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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2019/09/24

東洋陶磁美術館 フィンランド陶芸展3



フィンランド陶芸において、2つの歴史的な現象がある。ヘルシンキのアテネウム(美術工芸中央学校、アールト大学の前身)を中心とした近代国家美術工芸教育の台頭、そしてアラビア窯における「アート・デパートメント(芸術部門)」の設立があった。
ベルギー出身の画家および陶芸家であったフィンチは1902年にアテネウムにおいて近代陶芸の指導を開始したという。

アルフレッド・ウィリアム・フィンチ(Alfred William Finch 1854-1930)
同展図録は、ブリュッセルで絵画を学び、1883年に芸術家集団「20人会」を結成する。この組織での活動はフィンチの画業を決定づけたのみならず、後年工芸の道へ進む契機ともなった。イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に強い感銘を受け、1890年頃から陶磁器制作を開始するという。
アイリス工房でフィンチは、フィンランドで多く産出される赤土に、鮮やかな色彩とアール・ヌーヴォーを基調とする模様が施された日用陶器を製作した。
1900年のパリ万国博覧会ではアイリス工房の製品で構成した「アイリス・ルーム」が設えられ、大きな反響を呼ぶことになる。しかしフィンランド国内においての需要は一部の富裕層に限られていたこともあり、1902年に閉鎖へと追い込まれた。
わずかな活動期間のなかで、それまで絶対的であったスウェーデン陶芸の影響から離れ、フィンランド独自の様式を模索した意味は極めて大きいという。
花瓶 1897-1902 26.5X11.3㎝ アイリス工房 コレクション・カッコネン
同展図録は、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動を受け、地元で採れる原料をもとに、伝統的技法を用いた陶磁器製作が各地で盛んに行われた。フィンチもアイリス工房に同様の手法を採用して、フィンランドの赤土に緑や青の色化粧を施し、掻き落としや白盛りで加飾。一方で、絵付けは時代を反映したアール・ヌーヴォーを基調とするものであった。本作は、フィンランドの国花である「ドイツスズラン」をデザイン化したものと考えられるという。
口縁部には組紐文の中に白い粒々がひしめき、小さな葉にも白い粒々が。これがスズランとは・・・
フィンチの作品群。和めるデザイン。
花瓶 1897-1902 24.0X18.0㎝ アイリス工房
同展図録は、様式化された蓮をモチーフとするこの花瓶のように、アイリス工房の製品は、簡素でありながらも華やかさをたたえている。自然や国を象徴する主題が多いこともアール・ヌーヴォー期の特徴であるという。
スイレンだと思うが、花弁よりもおしべが高くてかわゆい。花の下に葉、その下には水面に映った花というのが1単位になって器体を巡る。
壺 1900年代初期 29.0X22.0㎝
同展図録は、美術工芸中学校で制作された作品。フィンチは1902年に同校へ赴任していることから、本作はそれ以降に作られたものといえる。中国や日本の陶磁器のなかでも、絵付けを伴わず、形状と釉薬の美しさだけで魅せる作品を理想としていたフィンチは、高温焼成が不可能な環境下で赤土を用いた陶器やファイアンスによってそれらへの近接を試みた。古くからある器形をもとに胴部をしぼることで変化を加え、さらに施釉の工夫で独自の表現としているという。
日本では瓢箪の逆の形をしているので箪形などと呼ばれている。
日本では施釉する以前の壺甕などに、焼成中に灰が器体にかかってそれが溶け、部分的に緑色の釉のようになつたり、流れたりしていた。そのような現象から釉薬を掛けて焼くということを思いついたのだと、昔聞いたことがあるが本当かな?
この作品を遠くから見ると無釉の焼き物に見えたが、しっかりと釉薬はかかり、しかも流れるところと流れないところがほぼ等間隔🤗
壺 1900年代初期 13.0X14.0㎝ 
幅が広いが下部が大きく括れがあって上部が小さいので瓢箪形
薄い器体に薄~くかかった釉薬は、茶色く流れるものと、流れない白い点々があった。焼成温度の異なる成分なのか、白い点々は陶土の中に含まれているものなのか👀


エルサ・エレニウス(Elsa Elenius) 1897-1967
同展図録は、1920年代は絵付けを主とした作品を発表する。1930年以降は中国宋代の陶磁器に影響を受けた大型の鑑賞陶器を制作し、それらは1933年のミラノ・トリエンナーレや1935年のブリュッセル万国博覧会でグランプリを受賞するなど高く評価されたという。
東洋っぽい静けさが感じられる。
ボウル 1930年代 25.0X22.0㎝
同展図録は、フィンチの後を継いで、美術工芸中学校の要職に就いたエレニウスも構内で制作を行っていた。在職中の1932年に学内の設備が整えられたことで、制作環境が大幅に改善して高温焼成も可能となった。フィンランドでは1930年代初期に銅を呈色剤とする釉の使用が流行しており、エレニウスも新たな環境のもとで中国陶磁を手本としながら制作を行ったという。
肩部は夜に雪の積もる峰嶺をを上空から見下ろしたようにも感じる。そして下部は灯のともる街の夜景を遠くの丘から眺めたよう。それにしても左の茶色い線は何だろう?そこだけ釉薬を削ぎ落としたのかな。
花瓶 1930年代 18.0X11.0㎝
これら3作品には意図的に指跡が付けられており、銅紅釉を用いた様々な表現を模索していた様子が窺えるという。
青い釉は透明で、貫入の様子を目で辿るのも楽しい。
ボウル 1930-40年代 9.0X13.5㎝
同じ釉薬を使ってもそれぞれに独特の雰囲気がある。

キュッリッキ・サルメンハーラ(Kyllikki Salmenhaara 1915-81)
同展図録は、1947年よりアラビア製陶所に在職した。デザイン部門に従事したのち、1950年からの10年余りを美術部門で過ごす。サルメンハーラにとっての理想は1930年代のイギリス滞在時に目の当たりにした、バーナード・リーチらに代表されるスタジオ・ポタリーであり、土や釉薬を全て自らで調合することで、ふさわしい質感や形態を探求し続けた。
さらに彼女の創作を決定づけたのは、1956年から翌年にかけてのアメリカ滞在であった。当時西海岸を中心に沸き起こっていた陶芸の抽象主義に触れ、またバウハウス出身の陶芸家マルゲリーテ・ウィルデンハインと出会ったことは、彼女にとってまさに転機となった。帰国後の作品は即興的で力強い形態を獲得し、その作風は高い評価を得ると同時にフィンランド陶芸りの一つの様式として認識されていく。一方で、ウィルデンハインの影響により、作家の社会的役割についても認識を深め、日用品を数多く手掛けるようになるという。
ボウル 1950年代初期 14.0X18.5㎝ アラビア製陶所
説明パネルは、サルメンハーラの創作に一貫しているのは、確かな轆轤の技術である。とりわけ初期には、その技量を前面に押し出した作品が多い。轆轤による伸びやかなラインを銅紅釉の流れや溜まりが際立たせているという。
背の高い器が、口縁部から高台へと極端にすぼまっていく。不安定な印象を受けるが、器として使用されていたのだろうか。
釉の溜まりを景色とみるのは日本人の美意識だけではなかったのだ。
図録の写真はこの反対面で、銅紅釉の溜まりが器体の半分くらいの位置まで流れている。
ボウル 1950年代初期 9.0X23.0㎝ アラビア製陶所
高台が小さい作品が多いので、ルーシー・リーの作品が脳裏をよぎった。
そういえば、サルメンハーラは1930年代にイギリスに滞在し、バーナード・リーチらと共に制作している。この形がルーシー・リーの制作年代と重なるのかどうか。
見込は轆轤で挽くときに水平の凹凸を残しているので、銅紅釉が流れずに、水平の凹みに溜まっている。薄挽きなのに内側にこんな轆轤目を出している。
ボウル 1952-54年 9.0X19.8㎝ アラビア製陶所
こちらはマットな釉で仕上げられている。
花瓶 1952-53年 左:40.0X10.0㎝ 右:31.0X10.0㎝ アラビア製陶所 コレクション・カッコネン
説明パネルは、本作でも轆轤の技術が遺憾なく発揮されている。しなやかなフォルムと一定に保たれた轆轤目は、日本の陶芸家でさえも彼女の技量を称えていたことを証明している。こうした縦方向に伸びる背の高い花瓶は、1950年代にみられる彼女の代表作の一つであるという。
確かにこんなに細長い器を一気に轆轤挽きできるとはすごい。
壺 1957年頃 12.0X18.0 アラビア製陶所 コレクション・カッコネン
説明パネルは、1956年にアメリカを訪れたことで、作品はダイナミックになり即興性を増してゆく。粗製の土をあえて用い、部分的な施釉にとどめることで、土味との対比を鮮明に、鉄斑をも生じさせている。そして最も印象的なのが、サルメンハーラ自身が「空飛ぶ円盤」と称した独特のかたちである。胴の上下を別々に轆轤成形した後に接合する制作方法は、ギリシャの伝統的なワイン瓶や香水瓶に影響を受けたものといわれるという。
外側にマットな釉薬を、内側には長石釉だろうか、艶のある本来の釉薬を掛けている。おそらく釉の色は同じなのに、艶のあるなしで、こんなに異なった色合いに焼き上がるのだ。
壺 1957-60年頃 35.0X35.0㎝ アラビア製陶所
轆轤目を大胆に残した作品。サルメンハーラの壺の高台は極端に小さい。
壺 1958年頃 30.0X31.0㎝ アラビア製陶所 コレクション・カッコネン
説明パネルは、1950年にアラビア製陶所でシャモットを含む荒い土を用いたのはライヤ・トゥーミであった。サルメンハーラもこれを好み、特に渡米後は頻繁に用いた。本作では、素地の質感や鉄斑が景色とされ、釉薬を薄く施すことによって、これをいっそう強調している。さらに白い飛沫はドリップ・ペインティングを想起させ、アメリカで抽象表現主義に触れたことからくる影響だと考えられるという。
一見荒い石を削ったようで、釉薬は口縁部に薄くかかっているが外側は素焼きだろうと思って見ていた。
底というか高台のつくりが絶妙。
同展は10月14日まで。

東洋陶磁美術館 フィンランド陶芸展 ピクトリアリズム← →没後20年 ルーシー・リー展

関連項目
大阪市立東洋陶磁美術館 フィンランド陶芸展1
東洋陶磁美術館 マリメッコ・スピリッツ展に茶室


参考文献
「フィンランド陶芸 芸術家たちのユートピア展図録」 2018年 国書刊行会