お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/05/10

如来坐像を遡ると


平安中期の如来坐像をみていくうちに、中期か前期か決着していないという獅子窟寺の薬師如来坐像に出会った。


薬師如来坐像 榧 高92.2㎝ 大阪・獅子窟寺
『太陽仏像仏画シリーズⅣ』は、木彫像でありながら柔らかな美しさをもつ顔容、豊満で均整のとれた躰軀と流麗な衣文の表現など仏師の彫技の冴えをみせている。奈良時代以来の手法である乾漆の螺髪ものこっており、また同時に檀彫特有のしのぎ立った刀彫のあともあり、まことに不思議な美しさをもった像にしている。その制作年代をめぐって平安前期も早い作例と考える立場とそのような技法をとどめた平安中期の諸説がある。榧一木造、内刳りがあるという。
着衣の襞が非常に多くしかも明確な翻波式衣文、螺髪が乾漆で造られるなど木心乾漆の痕跡も残っている。これだけを見れば平安前期かなとおもうが・・・

『日本の美術457平安時代前期の彫刻』は、9世紀を中心とする平安時代前期は、日本彫刻史上、最も魅力に富んだ時代であるといえる。一木の木あるいは一つの木材から、尊像のだきるだけ多くの部分を彫り出そうとする一木彫(いちぼくちょう)の名作が数多く造られた時代であった。
木彫像は一度削ったら修正は不可能で、形は外から内に向かって決定される。特に、一木彫は、細部の破綻が全体に及ぶ可能性があり、制作者と用材は常に緊張関係にあるといえる。こうしたことが、この時代の一木彫に深い精神性と優れた造形力を与えているように思われる。
平安時代以降、日本では仏像制作の材料として、木が主流を占めていくが、木は古来神や霊が宿る依り代として信仰されており、仏像制作の用材として、木が強く認識されたことにより、仏像が真に日本の土壌に根付いていく大きな契機をなしたものと考えられるという。
では、獅子窟寺像を念頭におきながら9世紀の如来坐像を遡っていくと、

阿弥陀如来坐像 寛平8年(896) ヒノキ 京都・清凉寺
同書は、嵯峨天皇の皇子源融の山荘棲霞観を寺に改めた棲霞寺は、後世、宋から帰国した奝然が境内に釈迦堂(のちの清凉寺)を構えるにおよんで徐々に縮小されたようだが、融が発願しその没後の寛平8年に完成した阿弥陀三尊像が今に残るという。
BS11の『国宝浪漫第62回嵐山・嵯峨野至宝めぐり』という番組で京都市立芸術大学の礪波恵昭氏は、平安前期の明確に、誇張気味にすら表現する様式から、10-11世紀の肉付けを控えめに、衣の彫り浅く、顔もおとなしくなっていく様式への転換期にあたる作品で、顔も端正に造られていると言っていたように、まさに平安前期の様式を脱した仏像という感じを受ける。
着衣の襞は深いが、翻波式衣文は左袖先にみられる程度である。
白毫は大きいが、獅子窟寺像とよく似た頭部で、顔も穏やかだが、獅子窟寺像の方が口が大きいので、清凉寺像よりも古いかも。

弥勒如来坐像 寛平4年(892) 像高91.0㎝ 和歌山・慈尊院
同書は、空海が高野山を開くに当たってその山麓に政所を設置したことに始まるという慈尊院に伝えられた像。後世の銘文ではあるが、制作時期は寛平4年と考えられる。頭体幹部は左手の手首までと右手の前膊の過半、両脚部の大半を含めて一材から彫出される。乾漆は使用されておらず、一木彫への認識が強まる9世紀末の真言密教系彫像の傾向を示しているという。
一見して平安前期(昔は貞観仏と呼んでいたが現在はあまり使われないらしい)と思える顔貌で、清凉寺とは制作時期があまり変わらないのに、こんなに姿が違うものか。もちろん獅子窟寺像とも明らかに異なる。真言密教系の特徴かも。
着衣の襞は幅が広く、翻波式衣文となっている。脚部では、太い襞に角が立っている。
左脇から袖へと続く衣文線が見られる。

阿弥陀三尊像 仁和4年(888) 像高中尊90.0左脇侍122.7右脇侍124.2㎝ 京都・仁和寺
同書は、仁和4年、宇多天皇が前年に亡くなった父光孝天皇の遺志を継いで供養した仁和寺金堂(西山御願寺)の本尊と考えられる。その豊満な肉身表現や乾漆を併用する技法から、真言密教系彫像の流れに属するが、乾漆の使用範囲は限定的となっているという。
乾漆の使用は平安中期でも続いていたのだった。
阿弥陀如来坐像
同書は、中尊は両手首先と両脚部の前半を除いて頭体幹部を針葉樹の一材から彫出し、後頭部と体部背面から内刳りを施して蓋板を当てている。乾漆は胸から左手上膊部の内側にかけて盛られているが、他は顕著な使用が認められないようであるという。
左袖や右肩の大衣に翻波式衣文が認められる。脚部の襞は間隔は広いものの、柔らかな彫りである。
獅子窟寺像よりも平安前期色は少ない。
9世紀中頃の如来坐像はみつからなかったが、それ以降の像を見ると、獅子窟寺像はそれ以前のものとはかなり作風が異なり、9世紀前半まで遡ることはないようだ。

釈迦如来坐像 9世紀 奈良・室生寺
同書は、左手首先、右手の肘より先、両脚部を除いて、針葉樹の縦一材より彫出し、背面の頚下から地付き近くまで内刳りを施し、背板を当てている。表面全体に白土地が残り、彩色像であったと考えられる。
体軀には奥行きと重量感があり、堂々とした姿を示している。衣文は翻波を主体に鋭く彫り出され、触れれば切れるような鋭利な感覚があるが、全体に美しく整えられ、翻波のもつ形式美を追究した趣きがある。本像は平安時代前期一木彫の特色ともいえる量感と鋭い彫りを示す衣文表現が到達した姿を示す好例といえるだろうという。
獅子窟寺像と比べると着衣の襞は浅いが、翻波式衣文が密に表されていることが共通している。
特徴的なのは、左の大衣の折り返しがジグザグに表されていること、膝前の衣端にもそれはみられ、なによりも2つの渦巻があるなど、古い様式の痕跡もある。

薬師如来坐像 大同2年(807)頃 像高54.6㎝ 京都府相楽郡和束町・薬師寺
同書は、左手首先、右肘先を除き、両脚部を含む頭体の大半を針葉樹の一材から彫出し、内刳りも施していない。衣文の彫りは深いが、乾漆像を見るような捻塑的な柔らかさがあり、天平彫刻の流れを引く木彫像として捉えることができるという。

薬師三尊像 9世紀初 像高、中尊141.8左脇侍169.4右脇侍173.9㎝ 福島・勝常寺
同書は、螺髪と両手首先を除く頭体部をケヤキと思われる広葉樹の一材から彫出し、両耳の後ろから体側を通る位置で背面部をいったん割離して内刳りを施している。両脇侍は頭体幹部および足枘までを通してやはりケヤキと思われる広葉樹の一材から彫出し、背面から背刳りを施して背板を当てている。いずれも漆箔で仕上げられているが、一部乾漆が用いられている。
両脇侍の腰高な体形、条帛や裙上端の折り返しなどの衣端を波状にうねらす点も天平彫刻に通じ、三尊ともにいわゆる奈良風が顕著であるという。
平安前期の仏像らしく塊量感のある三尊像である。
同書は、中尊は体奥が深く、体軀は重量感があふれ、見る者を圧倒する迫力に満ちている。翻波をまじえた太い衣文には、捻塑的な柔らかさがあり、胸部に見られる衣端の波状のうねりも乾漆像に似た感覚がある。
勝常寺は、寺伝によれば大同2年(806)あるいは弘仁元年(810)に創建され、開基は徳一という。
本像に示された奈良風は徳一ぬきには考えられず、徳一を介して東北の地にもたらされたといえよう。制作時期も寺伝による当寺の創建時を基準にしてよいと思われるという。
結跏扶坐した脚部の下には渦巻きかけた衣端が認められる。

伝釈迦如来坐像 奈良-平安時代、あるいは弘仁元年(810)頃 木造漆箔 像高78.3㎝ 唐招提寺新宝蔵安置
『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、ヒノキとみられる一材から頭体の主要部を彫りだし、内刳を施さず、体側部や脚部に別材を足す。脚部はサクラである。顔は右頬に乾漆をおいたところがあり、右目の上瞼は塑土製のものを貼り付けた痕跡があり、木彫に乾漆と塑土を併用する技法を用いる例として注目される。寺伝では10世紀の伝多宝如来像と共に塔の四仏とされる。本像は弘仁元年に建立が着手された五重塔の安置仏の可能性が考えられようという。
顔はのっぺりとした木の上に塑土や乾漆による肉付けが施されていたので、現状の顔面からは、完成当時の容貌を窺い知ることはてきない。
翻波式衣文もほとんど見られない。膝下の衣端には波状の襞がみられるなど、平安前期色のあまりない像である。

薬師如来坐像 奈良時代末、8世紀後半 190㎝ 新薬師寺
『日本の美術457平安時代前期の彫刻』は、本像の制作時期については諸説あり定説は見ていない。いずれにしても、奈良時代の末には造立されていたと見ることに異論はないようである。
本像の衣文表現を見てみると、衣が体にまといつくような柔らかな質感が見事に表現されていることが特色としてあげられる。右足の辺りには翻波式衣文が表されているが、決して彫りの深さや刀の鋭い切れ味を強調するのではなくて、あくまで衣の柔らかな質感を示すものとなっている。また、左の脛の辺りに表された渦文は形式化したものではなく、衣の縁が折り畳むことによってできる自然な形を示している。さらに腹部の辺りに見える茶杓形の衣文は、あたかも柔らかな粘度板に箆で掻いたような感覚がある。このように本像の衣文表現の基調となっているのは衣のもつ柔らかさや薄さであり、彫りの深さや強さはあまり強調されていない。その意味で、神護寺像の衣文表現とはまた異質であるという。 
こういう顔が平安前期の仏像から私の興味を反らせていたのだが、確かに着衣の表現は素晴らしい。
左脛の渦文というのは、この画像では左掌の影に隠れてしまっている。

薬師如来坐像 奈良時代後期、8世紀後半 木心乾漆造 像高73.0㎝ 高山寺
『太陽仏像仏画シリーズⅡ京都』は、8世紀後半期にさかんに行われた木心乾漆造の像。肉身のハリや衣文の彫りには、様式的な完成を経たあとの、爛熟期の相がみられる。違例のなかでは唐招提寺金堂盧舎那仏の圧倒的な迫力に次ぐものを思わせ、新来の中唐様式を学んだ作風と考えられるという。
唐招提寺に伝わる鑑真さんが将来した量感のある仏像は盛唐期のものというが、本像はその前の時代の様式だった。

薬師如来坐像 奈良時代、8世紀末 木心乾漆造 像高68.3㎝ 京都・神護寺
『太陽仏像仏画シリーズⅡは、京都』は、眼が大きく、衣文は深い襞をなして複雑に流れ、一種異様な雰囲気を感ずるのは、奈良時代末期頃の怨霊信仰を反映してしるものであろうという。
新薬師寺像にみられた茶杓状衣文の原型と思われるものが、腹部や脚部に表されている。
螺髪が失われているためにやや異なるように見えるが、この顔貌が新薬師寺像へと繋がるものかも。

いわゆる塊量感のある平安前期の仏像は、坐像よりも立像に顕著なのかも知れない。

           平安中期の如来坐像←     →平安前期の立像は

関連項目
唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文

平安前期の仏像の登場する記事
興福寺1 東金堂の仏像群
興福寺2 四天王像は入れ替わる

参考にしたもの
BS11の「国宝浪漫第62回 嵐山・嵯峨野至宝めぐり」


※参考文献
「日本の美術457 平安時代前期の彫刻」 岩佐光晴 2004年至文堂
「太陽仏像仏画シリーズⅡ 京都」 構成井上正 1978年 平凡社
「太陽仏像仏画シリーズⅣ 高野山~臼杵(西日本)」 1978年 平凡社
「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山昭彦・滝田栄 2010年 淡交社