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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2019/09/13

東洋陶磁美術館 フィンランド陶芸展1


先に「マリメッコ・スピリッツ展」をまとめてしまったので順番が前後するが、大阪市立東洋陶磁美術館では以前に「森と湖の国 フィンランド・デザイン」というガラス展を見て、非常に楽しかったので、今回の陶芸展も期待していた。

アラビアという会社の陶磁器は日本でもデパートなどで見かけるもので、中には使いたいものもある。アラブ風の形や文様があるわけでもないのに何故アラビア?と不思議に思っていたので、アラビアという名前は覚えている。
同展図録は、1930年代から1960年代半ばにかけてヘルシンキ郊外の巨大な磁器製作所で、世界でも屈指のスタジオ・ポタリーが制作されていたという。
スキャンデックスARABIAのご紹介といページは、1873年11月、スウェーデンのロールストランド社が、フィンランドのヘルシンキ郊外にあるアラビア地区に設立した製陶所ですという。フィンランドにアラビアという地名があること、その地名から製陶所の名が付けられたこと、しかもフィンランドがまだ独立する以前に設立されていたことを知った。

最奥部の展示室Eでアラビア社の製品が展示されていた。まずはスタッフの写真。
同展図録は、フィンランドの日用食器生産は、常にスウェーデンの影響下にあった。早くも1845年にインダストリアル・デザイン協会を設立したスウェーデンでは、大衆に質の高い製品を供することの重要性が説かれ、作家が量産品製作に積極的な関わりをもってきた。フィンランドもこの流れを踏襲しており、国を代表するアラビア製陶所が、スウェーデンのロールストランド製陶所の子会社として創設されたことによって、その傾向は一層顕著となるという。
フィンランドは、ロシアやスウェーデンに統治されてきて、1919年に共和国としてスタートした若い国なのだった。

クルト・エルクホルム(Kurt Ekholm 1907-75) 
同展図録は、エルクホルムの加入は、あらゆる意味で製陶所にとって転換期となったが、とりわけ量産品は機能主義が導入されたことで劇的に変化する。彼が手掛けた手掛けたテーブルウェアの「AH」や「シニヴァルコ」は、まさにそれを象徴するものであり、後年カイ・フランクへと受け継がれる単純化された機能的な形状は、フィンランドの陶磁器デザインにおける一つのスタンダードという。
シニヴァルコ 1936-40、49-64 ピッチャー:15.5X19.6X10.5㎝ アラビア製陶所 岐阜県現代陶芸美術館蔵
説明パネルは、シニヴァルコは、フィンランドの国旗の色でもある「青と白」の意味をもち、6人用の食器セットとして考案された。装飾を最小限に抑えているため安価で、重ねて収納できるなど機能的である。無駄を削ぎ落とした形状と伝統的な絵付けから離れた装飾は、革新的であったものの急進的過ぎたため、売り上げには結びつかなかったという。

フリードル・ホルツァー=シャルバリ(Friedl Holzer-Kjelberg 1905-93 他の作品は後半で)
ライス・ポーセリン 1951-73 オーバルボウル:8.5X17.1X8.9㎝ アラビア製陶所 岐阜県現代陶芸美術館蔵
説明パネルは、美術部門の作家であるフリードル・ホルツァー=シャルバリによりデザインされた「ライス・ポーセリン」シリーズは、1950年代から60年代の最盛期には、専属の部門に20名以上の職人を擁することもあった。製作に手間を擁するため量産の事例はほとんどなく、アラビア製陶所の他にはセーヴル製作所で行われたのみであるという。
フィンランドでも蛍手があるとは驚きだった。

カイ・フランク(Kaj Frank) 
同展図録は、アラビア製陶所内にプロダクト・デザイン部門が設立されると、フランクはそのリーダーとして招待され、翌年には部門長に就任する。戦後復興期になると日用品の需要が高まりをみせたことも手伝い、1948年から51年にかけて製陶所の生産高はピクを迎えたという。
テーブルベル 1950年代初期 7.0X8.5㎝ アラビア製陶所 コレクション・カッコネン 
説明パネルは、1950年代の初めに限定的に生産されたテーブルベルは、フランク自身が絵付けを手掛けた。プロダクトデザイナーとしてのイメージが圧倒的に強いが、鮮やかな色彩を好み、詩情豊かな陶磁器作品も手掛けている。本作には、そうした彼の感性とイラストレーターとしても活躍した素養が感じられるという。
ほのぼのとした一家団欒の場面が描かれる。照明も歴史が感じられる。
タンブラー 1952-55 ヌータヤルヴィガラス製作所 コレクション・カッコネン
説明パネルは、フランクは、アラビア製陶所で陶磁器デザイナーとして活動する傍ら、1946年以降はイッタラガラス製作所でもデザイナーを務めていた。1950年にアラビア製陶所を傘下におくヴァルツィラ社が、ヌータヤルヴィガラス製作所を買収したことにより、彼も同製作所へと移籍し、芸術監督として同所を指揮しながら、自身の作品制作にも励んだ。陶磁器同様に、幾何学的なかたちを基礎とした機能主義を徹底していたが、本作にみられるような吹きガラスならではの揺らぎや繊細な色彩も重視したという。
ロケロバティ(KFI) 1958-62 アラビア製陶所 岐阜県現代陶芸美術館蔵
説明パネルは、フランクは1950年代より日本への想いを公言しており、1956年を皮切りに三度来日している。「仕切りある皿」という名をもつ本作は、来日直後の1957年にデザインされたため、日本滞在の影響を指摘する声が強い。形状は折り紙を白や黒、赤の色彩は漆を意識しているという見方があるものの、茶や深緑などのアースカラーも存在するため、一概には言えない。しかし、日本での経験が着想の一部にあったことは間違いないであろうという。
現在食器売場に置かれていても古びを感じさせないデザインだが、左の2つは、それぞれの「仕切り」にいろんな料理を盛り付けられる松花堂昭乗が考案した十字の仕切りのある弁当箱と折り紙から思いついたのだろうか。右はその発展形だろう。
キルタ 1963-74 ピッチャー:17.0X18.0X14.0㎝ アラビア製陶所 岐阜県現代陶芸美術館蔵
説明パネルは、エルクホルムのデザイン哲学はフランクへと受け継がれた。戦後復興期を経た1953年に新たな時代に即した食器として誕生したのがキルタであった。ソーサーにカップの窪みがないことからも分かるように、全てのアイテムはその用途を限定していない。当初売り上げは伸び悩んだが、地道な広報活動によって製陶所を代表するロングセラーとなり、現在は形状や色彩を一部改良して「ティーマ」の名で親しまれているという。

ウッラ・プロコペ(Ulla Procopé) 
同展図録は、プロコペは、当時のプロダクトデザイン部門のなかで唯一、美術工芸中央学校において陶磁器の学位を修めており、定番となり得る新たな製品の開発を期待されていたという。
ルスカ 1960-99 ティーポット:12.0X25.2㎝ アラビア製陶所 岐阜県現代陶芸美術館蔵
説明パネルは、ヴァレンシア同様に、プロコペが形状と装飾をともに手掛けたシリーズである。ルスカは「紅葉」を意味し、釉薬の色彩と質感に由来する名称である。ただ、焼成による仕上がりが不安定なため、従来日用食器に用いられることはなかった。しかし、そのばらつきが唯一無二という点でかえって歓迎されたという。
日本では5客ものの食器でも、少しずつ違いがあり、それが味わいとして受け入れられている。
ヴァレンシア 1960-2002 コーヒーポット:15.4X13.5X22.2㎝ アラビア製陶所 岐阜県現代陶芸美術館蔵
説明パネルは、プロコペがデザインを手掛けた形状に、同じく彼女がヴァレンシア地方の陶磁器に触発されて考案した文様が施されている。機能主義全盛期を経て、再び装飾的な製品が人気を集め出した時期に発売された。初めはフルーツ用の食器として登場し、コバルトの美しさと手描きによる情感豊かな絵付けが人気を博すと、次々とファイアンスで製作され、以後は炻器および熔化陶器に変更されているという。
日本でみかけたものは、もっと白地が多かったような。

ビルゲル・カイピアイネン(Birger Kaiplainen) 
パラティッシ 1969-73 オーヴァルプレート大:4.4X41.8X36.2㎝ アラビア製陶所 岐阜県現代陶芸美術館蔵
説明パネルは、1960年代に入り、ヴァレンシアなど華やかな装飾の食器セットが再び人気となる傾向のもと、本作は登場する。カイピアイネン自身は、量産品の製造に関心はなかったが、1950年代の彼に対する高い評価を受けて、アラビア製陶所の依頼により
器形と装飾がデザインされた。パラティッシとは「楽園」を意味するという。
彩釉していないものもあり、ちょっと黒っぽいが染付のよう。
カイピアイネンの他の作品は次回

さて、第1会場であるJ室は角から入るが、正面のガラスケースに目隠しがある。

このケースには動物ばかり。ミハエル・シルキン(Mchael Schilkin 1900-62)の作品である。
同展図録は、シルキンの生み出す彫像の多くは動物をモチーフとしており、神話からの飲用も見られる。作品に共通するのは、対象の本質を捉えたユーモラスかつエネルギッシュな表現である。実直な形態表現から単純化された、キュビスムをも想起させる造形へと次第に移行していくが、そこには一貫して対象への慈しみが感じられるという。
オオヤマネコやミミズク、ネコは出身地のロシアや亡命してきたフィンランドにもいるだろうが、何故かラクダが混じっている。そののんびりした表情がなんとも言えない。
このケースの右端には気持ち良さそうに丸まったキツネ。毛並みや耳の中の毛までも感じられる。
狐 1940年代 14.0X26.0㎝ アラビア製陶所 
もっと大きかったように思うが、大きく感じられる作品なのだろう。
眠そうなのかなと思って正面から見ると、しっかり目は見開いていた。
陶芸家でもあり彫刻家でもあったシルキンき、形をつくると同時に形を見出す制作方法をとっており、本作も豊かな膨らみをもった造形が彼に身体を丸めた狐を想起させたと考えられる。何段階かの濃さに分けて細筆などで点描することによって、丸みを帯びた形態を強調するとともに柔らかな毛並みを演出しているという。

梟 1950年代 左:36.0X18.0 右:32.0X16.0㎝ アラビア製陶所
説明パネルは、50年代になると、モティーフを表現する際の簡略化や抽象化が進んでゆく。とりわけ梟は重要なモティーフであり、方形のパーツを重ね、そこにさまざまな表面処理などを施して、実験的に取り組んでいたようだ。本作もそうした作例の一つである。表面の凹凸や色彩の組み合わせによって、それぞれ異なる表情を見せるという。
私は轆轤成形のつるんとしたミミズクよりも、この武骨な梟の方が好み。
熊 1960年頃 22.0X45.0㎝ アラビア製陶所 
これももっと大きかったように思うのだが・・・
土の板を適当にちぎって重ねたような感じだが、もちろん焼成のために、各パーツは空洞だろう。
毛並みを表す凹凸や細かな釉薬の斑点など精緻な造形である。足の裏もかわゆい。

トイニ・ムオナ(Toini Muona、1904-87)
同展図録は、初期は、アール・デコ様式に感化された絵付作品や質感を強調した力強い器などを制作した。また、晩年には抽象的な表現へと移行したが、その創作のハイライトはこれらの中間期にあたる、1940年代初頭から1950年代半ばまでの作品群にある。垂直方向に伸びがある形態はオーガニック・モダニズムとも評され、その影響は陶芸のみならずガラスをはじめとする工芸やデザインの分野へと波及していった。技術的な完全性の追求から、素材の持ち味を最大限に生かした表現への転換は、フィンランド陶芸を鑑賞工芸から芸術の域へと高めたという。
筒花瓶 1940年代 35.5X5.0㎝ アラビア製陶所 コレクション・カッコネン 
説明パネルは、ムオナに国際的な名声をもたらしたのが、彼女自身が「干し草」と呼んだ、垂直方向へと伸び上がる細く背の高い作品である。「崇高な不完全」ともいえるムオナの美意識は、第二次世界大戦期の初期に形成され、1940年代初頭から非対称で反機能主義的な彫刻的造形へと変化してゆく。
本作は、轆轤で成形した後に微妙に湾曲させて、自然なたわみを出しているという。
複数の干し草を束ねた様子を表現しているのだろうが、私にはリュトンを立てたように見える。
筒花瓶
説明パネルは、中国の鈞窯を意識した作品だろうか。幾層にも重ねられた釉調を特徴とするが、施釉前の素地に加えられた凹凸の効果によって、一段と変化に富んだ景色となっている。
ムオナは制作に際し、アラビア製陶所の轆轤職人を助手として成形し、また釉薬の調合も技術者たちに任せていたという。
釉薬の掛け方が面白い。それが素地の凹凸によるものとは。

別室にもムオナの作品が展示されていた。
花瓶 1957年頃 17.0X6.5㎝ アラビア製陶所 コレクション・カッコネン
説明パネルは、トイニ・ムオナの作品は、1950年代に入るとさらに単純化し、色彩も白や黒、そして金銀と限定的になってゆく。全体に施釉し、その上から酸化金属を多く含む土と金で装飾を加えている。一般には欠点とされる泡の吹いた痕を装飾の一部とする手法も、この時期の傾向であるという。
金箔や銀箔を使っても日本の陶芸や田上惠美子氏のガラスとはこんなにも違うものができあがるのか。
ボウル 1957年頃 5.0X14.0㎝ アラビア製陶所
素地にも線刻があるが、金箔部分は日本の屏風に貼り付けたものを想起させる。色紙状のものを縦横に貼り付けているが、それが破れて継ぎ合わせたりしている感じがよく出ている。
花瓶 1951年 35.0X20.5㎝ アラビア製陶所
説明パネルは、1951年のミラノ・トリエンナーレで金賞を受賞した際の出品作品の一つで、中国陶磁を意識した作品だと考えられる。銅紅釉と青みを帯びた失透性の釉薬が掛けられており、微妙な色彩の変化がみられるという。
形も良いが、きめの細かい凹凸と釉の変化、ずっと見ていた器面である。
アラビア製陶所ポスター タビオ・ヴィルッカラ 1952年
説明パネルは、ガラスデザイナーとして活躍したタビオ・ヴィルッカラによる、アラビア製陶所のポスター。
製陶所の宣伝広告物のなかでもとくに有名なこのポスターは、ムオナの陶磁器作品を背景として、彼が好んだモティーフの鳥と卵が描かれているという。
ムオナのミラノ・トリエンナーレで受賞した花瓶だった。

アラビア社の製品の展示室でもあったフリードル・ホルツァー=シャルバリ(1905-93)
同展図録は、彼女が常に理想としたのは中国宋代の陶磁器で、それらの技術を研究しながら、主に大型の壺や鉢を制作した。1930年代の初めにウィーンで目にした中国の蛍手作品に魅了されると、試行錯誤の末に1942年に自らの蛍手を完成させ、1950年代にはこの量産化に成功する。しかし、あくまでホルツァー=シャルバリは素材と技術への徹底したこだわりを持つ陶芸家であり、その創作の中心は中国陶磁に想を得た一品制作にあったという。
ボウル 1940年代-50年代 6.6X20.2㎝ アラビア製陶所 コレクション・カッコネン
説明パネルは、アラビア製陶所で用いられていた銅紅釉は光沢がなく、濃い灰色に転じる傾向が強かった。これに不満を抱いていたホルツァー=シャルバリは、基礎となる透明釉の組成を変えつつ焼成などにも工夫を加えることで、本作のような艶を伴った明るい発色を得ることに成功したという。
伏せて焼成したのか、出来上がりは、赤い釉薬が縁へ向かって伸びているように感じる。
ボウル(ライス・ポーセリン) 1950年代 左:13.2X14.5㎝ 右:7.2X11.8㎝ アラビア製陶所 コレクション・カッコネン
説明パネルは、中国で発達した「蛍手」の技法は、欧米でも「ライス・ポーセリン」の名称で親しまれてきた。成形後の柔らかい生地に透かし彫りの装飾を施し、素焼き後に施釉すると釉薬が透かし部分を塞ぐ。焼成し、光にかざすと透過して文様が浮かびあがることからこの名が付いた。また、透かしの装飾がお米の粒のようなことから「ライス・ポーセリン」と呼ばれるという。
白い器が台の色を帯びてしまったが、撮影している時は、台に写る蛍の文様が入ることしか頭になかった。

アクアライナーでちょこっと水の都大阪めぐり← →東洋陶磁美術館 フィンランド陶芸展2 ピクトリアリズム

関連項目
東洋陶磁美術館 フィンランド陶芸展3
東洋陶磁美術館 マリメッコ・スピリッツ展に茶室

参考サイト
スキャンデックスARABIAのご紹介

参考文献
「フィンランド陶芸 芸術家たちのユートピア 展図録」 2018年 国書刊行会