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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/05/06

平安中期の如来坐像 


性空上人が開創した書写山円教寺とその奥の院弥勒寺の10世紀あるいは11世紀初頭の仏像をみてきた。この機会に、主に『日本の美術479十世紀の彫刻』で、平安中期の如来坐像をいつものように年代を遡っていくと、

弥勒仏坐像 10世紀末-11世紀初頭 奈良・法隆寺伝法堂安置 
『日本の美術479十世紀の彫刻』は、伝法堂須弥壇最前列に安置の如来像4体は、2体がサクラ材を用いたほかはヒノキ材。この4如来像は、両足部の体部側が胴部のまるみに合わせて刳りこんでありその曲面に沿って矧ぐという共通性がある。これは唐招提寺の塔4仏のうちという伝釈迦如来像(9世紀)と伝多宝如来像(10世紀)、興福寺薬師如来像(長和2年、1013)にもあるという。
法隆寺のリーフレットによると、伝法堂は夢殿の北側にある横長の建物で、奈良時代。このお堂は聖武天皇の夫人でありました橘古那可智の住宅を仏堂に改造したものですという。
法隆寺にはまだまだ見ていない仏像があるのだなあ。ほとんどの像が正面向きで撮影されているため比較はできないが、この弥勒さんはやや斜めから写されていて、体の丸みがよく現れている。
着衣の襞は深く表され、脚部上側にだけ翻波式衣文が残っている。右肩の大衣は肘まで覆い、五分丈の袖のよう。左の大衣の衣端は曲線的に裏返って襟のようで、同じく伝法堂安置の薬師如来坐像とよく似ている。
螺髪はほとんど残っていない。
法隆寺の塔は西院伽藍の五重塔だけだと思っていたが、平安中期に東院に多宝塔でも建立されたのかな。

弥勒三尊像 長保元年(999) 安鎮作 兵庫・弥勒寺
同書は、細身の体つきと細面の顔は和様に向かおうとする時代の様相を反映するものと評せよう。しかし当時京都で行われていた造像様式からすると、地方的あるいは非専門的な未熟さが看取されるのは確かであるという。
確かに抑揚の少ない体つき、そして着衣の浅い襞などは、都の仏師のつくったものと比較すると地方色であり、仏師ではなく素人の僧の製作ということになるだろう。

薬師如来坐像 正暦4年(993) 滋賀・善水寺
同書は、野洲川右岸に位置する善水寺は本尊薬師如来像のほかに同時期の仏像が多数残っている。正暦4年の記のある紙片が納入された薬師像は、造立時期の判明する貴重な作例である。頭体および両手首までを一材から彫出。両足部の体部との矧ぎ面は、その両端を体部側にせり出させるという変則的な構造を示すという。
顔貌は法隆寺伝法堂の弥勒仏坐像に似ているが、こちらの方が衣褶線が浅い。
そして、足部の衣褶線は渦を巻くが、それは右肩にかかる大衣左側の大衣がの衣文線も脇から腕にかけてくるりと一続きで表される。

薬師如来坐像 正暦元年(990) 奈良・法隆寺
同書は、延長3年(925)に焼失した法隆寺講堂の再建は遅れ、正暦元年に復興供養された。講堂に現存する薬師三尊像および四天王像はこのときの造像と見られる。薬師像は各部の均衡が整い表情が穏やかだが、分節がはっきりする各部は太って量塊的でもある。京都における和様化の動きとは異なる、奈良地方の状況をよく示すという。
平安前期の特徴とされる翻波式衣文は少ないものの、塊量感は残っている。奈良では依然として、このような存在感あふれる量感が仏像として相応しいとされていたのだろう。

阿弥陀如来像 永観3年(985年)以前 滋賀・延暦寺大講堂 (昭和31年焼失)
同書は、比叡山復興をはさむ良源活躍期の仏像は山上にあまり残っていない。大講堂に安置されていた阿弥陀如来像は、仁和寺の阿弥陀如来像と同じく定印を結ぶ等身坐像で作風も似ていて相近いころの造立が推定され、初期浄土教尊像の代表作であったが、昭和31年10月11日の火災に失われたという。
良源は永観3年(985年)入滅しているのでこの像はそれ以前の作とする。 
結跏扶坐した膝が左右に極端に広がって量感があり、間隔のあいた衣文の間に浅い翻波式衣文が残っている。

薬師如来坐像 貞元2年(977)頃 京都・六波羅蜜寺
同書は、貞元2年に来寺した中信による復興期の造立と見られ、坐像ではあるが比叡山根本中堂本尊像を意識したものと考えられている。両手上膊部をふくむ頭体を正中で左右二材矧ぎとし、矧ぎ面から内刳りを入れる。頭体幹部を等価値の複数材でつくるものを寄木造と称するという定義からすれば、本像はその最初期の例となるという。
螺髪が肉髻との境目が二段にならず、ほぼ一続きで、仰月形の目と共に、独特の雰囲気がある。
脚部は一番上に浅い翻波式衣文が残る。
 
阿弥陀如来坐像 10世紀後半 奈良・元興寺
同書は、10世紀後半における奈良地方の造形性が京都のそれとまったく違っていたことを明瞭にうかがわせる。やや太りながらも伸びやかで整った肢体は奈良時代彫刻に学んだことをものがたる。童形にもとづくプロポーションが特色である康尚風とは好対照を示すという。
定朝の父康尚の作品は見たことがないので比較できないが、大衣の柔らかな質感がよく表されている。この前後につくられた仏像の衣文と比べても、この像の着衣表現は秀逸である。

天鼓音如来坐像 10世紀後半 法隆寺現大宝蔵院(もと伝法堂)
同書は、今は宝蔵殿安置だが、もと伝法堂にあった天鼓音如来坐像は、両手先が後補のため本来この尊名だったかは不明。ずんぐりした体格で着衣の衣文に翻波式が入るのは古様だが、大きめの頭部に仰月形の目と小ぶりの鼻と唇を配した10世紀後半の様式をよく残すという。
深い衣文の間に、はっきりと翻波式衣文がある。
脚部には僅かに曲線を描いた衣文線が、翻波式衣文を間に配して平行して表されるのが特徴的。

阿弥陀如来坐像 10世紀半ば 滋賀・石山寺
同書は、近津尾神社の本地仏だったといわれる、高山寺阿弥陀像に大きさ・作風ともに似て、定印阿弥陀像の早期の例でもあるという。
六波羅蜜寺の薬師如来坐像と同じように、ほとんど肉髻と頭部が二段に分かれていない。このような系統の仏像もあったことがわかる仏像だが、顔貌はかなり異なっていて、同系統の仏師の作品とも言い難い。

阿弥陀如来坐像 天慶9年(946) 像高丈八(9尺坐像) 京都・岩船寺
同書は、岩船寺の本尊阿弥陀如来像は髪際高丈六の大像である。天慶9年像内銘により10世紀半ばの基準作とされ、聖宝時代とは明らかに異なるおとなしいつくりを、和様に向かう積極的な造形と見なす論が行われたことがあった。この像は仁和寺像や延暦寺大講堂像(焼失)と異なり、真言宗にとって単独の定印阿弥陀像の数少ない古例となる。
明治43年修理の際に充分な記録が取られなかったので銘記の検証は今後の課題となるが、すくなくとも天慶9年の年記が確かなら、作風がそれ以前に比べて大きく変化しているので、この期の様式的変質を示す重要な作例となるという。
脚部には浅い衣文の大衣がかかり、衣褶線の間に翻波式衣文が配される。
大きな白毫が目立つ頭部は大きい。

釈迦如来坐像 天慶5年(942)頃 岐阜・舎衛寺
同書は、天慶5年に寺号を改めたという縁起の記事が、この寺の復興と本尊造立の時を指すと見られ、製作時期の推定のむずかしいこの期のなかでその手がかりのある貴重な例である。頭体および両手首までを一材から彫出し、両腰脇を矧ぎ、両足部との矧ぎ線は直線的であるという。
二段の螺髪が直線的に並ぶなど、こちらも地方色が見られるが、左肩から垂下する大衣は安鎮作像や旧本尊のものよりも自然なように感じる。

薬師如来像 10世紀 京都・円隆寺
同書は、10世紀における根本中堂の模像例と考えられているという。
左の大衣の衣端が裏返って襟のようで、しかも2つの装飾的な襞がある。

薬師如来坐像 延喜13年(913)以前 京都・醍醐寺
同書は、初期の造営を受けて延喜7年(907)に完成した薬師堂は、本願である聖宝(しょうぼう)の没したあと延喜13年までに完成した。前代9世紀のダイナミックで鋭い表現よりも現実感にねざした自然な均衡と柔らかな仕上げをおもてに出すという。
聖宝について同書の文をかいつまんでいうと、宝亀7年(776)平城京内に建立された佐伯院が延喜4年(904)東大寺南大門の東に移されたのが東南院で、聖宝がその初代院主となった。本尊初め諸像も同時に移されたため、仏像の新造はなかった。身近に置かれた奈良時代の仏像が、造像活動に積極的だった聖宝に作風や仕上げを指示する上で影響を与えなかったとはいえないという。
脚部に翻波式衣文がはっきりと残ってはいるものの、平安時代前期の量感あふれる仏像とはまた違った雰囲気は奈良時代の木彫に通じるものだった。

薬師如来坐像 10世紀初 新潟・国分寺
同書は、『延喜式』主税帳にこの像のことと思われる薬師像を「新造」と記すので、造立時期の下限を10世紀初めに押さえられるだけでなく、国分寺本尊は釈迦が本義だったが平安時代に薬師像が加えられたことが知られる一資料でもあるという。
螺髪の並び方に特徴がある。
上の醍醐寺薬師如来坐像と比べると、肩幅が広く、顔が小さい。
左にかかる大衣は、脇から腕にかけて衣文が一続きで、U字形になっている。

また、同書は、多種の彫刻技法の使われた奈良時代に対して平安時代は木彫が大勢をしめるようになったといわれるが、その初めから一木彫の名品を輩出させたのは奈良地方であった。そのような変化は急激に現れたのではなく、じつは奈良時代から木彫は一部で行われていたという予測はかなり以前からあり、近年はそれを踏まえてそういう作品を確認する作業に移っているといってよい。前代に培われた木彫製作の技法と表現が平安時代になりより洗練されたと解することもできようという。


薬師如来坐像 榧 高92.2㎝ 大阪・獅子窟寺
『太陽仏像仏画シリーズⅣ』は、木彫像でありながら柔らかな美しさをもつ顔容、豊満で均整のとれた躰軀と流麗な衣文の表現など仏師の彫技の冴えをみせている。奈良時代以来の手法である乾漆の螺髪ものこっており、また同時に檀彫特有のしのぎ立った刀彫のあともあり、まことに不思議な美しさをもった像にしている。その制作年代をめぐって平安前期も早い作例と考える立場とそのような技法をとどめた平安中期の諸説がある。榧一木造、内刳りがあるという。
着衣の襞が非常に多く、しかもその衣文の間に翻波式衣文が一つずつ入っていて、これだけを見れば平安前期かなとおもうが、螺髪が乾漆で造られるなど木心乾漆の痕跡も残っている。

では平安時代前期の如来坐像はどんなだったのだろう。

                           →如来坐像を遡ると

関連項目
弥勒寺の仏像は円教寺の仏像と同じ安鎮作
弥勒寺の弥勒仏三尊像は10世紀

※参考文献
「日本の美術479 十世紀の彫刻」 伊東史朗 2006年 至文堂
「日本の美術457 平安時代前期の彫刻」 岩佐光晴 2004年至文堂
「太陽仏像仏画シリーズⅡ 京都」 構成井上正 1978年 平凡社
「太陽仏像仏画シリーズⅣ 高野山~臼杵(西日本)」 1978年 平凡社