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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2017/01/20

日本の裏彩色


『日本の美術401古代絵画の技術』(以下『古代絵画の技術』)は、我々は絵画を鑑賞する時、何がどのように描かれているのかを見るが、通常我々の判断は表に現れている、或いは示されている色彩や線を頼りに行っている。これは当然のことで、何の不思議もないが、表現が様々な材料と技術が積み重なった構造体であってみれぱ絵の表だけ注意していてはその作品の工夫のあるところを見逃してしまう危険がある。絹絵の場合、その裏に表現上の重要な作画上の工作が施されていることが多いからである。そこに絹絵の紙絵や壁面との根本的違いがある。絹絵の裏のことは誰もが見得るということではないが、そういうこともあることを知ることで作品に対する接し方も変わり、楽しみ方も増すというものである。
絹絵はその織目が透けているのが特徴であるが、絹絵には絹地の表のみを使うものと、絹地の透ける性質を前提に絹地の表裏を用いるものとがある。表のみを使った代表的な事例が『応徳涅槃図』であるという。
絵絹が透けている?そう言われると、夏物の紗や絽、あるいは羅などは確かに透けているし、地の変色した古い絹本の絵を見ると、織られている経緯の糸が分かるものがある。今まで思ったこともなかったが、絹本はかなり粗い布地だったのだ。

せっかくなので、応徳涅槃図から、

涅槃図 応徳3年(1086) 和歌山金剛峯寺
『日本の美術268涅槃図』は、日本に現存する涅槃図の最古の作品。釈迦は光背をつけず、両手を体側につけ、仰向けに横たわる。唐画をもとにしたのであろうが、その優美な姿は和様化の極地を示し、それに荘重な風韻が加わる。会衆の総数39、動物はシシ1頭のみ。沙羅双樹は4双8本。画面全体に清澄な趣が漂うという。
裏彩色がなくても、赤や白の彩色が多いせいか、描かれているものははっきりとわかるのだが。

『古代絵画の技術』は、絹地の表裏を使うということはどういうことかというと絹絵の裏からも彩色を加え、その絹表への現れ方を生かし、その上に線描きや彩色を加えて完成させるのである。この裏から賦彩された彩色を裏彩色という。
何故裏彩色のような複雑な手順をとって作画するのかということになるが、裏彩色は相当の量、即ち厚く層を成すように施される。裏彩色はその色が絹表に滲出しては絹表からの彩色に不都合である。裏彩色はこの裏彩色の表への滲出を防ぐ意味からも色料は濃い方がよいのである。勿論、裏彩色の表への滲出が色料を濃くするだけで防げると見るのは少々楽観的であり、おそらく更に別途防水加工が必要であったと考えるが、このことは別に触れることにする。
裏彩色は絹表の織物の特色である織目を生かすように賦彩し、彩色表現を完成させるのである。中国絵画の技術観では表からの彩色を薄くすることによって色料の発色を良好にし、重厚さと色料の鮮明さを兼ね備えた彩色表現が可能となると考えている。わが国の場合、表からの賦彩も厚く、裏彩色の効果が見え難い作品も往々見受けられるが、技術的原則は共通していると思う。このような彩色表現を行う場合、当然、裏彩色の色は表からの彩色を支えるためのものとして同系色で施工されることが普通であるという。

11世紀後半に制作された応徳涅槃図には裏彩色はなかったが、おなじ11世紀に描かれた図像には裏彩色の施されているものも見受けられる。

慈恩大師像 平安時代(11世紀) 絹本着色 縦161.5横128.4㎝ 奈良薬師寺蔵
『国宝大事典1絵画』は、慈恩大師(632-682)は、諱を窺基、号を洪道といい、17歳で玄奘三蔵(600-682)の弟子となり、長安の大慈恩寺で仏典の漢訳と注釈につとめ、百本疏主と称された唐時代の中国僧。わが国では、南都六宗の法相宗の開祖として、奈良の薬師寺、興福寺を中心に非常に崇拝され、その画像も多い。
大師は少年のときから眉が秀で目は朗らかで、長じても堂々として生気に満ちていたと伝えられているが、本図はそうした特徴をよく表現している。
裏彩色という、画絹の背面にも補助的に彩色をほどこす技法を使い、暖かくて明るく澄んだ色彩を、鉄線描という、太さの一定した描線を1本の無駄もなくもちいて、張りきった形態におさめている。藤原時代の最高の絵画技術をうかがうことができる。康平4年(1061)に始められた薬師寺の慈恩会に近い時期に制作されたものであろうという。
顔には照隈が施され、首の三道と共に、着衣の襞も盛り上がって、非常に活力のある祖師の図像である。
『古代絵画の技術』は、肖像の目の瞳の茶は時代によって顔料が異なり、平安時代の肖像では目の茶は朱と墨で色を作っている。恩大師像がその例である。小さな部分にも色彩表現の時代性や画家の個性が現れることがあるのであるという。
肖像の瞳は黒だと思いこんでいて、注視してこなかった。確かに茶色い。
どうやら袈裟は部分的に絵絹が剥落してしまっているようだ。ということは、袈裟のうっすらとした色合いの文様には赤い色の裏彩色があったりするのかな。

十六羅漢像うち第十二尊像 平安時代中期(11世紀後半) 縦95.7横52.1㎝ 滋賀聖衆来迎寺旧蔵、東京国立博物館蔵
『国宝大事典一絵画』は、十六羅漢とは、釈迦の入滅後に各地方にとどまって仏法を護り伝えた16人の羅漢をいう。十六羅漢に対する信仰は、唐時代に玄奘が『法住記』を漢訳して後に盛んになり、それを描くことは唐時代に始まった。次の五代から北宋にかけては禅月大師貫休が描いた羅漢像の形式(禅月様という)が好まれた。禅月大師の真筆は伝わらないが、禅月様の十六羅漢は敦煌莫高窟の壁画に五代頃の例がある。
第十二尊者は1200人の羅漢と共に半度波山にいる那伽犀那尊者である。
本図は柔らかい描線と華やかで澄んだ色調により11世紀後半の制作と考えられているという。
どちらかと言えば十六羅漢像というのは、仏画の中では地味な方だと思っていた。このようなやまと絵のような自然の中に羅漢が坐しているものもあるのだ。
禅月大師貫休、懐かしい名前とともに、その異様な風貌の羅漢図が目に浮かんできた。
それについては後日
禅月様羅漢図が敦煌莫高窟にもあるとは。しかし、「中国石窟 敦煌莫高窟5」で調べても、その図版はなかった。 
『古代絵画の技術』は、平安時代、12世紀の作。色彩は大変鮮やかで、彩色は厚目である。この羅漢図の裏には、表に彩色のあるところは全てに彩色が施されているといってよいほどであるという。
11世紀か12世紀かという点では、いつもは発行年の新しい文献の方を選ぶことにしているが、東京国立博物館でも、e国宝のページでも、11世紀とされているので、11世紀としておく。

阿弥陀聖衆来迎図 平安時代後期(12世紀) 中央幅210.8X210.6㎝ 高野山有志八幡講十八箇院蔵
『古代絵画の技術』は、阿弥陀如来の光背は裏箔の方法を最も大部に用いた例であり、光背と一体として見た場合の阿弥陀如来像の色彩表現は時代の新しい動きを示すものとして注目されるという。
光背の外縁には、表側から金粉をグラデーションにして付けている。それが阿弥陀如来だけをほんのりと浮かび上がらせて、平安仏画の上品な仕上がりとなっている。
『絵は語る3阿弥陀聖衆来迎図』は、中央に大きく描かれた阿弥陀仏ただ一体だけが体も衣裳も金色にあらわされている。一見宗教偶像なら何でもない表現に思えるが、実はほとけを絵に描くときに体も衣もすべて金色にあらわすことは日本では鎌倉時代以後にようやく一般的になったのである。現存する仏教絵画ではこの絵が最も早い例であるという。
仏像全体を金色で描いたものを皆金色という。あまりにも金ピカすぎて好きではないが、この阿弥陀如来がそれほど派手ではないのは、裏箔という手法を用いたからだろう。
裏箔であることを知らなかったので、金泥か金箔の上に、金色がくすむような彩色を施しているのだと思っていた。

涅槃図 鎌倉時代(1192-1224) 和歌山浄教寺蔵 日本の美術涅槃図
同書は、涅槃図の場面は『応徳涅槃図』の系統を引いているが、涅槃の座を天蓋で飾ったり、かなり賑やかな構成をとっている図として著名な図である。表の彩色はかなり厚みがあるが、裏彩色もかなり厚い。色は青と赤が目立っている。
裏箔は絹地が透けるという性質を使った典型的方法であり、平安時代や鎌倉時代の仏画の中に多数その事例を見ることが出来るという。
釈迦如来の枕辺に在る摩耶夫人、天部の各尊の宝冠や武器は金箔を貼り付けている。いわゆる裏箔という方法であり、金色が表に透けるので、表から細部に線描きを加えればその部分の表現は完了するという。
摩耶夫人は枕元ではなく、沙羅の木の背後から、花を持った籠を捧げ持っている。
その頭部には高い宝冠を被っているが、裏箔のせいかキラキラはしていない。菩薩の頭光の内側や白毫などにも金色も裏箔かな。
涅槃の座の赤は羅漢の肉身の赤の朱とは異なった色であり、表の顔料とは材料的には格を一つ下げているような趣きがある。高価な色料を節約することが出来るのも裏彩色の効果であるという。
確かに涅槃の寝台の赤も、釈迦の来ている袈裟の赤も綺麗な赤だが、寝台の手前で頭部を反らせて嘆き悲しんでいる比丘の着衣の赤には濁りが認められる。

五大尊像うち金剛夜叉像 鎌倉時代 京都醍醐寺
同書は、尊像の金色の装身具に裏箔の事例を見ることが出来るという。
裏箔のため装身具の金色は控えめで、炎の色を損ねることはない。
五大尊像は臂釧、腕釧、冠など多くの装身具をつけていて、金剛杵や弓矢などの武器も複数の手に持っているので、それらの金泥や金箔とは異なる輝きをたくさん目にすることができる。

一遍聖絵 鎌倉時代正安元年(1299) 絹本着色 12巻のうち巻11 円伊筆 神奈川清浄光寺蔵
『水墨美術体系1白描画から水墨画へ』は、絵巻物としては珍しく絹地の上に、謹直な筆法で丁寧に描き、濃彩を施している。一遍の廻った全国の社寺や名所など山水自然の景が、この絵巻中随所にあらわされ、しかもその山水描写には、新渡の宋元画の影響がきわめて濃厚にみられるという。
『古代絵画の技術』は、裏彩色に表からは墨線で部分的な表現を完結させている例に、鎌倉時代の『一遍聖絵』(清浄光寺)の海の表現があるという。
裏から賦彩した海の色に、表側に波を墨で表しているという。やって来た舟を曳く人々の中には藍色の着物を着た者もいる。表から彩色した着物の色と、裏から塗った海の色が同じだったとしても、見た目にはこれだけ違って見えるということかな。

裏彩色にあたるかどうかわからなが、絹地に着彩するために、古くから工夫はされてきたようだ。

両界曼荼羅、胎蔵界中央部 平安時代前期(9世紀) 絹本着色 東寺蔵
『古代絵画の技術』は、平安時代の仏画である『両界曼荼羅(敷曼荼羅)』(東寺)の絹地のように一面に白の色料(おそらくは白土)で塗布しているという例がある。粉を入れて銀板の如くするということはさておき、粉襯が織目を塞ぐために工夫された画法であるとすれば、米芾の言は画法の在り方を正しく見ていることになるという。
米芾の言については次回
『太陽仏像仏画シリーズⅡ京都』は、諸尊は眼が大きく表情が豊かで、腰はしぼるが全体としては肥満感が強い。肉身の隈取りが濃く、彩色は絢爛、描線は奔放に近い。いかにも西域画法をとり入れた唐代仏画の作風を生々しく伝えているという。

ただ残念なことは、裏箔は絹地との接着に難があり、浮き上りを作り易く、また、往昔の修理では技術上の未熟さの故に、『阿弥陀三尊像』(シカゴ美術館)のように旧い裏打と共に失われてしまっていることが多いという。
今後、修復の機会が巡ってきた時に、裏彩色についての新たなことが分かることを期待している。

                            →裏彩色は中国から

関連項目
高麗仏画展6 仏画の裏彩色
来迎図4 正面向来迎図

参考文献
「日本の美術401 古代絵画の技術」 渡邊明義 1999年 至文堂
「絵は語る3 阿弥陀聖衆来迎図 夢見る力」 須藤弘敏 1994年 平凡社
「太陽仏像仏画シリーズⅡ 京都」 井上正監修 1978年 平凡社
「大絵巻展図録」 編集京都国立博物館 2006年 読売新聞社・NHKほか
「水墨美術体系第1巻 白描画から水墨画へ」 田中一松・米澤嘉圃 1978年 講談社