ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2016/05/13
平安前期の立像は
平安前期の如来坐像を調べてみると、意外にも塊量感のある像ばかりではなかった。
そこで、今回は立像を『日本の美術457平安時代前期の彫刻』で見ていくと、
薬師如来立像 像高164.8㎝ 奈良・元興寺
『日本の美術479十世紀の彫刻』は、頭体のバランスがとれたやや腰高の体形を示しており、天平彫刻の流れを汲む一木彫といえる。翻波や渦文をまじえた衣文表現は迫力に富んでいるが、彫りの鋭さは強調されず、衣本来のもつ柔らかな質感表現が基調となっており、乾漆像や塑像の衣文を木彫に置き換えたような感覚があるという。
塊量感といえばまさにこのような仏像をいうのだろう。特に衣の襞のない両脚の盛り上がりや肩などによくあらわれている。しかし、全体としてみると、頭部は小さく八頭身とも思えるほどである。
大衣の衣端は、左側の折り返しや腕に掛かるところにはギザギザの衣文、両袖には渦巻ががある。大衣であって袖ではないが、当麻寺の脱活乾漆造四天王像の袖のような中空の表現にも似た奥行が感じられる。
両脚部にできた襞は多すぎず、交互に茶杓形で終わっている。
薬師如来立像 像高169.7㎝ 京都・神護寺
同書は、平安初期一木彫の典型作の一つ。本像の場合、その魁偉な容貌、量感あふれる体形、深く鋭い衣文表現など、像全体のもつ迫力が強調される向きが強いが、作風そのものは極めてオーソドックスである。前方を見据え、直立する姿には、崇高な気分が感じられるという。
元興寺像は脚は太いが、それが強調されすぎていなかったが、神護寺像では盛り上がりがみられる。そこに表された衣文は、茶杓形だが、交互には表されず、古都続きになったかのように見えるものもある。
元興寺像と比べると、高い肉髻を差し引いても、頭部が大きい。
全体に薄い着衣を軟らかく、特に衣端は曲線的に表されているが、元興寺像よりも後に制作されたのか、腕にかかる大衣は、どちらかというと天衣のような幅の狭い布のようになってしまっている。
薬師如来立像(伝釈迦如来立像) 像高237.7㎝ 奈良・室生寺
同書は、釈迦如来と伝えられているが、比叡山一乗止観院の像と同様に薬壺を持たない施無畏、与願印の薬師像として造立されたと考えられる。線条的に美しく整えられた衣文表現は本像の造形的な特色ともいえるが、それは平安前期一木彫の魅力の一つともいえるダイナミックな衣文表現が行き着いた一つのあり方を示しているようにも思われるという。
神護寺像ほどではないが、頭部はやや大きめ。
穏やかな表情や、幅の狭い翻波式衣文が密に彫られるなど、制作時期はやや下りそう。
脚部の衣文は茶杓形ではなく一続きで、その幅はまちまちで、翻波式となっている。
地蔵菩薩立像 像高172.7㎝ 奈良・法隆寺
同書は、もと奈良・大神神社神宮寺の大御輪寺に祀られていたことから、本来地蔵菩薩としてではなく、僧形の神像として造立されたと見る説も出されている。奥行きのある堂々とした体形を示し、衣文の彫りも深く鋭いが、その形や各所に見られる翻波には形式化の傾向がうかがえるという。
やや右に重心をかけたような、あるいは前屈み気味の立ち姿。
頭部は小さく、他の像と比べると、大腿部の誇張も控えめ。その分衣文は膝上まであって、茶杓形の上に翻波式となっている。
伝日羅立像 像高145.7㎝ 奈良・橘寺
同書は、寺伝では聖徳太子の仏法上の師とされる日羅の像といわれるが、何ら確証はなく、地蔵菩薩像ないし僧形像として造立されたと考えられている。大きく弧を描く眉、切れ長の目、小さな唇など、その顔立ちは異国的で、眉を額の面より一段高く彫り、かつ面取りで表している点にも唐風が顕著にうかがえるという。
三曲法のように重心を左にして立つ姿は珍しい。
その頭部は小さく、大腿部は大きく表される。左肩から腹部へとまとう大衣の襞はこれまで見られなかったもの。左腕の下で渦巻いて、その下にジグザグに垂下するが、襞とは合っていない。
膝下の茶杓形衣文は非常に軟らかく表され、ここだけを見ると、元興寺像に近い。
十一面観音菩薩立像 像高177.3㎝ 滋賀・向源寺
同書は、その姿の美しさから、日本に現存する十一面観音の白眉ともいえる像である。腰を捻って立つ柔軟な肢体や体に密着した薄手の裙や天衣など、その基調となっているのは初唐から盛唐期の彫刻と思われる。また、垂下した天衣が蓮肉上面でたわむ表現は、奈良時代の作例にしばしば見られるものである。本像は、数少ない初期天台宗の木彫像の代表作として知られてきたが、作風的には奈良との関係が強く感じられるという。
平安前期とは思えない細身の立像だが、頭部の8面は大きく、その上髻が顔と同じくらい高い。そのような面が乗っているので、頭部は大きいが、観音の顔から下は八頭身に近い。
大腿部は平安前期らしく張りがあるが、斜めになった脚部には、茶杓形ではなく弧状となり、間隔の広い翻波式が軟らかく表現されている。
この春、久しぶりに訪れた唐招提寺には新宝蔵に平安時代とされる仏像が2体展示されていた。
十一面観音菩薩立像 平安時代 像高166.2㎝ 木造乾漆使用 唐招提寺
『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、西山別院に伝わった像で、現在は頭髪などに乾漆を盛っており、足枘を作りだしている。豊頬の顔立ちと微笑相、少し顎を上げ気味として直立した体勢、裳の折返しや衣文線のパターン、臂釧の形などは伝衆宝王菩薩像によっている。そしてこれらの要素を引き継いだ上で、顔の肉付けは平明となり、腰の位置が低く胴長のプロポーション、側面観でも直立的となっている。これらの変化のうちでプロポーションに関しては、唐代の檀像である山口・神福寺十一面観音像に共通し、さらに冠繒(かんぞう)、鬢髪条帛垂下部などの表現が一致するという。
伝衆宝王菩薩立像は奈良時代の作とされる直立した塊量感のある像で、同じく唐招提寺の像。
平安に入ってつくられた本像の方が細身である。
頭部には立像形化仏と小さな面が幾つか残っている。
茶杓形衣文は形式的に彫られただけのよう。翻波式衣文も見当たらない。
如来形立像 平安時代初期(9世紀後半) 木造彩色 像高154.0㎝ 唐招提寺
同書は、頭部を欠くものの、胸から腹にかけてのやわらかな曲面、大腿部に張りをもたせ足元にかけて一気に絞っていく下半身、側面での抑揚のある肉付けなど、各所に優れた造形をみせる。衣文線の彫りはいくぶん浅いが、翻波式によるリズム感と、股間に落ち、袖を流れるスピード感も美しい。このように平安時代初期彫刻を整美な方向へと昇華させていることから、9世紀後半の製作と考えたい。カヤの一木造で背刳(せぐり)を施し、左袖などに塑土を盛っている個所があるという。
今回は、制作年のわかる記銘がなかったため、いつものように遡って紹介していくという方式はとれなかった。
如来坐像を遡ると← →唐招提寺の奈良時代の立像は
関連項目
平安中期の如来坐像
平安前期の仏像の登場する記事
唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文
翻波式衣文はどこから
興福寺1 東金堂の仏像群
興福寺2 四天王像は入れ替わる
※参考文献
「日本の美術457 平安時代前期の彫刻」 岩佐光晴 2004年 至文堂
「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年 淡交社