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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2017/01/24

裏彩色は中国から


『日本の美術401古代絵画の技術』(以下『古代絵画の技術』)は、絹地の表裏を使うということはどういうことかというと絹絵の裏からも彩色を加え、その絹表への現れ方を生かし、その上に線描きや彩色を加えて完成させるのである。この裏から賦彩された彩色を裏彩色という。
裏彩色は絹表の織物の特色である織目を生かすように賦彩し、彩色表現を完成させるのである。中国絵画の技術観では表からの彩色を薄くすることによって色料の発色を良好にし、重厚さと色料の鮮明さを兼ね備えた彩色表現が可能となると考えている。わが国の場合、表からの賦彩も厚く、裏彩色の効果が見え難い作品も往々見受けられるが、技術的原則は共通していると思う。このような彩色表現を行う場合、当然、裏彩色の色は表からの彩色を支えるためのものとして同系色で施工されることが普通である。
何故裏彩色のような複雑な手順をとって作画するのかということになるが、裏彩色は相当の量、即ち厚く層を成すように施される。裏彩色はその色が絹表に滲出しては絹表からの彩色に不都合である。裏彩色はこの裏彩色の表への滲出を防ぐ意味からも色料は濃い方がよいのである。勿論、裏彩色の表への滲出が色料を濃くするだけで防げると見るのは少々楽観的であり、おそらく更に別途防水加工が必要であったと考えるという。

出山釈迦図 絹本着色 南宋時代(13世紀初) 縦119.0横52.0㎝ 梁楷筆 東京国立博物館蔵
『水墨美術体系第四巻梁楷・因陀羅』(以下『水墨美術体系第四巻』)は、山林で苦行した釈迦が、劈開した岩の間から歩み出るさまを画く。面やつれし、頭髪もひげものびるにまかせて、沈痛な表情を的確にとらえ、枯枝のとげとげしい描写は、酷烈な苦行を象徴する。鋭く粘りのある筆致は、凛烈な印象を与え、図全体を岩山の面によって斜に切る放胆な構図の妙は、画面に動きと奥行きを生むという。
絹地が経年変化で変色しているのか、着色なのか、よく分からない箇所もあるが、遙か昔、水墨画に興味があった頃は、折角の水墨画なのに、何故着衣だけ赤く着彩しているのだろうと疑問だった。
『古代絵画の技術』は、色彩は用いられているが、その使用は限定されている。釈迦は髭茫々、着衣はぼろぼろである。着衣は赤であるのは仏教の規則に準った賦彩である。赤は朱で絹地の裏から施し、表には朱は一切施さず、墨線で衣の皺を描き、人物表現を完成させている。全体の表現は水墨の効果を以て行うために、衣の赤は裏彩色の朱が織目を通して現れる色のみとしているのである。薄く彩色しているかのような印象を受けるが、朱を薄く表に賦彩することではこの赤の効果は出せないであろう。量感のある賦彩を軽淡にみせることで赤衣の表現性を高めているのである。裏彩色の画法が最も高度な表現上の設計として用いられている例といえるであろうという。
着衣の赤だけでなく、肌にも色を着けている。やっぱり裏彩色だろう。
裏彩色し、表からは墨線で描くというのは、『一遍上人絵』の海の表現と同じだ。

梁楷の作品としては、こちらの方が好き。

雪景山水図 南宋時代(13世紀初) 絹本着色 縦111.0横50.0㎝ 東京国立博物館蔵
『水墨美術体系第四巻』は、雪に閉ざされた北辺の国境地帯を騎馬の旅人の進み行くところを画く。近景水辺の土坡に老樹2株、枯枝には凍りついた雪が見える。雪原をへだてた左の山の、雪に荒れた急斜面の山肌には渇筆が使われ、頂に灌木のしがみつくように生えるさまを菊花点で画く。右にはさらに高い山が、雪空の淡墨のそとぐまであらわされ、両方の山あいに関門の建物があり、その右に小さく一列の過雁が行く。この図はしかし実景に即して北地の風物を描いたものではなく、画家の構想力によって形成された作品であって、前景の低い樹の交叉と、左右から下る山の斜の線との対立緊張による画面の構成、雪景特有の明暗を鋭くつかんだ墨調の濃淡などにより、山谷の前後の重なり、距離の遠近、全景の奥深さがみごとに画きあらわされ、辺境の寒気と哀愁、さらに自然の限りない大きさ、荘重で厳粛な静けさが表現されているという。
関門は山間の奥山の下に、思ったよりも大きく描かれている。敦煌莫高窟の275窟(北涼)の闕形龕にも表された、中国伝統の闕門のように見える。
その門の大きさから、雪の中を二人の旅人たちがそこに行き着くまでは、この図を見て感じた程には時間はかからないだろうことが分かり、安堵する。こんな気持ちも、寒い時期に見たからこそなのかも。
それにしても地の経緯の絹糸が一際目立つ作品である。これを見ると、絹地が透けているというのが納得できる。
2人の旅人についての説明はないが、旅人の羽織る白い布や馬の体には賦彩されている。これも裏彩色ということになるのだろう。

『古代絵画の技術』は、絹地は透けるというところを長所として表裏の彩色を、或いは描写を一体とするところに裏彩色画法の特色と面白さがあるのだが、これを行うためにはここに一つの技術が介在することになる。裏彩色が表に滲み出ることがあってはいけないわけであり、滲み止めの技術が必要なのである。絵画は目でそれと認識できないところに技術が働いているのである。このことは絹絵に限らず麻布や綿布を素地とする場合も、また紙を素地とする場合も同様である。
裏彩色という画法名はわが国の画法の源流である。中国にはこれを指示する明確な用語が無いが、或いは元時代の𩜙自然の論著とするとする『十二忌』の中の粉儭がこれに該当する可能性がなくもない。
・・略・・ 重き者は山に石の青と緑を用い、並びに樹石を綴り、人物のためには粉儭を用いる。 ・・略・・ 人物楼閣は粉儭を用いるといえど赤須く清淡なり。
粉儭の粉は胡粉の粉であり、粉彩の粉。儭にはほどこす、たすける、内なるものをあらわすなどの意味がある。粉儭は胡粉を下塗のように、或は上塗の助けになるように施すの意味になるようである。
裏彩色、粉儭に関連して併せて検討しておくべき資料は北宋の文人、米芾の著『画史』の古画の弁別にかんする記述である。
古画は唐初に至るまで皆生絹、呉生(呉道子)、周昉、韓幹に至り、後来皆熱湯で半ば熟し、粉を入れ、槌うつこと銀板の如し、故に人物を作るに精彩入筆。
この記事は絹地の織目に粉を入れ、槌で打つことで銀板の如くにし、そうすることによって賦彩が滞りなく行えることを述べ、これが素地の時代的な特徴であることを指摘しているのである。とはいえ中国の絵画で素地がこのような状態にある作品を見た経験は無い。ただわが国の平安時代の仏画である『両界曼荼羅(敷曼荼羅)』(東寺)の絹地のように一面に白の色料(おそらくは白土)で塗布しているという例がある。粉を入れて銀板の如くするということはさておき、粉襯が織目を塞ぐために工夫された画法であるとすれば、米芾の言は画法の在り方を正しく見ていることになるという。
絹に賦彩するための先人達の工夫がよく分かる文である。ひょっとすると、壁画を描く際に漆喰を塗ることからヒントを得たのかも。
東寺の「両界曼荼羅」についてはこちら

米芾は文人で、絵画も伝わっているが、あいにく手持ちの図版がない。
幸い台北の国立故宮博物院のホームページに、米芾の春山瑞松図があった。

           日本の裏彩色

関連項目
高麗仏画展6 仏画の裏彩色

参考文献
「日本の美術401 古代絵画の技術」 渡邊明義 1999年 至文堂
「絵は語る3 阿弥陀聖衆来迎図 夢見る力」 須藤弘敏 1994年 平凡社
「「太陽仏像部分シリーズⅡ 京都」 井上正監修 1978年 平凡社
「水墨美術体系第四巻 梁楷・因陀羅」 川上涇・戸田禎佑・海老根聰郎 1978年 講談社