お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/11/27

アスターナ出土の人物駱駝文錦は経錦

 
新疆ウイグル自治区には大量の連珠円文の錦が出土した場所がある。それはトルファン東郊のアスターナ古墓群である。
アスターナは代々高昌のネクロポリスだったようだ。アスターナ古墓群はグーグルマップでこちら

人物駱駝文錦 織銘「胡王」 絹 長16.5㎝幅14.2㎝ トルファン市アスターナ(阿斯塔那)18号墓出土 麹氏高昌国時代(6世紀) 
『絹と黄金の道展図録』は、小さな連珠を納めた円文内に、鞍を載せたフタコブラクダの手綱を引いている人物を上下対称に表し、駱駝と人物の間には、「胡王」の漢字を織りだす。
各円文は花文風の文様でつなぎ、円外の反菱(そりびし状)の間地には、パルメット風の十字形花文を配する。
砂漠の交通手段は駱駝で、隊商の人々にとっては必要不可欠な動物である。そうした動物を文様に取り入れているところは、いかにもシルクロードの地を表しているようで興味深い
という。
連珠円文は円形というよりも亀甲形に近く、上下左右に花文がある。
上下対称は、波のない水面に映る逆さの像のようだ。
ほころびた箇所の糸を見ると縦に複数の色糸が通っている。このように縦に裂けるのが経錦だろうか。
『中国美術大全集6染織刺繍』は隋の製作とみている。淡黄色の地に墨緑・絳紅・橘紅とが交互に配列する彩色経糸で文様を作っている。延昌29年(589)唐紹伯墓出土という。
延昌29年は隋の開皇4年にあたる。彩色経糸で文様を作るというのは経錦だろう。 経錦(たてにしき)
『シルクロードの染織と技法』は、「錦」とは、多数の色糸を用いて華麗な文様を多重組織によって織り表す技法である。組織上、経糸で文様を表す「経錦」と、「緯錦」に分類される。経錦を織るには、地色と文様に使う色数の糸を一組とし、全幅にわたって整経するため、経糸数が極めて密に込み、地色と文様に応じて一組の経糸のうち一本を表面に浮かせて緯糸を通す開口操作は、たいへんに煩雑なものとなるという。
下図は開口した経糸に緯糸を通し、刀杼(とうひ)で打ち込む場面。
『中国美術大全集6 染織刺繍Ⅰ』は、西周時代(前11-8世紀)、養蚕・繰糸・捺染・紡績技術の進歩によって、豪華絢爛たる錦織が誕生した。錦とはに種以上の彩色糸を用いて文様を織り出す織物で、経緯組織の変化を利用するだけではなく、経緯色の変化も利用して文様を表現する。遼寧省朝陽の西周初期墓からは副葬品の絹織物20余枚を発見し、そのうちの数枚は二重経(2色の経糸)の経錦であったという。
経錦は中国の伝統的な技法だった。トルファン出土のソグド製連珠紋錦(時代不明)は緯錦(よこにしき)だったという(『文明の道3 海と陸のシルクロード』より)ので、その違いでソグド錦か中国製かがわかる。
しかし、人物駱駝文錦は高昌国で製作されたのか、隋で織られたのか。 

忍冬連珠亀背文刺繍花辺 敦煌莫高窟125-126窟間出土 北魏、太和11年(487) 敦煌文物研究所蔵
『中国美術全集6染織刺繍』は、北魏の広陽王元嘉の刺繍供養像の縁飾りである。これは円形と六角形が交差する骨組みを基礎にし、その上に忍冬文をうめてある。色は深藍と浅藍、浅紫と白、白と浅棕とが互いに配され繧繝となり、色彩が調和し、かつ華やかであるという。
円形は線状だが、縦長の六角形は連珠だ。しかも六角形は、それぞれの辺を隣接する互いの六角形が共有する亀甲繋文となっている。
人物駱駝文錦は主文を囲むものが円文と見なされているが、亀甲文に近い円文だ。それがこの連珠亀甲繋文と全く無関係とは思えない。  5世紀後半に刺繍とはいえこのような連珠文が中国にあった。連珠円文が西方から届く前に、中国では連珠文があったのだろうか。それとも連珠円文はすでに将来されていたのだろうか。

人物故事図漆絵木棺 寧夏回族自治区固原県北魏出土 北魏(5世紀) 固原県博物館蔵
『世界美術大全集東洋編3』は、孝子故事の下部は、連珠文と亀甲文が結合した図案となっており、連珠文の内側には供養天人や有翼神獣を配するなど、きわめて装飾性に富む。
本漆絵の制作年代を太和10年(486)ごろとする見解がある
という。
忍冬連珠亀背文刺繍と同時期に、連珠円文が描かれていた。連珠円文もすでに中国に伝播していたのだ。
亀甲文というよりも、上から垂直に下がった連珠が人字形に分割された円形の接合部(ガラス玉を表しているのだろうか)から横長の菱形を構成しているように見える。
この図版では連珠円文の中には向かい合う鳥が描かれている。そして直線が斜め十字に交差するもう一つの円形接合部から、人物駱駝文錦にもあるパルメット風の十字文が出ている。 亀甲塡四弁花文毛織品 ニヤ遺跡出土 後漢(後25-220年) 新疆ウイグル自治区博物館蔵
紺色の地に、白色で八角形と長方形とが組織する幾何学文様を織り、さらに八角形と長方形の内側に紅色の四弁花をうめ、白色で縁取りをしている。経緯糸とともに2本撚りであるという。 
表記通り解釈すると、後漢時代に中国で製作されたもののようだが、『シリア国立博物館』には、中国を代表とする東アジアの織機は水平機であったが、西アジアでは古来より縦機で、これも縦機で織られたと考えられると、シリア産毛織物が紹介されている。
毛織物である点から、西アジアで作られたものがシルクロードを経由して、トルファンよりも西方に位置するニヤに将来されたと考えた方が自然だ。これが亀甲繋文の現中国内最古の出土例である。
亀甲繋文についてはこちら ニヤはグーグルマップでこちら  動物幾何文錦 アスターナ北涼敦煌太守沮渠封戴墓(455年)出土 新疆ウイグル自治区博物館蔵
破綻曲線と直線からなる龕状の幾何学的な骨組みに、大小異なった鹿と他の動物をうめている。深青の地色に、文様は絳・浅藍・浅緑の一組の彩色の縞模様を形成する経糸と、一組の黄色の経糸で表した二重経の経錦である。文様は横に並べられ、正と逆を循環して織り出すため、左右対称であるという。
北涼(匈奴)は439年北魏(鮮卑)に滅ぼされたと思っていたら、西進して高昌北涼を建てたらしい。450年に滅亡するまで、沮渠氏高昌国というのがあったようだ。
文様は横に並んでいるが、左右対称ではなく、人物駱駝文錦のように上下対称になっている。
左右対称となると、動物が横向きになってしまう。唯一上向きになるのは、画像の右下隅に見える鳥だけだ(左右対称となるもう1つの鳥も織り出されている)。やっぱりこの錦は上下対称で良いのでは。
また、全体に赤っぽいが、ところどころに黄色っぽい帯が縦に通っている。これが二重経というのだろうか。縦にほつれた箇所もあり、どちらも経錦の特徴とみてよいのだろうか。 亀甲繋文と連珠円文、四方の四弁花文とパルメット風の十字文はすでに中国にも到来していた。経錦で織られているなど人物駱駝文錦は中国色が強い。
しかし、高昌国はシルクロードの中でも古くから漢族が暮らしてきた土地である。上下対称など西域色が強いので、隋ではなく高昌国で製作された可能性の方が高いのでは。
高昌故城はグーグルマップでこちら、北方にアスターナ古墓群があります。 高昌故城の今の姿はこちら

※参考文献
「別冊太陽日本のこころ85 シルクロードの染織と技法」 1994年 平凡社
「中国美術大全集6 染織刺繍Ⅰ」 1996年 京都書院
「世界の博物館18 シリア国立博物館」 1979年 講談社  
「文明の道3 海と陸のシルクロード」 2003年 日本放送協会

2009/11/24

西域にも連珠円文

 
西域の定義にもいろいろあるが、今回は新疆ウイグル自治区内として、出土あるいは発見された連珠文を集めた。

如来坐像 ホータン地方出土 6世紀頃 ストゥッコ 高15.8㎝幅16.5㎝ 東京国立博物館蔵 
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、腹前で両手を組み合わせた坐像は、連珠文のある蓮台の中心に置かれ、茶褐色などの彩色がわずかに残っている。組み合わされた両手の下方には、ハッダのストゥッコ製如来坐像によく見られるような、楕円形の円弧を重ねた衣文が表現されている。大谷探検隊によって将来されたという。
ホータンは西域南道にある。ホータン(和田)の位置はグーグルマップでこちら
バーミヤンには小さな連珠円文に囲まれた仏坐像があったが、それよりも前のものだ。
蓮台に乗るのではなく、外側には蓮弁がめぐっているのも珍しい。小さな連珠と蓮弁は光背を表しているのだろうか。 人物パルメット文三耳壺 カシュガル市ヤウルク寺院遺跡出土 6-7世紀 高57㎝口径28.5㎝
『絹と黄金の道展図録』は、胴部に冠をかぶった人物の顔と、瓶と杯を持って跪いた人物の2種類のメダイオンを5つずつ交互に配し、肩部に植物文様を表している。下にはパルメット文が巡る。メダイオンはスタンプによって型押ししたものを貼り付けたもので、細かい連珠文によって縁取られるという。
カシュガルは西域南道と西域北道が合流する、西域の最も西の端にある町だ。カシュガル(喀什)はグーグルマップでこちら
メダイヨンの縁を一周する細かな連珠円文は、ソグド錦やファレーラよりも、硬貨メダイヨンの縁飾りに近い。
パルメットの様々な文様が3段めぐり、メダイヨンの装飾帯の隙間にも入り込んでいる。西方の雰囲気のある作品である。 瑞鳥文様柱断片 トムシュク、トックズ=サライ大寺院B出土 粘土 高23.0幅22.5厚3.5 6-7世紀初
『シルクロード大美術展図録』は、建築装飾の一部。連珠文が巡る円形の中に、羽を広げ、何かをくわえた鳥が大きく表され、その下部に、アカンサス風の植物文が左右に対置されている。こうした文様構成は明らかにササン朝美術の影響を受けているが、鳥の形態はむしろ中国伝統の鳳凰に近く、東西文化の混淆がうかがわれるという。
トムシュクはカシュガルの東方にある。トムシュクはグーグルマップでこちら
軒丸瓦かと思ったら、柱の一部だった。
トサカのある猛禽のように力強い鳥が何かをくわえて、葉っぱのようなものの上に立っているように見える。
連珠は一つ一つ彫りだしたのか土を丸めて嵌め込んだのかわからないが、不揃いなので型による成形ではなさそうだ。 舎利容器 6世紀末-7世紀初 クチャ地方出土 木造布貼 高32.3㎝胴径38.3㎝ 東京国立博物館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、本品は大谷探検隊が将来したものであるが、正確な出土地は判明していない。スバシ出土の可能性が高い。
蓋には、連珠文で囲まれた4つの円形の区画に有翼の天使が描かれ、そのうちの2体は琵琶を奏し、ほかの2体は笛と箜篌を奏している。そのあいだに形式化された山と、向かい合ってくちばしで花綱をくわえる2羽の鳥が配置されている。蓋や身の縁に連珠の文様が配されており、西方の意匠を多くとどめる
という。
有翼天使を囲む連珠円文には上下左右に四角形が配されていて、バーミヤン第167窟の連珠円文と共通する特徴だ。製作時期も似ているので、この時期に広く流行した連珠円文かも。スバシはスバシ仏寺遺址のことだろう。
帯文様に楕円形の小連珠円文が描かれている。主文を囲むわけでもなく、ただの文様帯になってしまったものと、主文を囲む連珠円文の2種類がこの容器に表されている。
この作品も西方風かなと思ったが、有翼天使の頭部に中国の唐子風の剃り残しがある。クチャ近辺で製作されたというよりも、クチャより東方のどこかで製作されて将来されたものかも。  寄進者像壁画 7世紀 キジル 高150 ベルリン国立インド美術館蔵
キジル石窟の第8窟(十六帯剣者窟)から採取されたもの。中心柱窟とよばれる構造の窟で、奥に中心柱とそれをめぐる廻廊を設けている。この壁画は廻廊の右側廊内側に描かれていた。人物は、いずれも右襟を大きく折り返した筒袖の長衣を着て、腰には長剣と短剣とを帯びた騎士の姿である。長衣は青や緑の地に連珠円文や十字花弁文などで飾られている。これらの人物像は石窟を寄進したクチャ国の貴族たちの姿を表したものだろうという。
左の人物は長衣の縁取りに連珠円文が並んでいる。主文には青の中に白が残っているので、何か文様があったようだ。右の人物の長衣は、逆に連珠円文で埋め尽くされた服地に無地の布で縁取りしてある。主文はないらしい。どちらの連珠円文も、上下左右に四角形や小連珠円文はない。
キジル石窟はこちら 鴨連珠円文壁画 7世紀 キジル 縦52横110 ベルリン国立インド美術館蔵
『三蔵法師の道展図録』 は、キジル石窟の第60窟(最大窟)からドイツ隊によって採取されたもの。正壁に大仏を取り付けていた大きな石窟で、その側壁にベンチ状の台を設け、そこに仏像が並べられていた(現在欠)。この壁画はその台の前面を飾っていた。連珠を円環形に配し、内部に首飾りをくわえる鴨を描いたもので、互いに向き合うように2つずつメダイヨンがセットになっている。頸にリボンを翻した鴨はデザイン化した表現で、バーミヤーンをやアフラシアブの壁画に近い。連珠円文と呼ばれるこの意匠は、ササン朝ペルシアに起源があるが、7世紀前後に中央アジアで流行したという。
別々の連珠円文にいるカモが向かい合っている。カモの模様は左右で微妙に異なっているが、胸・羽・尾羽に連珠帯があるのは共通している。首飾り、首には風にたなびくリボン、足の下には連珠という特徴がある。
また、上下左右には小連珠円があって、内部の文様は宝珠状である。 仏立像 トユク石窟第41窟 伏斗式天井南側 高昌郡ないし高昌国期(327-640年) トルファン東郊
「中國新疆壁畫全集6」は、體態略呈「S」形という。やや三曲法となっているので、敦煌莫高窟第57窟南壁の有名な菩薩立像(初唐、618-712年)と同時期だろうか。7世紀前半あたりだろう。
この窟を見学した時は、蓮華文が並んでいるのだと思ったので、この文様帯は特に注意してみることもなかったが、今は連珠円文が並んでいるように見える。
外周線はないが、内側の円と連珠が真円にはほど遠い描き方となっている。中に文様があるのかわからない。また右の文様帯には連珠円文ではないが、内部に文様が描かれている。そのような織物もササン朝ペルシアから将来されていたのか、あるいは、連珠円文の主文が連珠円文と分離してしまったのだろう。
トユク石窟はトルファン郊外の火焔山の小さな谷にあります。火焔山はこちら 新疆ウイグル自治区には当時オアシス国家のようなものが点在していた。それぞれの地には、枠に囲まれた連珠円文だけでなく、様々な連珠文が伝わっていたようだ。

関連項目

ササン朝の首のリボンはゾロアスター教
連珠円文は7世紀に流行した

※参考文献
「西遊記のシルクロード 三蔵法師の道展図録」 1999年 朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「シルクロード大美術展図録」 1996年 読売新聞社
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」 2002年 NHK
「中國新疆壁畫全集6 栢孜克里克・吐峪溝」 1995年 新疆美術攝影出版社 

2009/11/20

バーミヤンにも連珠円文

 
ササン朝ペルシアで誕生した連珠円文。それを絹織物の錦として製作し、シルクロードを経由して伝えたのが交易の民ソグド人であったためにソグド錦と呼ばれているという。
連珠円文はバーミヤンにもあった。

猪頭連珠円文壁画 6-7世紀 バーミヤーンD洞(第167窟)前室 径32 ギメ国立東洋美術館蔵
『西遊記のシルクロード展図録』は、バーミヤーンD洞の前室天井は、様々なモティーフの壁画装飾で知られているが、その一つに連珠円文がある。白い珠を連ねて円環とし、その内部に真珠の首飾りをくわえる鳥、有翼の天馬、猪頭などを描いている。こうした連珠円文はササン朝ペルシアに起源があるが、7世紀前後に中央アジアに広まり、様々なヴァリエーションを生んだ。 
ササン朝ペルシアのストゥッコ造のほかに、アフラシアブの壁画、トルファンのアスターナ古墳出土の絹織物などに見られる
という。
イノシシの蒼い顔の白い斑点は見えるが、連珠文は剥落してわからない。下には円文ではなく、四角形が見える。アンティノエ出土のには上下左右に小連珠円があったが、この四角形も上下左右にあったのだろうか。 銜珠双鳥文 バーミヤン第167窟 壁画 
真珠の首飾りをくわえる鳥は双鳥文だった。白い珠を連ねた連珠円文がしっかりと残っている。
上下左右には四角形が置かれているが、その中にも四角形がある。下側の四角形を見ると外枠と内側の四角形では色が違う。内外の四角形の角を直線で繋ぐという複雑な構造になっていて、貴石の象嵌を表したようだ。
猪頭文に残っている四角形も、よく見ると同じようになっている。当初はこのような連珠円文に囲まれていたのだろう。
左右対称でない双鳥は向かい合って銜えているのは真珠の首飾りか。長い房のある首飾りを付けた鳥が立っているのは二重の連珠帯である。地面ではなく、連珠文で囲まれた台に乗っているのを表しているのだろうか。 第167窟では、壁面に連珠円文が下図のように並んでいたという。

連珠円文のうち猪頭文について『アフガニスタン文明の十字路五千年』は、サマルカンド・アフラシアブ遺跡の人物の衣服にあるものが、7世紀と比定されている。トルファンのアスターナ古墓から出土した錦に猪頭文があるが、これらは墓誌銘から7世紀代のものであることが明らかである。したがって、中央アジアでこの文様が盛行したのは、7世紀と見ることができ、バーミヤーンの壁画の文様も同時代のものとしていいのであろうという。
アフラシアブの壁画に描かれる人物の衣服はこちら
アスターナ古墓から出土の錦はこちら
おまけ

連珠円文を探していたら、こんなものまで連珠円文に見えてきた。身光が何色かの同心円になっているのでそう見えるだけなのだろうか。主文を取り巻く連珠が大きいものには、イラン出土のファレーラがあったが。

円文千仏図 7-8世紀 バーミヤン、カクラク石窟第43窟 祠堂円蓋天井壁画断片 中心の円輪長径87㎝ 国立ギメ美術館蔵 
同書は、この石窟は、八角形プランにドーム天井である。全体の中心をなす天頂の主尊は弥勒の坐像で、そのまわりの第1圏帯には16個の円形内に坐仏が求心的に配列されている。その外の第2圏帯には7個の円輪がめぐらされ、各円輪内には中心の坐仏のまわりに11個の小坐仏があり、これらがひとつの円輪構図をなしているが、中心の坐仏もまわりの小坐仏も同方向を向いている。円圏帯内の仏像群がすべて、天頂の菩薩像に対して求心的配置をなしているのである。天頂の菩薩像は、他の像に比べて大きく表現されている。
この円輪構図は、主尊の周囲の仏像が数体ずつ群別され、それらがまたひとつの円輪をなすところに特色がある。いわば、複合構図である。後の曼荼羅図案の祖型をなすものであろうという。
連珠円文を探していたら、曼荼羅図案の祖型に当たってしまった。 

関連項目
ササン朝の首のリボンはゾロアスター教
アスターナ出土の連珠動物文錦はソグド錦か中国製か
連珠円文の錦はソグドか

※参考文献
「西遊記のシルクロード 三蔵法師の道展図録」 1999年 朝日新聞社
「アフガニスタン 遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 NHK出版 
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館 

2009/11/17

第61回正倉院展で連珠文を探す

近頃連珠文あるいは連珠円文に興味を持っているので、正倉院展では連珠円文の錦が見られるのではと期待していたが、錦は紫檀木画槽琵琶の袋残欠だけで、その錦には連珠文がなかった。しかし、連珠文は意外な作品の中にあった。

平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう、螺鈿飾りの鏡) 唐 径39.3 正倉院南倉
同展図録は、白銅製の鏡で、鏡背に螺鈿や琥珀などが青・緑・白色のトルコ石の砕石粒とともに黒色物質(材料未詳)で塗りこめられて文様が表される。
鏡背文様は連珠文帯で内区と外区に分けられる。内区には、上面に花文様が表された鈕を中心とし、その周囲に6つの唐花と蕾文様が交互に配されている。一方、外区は連珠文帯に沿って覗き花文がめぐらされ、さらにその外側に大ぶりの唐花文と花葉文が展開する。
鏡胎の白銅は、成分分析によると標準的な唐鏡の化学組成とほぼ一致しており、本品は中国で製作されて日本に舶載されたと考えられている
という。
外区と内区を分ける区画帯には、螺鈿による2本の同心円の中に穴あき連珠文がめぐるという構成になっている。連珠円文の内外を同心円が巡るというのも、穴あき連珠文もササン朝ペルシアの壁の装飾浮彫で見られる文様帯だ。穴あき連珠文についてはこちら
そして内区の唐花文様と鈕を分ける区画帯の外側には螺鈿の連珠文がめぐっている。 
ボタンを思わせる唐花文も蕾・小開花、のぞき・大開花・花葉と多彩に表されている。その間に、西方からもたらされた2種類の連珠円文があるが、主文を囲むというよりも、ただの区画帯となってしまったようだ。 金銀絵棊子合子(きんぎんえのきしのごうす、碁石入れ) 径9.7 正倉院中倉
サクラ材の轆轤挽き仕上げによる印籠蓋造の円形合子。同心円状の美しい木目を生かすために素木地のままとするのは、桑木木画棊局の盤面と一具の意匠とすることを意図しているのだろう。蓋・身の側面には、唐花文を廻らして縁に連珠文があしらわれているという。
碁石入れなので、一対で、金と銀を逆にしてそれぞれの文様を描いている。
五弁花が控えめにちりばめられているが、サクラの花ではないようだ。しかし、全体に日本風な雰囲気が強いのは平螺鈿背円鏡と比べて余白が多いからかも。
3列の連珠が側面にめぐっているが、この小さな文様の中にあっても全く目立たず、最初は連珠文があるのがわからなかった。それは素木地のためかも知れないが、連珠文に境界線がないからだろうか。 今回の連珠文は中国製の絢爛豪華な鏡の裏と、日本製の地味な碁石入れに見つけた。
後者は連珠文そのもの描き方のために、前者は主になる唐花の表現が派手なために、連珠文帯があまり目立たないという共通点があった。

また、第60回正倉院展に展観された金銀絵漆皮箱の側面には、不揃いな連珠文が2列に並んでいる。草花やヤツガシラなどの巧みな絵とは全く違う。

※参考文献
「第61回正倉院展図録」(奈良国立博物館監修 2009年 財団法人仏教美術協会)

2009/11/13

正倉院宝物には和風好みも

 
木目の美しい碁盤だが、このような一枚板が採れるのは木の根に近い部分だろうかなどと思って見ていた。

桑木木画棊局(くわのきもくがのききょく、寄木細工の碁盤) 正倉院中倉蔵
同展図録は、盤面は、蘇芳染したヒノキの一枚板の上面に、縦横19条の象牙の界線を施し、木口(こぐち)切りしたクワの薄板を寄木風に貼り詰め、美しい木目を意匠に生かしているという。
なんと、大きな一枚板に溝を彫って線状に切った象牙を埋め込んでいるのではなく、木口切りにしたものを貼り付けてこのような木目を作っていたのだった。これは唐風の好みなのだろうか。 側面の白いところは螺鈿らしい。毛彫で草花を表してあるというが、遂に私の目には見えなかった。橙色の部分にも金泥で草花が描かれているのはどうにか見えた。えっ、紅牙撥鏤か。撥鏤は、象牙の表面を赤・紺・緑などの染料で染め上げ、その上に撥ね彫りで文様を表す技法で、さらに彫りを加えた部分に彩色を点じることもあるという。角度を変えてちらちら見ると光って見えたので、金泥で描いたのだと思った。
一番よく見えたのは紺牙撥鏤の植物や昆虫だった。トンボでもない虫が羽と足を伸ばして飛んでいるのがあちこちにある。カゲロウらしい。そしてツバメらしき鳥も飛んでいるのだが、虫よりも小さいのは遠い空に飛んでいるのを表しているのだろうか。
そして正倉院展で初めて見たのではないかと思うのがススキだった。唐文化一辺倒と思っていた奈良時代に、秋草を表すという日本的な感覚があったのだなあ。
その横にはクワイが描かれていて、花も咲いている。クワイにこんな花が咲くのかと調べてみると、これはオモダカで、しかも花の咲くのは夏でした。特に季節は関係ないみたい。 床脚も木目がよく見えると思ったら、金泥で木理文を描いているという。
野草やカゲロウなどを描くというのは中国風ではなく日本風に思うのだが、このように木目をわざわざ描くという感覚もまた和風の好みではないのか。 子日手辛鋤(ねのひのてからすき、儀式用の鋤) 正倉院南倉蔵
正月初子の日にその年の豊作を祈念して宮中で行われる、農耕の事始めの儀式に使用された鋤という。よく木目の目立つ木が使われているのだなあと思ったら、木製部分は全面を淡紅色に塗り、蘇芳色で不定形の花文を中心においた木理文を描くという。
華やかな年輪と見たが、その中心は花文だった。 不勉強なことに、唐で木理文や山野草を文様として描くということが好まれていたかどうか知らないのだが、唐の文化にあこがれながらも、もともとあった日本人的な感覚が、このように正倉院宝物のところどころに現れているような気がする。

※参考文献
「第61回正倉院展図録」(奈良国立博物館監修 2009年 財団法人仏教美術協会)

2009/11/10

紫檀木画槽琵琶のトラは年賀には不向き


正倉院展では、ところどころに拡大写真のパネルがあり、小さくて分かりにくい文様などをじっくりと観察できるようになっている。四弦琵琶の捍撥部分もその一つだった。

紫檀木画槽琵琶、捍撥(かんぱち、撥受け)
革を貼って全面に鉛丹を地塗りし、その上に緑青や群青・水銀朱、鉛白の上から藤黄をかけた鮮黄色、墨などを用いて狩猟宴楽図を描いており、仕上げとして画面全面に油が塗られている。ただしこれらの油は経年変化で黄褐色を呈しており、現状では土坡や水面を中心として全体に黒っぽくみえる。画面は、下方から上方にかけて近景・中景・遠景の3段に画きわけられているという。
実物が大勢の人で見られないので、まず拡大写真から見ることにした。遠景では、左上部の切り立った崖の下にサルがいて、騎乗の人物たちをおちょくっているように見えた。左手の平を口元まであげて、人間に声を掛けているのでは?
しかし解説は遠景には山中で弓を射る四人の騎馬人物とこれに立ち向かう虎が画かれるという。
トラ?そう言われると体に縞がある。トラだとしても、面白そうな顔をして、白い歯を見せて「ここまでおいで」と言っているように見える。赤外線写真で表情がもっとはっきりとわかるかと思ったが、もっとわかりにくい。
ところで、正倉院宝物は唐やシルクロードからもたらされたものと長年信じてきたが、近年材料の成分分析が進んで、9割ほどは日本製だといわれるようになった。特に唐やペルシアなどと特定していないものは日本製だろう。そうなるとこの琵琶も日本製になる。しかし、日本製とはいっても、中国の作品を真似たのかも知れない。
当時、動物が人間をからかうなどという図柄が、日本はともかく中国にあったのだろうか。近景には投げ縄・鉾・弓矢で虎を追う三人の騎馬人物が配される。このうち一人は疾走する馬の上で振り向きざまに弓を射る、西方起源のパルティアン・ショットの姿勢を特徴としているという。
この虎刈りには物語性があって、遠景でトラにおちょくられた人たちが追いかけて、近景ではトラが今にも捕まえられそうになっているという異時同図になっているのかと思ったが、人物の服装や、道具が異なるので、トラも人物も別だろう。
もっと拡大したものはこちら。パルティアンショットについてはこちら これらの人物の服制や、懸崖・土坡の形状、ベルト状の皴法などは、中国・六朝様式を濃厚に受け継ぐ初唐の様式を示しており、朝鮮半島・高句麗の古墳壁画に画かれる狩猟図とも近似するという。
近景も遠景も、馬には様々な色の房飾りがつけられている。そんな俑をどこかで見たような気がすると探したが、馬ではなく、騎乗の人物についていた。形が似ているので房飾りのようにふんわりと柔らかそうだが、どうも杏葉らしい。騎馬俑はこちら

来年は寅年だが、どちらの図柄も年賀状にはちょっとね。

※参考文献
「第61回正倉院展図録」(奈良国立博物館監修 2009年 財団法人仏教美術協会)

2009/11/06

今年も正倉院展にヤツガシラ

 
今年の正倉院展はヤツガシラが何羽見られるだろうか。

紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ)の槽  正倉院南倉 
同展図録は、槽はシタンの三枚矧ぎ、象牙・緑染めの鹿角・シタン・ツゲ・コクタン・ビンロウジュ・錫などを用いた木画によって華麗に装飾される(緑角や象牙の一部は新補)。中央の白蓮華を取り囲むように、錫の点線による茎で繋がれた蓮華・宝相華・捲き葉からなる花葉文で飾り、さらにその周囲に、花綬をくわえるオシドリ、ヤツガシラ・カモ・サンジャクなどの鳥を左右対称に配し、上端に胡蝶、下端に山岳をおくという。
ここにも三枚矧ぎという合板技術が使われている。合板についてはこちら
この琵琶には4羽のヤツガシラが飛んでいた。嘴の緑染めの鹿角は左上の1羽にしか残っていない。 斑犀把緑牙撥鏤鞘金銀荘刀子(はんさいのつかりょくげばちるのさやきんぎんそうのとうす、小刀) 全長17.9鞘長13.2 正倉院中倉
鞘は撥鏤技法で装飾された象牙製とする刀子。撥鏤は染めた象牙の表面を撥彫し、象牙の白い素地を表すことで文様を表現する技法である。本品の鞘は縹色に染められ、全面に草花・花喰鳥・ヤツガシラやオシドリなどの鳥・蝶などを表し、文様の随所に赤色をさしているという。
ヤツガシラは鞘のてっぺんにいた。銜えているのが植物ではなく蝶なので驚いたが、ヤツガシラは虫を食べる鳥らしい(「日本の野鳥」より)。
正倉院宝物でヤツガシラを見ると、飛んでいるものばかりで地面におりたヤツガシラは見たことがない。珍しい図柄だろう。
今まで数回ヤツガシラを見かけたが、こんなに足は長くなかった。足を長く描いたのは、当時もヤツガシラは日本にいない鳥だったので、工人の想像だろう。
前回のヤツガシラについてはこちら 緑牙撥鏤把鞘御刀子(りょくげばちるつかさやのおんとうす) 全長18.7鞘長14.0 正倉院北倉
鞘・把とも象牙を紺色(古代における緑色の範囲は広く、今日の紺色も含まれていた)に染め、全面に撥鏤技法で文様を表した刀子である。鞘は花卉文・蝶・鶴・含綬鳥・花喰鳥・雁・孔雀を、把には草花文を表し、文様の随所に赤色を点じているという。
この鳥はヤツガシラではないのだろうか。解説には花喰鳥となっていて、ヤツガシラの文字がない。ヤツガシラにしては冠羽が小さいが、他にこんな冠羽を持つ鳥はいないのでは。この鳥が銜えているのは大きな花枝だが、バランスを取りながら地面を歩いているように見える。足が短いのでヤツガシラかも。
それから、ヤツガシラではないが、この刀子には変わったものを銜えて飛ぶ鳥が2羽描かれているのが気になった。含綬鳥というらしい。花喰鳥とともに流行した含綬鳥は、綬帯(菩薩などの身に着ける帯状の装身具)、瓔珞(仏像の首や胸にかける装身具)などをくわえた鳥の意匠という。
2羽そろって同じものを銜えて飛んでいるので、耳飾りかと思った。このような田の字形の三方にだんだん小さくなる玉の垂飾をつけた装身具は、中国にも韓半島にも、どこにも見かけたことのない、珍しい形だ。
刀子は実用の文房具であったほか、貴顕が帯から組紐で下げて佩用する装身具でもあった。
斑犀偃鼠皮御帯(はんさいえんそひのおんおび)に繋着された「小一口 緑牙撥鏤把鞘金銀作」に当たる。この帯は偃鼠(もぐら)の革に斑犀製の飾りをつけていたと考えられ、本品を含めた6口の刀子と訶梨勒(かりろく、薬物)を入れた袋を繋着していた
という。
当時のペーパーナイフやなあと思ったが、NHKの『日曜美術館』(だったと思う)が、書き損じた場合に削る道具と解説していた。
帯に組紐で下げていたとは日本風の腰佩やね。腰偑についてはこちら オシドリをはじめ、日本にはいろんな種類の鳥がいる中で、ヤツガシラは日本にいない割に正倉院宝物にはたくさん描かれている。唐文化へのあこがれなのだろうか。それとも珍しい鳥だからかも。

今年は6羽でした。

※参考文献
「第61回正倉院展図録」(奈良国立博物館監修 2009年 財団法人仏教美術協会)
「山渓カラー名鑑 日本の野鳥」(1985年 山と渓谷社) 

2009/11/03

連珠円文の錦はソグドか

 
『古代イラン世界2』で横張和子氏(古代オリエント博物館)は、連珠円文意匠はサーサーン朝錦としては例外とさえ見えるのである。サーサーン朝の連珠文はしかるべき意味(フヴァルナー)をもつものであったが、しかし装飾の典型とはしなかったようである。それを典型的にしたのはむしろソグド錦であったのではないかと考えているという。
連珠猪頭文錦に代表される連珠円文の錦は、ササン朝ペルシアが起源ではなくソグドらしい。

連珠紋錦 トルファン出土 時代不明 トルファン博物館蔵
『文明の道3海と陸のシルクロード』は、中国の錦を西方に運ぶだけでなく、蕃錦と呼ばれた西方で織り直された大胆な紋様の緯錦(よこにしき)を中国に運んでいたのもソグド人であったろう。最近では、トルファンで出土するササン式の連珠紋の錦の一部が、じつはソグド製であることが指摘されているという。
小さなくちばしの先には何かをくわえているが、首飾りにしては小さすぎる。
首の背後の三角を二つ連ねたものは、ササン朝ペルシアで見られる王の首にたなびくリボンからきたものだろうか。それとも鶏のトサカが意匠化されたものだろうか。また足の後ろ側に小さな三角形が二つ見えるが、これは蹴爪だろうか。トサカに蹴爪なら鶏あるいはキジ科の鳥を表したものかな。
また上下左右に小さな連珠円文を巡らせたものがある。中は他の大きな円文と同じ大きさの円文だが、ターケボスターン出土の四弁花文がこのように変化したのだろうか。
この作品の製作年代が不明なのは残念。 サマルカンドに赴任した各国の使節図 650年以降 アフラシアブ出土 ウズベキスタン、サマルカンド歴史博物館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、ここに記された長いソグド語銘から判断すると、スルハン川流域のチャガニヤン国とタシュケント周辺のチャチュ国の使節が描かれている。 
さまざまな絹の織物の文様が正確に再現されてる。中央アジアの定住民の使節たちの衣服は、有翼天馬、孔雀、鴨、猪、セーンムルウ(怪鳥)などを織り出したササン朝の絹織物で作られている。
という。
左の人物は大きな連珠円文が縦横に並んだ服を着ている。連珠円文の上下左右に小連珠円があり、主文は猪頭文がわかるが、その上はわからない。4つの円文の間には菱形状の空間ができるが、そこには大きく四弁花文が表されているようだ。中央の人物の服は大きな文様が散らされ、縁に連珠円文が帯状に縫いつけられている。
蛇足だが、中央と、右の連珠円文ではなく立涌文が上下左右で交わるような枠に囲まれたシームルグ文の服を着た人物が腰の前に提げているのは、慶州鶏林路14号墳出土の装飾宝剣によく似ている。この形の宝剣については、へ 絹の子ども服 双鴨連珠円文錦製 ソグディアナ 8世紀 クリーヴランド美術館蔵
『西からの絹の道』は、ササン朝起源の文様で装飾されているという。
形は少し異なるが、こちらの鳥も首飾りとは思えない何かをくわえていて、首には三角形のリボンがまっすぐにたなびいている。蹴爪はなく、特徴的な台に乗っている。 連珠円文の錦がソグド人が作ったということだが、7世紀前半以前のソグド錦を見つけることはできなかった。

西域文明的發現の『シルクロードのソグド錦』は、ソグド人はシルク貿易の仲買業に甘んじることなく、6世紀末には独自の絹紡績業を作り上げた。ソグド職人は中国、ササン朝ペルシアとビザンチンのシルクの図柄と西方の緯錦紡績技術を広範に取り入れ、後発の優勢を発揮し、内外にその名が知られるザンダニージー錦(Zandaniji Silk)を生み出したという。
6世紀末と特定できる錦は残念ながら図版が示されていないが、ササン朝滅亡(651年)後にペルシアの地で作られるようになった錦よりも半世紀以上も早いことになる。
また、『世界美術大全集東洋編16西アジア』で650年以後とされたサマルカンド郊外、アフラシアブ遺跡のソグド壁画(2つ目の図)については、林梅村氏は、そこに描かれた漢族の服を着た人物が、高昌国の漢族であるとして、唐の貞観14年(640)に唐太宗は侯君集に高昌平定を命じていることから、サマルカンドのソグド壁画の年代は640年を下ることはないという。
7世紀前半とすると、ササン朝ペルシアのターケ・ボスターン大洞内奧浮彫とほぼ同じ頃、ソグドではすでに連珠円文があったことになる。
6世紀と特定できるソグド錦を見つけたいものだ。

関連項目

ササン朝の首のリボンはゾロアスター教
連珠円文は7世紀に流行した

※参考サイト
西域文明的發現のシルクロードのソグド錦 林梅村 (北京大学考古文博学院教授)

※参考文献
「文明の道3 海と陸のシルクロード」 2003年 日本放送協会
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 2000年 小学館
「ビジュアル考古学9 西からの絹の道」 編集主幹吉村作治 1999年 Newton Press
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団