お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/04/26

吉備路のこうもり塚古墳


春うららかな日、吉備路に出かけた。備中国分寺の周りには、古墳が集中していることを最近になって知った。吉備路は今冬行った熊山遺跡の西方にある。
まず造山(つくりやま)古墳に行ったのだが、道を間違えて後円部の方に行ってしまい、前方側にある小さな古墳群をよく見ることができなかった。吉備路はどうやらサイクリングロードの方がよく整備されていて、自転車で回った方がよさそうだった。(下図は「吉備総社ぶらり旅」という無料のパンフレットより)
国分寺に行くつもりで駐車場に車を置くと、東の森の方に行き来する人たちが見えた。それがこうもり塚古墳だった。今日は解説員がいて、古墳の中に入ることができると聞いたので、行ってみた。 同パンフレットは、備中国分寺と備中国分尼寺の中間にある池に面した小高い丘陵がそれで、全長100mを超す前方後円墳です。全長約20mの巨大な横穴式石室は、大和の石舞台古墳の石室とほぼ同じ大きさ。貝殻石灰岩でつくられた家形石棺が納められていますという。
土で覆われた古墳に入るのと、岩だけになった石舞台古墳に入るのとではだいぶ感じが違う。解説員の話をよく覚えていないが6世紀頃のもので、石棺内には遺体と馬具があり、石棺の奥には2つの木棺が置かれていたらしい。
石棺は2mほどあるということで、岡山市立オリエント美術館で開催された「吉村作治の早大エジプト発掘40年展」で、ビデオが各コーナーにあり、その1つに、吉村作治氏がギザのクフ王のピラミッドに入っていって、以前は石棺だろうと言われてきたものの横に立ち、150数㎝しかないのでこれが石棺のはずがないと説明するというものがあった。大画面のものを間近で見ていたので、臨場感があり、なるほど小さいなと思ったのだが、それと比べると、こうもり塚 古墳の石棺はずっと大きかった。
写真にはよく写っていないが、床は小石が敷き詰められていた。
解説員によると、周りの石はこのあたりに多い花崗岩で、朱で塗られたか、何かが描かれたかしたようで、わずかに色が残っている。このような図解板があってよくわかる。中国の古墓と違い、斜坑になっていない。日本では仁徳天皇陵を始め、発掘調査もできない古墳も多く、その上に登るなんてとんでもないことかと思っていた。そう言えば五色塚古墳には登ったことがあるので、とんでもなくはないのか。
中国では始皇帝陵に登っている人たちを見て驚いたが、驚くほどのことではなかったのだ。
こうもり塚古墳も登ることができるということなので、登ってみた。後円部より、前方部を見ています。
その後国分寺の西にある作山(つくりやま)古墳にも行ったが、この古墳も登ることができた。

どうも畿内にばかり目を向けていたが、岡山というところにも古いものがたくさんあることがわかった。当時かなりの権力のある者が統治していたのだろう。

2007/04/12

透きとおるいのち 田上恵美子ガラス展は銀座で


田上恵美子さんは田上惠美子さんでした。

田上恵美子氏より次回個展の案内をもらった。タイトルにトンボ玉やコア・グラスではなく、ガラスとあるので、ハガキの写真をよく見てみると、穴がなかった。鉄の棒に粘土を付けて、それに溶かしたガラスを巻いていくトンボ玉の技法とはまた違った作り方のようだ。写真の下側が鏡映だとすると、球あるいはそれに近い形をしていることになる。
確か、ガラスの最初のものは、開放鋳型による鋳造だったはずだ。

1 脈状文方形ガラス珠 前16世紀後半から前13世紀 パレスチナまたはシリア出土 岡山オリエント美術館蔵
『ガラス工芸 歴史と現在』展図録は、白色透明ガラス、現在は風化の為、青色ガラス(原色)。技法は開放鋳型。ほぼ正方形で上部表面は5つのリブ状、下面は平、側面に各2ヵ所の穴があいている。一連の頸飾りに使用したものかという。

どれが青色でどれが白色透明なのか見た目ではわからないくらい風化している。下面が平らということで、たとえは変だが、たこ焼きの型状のものに、溶かしたガラスを流し込み、そのままさますと下側が文様があり、上側が平らに仕上がる。完成品はその逆で、文様のある方が上面になる。2 レリーフ・ビーズ 前15から13世紀 東地中海沿岸地域出土 紺色透明ガラス 岡山オリエント美術館蔵
『ガラス工芸 歴史から未来へ展図録』は、開放鋳型で作られた製品。22点のビーズが1連になっている。 ・略・ 渦巻き文は縮れた頭髪を表したものとみる見解もある。類例はロードス島やギリシア本土各地のミケーネ遺跡などから出土している(各出土地名は省略)。それらは北メソポタミアやシリア・パレスティナで出土する青色鋳造ビーズより薄手で、ラピスラズリを想起させる青色から紺色のガラスを開放鋳型で鋳造成形し、同心円やロゼット、パルメット、蔦、戦士、貝殻などの文様が金属器に似た精巧な浮彫で施されている。 ・略・ ミケーネやクノッソスでは凍石製の鋳型も発見されているという。

出土地とは異なり、ミケーネで制作されたものらしい。確かにミケーネの方が精密な作りである。1のビーズよりも軽量でアクセサリに適していただろう。ところで、古代ガラスの製作方法は現代のガラス作家でも解明できないものがあるようだ。

3 ゲーム・ピース 前2から後3世紀 出土地・所蔵者とも不明 
開放鋳型なら、円錐形のゲーム・ピースは作れるだろうということは、素人の私でも想像がつく。では穴のない球状のものはどのようにして作ったのだろう。

4 ゲーム・ピース 前1世紀 イギリス、ウェリン・ガーデン・シティの墓出土 大英博物館蔵
これが球か半球かは実物を見たことがないのでわからないのだが。半球であれば、上の円錐形のものと同様に開放鋳型で作ることができるだろう。しかし、半球状のものを、2つの平面側を溶かし合わせて球状にするなどということができたのだろうか。もしできたとしても、透明ガラスで制作した田上恵美子氏の作品には繋ぎ目の不自然さがなく、そのような作り方をしたのではないだろう。
はたして、田上恵美子氏はどのようにしてあのような球状のガラスを創り出したのだろうか。実物を見てみたいが、東京は遠すぎる。

    田上恵美子ガラス展は銀座のビーエイブルであります。  
また、その後の田上恵美子氏の個展や作品は以下に掲載しています。

日本にも金層ガラス玉が-藤ノ木古墳の全貌展より
日本のガラス玉は
田上恵美子氏のすきとおるいのちと透明ガラス

※参考文献
「ガラス工芸 歴史と現代」 1999年 岡山オリエント美術館
「ガラス工芸 歴史から未来へ」 2001年 岡山オリエント美術館
「トンボ玉」 由水常雄 1989年 平凡社

2007/04/09

鬼瓦と鬼面



饕餮が瓦当に表され、それが辟邪であるという『中国古代の暮らしと夢』展図録の解説(
饕餮文は瓦当や鋪首に)があったが、中国では仏教の伝来と共に、瓦の文様は蓮華が主流となっていったことや、鬼瓦にわざわざ鬼面をつけて呼ぶ場合があるため、日本では鬼瓦の最初は鬼面ではなかったのだろうと考えていた。たぶん大きな瓦を大瓦と呼び、やがて鬼瓦となっていったのだろうと勝手に思っていた。 何故大きな瓦を載せるのかというとやっぱり、雷除けや魔除けという役目があるのだろうと想像していた。
ところが『日本の美術391 鬼瓦』には全く異なることが書かれていた(引用はすべて同書)。
鬼瓦というと、多くの人はお寺の屋根の上から形相するどく見おろす大型の瓦を思い起こすはずだ。そして魔よけであるとか、外敵に対する守護神といった役割を想定するであろう。たしかに鎌倉時代後期(14世紀)以降の鬼瓦は、手づくりによる立体的な造形で、角を生やし、大きく口をあけて牙をむきだし、いかにも「鬼瓦」と呼ぶにふさわしい奇怪なつらがまえをしている。そしてこの頃までに「鬼瓦」と呼ぶようになったことも確かである。しかしながら、鎌倉前期までの鬼瓦は、笵という雌型に粘土を詰めて抜き出し、半肉彫りの紋様を表した、薄い板状の焼物であった。

では「薄い板状の焼物」の最初期のものはどのようなものだったのだろうか。

1 蓮華紋鬼瓦(法隆寺鬼瓦1) 法隆寺若草伽藍出土 7世紀前半 残存高20.3cm 最大厚4.4cm
3分の1ほどの破片であるが、幅広で上辺がゆるくアーチ型に粘土なし、3個3列の蓮華紋を配した形に復原できる。 ・略・ 
日本ではじめて建立された瓦葺建物は、崇峻元年(588)に着工した飛鳥寺の伽藍であった。しかし、飛鳥寺からは創建時の鬼瓦は見つかっておらず、今のところ「わが国最古の鬼瓦」の呼び名は法隆寺出土の蓮華紋鬼瓦にふさわしい。
裏面には取りつけ用の刳りがあり、塔の隅棟用と考えられている。朝鮮半島では、百済の寺院跡などからよく似た紋様の手彫りの石製鬼瓦が出土しており(扶余扶蘇山廃寺など)、本例が百済文化の系譜下にあるのは間違いない
という。
日本の最初期の仏像と同様、鬼瓦もまた半島からもたらされたものだった。蓮華文というよりも、幾何学文に見える。線を引き、手彫りしたことが現在でもわかる。
2 蓮華紋鬼瓦 奈良県明日香村平吉(ひきち)遺跡出土 7世紀中頃 厚2cm内外 奈良国立文化財研究所蔵
高さ37cm、幅35cmのやや縦長な方形に復原でき、下辺中央に半円形の抉り(えぐり)がある。弁端が天地を向くよう配置、まわりに連珠紋を28個めぐらせる。 ・略・ 岡山県都窪郡末ノ奥窯から出土した破片は同笵であるという。
驚いたとこに、日本における瓦屋根建築の草創期とも言えるこの時期に、遠く離れた岡山県で瓦が焼かれ、明日香村まで運ばれていたのだ。同じ岡山県下の熊山遺跡(世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた(続) )から吉井川を越えた万富には東大寺の瓦窯跡があるが、末ノ奥窯の方がもっと古い。
やや蓮華らしくなってきたがまだまだぎこちない。文様としての蓮華は将来されているが、当時の日本人は蓮華の花を見たことがなかったのだろうか。
3 蓮華紋鬼瓦(山田寺1式) 山田寺跡出土 641年前後 高36.5cm 幅40.3cm 厚約5cm 奈良国立文化財研究所蔵
舒明18(641)年に造営をはじめた山田寺でも、「山田寺式」軒丸瓦に似た、蓮弁中央に子葉を1枚重ねた単弁蓮華紋を飾った鬼瓦を使用している。 ・略・
大棟には鴟尾がのるので、降棟ないし隅棟用である。
上端はごく緩い弧線を描き、左右下端に半円形の刳り込みをもつ。蓮弁は重弁。中房にはまず十字に割り付け線を入れ ・略・ 蓮弁は笵で起こした後、ヘラで弁の輪郭や反りを整え、弁央の鎬(しのぎ)を強調してある
という。
2とあまり変わらない頃に制作された瓦だが、だいぶ蓮華らしく表されているのは、5cmという厚みがあるからだろうか。5cm近くの厚いものが焼ける瓦窯だったのだろうか。
4 鬼面紋鬼瓦 太宰府政庁東北台地出土 7世紀末-8世紀初 高47.1cm幅43cm厚15.5cm
顔面のみを表すが、下顎・下歯の表現を欠き、鬼面全体が高く盛り上がる。外形は円頭梯形で、外縁にそって大粒の珠紋を巡らす。
畿内における獣身紋鬼瓦の登場とほぼ軌を一にして、北部九州では太宰府政庁を中心にしたいわゆる「太宰府式」の鬼面紋鬼瓦を用いはじめた。平城宮よりわずかに先んじており、鬼面紋鬼瓦としてはわが国最古のものといえる。 ・略・
太宰府式の鬼面紋鬼瓦は、太宰府政庁地域のほか、その付帯施設である水城、豊前国分寺、大分県弥勒寺跡、肥前国分寺、薩摩国分寺 ・略・ などから出土しており、その広がりはほぼ九州全域に及んでいる。 ・略・
一般に7世紀後半代の統一新羅に源流を求めることができるとされる。たしかに、円頭台形の外形、外区の珠紋、鬼面の全体的なあり方は類似する。しかしながら、太宰府式は角を生やしておらず ・略・ 下顎を欠く点からも、新羅の鬼瓦とは異なる。むしろ中国あるいは渤海からの影響を考慮すべきであろう。
という。
鬼面鬼瓦は半島よりも中国の可能性が示唆されている。やっぱり饕餮と関係があるのだろうか。
では、中国ではどうだったのだろうか。

今までに判明している限りでは、鬼瓦の使用は北魏代になってからである(北魏洛陽城など)。そして唐代になってからも長安城などからの出土例がないことはない。ところが、これらはいずれも鬼面紋タイプなのである。『唐令』は「宮殿皆四阿、施鴟尾」と述べており、大棟には鴟尾を飾ったと思われる。したがって、鬼瓦はあったとしても降棟ないし隅棟用であろう。 ・略・ということで、 鬼面鬼瓦らしいことしかわからない。鬼面と饕餮文の関係はなおさらわからない。あまり拘らないほうが良いのかも知れない。

※参考文献
「日本の美術391 鬼瓦」 1998年 至文堂

2007/04/06

メドゥーサの首

 
メドゥーサは、自分を見た者を石にしてしまうゴルゴン3姉妹の1人で、怪物としてギリシア神話に登場する。だからそれを退治したペルセウスは英雄である。しかし、メドゥーサは、その後も悪者として扱われたわけではない

4  プロト・アッティカ式アンフォラ 前660年頃 ポリュフェモスの画家 エレウシス出土 ギリシア、エレウシス考古博物館蔵 
このアンフォラ(壺)は子供の遺体を納めたまま発見され、最初から甕棺として作られたと考えられている。石に変えてしまう程の力が、辟邪として好まれたのだろうか。
ただし、この2体はメドゥーサではなく、その2姉妹らしい。メドゥーサだけでなく、このゴルゴン3姉妹は髪が蛇だが、どうみても蛇に見えない。顔も壺のようでもあり、恐ろしさとはかけ離れた表現となっている。続いてメドゥーサは神殿破風の中央に進出する。破風と言えば神殿正面上部の三角形の壁面で、外からは一番目立つものである。

5 アルテミス神殿破風のメドゥーサ 前580年頃 コルフ(ケルキラ)島出土 ギリシア、ケルキラ考古博物館蔵
メドゥーサは疾駆するかのように力強く表されている。体は横向きなのに丸い顔は正面を向いている。髪に限らずあちこちに蛇が表されている。
これは明らかに、アルテミス女神を祀る神殿内部に、魔物や悪意のあるものが入り込まないための魔除けである。壺絵と異なり、非常に迫力が感じられる。6 コリントス黒像式ヒュドリア 前570-550年頃 ダモスの画家 チェルヴェテリ出土 パリ、ルーヴル美術館蔵
ヒュドリア(壺の一種)はトロイ戦争で没っしたアキレウスの通夜哀悼図「アキレウスの死を嘆き悲しむネレイスたち」である。
アキレウスの横たわる寝台の下に、彼の兜と盾が置かれている。
その盾全面に描かれているのがメドゥーサの首のみで、もはや疾走する力強い体は表されなくなる。四角い盾にさえ、中央にメドゥーサの首だけが描かれるようになるのである。
この「メドゥーサの首」はその後ローマ時代になっても護符として好まれたようだ。フェニキアの人頭玉・人面玉のアレクサンドロスの胸(ポンペイ、ファウヌスの家の舗床モザイク、前180から170年)にも付いていた。7  セリヌンテC神殿メトープ 前530から510年頃 セリヌンテ出土 イタリア、パレルモ美術館蔵
メトープ(装飾板)には何故、魔除けとしてではなく、怪物のメドゥーサが首を切られる場面が表されているのだろうか?
それは、神殿の柱の上部には神話の英雄を讃える図(浮彫)をかかげるというのがギリシアの伝統なので、魔除けではなく、ペルセウスの英雄物語ということである。メドゥーサは怪物として登場するので、出現の仕方が異なるかもしれないが、時代が下がると本来の意味が失われ、建物や墓室を守る辟邪として瓦当や鋪首に表されるようになっていった(饕餮文は瓦当や鋪首に)饕餮文とも共通しているように思う。

※ 参考文献

「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館

2007/04/04

田上恵美子氏とフェニキアの人頭玉・人面玉



田上恵美子さんは田上惠美子さんでした

10年以上前のことだが、阪神間のあるデパート内をぶらぶらしていると、ガラスで作った玉をたくさん入れた小さなワゴンが目に入った。その前に立っていたのが田上恵美子氏だった。
尋ねると「鉄芯に胎土をつけて、バーナーでガラスを熱しながら胎土に巻いていって・・・という風に作るトンボ玉というものだ」と教えてくれた。
ワゴンの中をじっくり眺めていると、きれいなトンボ玉の中に1つ、異彩を放つものが目に止まった。それは「フェニキア人頭玉」(写真はその表と裏)という、トンボ玉の中でも貴重なもののコピーだと言う。ここで私の気持ちは傾いて、それを購入してしまった。しかし、この時はまだ、何故、人の顔をペンダントとして身につけるのか、考えていなかった。
これが私のトンボ玉との出会いであり、古代ガラスというものに関心を持つきっかけとなった。ものごとの起源を探るのが好きな私は、トンボ玉や古代ガラスの本を買ったり、美術館に行くこととなった。
以前「トンボ玉の人面人頭はどんな由来でしょうか。人の首を象ったガラス玉を繋いでイヤリングにするなんて、人狩り族か古代戦勝者の残虐性の名残の様に思えてなりません」という質問をされたことがあった。
私は、フェニキア人頭玉や人面玉を身につけることを残忍なことと思ったりしなかったので、これには驚いた。しかし、それは三蔵法師が首につけた骸骨の首飾りと同じ魔除けではないのだろうか(三蔵法師が首に巻く骸骨は)。
現在のところフェニキアの人頭玉(前6から1世紀)や、人面トンボ玉なども、その起源はわからないが、魔除けや護符として使われたと考えられているようだ。

1 人面トンボ玉 前1から後1世紀 ローマ帝国領となったフェニキア地方 MIHO MUSEUM蔵 

2 デーモン・ヘッド・ビーズ 前13世紀 北シリアのエブラ出土 とんぼ玉美術博物館蔵
トンボ玉以前、溶かしたガラスやファイアンスを鋳型で成形していた時期には作られた。顎の下に穴が見えるように、紐を通して掛けていたのだろう。これも魔除けとして使われたと考えられている。
東地中海北部のフェニキアとの関係は不明であるが、地理的には近い。
3 イッソスの戦い ポンペイ出土 舗床モザイク ナポリ考古学博物館蔵
アケメネス朝ペルシアの王ダリウスⅢ世と戦うアレクサンドロス大王の胸にメドゥーサの首が見える。これも護符とされている。何故自分を見た者を石にするというメドゥーサが護符になったのだろうか。 ともかく、このように恐ろしいものをお守りとして直に身につけるということも古くから行われていたようだ。

※参考文献
「古代ガラス展図録」 MIHO MUSEUM 2001年
「館蔵 世界のトンボ玉図録」 とんぼ玉美術博物館 1996年
「ポンペイ・奇跡の町」 ロベール・エティエンヌ 1991年 知の発見双書10 創元社