にとどまらず、鉱物製との違いを出すことでその商品性を高めようとしたあらわれと捉えることもできるという。

浴場に特化された窓ガラス。古代ローマでは、パンとサーカスの他に、浴場も大切な市民への奉仕だったことを物語る遺物である。


伝カンパーニア地方出土半球円縁板ガラス ルーヴル美術館蔵 『古代ローマ人の危機管理』より


アラバスターの窓があることを知って以来、まず窓には光を通す石の薄板が嵌め込まれ、後に板ガラスができたのだと思っていた。
ところが、その後、ポンペイのガラス窓や吹きガラスのロンデル窓の存在を知り、必ずしもアラバスターの窓が歴史的に古いというわけではないことがわかってきたが、同書のおかげで、最初期の窓には透明に近い鉱石の薄板、続いて一点物の鋳造ガラスが嵌められていたことを知ることができた。 


関連項目

参考文献
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」 谷一尚 1999年 同成社
「古代ローマ人の危機管理」 堀賀貴編 2021年 九州大学出版会
「THE EXCAVATIONS OF HERCLANEUM」 Mario Pagano 2017年 Edezione Flavius

2022/03/11

古墳出土の玉・ガラス


勾玉やガラス玉がいつ頃から日本列島に現れるのか、今までおぼろげにしか捉えていなかったので、『玉からみた古墳時代』展図録で辿ってみたい。

縄文時代以前
同書は、基本的には狩猟・採集を基盤とした社会のため、狩猟による動物の獲得など、動物や採集によって獲得されるさまざまな石材との接点が大きかったのではないかと思いますという。

縄文時代後期
気候変動の影響下に寒冷化が進み人口減少や呪術的な遺物が増えるなど、社会の停滞が指摘されています。
この時期になると、勾玉や丸玉などの小型の石製装身具などが発達しました。勾玉は、縄文時代前期-中期にも、僅かな例ながら形態的には勾玉と呼称される製品が見つかってますという。

縄文時代後期以降
弥生時代以降に繋がる定形的でヒスイを用いる勾玉の出現。
勾玉は、縄文時代以来の伝統を持つ逆C字形をした玉。動物に例えると頭部(上部)は孔が穿たれている方、反対を尾部と称している。基本的には頭部が大きい場合が多く、尾部はやや細身に収束する。頭部の穿孔から放射状に3本の刻みが施されるものは「丁字頭勾玉」と呼称される。
勾玉や管玉・丸玉・小玉・臼玉などと言われる、弥生時代以降にも通ずる石製の玉が用いられています。勾玉の場合は、基本的にはヒスイ製品が多く知られていますが、これ以外にも磨くと艶の出る、蛇紋岩や滑石・琥珀・緑色凝灰岩なども用いられていますという。

亀ヶ岡遺跡出土の玉類 縄文時代晩期(前1000-前400年頃) 青森県つがる市
『玉からみた古墳時代』は、日本海と津軽平野を隔てる丘陵の東麓に位置します。遮光器土偶が出土した遺跡として有名で、北日本を中心とする縄文時代晩期の土器や土偶に代表される「亀ヶ岡文化」の由来となった遺跡です。台地上には墓域が広がり、周囲の低地には祭祀場とされる「捨て場」が形成されます。
「捨て場」からは、土器や土偶のほか、骨角器、漆器や植物製品など有機質の遺物も多数出土しています。
遺物の中には、骨角製や石製の玉類として穿孔のある不定形玉類とともに、勾玉や丸玉などの装身具も多く確認されますという。
この中には定型化した勾玉はなさそうだ。「尾」のある玉は勾玉同様、穴を開ける方が大きい。それは、あるものの形をかたどるというよりも、穴を開ける時に側が欠けないための工夫だったのかも。
右上の玉6.7㎝ 
つがる市亀ヶ岡遺跡他の玉類 縄文時代晩期 『玉からみた古墳時代』より

弥生時代から古墳時代
『玉からみた古墳時代』は、日本列島では農耕社会以降になると金属器の導入などにより素材の革命的変換が図られたほか、農耕文化の受容の中で人々の造形や美意識にも大きな変化が及んだものと考えられます。この生産革命は、単なる技術の導入ではなく、文化的社会的な変革を伴うものでした。製品や素材の流通を含む経済活動の活発化なども顕著です。
墳墓・古墳という社会的モニュメントの造営に人々が注力するなかで、玉類は社会的ステータス・シンボルであり壮麗な舞台を彩るアイテムのひとつとして様々な形で用いられました。弥生時代の玉は、朝鮮半島からの農耕文化の導入に伴い、縄文時代伝統の玉と融合することにより弥生的な玉として成立したものです。その歩みは列島内においても一様ではありません。
弥生時代の玉は、「緑(碧)」を基調としてヒスイ製勾玉と碧玉・緑色凝灰岩などの碧玉質石材製管玉を典型とし、形態と材質に対応関係が濃厚に認められます。
玉の種類と材質の間には対応関係がみられ、種類により使用される石材は選択されています。なかでも、基軸となるのはヒスイ製勾玉と碧玉質石材製管玉で、後期以降を中心にガラス小玉が加わります。
本来、呪術的意味を持ち宗教的価値を持っていた玉は、弥生後期段階で基本的な用途としての「装身具としての玉」と、新たに加わった「形態重視の祭祀儀礼に使用される玉」という両面への分化が徐々に顕在化して行きます。弥生時代後期の住居跡における廃棄を中心とした祭祀の存在は、玉以外にも破鏡・小銅鐸・鐸形土製品においても指摘されています。こうした事例は、古墳時代中期以降にみられる滑石製模造品と同様の祭祀的行為と関係する可能性も考えられますという。


吉武高木遺跡 弥生時代前期末-中期初め頃 福岡県福岡市 
『玉からみた古墳時代』は、福岡市の西部を流れる室見川左岸の扇状地上に位置します。周辺からも弥生時代前期-後期の甕棺墓や木棺墓が多く見つかっています。吉武高木遺跡は、出土した甕棺の型式から弥生時代前期末-中期初め頃に位置付けられます。
副葬品には、銅剣や銅矛、銅戈、磨製石鏃など の武具類のほか、装身具や銅鏡、玉類などがみられます。特に、3号木棺からは多鈕細文鏡1面、細形銅剣2点、銅矛1点、銅戈1点、ヒスイ製勾玉1点、碧玉製管玉95点と、他の墓に比べて優れた副葬品が出土しました。
織文時代の勾玉にその造形の祖形を求められると考えられるヒスイ製の獣形勾玉と碧玉製管玉です。
管玉は、原産地同定分析により未定C群とされる朝鮮半島からの搬入と考えられる特徴的な玉類ですという。

勾玉と管玉 勾玉長4.2㎝
吉武高木遺跡出土勾玉と管玉 『玉からみた古墳時代』より
 

赤坂今井墳丘墓 弥生時代後期末(3世紀前半) 方形墳丘墓 東西36m、南北39m、高さ3.5m 京都府京丹後市
中心埋葬施設 長辺14、短辺10.5m
第4埋葬施設 長辺7.2m、短辺4m
副葬品 短剣、ヤリガンナ、玉類
『玉からみた古墳時代』は、京丹後市の中郡盆地から日本海へと抜ける谷筋に面した、丘陵の先端部に位置します。
埋葬施設は墳丘上に6基が確認され、中心埋葬施設は、当時としてはきわめて大きなものです。中心埋葬施設の東側には第4埋葬施設が確認されています。
被葬者頭部の推定位置から、連珠にした玉類を布に縫い付けた頭飾りと耳飾りと推定される玉類が見つかりました。
外側と内側は、ガラス製管玉とガラス製勾玉、中央は碧玉製管玉とガラス勾玉で構成されています。耳飾りは、碧玉製管玉とガラス製勾玉の組み合わせですという。
玉類を布に縫い付けた頭飾というのは、後の冠帽のようなものだろうか?
赤坂今井墳丘墓出土頭飾りと耳飾り 『玉からみた古墳時代』より

         
唐古・鍵遺跡 弥生時代後期 奈良県田原本町
『玉からみた古墳時代』は、奈良盆地の中央部、初瀬川とその支流が形成した平野部に位置します。居住域の排水や、外からの侵入を防ぐことを目的とした濠を巡らせた環濠集落遺跡として有名です。出土遺物などからは、弥生時代を通して人々が生活をしていたと考えられています。
遺跡北西部からは、大型建物の柱列と建物を区画すると考えられる溝が確認されています。溝からは、ヒスイ製勾玉2つと土器片の入った褐鉄鉱が出土しました。褐鉄鉱とは、土壌中の鉄分が粘土などを核として集まり固まったもので、粘土はやがて乾燥して堆積が小さくなり、内部に空洞ができます。これを容器として用いていますという。 
天然の容器。よくあるものだろうか?
唐古・鍵遺跡出土褐鉄鉱容器とヒスイ  『玉からみた古墳時代』より

大阪府池上曽根遺跡の大型建物の柱穴には、柱を立てる過程でヒスイ製勾玉が埋め込まれていました。これは、大型建物建築の過程の地鎮や建物造営の無事を祈願する「呪物」もしくは「祭具」ではないかと考えられています。その埋納にあたっては、何らかの儀礼的な行為が行われたことは想像に難くないでしょう。
弥生時代の玉類に込められた願いはひとつではなかったと考えられますが、こうした勾玉が何らかの儀礼・祭祀的行為の重要な「祭具」として用いられた可能性が指摘できますという。
褐鉄鉱容器とヒスイ製勾玉 左長4.64㎝                  
唐古・鍵遺跡出土ヒスイ製勾玉  『玉からみた古墳時代』より


古墳時代
『玉からみた古墳時代』は、のちに『記紀』において「玉」と称された美石の連珠や、渡来文化と関わる金・銀・銅などを用いた金属製装身具などが、支配者層の人々を中心としてその営みの中で用いられてきました。
この意味では、特定の材質を用いた訳ではないようですが、大珠の段階から緑への指向性は明らかです。この段階で用いられるようになったヒスイの乳白色と緑の混じったような透明感のある石材には愛着があったようですという。


大阪府立弥生文化博物館の卑弥呼と装身具 大阪府和泉市
卑弥呼の着衣
湖南省長沙市にある前漢時代築造の馬王堆漢墓に副葬された衣装や帛画、漢代の画像塼などを参考に形や染めなどが考えられたものです。漢代の貴族の礼服で、裾が斜めに裁断され、本来は体に巻き付けて帯で縛って着用しました。右肩には月を表すヒキガエル、左肩には太陽を表す三本足のカラスが刺繍されています。
表着の下には倭の伝統である貫頭衣を着用しています。当時の機織り具の特徴から幅の狭い布しか織ることができなかったと考えられており、貫頭衣は布を横に縫い合わせることで一着の服としています。佐賀県の吉野ヶ里遺跡から出土した甕棺墓に残っていた布には、人骨のわき部分に縫われた痕跡があり、貫頭衣には袖がついていたと考えられます。下半身には裳と呼ばれるスカート状の衣服を着用しています。いずれも絹で織られていますが、絹は北部九州の弥生時代の遺跡から出土例があります。この卑弥呼像では、中国からもたらされた表着以外に、貫頭衣や裳が染められています。染料は吉野ヶ里遺跡の布の分析から明らかとなった貝紫と茜が用いられていますという。
大阪府立弥生文化博物館の卑弥呼像 『玉からみた古墳時代』より

卑弥呼の宝石箱
楽浪郡王町墓の鏡のなかに、福岡県前原市平原方形周溝墓の出土玉類を彷彿させる装身具がおさめられています。この墳墓の時期については議論がありますが、これらの玉類については瑪瑙製管玉は楽浪との繋がりを、ガラス製勾玉には北部九州弥生社会の伝統を感じることができる資料です。弥生時代後期以降ということを考えるならば、これにガラス製管玉、蛋白石丸玉などが加わる組合せです。弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけて、こうした装身具の一端が西日本から日本海沿岸に広がります。しかし、近畿地方においては、こうした状況は明らかではありませんという。
卑弥呼の宝石箱 『玉からみた古墳時代』より


では、最初の前方後円墳、箸墓古墳にガラス・玉類は副葬されたのだろうか?

『玉からみた古墳時代』は、最初の定形化した前方後円墳と考えられている奈良県箸墓古墳築造の時期に近い代表的な古墳をあげると、奈良県黒塚古墳・中山大塚古墳・京都府元稲荷古墳、滋賀県雪野山古墳、兵庫県西求女塚古墳などがあげられますという。


黒塚古墳では大量の銅鏡の他に刀剣類などが副葬されていたが、ガラス・玉類はなかった。

黒塚古墳の銅鏡・刀剣類の出土状況 天理市黒塚古墳展示館のパネルより

同書は、近畿中央部やそれらとの共通性が指摘される各地の出現期古墳においては、玉類の副葬が見られない場合が多くあります。ただし、各地の多くの古墳出現期の地域的な様相を示す墳墓においては、副葬されています。
この時期、ヒスイ製勾玉の副葬がやや低調になる傾向はありますが、玉類の副葬がみられないわけではありません。そして、古墳出現期の各地の墳墓におけるヒスイ製勾玉は、弥生時代から伝統的に見られる北陸系の半球形勾玉など、北部九州型の定形勾玉の影響を受けた小形の勾玉です。

こうしたことから出現期の定形化した前方後円墳の段階では、玉類は副葬品の構成要素ではなかったと考えられます。この背景は、弥生時代終末期に鉄器などの道具類の副葬が墳墓における副葬の中心的な位置を占めるようになることや、弥生時代後期の生産・流通構造の変化の中で、山陰での生産が 低調となり、さらに北陸からの供給量が増えていないため、西日本における玉の流通量が減少したという指摘がありますという。

どうやら箸墓古墳に玉類は副葬されなかった可能性が高い。


まだ木棺だった頃の前方後円墳の副葬品

『玉からみた古墳時代』は、定形化した前方後円墳において玉類や石製品の副葬が目立つようになるのは、次の段階の3世紀後葉頃のことです。奈良県桜井茶臼山古墳では、丁字頭のヒスイ製勾玉、碧玉製管玉やガラス玉など各種玉類、腕輪形石製品をはじめとする各種石製品が副葬されています。 当該時期は、石製品の副葬が顕在化する時期です。この時期以降、奈良県メスリ山古墳、大阪府紫金山古墳・弁天山C-1号墳、京都府平尾城山古墳など大型の前方後円墳では大型の丁字頭のヒスイ製勾玉が副葬される例が増加します。このなかでも注目されるのは、桜井茶臼山古墳などで見られる丸みが強く透明感の強い緑色部分が多い良質なヒスイ製勾玉です。弥生時代に北部九州で流通した定形勾玉をモデルとして、ヤマト王権が主導して製作した可能性が指摘されています。これらの玉類に加えて、桜井茶臼山古墳では玉杖といわれる鉄芯の通った石製品をはじめ、玉葉・弾と言われる弓の両端部の弦を引っ掛ける部分のような形を模したもの、さまざまな用途・形状の理解できないものを含 めて、多種多様な石製品が副葬されています。こうしたことから、定型化した前方後円墳への玉類の副葬は、石製品の導入と関連した事象と考えられます。玉類は、この段階に呪術的なイメージを持たれる古墳時代前期の「王者の装い」の構成要素となったのです。古墳時代前期の被葬者像については、鏡を始め石製品などの存在から、呪術的・宗教的色彩が強いとして、「神聖 「王権」的なイメージが語られてきましたという。

ヒスイ製勾玉、碧玉製管玉、ガラス玉の副葬がみられる。

桜井茶臼山古墳 3世紀前半 前方後円墳 奈良県桜井市 
定型化した前方後円墳に玉類が副葬された初の古墳
『玉からみた古墳時代』は、桜井茶臼山古墳は、墳丘長194mの前方後円墳です。埋葬施設は、後円部の竪穴式石室で、コウヤマキ製の木棺が残っていました。石室内では、三角縁神獣鏡、神獣鏡、内行花文鏡など、大型の仿製鏡を多く含む、81面もの銅鏡や、玉杖、玉葉、腕輪形・武器形・異形石製品、鉄製工具、鉄杖などがみつかっています。玉類は、ヒスイ製勾玉1点、碧玉製管玉6点、ガラス管玉1点が出土していますという。

ヒスイ製勾玉、碧玉製管玉、ガラス玉は出土するものの、ごく少量である。


『玉からみた古墳時代』は、ヒスイ製勾玉は、緑色の部分が多い透明感の強い良質のヒスイ原石を用いたもので、全体的に丸みを帯びた丁字頭勾玉の優品です。
弥生時代に北部九州で流通した定形勾玉をモデルとして、ヤマト王権が主導して製作した可能性が指摘されています。碧玉製管玉は、緑色の濃い太身のものです。定形化した前方後円墳に玉類が副葬されるようになる嚆矢となる古墳です。
桜井茶臼山古墳は、石製品においてもそのバラエティに富んだ構成やそれぞれの形態的検討からも、最古段階と位置づけられる様相を示す古墳です。定型化した前方後円墳において、玉類の副葬が顕在化する最初期の例であり、玉類と石製品の共伴関係が重要ですという。

玉類だけでなく、「王者の装い」が石で象られて副葬されている。

玉杖といわれる鉄芯の通った石製品をはじめ、玉葉・弭(ゆはず)と言われる弓の両端部の弦を引っ掛ける部分のような形を模したもの、さまざまな用途・形状の理解できないものを含めて、多種多様な石製品が副葬されています。こうしたことから、定型化した前方後円墳への玉類の副葬は、石製品の導入と関連した事象と考えられます。

玉類は、この段階に呪術的なイメージを持たれる古墳時代前期の「王者の装い」の構成要素となったのです。古墳時代前期の被葬者像については、鏡を始め石製品などの存在から、呪術的・宗教的色彩が強いとして、「神聖王権」的なイメージが語られてきましたという。

桜井市茶臼山古墳出土 石製品と玉 『玉からみた古墳時代』より


メスリ山古墳 4世紀前半 桜井市
『玉からみた古墳時代』は、墳丘長235mの前方後円墳です。埋葬施設は後円部の竪穴式石室ですが、この主室のほかに東約5mには副室も確認されていますという。
メスリ山古墳の主室と副室 『シリーズ「遺跡を学ぶ」049 ヤマトの王墓』より

主室は長さ8mと長大なもので、三角縁神獣鏡、内行花文鏡、腕輪形・合子形・櫛形・椅子形石製品、玉類と鉄製刀剣類などが出土しました。
副室では、212本以上の着装した槍を南北交互に配した上に鉄製の弓、矢、刀剣、農工具や、先端に翼状の飾りをつけた玉杖がおかれ、さらに236本の銅鏃と50本以上の石鏃を着装した矢がおかれていました。
勾玉は、ヒスイ製品が6点出土しており、内1点は全長4.5㎝の大型の丁字頭勾玉です。このほかはいずれ も3㎝の小形品ですが、うち1点は尾部が腹部に付いて環状を呈したもので、報告書では「鞆形勾玉」と言われています。管玉は、緑色の光沢のある硬質の碧玉のほか薄黄緑-緑白色、軟質の黄緑の緑色凝灰岩のものがあります。直径5㎜前後のもので、半数が全長1.0㎝程度です。このほかに、直径10㎜を越えるものが数点あります。
石製品は、桜井茶臼山古墳段階よりも種類がさらに増加し、合子や櫛、椅子などさまざまな種類の石製品が副葬されるようになりますという。
勾玉の図版はないが、桜井市茶臼山古墳よりも数が増え、また勾玉は大型になった。

主室より出土の玉製品
副室からは太型管玉状石製品がありますが、通常の管玉とは異なると考えられますという。
管玉と玉杖 右下大型管玉状石製品長さ6.7㎝
メスリ山古墳出土管玉と玉杖 『玉からみた古墳時代』より

副室より出土の石製品
主室から勾玉6点、管玉55点が出土していますという。
左上に椅子形石製品、右上に櫛形石製品 中央下管玉左端長3.43㎝
メスリ山古墳出土様々な石製品と玉 『玉からみた古墳時代』より


倭の五王の時代(5世紀)
『玉からみた古墳時代』は、古墳時代中期は、「巨大古墳の世紀」とも言われ、大阪府に百舌鳥・古市古墳群が造営された時代です。大王墓とされる大型前方後円墳は、4世紀後半-末頃に奈良盆地の佐紀古墳群を離れて、古市古墳群、百舌鳥古墳群に造営されるようになります。この時期は、「倭の五王」の中国南朝への朝貢が行われた時期です。4世紀以降の朝鮮半島情勢の変化という国際情勢の中で、渡来文化が積極的に導入されました。

玉は、この時代に大きな転換点を迎えます。4世紀中頃以降の変革とその後の歩みの中で、勾玉の材質だけでなく、丸玉や棗玉など各種の玉類の材質にも波及し、中期にはバリエーションが豊富になります。基本的な、勾玉・管玉・小玉のセット関係は踏襲されているようですが、これに加えて前期末から中期前半を中心に、特殊な形の玉類も見られます。奈良県島の山古墳の手飾りと考えられている湾曲した管玉や異形の丸玉、大阪府安威0号墳の両端の窄まった丸みを帯びた管玉など特殊な形状の玉が見られます。


材質面では、碧玉や瑪瑙、そして滑石などがさまざまな種類の玉に用いられます。このうち滑石は主に管玉・臼玉・棗玉・算盤玉などに加工されます。このなかで勾玉は、精製品とも言える通常の玉類と同様な形のものと、勾玉は扁平で形も滑らかではない粗製品が大量に出土します。管玉の場合、近畿中央部を中心にみられる軟質の細長い緑色凝灰岩製品と同様なサイズを指向する滑石製品について 「畿内系」との指摘があります。近畿や関東地方など滑石製模造品の多く見られる地域では、多量の滑石製玉類が埋葬施設及びその周辺に副葬されています。こうした製品のうち全てではありませんが、装身具としてではなく葬送儀礼で用いられ埋納されたものと考えられます。

装飾用とは別に、葬送儀礼用の玉類というものがつくられるようになった。


4世紀末-5世紀以降、ガラス製品の玉が増加します。色調も青色や緑色のものに加えて、黄色や黄緑色などのガラス小玉が多種多様になり、量的にも増加します。各種のガラス製品は、弥生時代後期にも広がった時期もありますが、その段階では一過性の事象でした。しかし、この段階の多様化はその後に続く潮流となります。

また、この時期には金属製の玉が見られるようになります。金属製の玉は、その他の金属製装身具類とともに導入されたものと考えられ、最先端モードとし「空玉」といわれる中空の金製や銀製の丸玉が副葬されています。ただし、この段階では、玉類セットの中にアクセント的に用いられる部分的なものでした。この金属製の玉が量的に増加するのは、6世紀中頃以降になりま す。5世紀代には、金属製玉類のみでセットを構成することはありません。 基本的には、ガラス製品などの装身具の一部を構成しています。

金属製の空玉が副葬されるようになる。

古市古墳群のなかから 古市古墳群の地図はこちら

盾塚古墳 4世紀末-5世紀初頭 帆立貝形墳 大阪府藤井寺市道明寺
墳丘長73m、円丘部径59m、突出部長16.4m、幅25m、造出し: 幅10.5m、長さ北側5.8m、南側6.8m
埋葬施設 粘土槨 長さ7.8m、幅1.8m、その上に11点の革製盾(赤と黒) 
     割竹形木棺 長さ6.5m
副葬品 棺内 鏡、銅釧、筒形銅器、銅鈴、碧玉製玉類や長方板革綴短甲などの武具、刀剣類、鉄鏃と多量の農工具
    棺外 刀剣類
    突出部 刀剣類、斧、鍬、矛、鎌
周溝 円筒埴輪、家・蓋・靴・草摺形などの形象埴輪
『古市古墳群の小規模墳』は、盾塚古墳は、誉田御廟山古墳の前方部北東方向に位置します。墳丘は帆立貝形墳で、南側に突出部(前方部)があり、円丘部(後円部)西側に造出しをもっています。周濠は楕円形です。を測り、周濠を含めた全長は88mです。 
埋葬施設は円丘部中央に主軸と直交して築かれた粘土槨ですという。
この粘土槨全体に赤や黒に染められた革製の盾が被せてあったとは。
盾塚古墳主体部全景 5世紀前半 『玉からみた古墳時代』より

副葬品の玉類
『玉からみた古墳時代』は、玉類には、碧玉製勾玉4点、緑色凝灰岩製勾玉2点、碧玉製棗玉5点、ヒスイ製棗玉2点、緑色凝灰岩製管玉77点があります。碧玉製勾玉やヒスイ製棗玉などは、前期後半の玉類の組成を踏襲した組成です。管玉は、材質とサイズから3種類に分類が可能です。玉類は、棺内中央部から変形六獣鏡と石釧1点の上面及びその周辺の70㎝程度の範囲に散乱して出土したとされています。
前期末から中期前半には、丁字頭の勾玉がヒスイだけでなく碧玉や滑石などに見られる場合があります。碧玉製勾玉は、いわゆる「山陰系玉類」とされるものですが、丁字頭勾玉については近畿中央部で生産された可能性が指摘されています。また、碧玉製棗玉は中期の前半に特徴的な玉類ですという。
盾塚古墳・鞍塚古墳出土勾玉 『玉からみた古墳時代』より

管玉
管玉についても、一部の細長い管玉については「畿内系」として近畿中央部での生産や流通が指摘されている資料と考えられます。現実的には、当該資料の畿内における生産の実態が不明なため、今後の資料の充実を待つ必要があるようです。
報告書においては、棺内のその他の副葬品が木棺の腐朽等による崩壊などによって移動したような状況が見られないことから、一部には列状に連なった部分があるとしながらも当初から玉の緒を切って散乱したような状況であった可能性が指摘されています。管玉の分類などと合わせると、複数セットの玉類が副葬される中で、一部が玉の緒を切って副葬された可能性を考えることもできるのではないかとされていますという。
埋葬時に玉を散らすことが、当時の首長の葬送儀礼だったのかも。
盾塚古墳出土管玉 『玉からみた古墳時代』より


鞍塚古墳 5世紀前半 造出しのある帆立貝形墳 藤井寺市道明寺
墳丘長51m、円丘部(後円部)径40m、突出部(前方部)幅21m
埋葬施設 長さ4.7m、幅0.5mと推定される組合式箱形木棺直葬
周濠 円筒埴輪・朝顔形埴輪、家・鳥形などの形象埴輪、柵形埴輪
副葬品 棺内 鏡や玉類、刀剣類、三角板鋲留衝角付冑、三角板革綴短甲、脇当、鉄鏃など
    棺外 馬具一式、武器、農工具、鉄鋼
『古市古墳群の小規模墳』は、鞍塚古墳は、盾塚古墳の北西方向に近接して位置する、主軸を東西に向けた造出しを持つ帆立貝形墳です。円丘部南西側くびれ部付近には、突出部に近接して、幅9.5m、長さは北辺で6m、南辺で7mの造出しが付きます。
墳丘の周囲には、盾塚古墳と類似する楕円形の周濠がめぐっています。埋葬施設は、円丘部に南東から北西に主軸をもつ木棺直葬と考えられています。木棺の小口部は粘土で固められていました。掘方は、長さ6m、幅1.5-1.8mを測りますという。

『玉からみた古墳時代』は、棺外に鞍金具、木心鉄板張輪鐙、鏡板付轡、雲珠、辻金具など馬具一式、武器、農工具、鉄艇などが納められていました。馬具は初期の様相を示すとされ、古墳の名前の由来になっていますという。
鞍塚古墳主体部全景 『玉からみた古墳時代』より

『玉からみた古墳時代』は、玉類には、緑色凝灰岩製勾玉6点、緑色凝灰岩製管玉42点、ガラス玉1078(平玉75点、丸玉・小玉1003点)、滑石製臼玉2233点があります。
これらの玉類は、棺内東端の被葬者頭部の傍におかれた方格規矩鏡の下から滑石製臼玉がまとまって出土したほか、その脇から勾玉3点、管玉14点、ガラス製小玉2点がまとまって出土しています。また、被葬者の胴部にあたると考えられる刀周辺から、勾玉3点以上、管玉24点、ガラス製小玉が出土しています。
現存する勾玉は、いずれも淡緑灰色の緑色凝灰岩製のもので、形状が非常に類似していることが指摘されています。管玉は、いずれのまとまりも淡緑色-淡緑灰色の灰白色の強い緑色凝灰岩で、軟質なため遺存状況が悪い製品です。直径と全長の分かる資料から見ると、盾塚古墳でも見られた「畿内系」と考えられる管玉と考えられますという。
方格規矩鏡などの出土状況                  
鞍塚古墳遺物出土状態 5世紀前半 『古市古墳群の小規模墳』より

『玉からみた古墳時代』は、ガラス製品は、管玉とともに見つかった濃紺色の丸玉のほか、紺色~濃紺色の小玉・粟玉が約1000点があります。出土したガラス製玉類は、大型の丸玉の存在など中期前半以前にはみられない製品を含んでいますという。
鞍塚古墳出土ガラス玉 『玉からみた古墳時代』より

『玉からみた古墳時代』は、このほか棺内中央部の短甲の下部からも2000点を越える臼玉が出土しましたという。
鞍塚古墳出土臼玉 『玉からみた古墳時代』より


珠金塚古墳 5世紀中頃 1辺25-27mの方墳 大阪府藤井寺市
埋葬施設 東西方向に主軸をもつ2基の粘土槨(南槨・北槨)南槨 長さ5.1mの割竹形木棺、北槨には長さ3.8mの組合式箱形木棺。
副葬品 南槨の棺内 銅鏡、甲冑、武器類や玉類、
       棺外 武器、武具、農工具
    北槨 銅鏡、甲冑、武器、農工具や玉類が出土
『玉からみた古墳時代』は、埋葬施設棺内には2遺体の埋葬が推定され、東側では滑石製勾玉と緑色凝灰岩製管玉が散乱していました。また、棺内中央部西寄りでは、鏡とともにガラス製の丸玉・小玉がまとまって出土し、その西側ではヒスイ製の勾玉・棗玉、緑色凝灰岩製管玉、ガラス製小玉がまとまっていました。このまとまりは被葬者に添えられていた可能性が指摘されています。このほか棺内西端部分でも緑色凝灰岩製管玉が、竪櫛などとともに容器等に納められたような状況で見つかっています。
南槨に次いで北槨の順で築造されたと考えられますという。
やはりこの古墳でも玉類の散乱がみられる。
珠金塚古墳主体部全景 『玉からみた古墳時代』より

同書は、北槨では、遺体頭部付近から金製空玉・緑色凝灰岩製管玉、琥珀製丸玉・ガラス製小玉が一部では連なる部分を持ちつつ広範囲に散らばって出土しました。被葬者胴部左右からは、刀とともに手玉と考えられる玉のまとまりが見つかっています。
右手玉は、ガラス丸玉11点・ガラス小玉2点・環状ガラス玉5点・金箔ガラス玉10点以上・金製空玉12点などで構成されています。
左手玉は、琥珀製棗玉8点以上・琥珀製丸玉1点・ガラス丸玉29点で構成されています。棺内からは、このほかにガラス玉1552点(丸玉1点、平玉19点、小玉1533点)、滑石製臼玉123点が出土しています。
頸飾りと考えられる頭部周辺の玉類については、手玉と考えられる纏まりが見つかっていることに対して、一部が列状をなしていたものの散らばる範囲が広いことから、盾塚古墳同様に玉の緒を切って撒いたような状況が推定されています。
南槨から出土した滑石製管玉については、中期前半を中心とした「畿内系」と言われる管玉と評価されているものです。盾塚古墳、鞍塚古墳出土の管玉と類似した形状のものですという。
南槨出土の玉類 中央大形の勾玉長さ4.0㎝
珠金塚古墳南槨出土玉類 『玉からみた古墳時代』より

中央の大形勾玉長さ4.0㎝ 
珠金塚古墳北槨出土勾玉 中央勾玉長さ4.0㎝ 『玉からみた古墳時代』より 

北槨出土ガラス玉・環状ガラス玉・金箔ガラス玉・金製空丸玉(上段左端径6.5㎜)
珠金塚古墳北槨出土ガラス玉・環状ガラス玉・金箔ガラス玉・金製空玉 『玉からみた古墳時代』より

北槨出土玉類 中央勾玉長さ2.4㎝
珠金塚古墳北槨出土の玉類 中央勾玉長さ2.4㎝ 『玉からみた古墳時代』より


安威0・1号墳 5世紀初頭 大阪府茨木市
『玉からみた古墳時代』は、安威古墳群は島平野を流れる安威川の西岸の丘陵一帯に位置する約20数基からなる古墳群ですという。
安威0号墳粘土槨 左1号・右2号 『玉からみた古墳時代』より

0号墳 円墳 直径約15m、高さ約2m
同書は、葺石や埴輪などの外表施設はなく、墳頂部で長軸を東西方向に向ける2基の粘土槨が並列して見つかりました。両粘土槨ともに西半分は撹乱によって失われていましたが、2基を一対とするような整然とした位置関係にあることから、近しい時期に相次いで埋葬がなされたと考えられますという。
1号粘土槨副葬品 
上方作系浮彫式神獣鏡1面、鉄斧1点、鉄鎌1点、鉄鎚1点、鉄刀子1点、ヒスイ製勾玉1点、
緑色凝灰岩製管玉26点、ガラス製粟玉10数点
安威0号墳1号粘土槨出土 勾玉・管玉 『玉からみた古墳時代』より

2号粘土槨副葬品
斜縁神獣鏡1点、石釧片4点、勾玉(ヒスイ4点・滑石2点・水晶1点・琥珀2点)9点、緑色凝灰岩製管玉30点、ガラス製丸玉48点、ガラス製小玉76点、瑪瑙製棗玉1点、鉄製工具類等
出土した玉類は、1号粘土槨の玉構成が前期的で古く、2号粘土槨は瑪瑙製棗玉やエンタシス状の緑色凝灰岩の変形管玉など特異な製品を含み、中期前半の玉構成を示しています。伝統的なヒスイ製勾玉に加えて水晶製勾玉など、前期後半から末の玉類の変革で出現する玉類を含み、紺色のガラス丸玉・小玉の玉構成は創造性が高まる中期前半の資料ですという。
安威0号墳2号粘土槨出土ガラス装身具 『玉からみた古墳時代』より

勾玉・管玉・変形管玉 右下水晶製勾玉長さ2.6㎝
安威0号墳2号粘土槨出土勾玉・管玉・変形管玉 『玉からみた古墳時代』より


安威1号墳 前方後円墳 墳丘長45m程の前方後円墳 後円部3段築成 葺石
埋葬施設は一部が上下に重なる位置関係で見つかった2基の粘土柳で、1号粘土槨のみ内部の調査が行われています。棺内から車輪石・石釧が出土し、のちに棺外から鍬形石が出土したとされています。 前期-中期初め頃にかけての古墳と考えられますという。
安威1号墳1号粘土槨
安威1号墳1号粘土槨

車輪石径10㎝
安威1号墳1号粘土槨出土石製品 『玉からみた古墳時代』より


高井田山古墳 五世紀後葉 円墳 直径22m 早期の横穴式石室 大阪府柏原市
『玉からみた古墳時代』は、生駒山地南端の大和川を南に見下ろす丘陵上に立地しています。
埋葬施設は安山岩の板石を積み上げた右片袖式の横穴式石室です。玄室上半部は壊れていましたが、天井部はドーム状に積み上げられていたようです。木棺2基が安置されていました。
畿内でも早い段階に築かれた横穴式石室です。石室構造や副葬品だけでなく、男女合葬や須恵器の副葬などの埋葬方法や儀礼から、百済との強い関係性が窺われ、被葬者は百済からの渡来人との考えもありますという。
円形平面で板石を内側に持ち送っていくとドーム状の天井になる。
柏原市高井田山古墳横穴式石室 『玉からみた古墳時代』より

西棺は、荒らされていましたが、東棺からは、神人龍虎画像鏡と青銅製熨斗、耳環、金層ガラス玉を玉類3連、鉄刀1点、銀装の刀子2点が出土しています。頸飾りは被葬者頭上の熨斗の柄部分に置かれていました。玉類は、この被葬者の頸飾りと推定され る一群のほかに、体部両脇と足部両側から、いずれも玉を繋ぐと20㎝弱の長さの玉類が見つかりました。後者の玉類は、出土位置から考えて手玉と足玉と考えられています。このことから、東棺の被葬者は女性と推定され男女の合葬と考えられていますという。

ガラス玉の加工痕跡 
加熱して引き延ばし、管状にしたガラス棒を切り、再加熱して整形して丸みを付けたガラス丸玉です。孔と平行に走る空隙が引き延ばしの痕跡ですという。

高井田山古墳東棺出土ガラス丸玉 『玉からみた古墳時代』より

金層ガラス玉と丸玉の頸飾り 金層ガラス玉長 1.38㎝
内外二重のガラスの間に金箔が挟まれています。金箔を張ったガラス管を太いガラス管に通して整形しています。金層ガラスについては、地中海方面で作られ百済を経由してもたらされたと考えられていますという。
高井田山古墳東棺出土金層ガラス玉と丸玉の頸飾り 『玉からみた古墳時代』より


珠城山1号墳 6世紀前半-後半 奈良県桜井市
前方後円墳 墳丘長55m、後円部径25m、前方部幅20m
石室 片袖式 玄室長3.4m、玄室幅1.6mを測ります。組合式箱形石棺
『玉からみた古墳時代』は、桜井市北部の穴師山から西へ派生する支尾根の先端近くの頂部に、東から西へ順に並ぶ1-3号墳の3基の前方後円墳で構成される古墳群です。6世紀前半に2号墳、中頃に1号墳、後半に3号墳が連続して築造されたと考えられます。
石室周辺から須恵器、土師器などの土器類、金銅装馬具類、三葉環頭大刀、銀 象嵌大刀などの武器類、武具類、工具類とともに玉類がみつかりました。
玉類は、ガラス小玉のほか金銅製空勾玉26点、銀製空玉12点、琥珀製棗玉4点で、金製耳環などの装身具類なども出土しました。
金銅製空勾玉としては時期的に古い例です。徐々に石製玉類の存在感が薄れていく状況を示す資料ですという。
珠城山1号墳出土金銅製空勾玉 『玉からみた古墳時代』より


星塚2号墳 6世紀前半-中頃 帆立貝形墳 墳丘長約40m 領袖式横穴式石室 組合式家形石棺 奈良県天理市
埋葬施設 全長7m、玄室長4.7m、同幅2.25m
『玉からみた古墳時代』は、墳丘は削平を受けていたものの、二重の馬蹄形の周溝が確認されています。盗掘を受けていたものの組合式家形石棺の底部分が残り、金銅製鋺、六角形の亀甲文の中に向かい合う鳳凰の金象眼が施された円頭大刀柄頭、心葉形の垂下部をもつ垂飾付耳飾りや玉類などが出土しています。
また、周溝からは、外面に鳥足文タタキが施された大甕や蓋など、百済・馬韓系の陶質土器が出土しています。これらの出土遺物から朝鮮半島とのつながりが深い被葬者像が考えられそうです。 
出土玉類には、水晶製三輪玉、ガラス勾玉、丸玉、トンボ玉、小玉、瑪瑙製管玉、丸玉のほか、金箔貼ガラス製梔子玉や、地中海地方で作られ百済経由でもたらされたと考えられる金層ガラス玉などがありますという。
星塚2号墳出土金箔梔子玉・金層ガラス玉 『玉からみた古墳時代』より

瑪瑙製管玉は、類例のあまり多くない珍しい玉のひとつで、朝鮮半島の玉類との関係や女性の副葬品との推定など、興味深い指摘があります。梔子玉は、側面に穿孔と同様な方向に稜のある丸い玉です。垂飾付耳飾りは、時期的にも新しく、退化した形態のものです。高度な技術で作られた豊富な種類のガラス製玉類は、5世紀代にはみられなかったものですという。
星塚2号墳出土副葬品 『玉からみた古墳時代』より


富木車塚古墳 6世紀中頃 前方後円墳 大阪府高石市
全長48m、後円部25m、高さ5m 
『玉からみた古墳時代』は、後円部に横穴式石室、粘土槨、組合式木棺の3基、前方部には組合式木棺が3基の合計6基の埋葬施設が設けられていますという。

後円部第Ⅰ埋葬施設(後円部Ⅰ) 右片袖の横穴式石室 組合式木棺の両小口に粘土塊をおく
盗掘を受けて元位置を保ってはいませんが、鉄製武器と挂甲、馬具、須恵器などとともに耳環、水晶製切子玉、ガラス製小玉、 銀製空玉、碧玉製管玉、ガラス製丸玉・琥珀製棗玉などが出土しています。碧玉製管玉は、典型的な濃緑色の片面穿孔の管玉ですという。

副葬品:鉄剣、銅芯金貼耳環、銀製空勾玉・水晶製勾玉・水晶製切子玉のセットとともに水晶製切子玉、ガラス製小玉
富木車塚古墳前方部Ⅱ-1出土 水晶製切子玉・銀製丸玉 『玉からみた古墳時代』より


後円部第Ⅱ埋葬施設(後円部Ⅱ) 粘土槨 組合式木棺 報告書は2体の埋葬を推定
遺骸の周囲を粘土槨のような構造とし、鉄刀、須恵器などが出土していますという。

副葬品:鉄鏃、銅芯銀貼耳環、ガラス製丸玉など。
手玉や耳玉と考えられる単純な構成のセット、頸飾りと考えられる金属製玉類を含む多種類で構成されるセッが含まれていることが注目されますという。
トンボ玉が初めて出てきた。
富木車塚古墳前方部Ⅱ-2出土ガラス製丸玉・トンボ玉 『玉からみた古墳時代』より

後円部第Ⅲ埋葬施設(後円部Ⅲ) 組合式木棺
鉄刀・土師器とともに、埋木製棗玉が16点まとまって出土しました。報告では頭飾りを外して置いたとされていますが、位置的には遺骸の上で手を組んだ状態と考えると手玉とみることもできますという。
富木車塚古墳後円部Ⅲ出土埋木算盤玉 『玉からみた古墳時代』より

前方部第Ⅲ埋葬施設(前方部Ⅲ) 組合式木棺
鉄刀・鉄鏃のほか、銅芯金貼耳環、手玉とされるガラス製丸玉90点(右手46点・左手44点))、 耳玉とされるガラス製小玉70点(右28点・左42点)、頸飾りと考えられる銀製空玉38点が出土。
前方部Ⅲ埋葬施設の棺外からヒスイ製勾玉、滑石製臼玉がまとまって出土このような組合式木棺からの玉類の出土状況から、当時の玉類の組合せの一端を知ることができる貴重な出土事例ですという。
富木車塚古墳前方部第Ⅲ埋葬施設棺外出土勾玉 『玉からみた古墳時代』より


廿山南古墳 6世紀前半 円墳 径約22m 大阪府富田林市
埋葬施設 古墳の頂部 長さ約5.7m、幅約3.5mの墓壙 木棺
副葬品 鉄製品(大刀・刀子・鉄鏃)や金製耳環、玉類、 土師器・須恵器
『玉からみた古墳時代』は、羽曳野丘陵の支尾根に造られた。未盗掘の古墳
玉類は、近接して見つかったものの、出土状況から碧玉製管玉とガラス製小玉、微細な重層ガラス玉で構成される群と、琥珀製棗玉で構成される群に分けられると考えられています。両群とも、出土位置から被葬者の胸元に置かれていたとみられますが、琥珀製棗玉の群で25㎝、その他の玉類で26㎝といずれも成人の頸飾りとしては短い状況です。こうしたことから、手玉の可能性が指摘されていますという。
廿山南古墳埋葬施設と遺物の出土状況 『玉からみた古墳時代』より

碧玉製管玉は、当該時期の代表的な太身の濃緑色の管玉ではありませんが、この時期に見られる資料のひとつですという。
廿山南古墳出土琥珀製棗玉・緑色凝灰岩製管玉他 『玉からみた古墳時代』より

重層ガラス玉
特異な遺物である重層ガラス玉は、装飾効果を高めるためにガラスとガラスの間に金属箔を挟み込んだ玉のことです。細いガラス管に金属箔を貼り付け、そのガラス管が内径に収まる太いガラス管をかぶせて加熱し、両管を密着させたガラス玉です。細長く作られたこのガラス管に工具でくびれを入れると連玉になります。必要に応じて切断されたようです。廿山南古墳の重層ガラス玉は、ほぼ無色透明のものと、淡黄褐色半透明のものがあり、直径3㎜前後、一つ分の長さは約2㎜以下です。
平成17(2005)年に独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所による科学分析の結果、銀箔がはさまれている可能性が指摘されています。重層ガラス玉は、他のガラス玉に比べると出土事例が大変少ない資料です。ひとつの古墳からの出土数としては、国内で最多クラスの事例となります。廿山南古墳のように七連になっている 重層ガラス玉は、国内において現在公表されている資料の中では類例がありませんという。
廿山南古墳出土重層ガラス玉 『玉からみた古墳時代』より


寬弘寺75号墳 6世紀中頃-後半 円墳 直径約15m 横穴式石室 2つの木棺 大阪府河南町
埋葬施設 横穴式石室、玄室部 (棺1)、羨道部(棺2)木棺 
『玉からみた古墳時代』は、石川の支流である千早川と佐備川の支流である宇名田川に挟まれた、標高80-120m程の丘陵上に造られた古墳群です。古墳時代前期から終末期と長期にわたって築造されました。
未盗掘であったこともあり、豊富な副葬品がみられましたという。
近つ飛鳥風土記の丘に移築された寛弘寺75号墳 『玉からみた古墳時代』より

棺1 6世紀中頃
銀製耳環1点、琥珀玉2点、鍍金銀製空玉3点、大刀1点、金製飾り金具をもつ小刀1点がありますという。
寛弘寺75号墳棺1出土鍍金銀製空玉・銀製耳環 『玉からみた古墳時代』より

棺2 6世紀後半の追葬
銀製耳環1点、水晶製切子玉18点、大刀1点、鉄刀子1点
棺外からは衝角付冑や挂甲の武具や、鉄地金銅張の馬具のセットが見つかっています。
水晶製切子玉は、長さ40㎝程度で、頸飾りとしてギリギリの長さがあります。出土状況からは、被葬者の上もしくはその周囲におかれていたようですという。
河南町寛弘寺75号墳棺2出土水晶製切子玉 『玉からみた古墳時代』より 


藤ノ木古墳 6世紀後半 円墳 径約50m 奈良県斑鳩町
埋葬施設 全長14.0m、玄室長6.0m、玄室幅2.7m 横穴式石室で、凝灰岩の刳抜式家形石棺

『玉からみた古墳時代』は、法隆寺から西に約350m、矢田丘陵の南端から広がる緩斜面に築造されています。墳丘には埴輪が並べられていたとみられますが、葺石は見られません。

石棺内には南北に2人の遺体が納められていました。横穴式石室や須恵器などの型式からは、古墳は6世紀後半に築造されたと考えられますという。


北側被葬者の副葬品 画文帯環状乳神獣鏡、仿製画文帯仏獣鏡、神獣鏡の銅鏡3面、金銀葬刀剣2点、耳環、金銅製の装身具、ガラス製玉類 

玉類は銀製鍍金空玉、金銅製の空勾玉・半球形空玉・梔子玉・空丸玉・有段空玉とともに多数のガラス製丸玉・小玉・粟玉などが見つかっています。人骨の一部も依存していたことから、金銅製空丸玉が頸部分をとりまいている状況が明らかとなっており、頸飾りと考えられています。 ガラス小玉などは出土状況などから、頭部周辺の美豆良の飾りとして復元されていますという。

北側被葬者の装身具推定復元

藤ノ木古墳出土北側被葬者の装身具推定復元 『藤ノ木古墳の全貌展』より

ガラス製丸玉・小玉・粟玉 丸玉大1.9㎝程度

藤ノ木古墳出土北側被葬者のガラス製副葬品 『藤ノ木古墳の全貌展』より

南側被葬者の副葬品 獣帯鏡1面、金銀装飾大刀4点、耳環や金銅製の装身具、ガラス製玉類など

南側被葬者は人骨がほとんど残っていませんでした。出土状況から銀製空丸玉の頸飾りと金銅製耳環、ガラス製丸玉の足玉を装着していたと考えられますという。

ガラス製棗玉・粟玉 粟玉1.25㎝程度

藤ノ木古墳出土南側被葬者のガラス製副葬品 『藤ノ木古墳の全貌展』より


藤ノ木古墳の装身具には石製玉類が全くみられません。また、金属製玉類もほとんどが金銅製品です。一方で、空勾玉やガラス製棗玉などからは、伝統的な玉類のあり方の片鱗を見ることができますという。



飛鳥寺 五重塔心礎 6世紀末
埋納品 土器も甲冑、耳環や金属製金具、玉類など
『玉からみた古墳時代』は、『日本書紀』推古元(593)年条に蘇我馬子が塔心礎に仏舎利を納め、塔の心柱を立てたと伝える日本最古の寺院が飛鳥寺です。
金属製の飾り金具などは、藤ノ木古墳の髪飾りとの共通性なども含めて6世紀後半の古墳の副葬品と共通する品目であることが注目されてきました。

五重塔心礎出土品 
ヒスイ・瑪瑙・ガラス製勾玉、碧玉製管玉、水晶製切子玉、瑪瑙製丸玉、ガラス製丸玉・小玉を含む数多くのガラス製玉類など
玉類は石製のものが中心で、ヒスイ製勾玉の存在を考えれば、伝統的な組合せということができるでしょうという。
飛鳥寺五重塔心礎に埋納された玉類 『藤ノ木古墳の全貌展』より

飛鳥時代

『玉からみた古墳時代』は、終末期古墳の造営にあたっては、埋葬施設の小型化のなかであまり多くの副葬品を埋納しなくなります。玉類もガラス製丸玉・小玉のほかは琥珀製玉類や金属製空玉などが僅かに見られる程度になります。

大阪府阿武山古墳では、被葬者頭蓋骨の下からガラス製小玉を銀線で束ねて枕状にしたものが復元されています。ガラス製玉類を銀線で繋いだものは、飛鳥の牽牛子塚古墳などでも見つかっています。こうしたことから、終末期古墳の玉類については、棺にかかわる装飾など、装身具以外の用途の可能性が指摘されていますという。


阿武山古墳 7世紀中葉 横口式石槨 未盗掘 大阪府高槻市

埋葬施設 花崗岩と塼で構築された横口式石槨

     内法 長さ2.575m、幅1.1m、高さ1.19m  

夾紵棺 全長197㎝、幅62㎝、高さ51㎝

『未盗掘古墳の世界』は、1934年、京都大学地震観測所建設に伴い、偶然発見された。 標高281mの阿武山山頂から南へ伸びる丘陵端部に位置する。明確な墳丘をもたず、巧みに自然地形を利用して古墳を築造している。

横穴式石室はいわゆる横口式石槨と呼ばれる棺を入れるだけのスペースに縮小し、しかもその棺は大型の石棺から夾紵棺などの軽量・小型で持ち運びが可能なものに変わり、再び単葬へと変化する。そこには、竪穴式石室から横穴式石室に変化した時と同じく、葬制が大きく変質したことを示している。この現象は推古朝の支配体制、大化改新、天武朝の政治と、中央集権化への一連の流れの中でとらえることができ、竪穴式石室から横穴式石室に変化したとき以上に当時の東アジア情勢の動向と不可分の関係にあったといえるであろう。

棺台上には、完形の爽符棺が東に寄って置かれていた。棺は蓋と身からなり、外面には黒漆、内面には朱漆が塗られていた。
棺内には、南枕の60歳前後、身長165㎝の男性人骨が仰臥伸展の状態で検出された。遺骸は、衣服を着用して埋葬されたものと考えられる。
大刀や鏡などはなく、質素な副葬品であり、薄葬そのものである。『元亨釋書』には、藤原鎌足の墓は摂州阿威山にあると記されており、この阿武山古墳こそが大化改新を推し進めた藤原鎌足の墓と推定されているという。
大化改新については、近年その首謀者が変わってきたが、鎌足は当時の重要人物であることは確か。そんな人物が何故飛鳥から遠い、淀川中流域の丘につくられたのだろう。

高槻市阿武山古墳夾紵棺内部 7世紀中葉 『未盗掘古墳の世界』より

玉枕と冠帽

同書は、葬制の変化は当然多くの副葬品にも変化をもたらしたことはいうまでもない。

棺内には大中小のガラス玉を銀の針金で綴り合わせた玉枕と金糸の刺繍で飾った冠帽が発見されているが、これらは遺体の枕の飾りや衣服の飾りであって厳密には副葬品といえるものではない。これまでの他の畿内の終末期古墳から出土しているガラス玉や金糸などは、その量にもよるが阿武山古墳のような玉枕や衣服の飾りの 一部であった可能性も考慮しておかなければならない。

副葬品によっては、被葬者の性格や埋葬時における葬送儀礼の状況等を知ることができる。時には、その儀礼に見られる政治的背景をも推察することが可能となるという。

阿武山古墳出土玉枕、冠帽 7世紀中葉 『仏法の初め、これより作れり』より


『玉からみた古墳時代』は、当時は、中央集権的な古代国家形成の中で、中国のあらたな衣服制度を取り入れるなど、服飾文化の大きな変革の時期です。こうした変化の中で、玉は徐々にその役割を狭めていくこととなります。そして、ここであげたような、寺院の鎮壇具や装飾品に限定されるようになります。寺院の鎮壇具としての使用については、古墳時代同様な祭祀・儀礼における祭祀具としての側面があると考えられますという。


その後は副葬そのものが習慣としてなくなるが、ガラスでものをつくることが絶えたわけではない。

それらは正倉院宝物として伝わっている。その中でも私のお気に入りでもあり、阿武山古墳出土の枕と似た作り方のように思えるものを1点。


雑色幡 正倉院宝物

幡と称されているが、華籠(けご)。仏会の散華の時に花を盛る器。聖武天皇の法要の時にでも用いられたのだろうか。

正倉院宝物 雑色幡 『第56回正倉院展図録』より




関連項目

参考文献
「玉からみた古墳時代」展図録 2021年 大阪府立近つ飛鳥博物館
「王権麾下の古墳とその被葬者 古市古墳群の小規模墳」展図録 2020年 大阪府立ちかつ飛鳥博物館  
「ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳」 千賀久 2008年 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」049
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌」展図録 2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
「未盗掘古墳の世界-埋葬時のイメージを探る」展図録 2002年 大阪府立近つ飛鳥博物館
「仏法の初め、玆より作れり-古墳から古代寺院へ-展図録」 2008年 滋賀県立安土城考古博物館
「第56回正倉院展図録」 2004年 奈良国立博物館