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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2023/01/31

徽宗皇帝の作品

 

徽宗皇帝は水墨画も描いていた。

秋景・冬景山水図 伝徽宗筆 北宋末南宋初 双幅 絹本墨画淡彩 (各)128.0X32.2㎝ 金地院蔵
『水墨美術大系第2巻』は、身延山久遠寺が所蔵する伝胡直夫筆「夏景山水図」や、現在みることができなくなってしまった「春景山水図」とともに元来四季山水図四幅対であったと想像されるという。
各幅には中国の鑑藏印と考えられる「仲明珍玩」「盧氏家蔵」の2印のほか、「天山」の印が押捺されており、かつて3代将軍足利義満の所有であったことを物語っている。もとより能阿弥が筆者を徽宗とした理由、あるいは伝記の全く分らない胡直夫筆の伝称がつけられた時期もその根拠も明白ではないという。
日本でのみ「伝徽宗筆」とされているらしい。

北宋末の多様な山水画風の全てを明確化しえない現在、この作品の北南宋交替期説を覆す決定的な理由づけは不可能といえるが、筆墨技法の問題よりも空間表現や画中人物の意味等の追求がむしろ重要ではないかと考えられる。
ことに「秋景山水図」にみる対角線構図、樹根によって舞鶴をみる人物の視線、大きな近景の土坡を通してはるか下方にまで空の拡りを暗示する構図法などは、南宋中頃、対角線構図法の完成後の作品を思わせる。
また「冬景図」におけるあまりに近接視した景境の把え方、左上方より斜下方に懸崖をおきながら下辺を完全に余白とする方法、左方の大きな岩と右上方の懸崖、画中人物が立つ山路の展開の方向等、梁楷筆「雪景山水図」と似た構図形式が認められる。
また両幅に点苔が多用されている点を山水画史上の点苔の発展過程の中で解釈するなら、12、3世紀の交を中心とする時期の作品とした方がよいように思われる。いずれにしても、馬・夏の亜流による形式化した院体山水画に比べるなら技法的にも画品の上でもはるかにすぐれた作品であることは間違いないという。
末尾の馬・夏は馬遠・夏珪のこと。
金地院蔵伝徽宗筆秋景冬景山水図  『水墨美術大系第2巻』より


徽宗は自らが登場する図も描いていたらしい。

聴琴図 伝徽宗筆 147.2X51.4㎝ 北京・故宮博物院蔵
『図説中国文明史7 宋』は、画中の徽宗は道士の服を着用し、2人の士大夫の前で琴を弾いており、文人の雅な趣に富んでいる。そこには、文治および道教に対する、徽宗の尊崇の念が表現されている。また、道教を信奉したことから、「教主道君皇帝(道教の一派である神霄派の道士林霊素は、徽宗が天の上帝の長男である長生大帝君の生まれ変わりでありと説いたことにちなむ)」とみずから称したこともあるという。
右上は蔡京の七言絶句で、徽宗が創り出した痩金体で書かれている。
小さな図版なので、徽宗の顔がよくわからないのが残念。
北京故宮博物院蔵伝徽宗筆聴琴図 北宋  『図説中国文明史7 宋』より


搗練図巻 張萓筆(唐代) 徽宗模  北宋・12世紀前半 絹本着色 37.0X145.3㎝ ボストン美術館蔵
『世界美術大全集東洋編5』井手誠之輔氏は、本画巻は、宮廷の仕女がそれぞれ砧の上に絹布を載せ、木槌で打ち柔らげて光沢を出している場面、絹布を裁断する場面、長く広げられた白絹に火熨斗を当てて絹布の皺をのばす場面を一図の中に収め、絹布を制作する作業工程を表した作品である。中には団扇で炭火をあおぐ童女や白絹を持って火熨斗を当てる手伝いをする童女らのほか、まだあどけない童女が、広げられた白絹の下で遊び回るようすなどが描かれ、平穏な宮廷生活を偲ばせる設定となっているという。
日本の絵巻でも、物語の進行とは全く関係のない人々の普段の生活の様子が描かれていたりして、それで当時の人々の暮らしをうかがい知ることができて、貴重な史料という一面もある。
この図の複数の童女は見習いだろうか、それとも宮廷の士女の子供たちだろうか。まさか公主ではないだろう。

本画巻の巻頭には、金の章宗(在位1189-1208)が北宋末の徽宗皇帝の痩金体に倣って書いた「天水墓張萱搗練図」の題記があり、さらに題記上の「明昌」印をはじめ、画巻の各所に章宗の明昌御璽7題が捺されていて、金の内府に収蔵されていたことを伝えている。「天水」とは徽宗のことで、本画巻が、金の章宗のころ、徽宗が唐の張萱の描いた搗練図を模写した作品として認識されていたことがわかる。
徽宗が模写したという張萱は、唐代を代表する宮廷仕女図の作者である。徽宗の宣和コレクションを著録した『宣和画譜』巻5には、47点の張萓の作品があり、その中に、本画巻の原本となった可能性を持つ「搗練図」が見える。
本画巻には、ふっくらと肥満した女性の姿態や、額の中央に花鈿をあしらう化粧などに、唐代仕女図の感化が認められるが、無背景を基本とする中に必要最低限のモティーフを配する構成や、人物の姿態を正面・側面・背面など、自在に変化させながら、奥深い空間を暗示する手法には、「韓熙載夜宴図巻」とも共通する特色が見られ、原画にかなりの再構成を加減したことが想像される。
無款の本画巻の制作者について、徽宗筆の伝承を否定する材料はない。しかしながら、徽宗門下には、「千里江山図巻」を描いた王希孟のような優れた画学生も輩出したようで、徽宗の真筆か、あるいは、画学生によるその模写か、にわかに決しがたい。すぐれた構想をはじめ、仕女の服装の細部にわたる精細な意匠や質感表現には、類まれな力量がうかがわれ、徽宗の強い影響下で本画巻が制作されたことに変わりはない。徽宗周辺で、張萓の作品を参照した例として、「虢国夫人遊春図」(遼寧省博物館)も知られているという。

ボストン美術館蔵徽宗模張萓筆搗練図巻部分 北宋・12世紀前半  『世界美術大全集東洋編5』より

全員が柄の細かな薄い衣服を着ている。張萓の図を模しているというが、服装は唐代のものではない。おそらく宋代のものだろう。
『図説中国文明史7』は、宋代において、紡績業のなかでも絹織物業の発展には目を見張るものがありました。養蚕業と絹織物業は専業化に向かい、絹織物製品を専門に生産する「機戸(機織屋)」と「機坊(機織工房)」が登場しました。こうして絹織物の生産量は大幅に増え、その材質も唐代や元代にくらべてすぐれていました。麻布と綿布の生産量は伸び、なかでも綿織物業は日増しに普及していった新興の手工業でしたという。
婦人も子供も小さな文様を織り込んだ薄手の絹布を着ている。
ボストン美術館蔵徽宗模張萓筆搗練図巻部分 北宋・12世紀前半  『世界美術大全集東洋編5』より


さて、このような絵画を描いた徽宗皇帝とは。
『図説中国文明史7 宋』は、徽宗は典型的な文人であり、当時名の聞こえた画家であり、また書家でもありました。徽宗の院体花鳥画とその独創的な「痩金体」の書法は、中国の芸術史において高い地位を有しています。宋代の皇帝のなかで、徽宗ほど文化的功績を残したものはいません。
宋代の土大夫は、別荘に大きな園林を設け、そこに水をひいて池を掘り、草花や竹や木を植えました。さらに仮山(築山)を築くことで彩りを添え、これによって山水を尚び風雅を愛する文人の興趣を具現しました。
徽宗は、ことに江南の珍しい花や奇石を愛でたので、それらを江南から都に運ばせ皇宮の園林に配しました。その運搬には多くの人手を要したばかりでなく、役人の汚職も加わり、ついに方臘の乱(宣和2年 1120)などの大規模な民衆の蜂起が起こりました。
徽宗が北宋滅亡の元凶となった理由は、おもに政治面での智謀が、文学や芸術面での才能にはるかに及ばなかったからです。
異民族の女真族の王朝である金軍と連合して、同じく異民族の王朝の遼を滅ぼしました。
こうして宋朝は、五代後晋が遼に割譲した燕雲十六州(北京、大同を中心とした河北、山西一帯)をとりもどしたものの、金軍に宋朝の軟弱さと無能さを露呈することになりました。宣和7年(1125)に金軍は南下して宋を侵略し、文弱な徽宗は、皇位を急いで子の欽宗に譲りました。靖康2年(1127)北宋は滅亡し、徽宗と欽宗は、金軍に囚われて五国城(現在の黒龍江省依蘭県にある)に幽閉され(靖康)、ついに他郷で命絶えることになりましたという。

周囲に異民族の国々が犇めいている中で、徽宗皇帝は優雅に絵を描いたり、書をしたためたり、それだけでなく書作品や絵画作品を系統的に記録するなどということをしていて国を滅ぼしてしまった。





参考文献
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 小川裕充・弓場紀知 1998年 小学館
「世界美術大全集東洋編6 南宋」 嶋田英誠・中澤富士雄 2000年 小学館
「よみがえる川崎美術館 川崎正藏が守り伝えた美への招待展図録」 2022年 神戸市立博物館
「水墨美術大系第2巻 李唐・馬遠・夏珪」 鈴木敬 1978年 講談社
「図説中国文明史7 宋 成熟する文明」 稲畑耕一郎監修 2006年 創元社

2023/01/24

川崎美術館展 徽宗皇帝の花鳥画


藤田美術館が所蔵していた美術品は多岐にわたるが、徽宗皇帝の花鳥画もあったのには驚いた。しかも2点も!
これまで沢山の作品を見てきた訳ではないが、徽宗といえば、鳩や樹木を精緻にそして繊細に描いた皇帝と思っていたので、こんなに華やかな絵も描いたのかと驚いた。

牡丹図 伝徽宗筆 元時代・13-14世紀 一幅 絹本著色 147.2X87.9㎝ 
『よみがえる川崎美術館展図録』は、大画面に、満開の花を咲かせる牡丹を描いた大幅。五色に描き分けられた牡丹は画面を埋め尽くすようにその姿をみせ、花と葉を伸ばす。画面左中ほどには、牡丹の株に囲まれるようにして、丸みを帯びた輪郭線による奇石が描かれている。
狩野探幽の外題、狩野安信と狩野伊川院栄信及び大倉好斎の添状は、北宋の皇帝・徽宗の作品として受容されてきた歴史を伝えるが、現在は元時代の作と考えられているという。
徽宗筆のものではなくても、徽宗の名をかたった全くの贋作というのではなく、これだけ精緻に描いた徽宗あるいは門下の優れた画学生による作品を模したものだろう。
藤田美術館旧蔵伝徽宗筆牡丹図  『よみがえる川崎美術館展図録』より

また、牡丹に囲まれた奇石は小さいが、「花石綱」は、人々の非難を買った苛酷な政治の最たるものです。宋代の土大夫は、別荘に大きな園林を設け、そこに水をひいて池を掘り、草花や竹や木を植えました。さらに仮山(築山)を築くことで彩りを添え、これによって山水を尚び風雅を愛する文人の興趣を具現しました。
徽宗は、ことに江南の珍しい花や奇石を愛でたので、それらを江南から都に運ばせ皇宮の園林に配しました。その運搬には多くの人手を要したばかりでなく、役人の汚職も加わり、ついに方臘の乱(宣和2年 1120)などの大規模な民衆の蜂起が起こりました(『図説中国文明史7 宋』より)という。
北京市北海公園の名石  『中国文明史7 宋』より

画面右上には、牡丹の花の周囲で蝶や蜂が舞う。牡丹に施された濃密な彩色、花弁に施された細く繊細な花脈、葉の表現など、細部まで丁寧に描き込まれているという。
牡丹の花びらに、照隈のような白い輪郭の表現は素晴らしい。
藤田美術館旧蔵伝徽宗筆牡丹図部分  『よみがえる川崎美術館展図録』より


徽宗の花の絵に同様な表現があるのだろうか。

緙絲趙佶木槿花図 下絵徽宗の原作 北宋 25.6X25.7㎝ 少府監文思院内侍造作所製作 遼寧省博物館蔵
 『図説中国文明史7 宋』は、象牙色の熟糸のうえに、彩色の横糸で木槿花の一枝を織り込んだもの。下絵に徽宗(趙佶)の作を用いている。これは少府監文思院内侍省造作所が緙絲によって製作したもので、宮廷の逸品であるという。 
緙絲はつづれ織りのことだが、染め物のように薄い生地に見える。それくらい細い糸で織られているのだろう。
遼寧省博物館蔵少府監文思院内侍造作所製作緙絲趙佶木槿花図 北宋  『中国文明史7 宋』より

ムクゲに八重咲きがあるのをこの図で知った。花弁の端はやや薄く着色されてはいる。緑の葉はもっと幅広く柿色に変色しているのでは。色糸に経年による褪色があるのではないだろうか。
八重咲きの木槿花をいらべても、花が咲いている頃に葉が枯れたようなものはない。当初はそれが徽宗が描いた牡丹のように、白っぽい照隈だったのかも。
遼寧省博物館蔵少府監文思院内侍造作所製作緙絲趙佶木槿花図部分 北宋  『中国文明史7 宋』より


芙蓉錦雞図 北宋 81.5X53.6㎝ 故宮博物院蔵 
 『図説中国文明史7 宋』は、徽宗の花鳥画は写真性を重んじた。宮中の東北の方角にあたる「艮嶽」と呼ばれる庭園では、鳥や獣の動作をいつも細かく観察していたので、徽宗のえがく花鳥は、みな精緻にして躍動的であるという。
ムクゲの次はフヨウ。ムクゲよりも大きな花という風に記憶している。こんもりと茂った葉叢にポツポツと大きな花が咲く印象があるが、このフヨウはおぼろげで消え入りそう。霧の中から少しだけ見えているところにキンケイが留まり、チョウを狙っている様子。
北京故宮博物院蔵芙蓉錦鶏図 北宋  『中国文明史7 宋』より

キンケイの白い首回りと長いトサカと尾が、細部まで行き届いた集中力で描かれている。
北京故宮博物院蔵芙蓉錦鶏図部分 北宋  『中国文明史7 宋』より

これだけ拡大しても芙蓉はぼんやりと描かれていて、花の詳細はわからない。
この文字が徽宗が創り出したとされる痩金体。
北京故宮博物院蔵芙蓉錦鶏図部分 北宋  『中国文明史7 宋』より


ところで、徽宗皇帝の作品を初めて見たのは、学生時代に京都国立博物館で開催された国宝展でのことだった。

桃鳩図軸 北宋・大観元年(1107) 絹本着色 28.6×26.0㎝ 
 『世界美術大全集東洋編6 南宋』は、他の徽宗落款のある花枝小禽図と同じく、はたしてこれは北宋時代徽宗朝の作であるかという問題に行き当たる。南宋画院画家の作品に後から款印を入れた可能性もあるし、徽宗筆の原本を南宋時代に模写したものかもしれない。ただ、こうした単純な図様は独創性を問うような絵画ではなく、宮廷画院の中で共通財産として繰り返し描かれたものである。
「桃鳩図軸」は日本においては義満以来、徽宗真筆と信じられてきたのであり、多数請来された南宋絵画から考えて、その基盤を作った徽宗皇帝の作品とするにふさわしい品格を備えている。つまり、日本にある南宋院体画のシンボル的存在として「桃鳩図軸」はあるという。
その頃は世界史に疎く、徽宗が北宋を滅ぼした皇帝だとは知らず、皇帝というものは閑かで品の良い絵を描くものだと思ったのだった。
徽宗筆桃鳩図 『世界美術大全集東洋編6 南宋』より

この図でも花びら端は照隈のように描かれている。
徽宗筆桃鳩図 『世界美術大全集東洋編6 南宋』より


五色鸚鵡図巻部分 徽宗筆 北宋・12世紀前半 53.3X125.1㎝ ボストン美術館蔵
『世界美術大全集東洋編5』は、画巻のように横長の画面でありながら、画軸のように全画面を一挙に広げて掲げる横披も完成し、鑑賞絵画にかかわるすべての画面形式が整った時期とされるという。
ボストン美術館蔵徽宗筆五色鸚鵡図巻部分 北宋  『世界美術大全集東洋編5五代・北宋・遼・西夏』より

同書は、鉤勒の植物、没骨的な禽鳥からなるという。
輪郭を描いて彩色するのが鉤勒、やはり輪郭線に近い箇所が白っぽい。それを私は勝手に照隈と表現している。
照隈については、人体に用いられることが多く、内側からやわらかく光るように見える白の隈(『ボストン美術館 日本美術の至宝展図録』より)という。
ボストン美術館蔵徽宗筆五色鸚鵡図巻部分 北宋  『世界美術大全集東洋編5五代・北宋・遼・西夏』より


瑞鶴図巻 徽宗筆 北宋 政和2年(1112) 絹本着色 51.0×138.2㎝ 瀋陽市、遼寧省博物館蔵
『図説中国文明史7 宋』は、宮殿の屋根は大小の変化に富み、瑞雲がとり巻き、仙鶴が天翔け、めでたく喜びに満ちあふれた雰囲気がかもし出されている。 これは徽宗がえがいた大都市の情景の一コマであるという。
遼寧省博物館蔵徽宗筆瑞鶴図巻部分  『世界美術大全集東洋編6 南宋』より

瑞鶴
 『世界美術大全集東洋編6南宋』は、雲鶴文の飛鶴と薛稷・黄筌の六鶴のうち2型を採り、没骨の鶴、鉤勒の宣徳門からなる。
「瑞鶴図巻」の色彩は一段と優美で、瑞兆を象徴する青い空が印象的だが、その空を背景に宮城宣徳門の上を舞う18羽の丹頂鶴は切り絵のように平板で、屋根に止まる2羽の鶴と同じ平面上に貼り付けられているようだ。この図は大きな景観を描いた図にもかかわらず奥行きに乏しく、楼閣山水画としての空間表現よりも花鳥画特有の色彩の配置や構図の妙に長けた画家によって描かれたのであろうという。
徽宗筆の作品には奥行きのあるものは見当たらないが、それにしてもこれはなさ過ぎる。
遼寧省博物館蔵徽宗筆瑞鶴図巻部分  『世界美術大全集東洋編6 南宋』より


鴨図 伝徽宗筆 南宋時代・13世紀 一幅 絹本著色 37.8X25.7㎝ 五島美術館蔵
『よみがえる川崎美術館展図録』は、首を曲げて背中に嘴をつっこみ、羽づくろいをする雄の鴨を描く。
本画は、『御物御画目録』「小二幅」に掲載される「鴨徽宗皇帝」の一幅にあたり、足利将軍家所蔵の東山御物として知られる。また、堺の商人・津田宗及(?-1591)『天王寺屋会記』が記す永禄12年(1569)の茶会の際に掛けられた博多屋宗寿所蔵の男鳥を描い幅に相当するとの説もある。画面左下には寧宗朝の宰相である史弥遠(1164-1233)の鑑蔵印「紹勲」(朱文瓢形印)が捺される。
中国宋代において高度に発達した美意識と対象の真奥まで描き出そうとする「写実」の妙技を感じさせる絵画であるという。
五島美術館蔵徽宗筆鴨図部分  『よみがえる川崎美術館展図録』より

同展図録は、下から上に瞼を閉じ(鴨の瞼は下から上に閉じる)、硬質な嘴を開いて羽を加えこむ迫真的な表現、首や、胸から腹にかけてみられる羽毛の柔らかい描写、風切羽、尾羽など部位による羽の形態の描き分けや陰影表現など、細部にいたるまで神経の行き届いた丁寧な筆致をみせる。白眉は脚の表現で、趾の間の蹼膜(水かき)の質感表現は驚異的である。様々な線に点描も加えて繊細な色彩感覚で描き出された本画には対象への透徹した観察眼とそれを具現化する確かな描写力が看取されるという。
胸の斑点を直線的に一定の間隔で描かず、まばらにあるのも細かな観察によるものだろう。
五島美術館蔵徽宗筆鴨図部分  『よみがえる川崎美術館展図録』より


猫が花鳥画の範疇に入るのかわからないが、

猫図軸 伝徽宗筆 北宋・12世紀 絹本着色 22.8X27.2㎝ 
 『世界美術大全集東洋編5』は、もとは画冊の一図かと推測される小幅で、その小さな画面に入念な毛描きによって猫のみを描く。この白猫は額に黒斑をいただき、尻尾は黒く、目は金色に輝いているように見えるなど宮廷愛玩の珍貴な猫と推測され、その華麗な彩色から徽宗筆と伝称されてきたという。
伝徽宗筆猫図軸 北宋・12世紀  『世界美術大全集東洋編5五代・北宋・遼・西夏』より

毛の一本一本まで見事に描いて、執念まで感じる。
伝徽宗筆猫図軸 北宋・12世紀  『世界美術大全集東洋編5五代・北宋・遼・西夏』より

 
『世界美術大全集東洋編6南宋』は、徽宗は風流天子と呼ばれ、書画の制作から文房具・古器や太湖石の蒐集にいたるまで、さまざまな方面にその奇才を発揮したが、絵画においては崇寧3年(1104)、画学を創設し、親しく詩を試題して、画学生たちの教養を高めるとともに、絵画における詩情表出を目的として積極的に指導したという。

また『図説中国文明史7』は、徽宗は典型的な文人であり、当時名の聞こえた画家であり、また書家でもありました。徽宗の院体花鳥画とその独創的な「痩金体」の書法は、中国の芸術史において高い地位を有しています。宋代の皇帝のなかで、徽宗ほど文化的功績を残したものはいません。
徽宗は、書画芸術の総括と官学の教育体系の設立にも大きく貢献しました。勅命によって『宣和書譜』と『宣和画譜』を編纂させ、200名近くの書家による1200点あまりの書作品、および200名余の画家による6000点あまりの絵画作品を系統的に記録し、中国絵画の考証に重要な役割を果たしました。また、宮廷画家を養成する機関である翰林図画院の規模を拡大し、画家の地位を押し上げ、絵画の創作を奨励して、宋代の芸術を大きく発展させましたという。
これらの作品が徽宗皇帝の真筆ではないにしても、徽宗の作品や描法が、北宋が滅び、南宋、そして元時代にまで受け継がれていったことを示すものである。

 


関連記事

参考文献
「世界美術大全集東洋編6 南宋」 嶋田英誠・中澤富士雄 2000年 小学館
「よみがえる川崎美術館 川崎正藏が守り伝えた美への招待展図録」 2022年 神戸市立博物館
「水墨美術大系第2巻 李唐・馬遠・夏珪」 鈴木敬 1978年 講談社
「図説中国文明史7 宋 成熟する文明」 稲畑耕一郎監修 2006年 創元社
「ボストン美術館 日本美術の至宝展図録」 2012年 NHK

2023/01/17

蓮池水禽図

 

前回の藤田美術館蔵刺繍釈迦阿弥陀二尊像には最下段に蓮池水禽図があった。それを見ていて、若い頃に蓮池水禽図には必ず病葉(わくらば)が描かれていることに興味をもったのを思い出した。おそらく博物館の平常陳列か、企画展示で見たので、残念ながら図録はない。
あれこれ古い書物を引っ張り出してきて、少しながら蓮池水禽図に行き当たった。


蓮鷺図 双幅 伝徐崇嗣筆 北宋?元? 絹本墨画 各95.2X43.6㎝ 東京国立博物館蔵
『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、今日、著色の蓮池水禽図が数点伝わっているが、本図のような水墨のものは珍しい。
落款も印章もない本図は、箱書によれば、北宋の徐崇嗣の作という。徐氏一派にこの種の題材があったことや、没骨の水墨画であることからいえば、この伝承もかなりうがったものと考えられるが、実際はもっと時代の下った、元時代の無名の職業画工による制作と考えられる。
白鷺は外暈で、蓮花や葉は没骨でかかれるが、ともに筆墨のなまな動きを抑制して、文様を彩色するように、丁寧に平面的に墨彩色される。この単調な墨法と、パターン化した景物一つ一つの明確さは、この画に生動感の乏しい固着した印象を与える。すでに南宋時代には、蓮池水禽図の構成や彩色法が定型化したものになっていたことは、遺品からもうかがえるが、本図はその彩色の部分を墨におきかえたところが興味深いところであるという。
古い書物はモノクロームの図版が多いので、着彩されていても水墨画のように見ている。
伝徐崇嗣筆蓮鷺図 『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より

右幅下の隅に病葉が描かれているように見える。

伝徐崇嗣筆蓮鷺図部分 『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より


伝蘿窓筆 元時代・13世紀後半-14世紀後半 掛幅 絹本墨画 102.6X50.7㎝ 大徳寺塔中高桐院蔵
『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、蓮花に水禽や小魚を配した蓮池水禽というモチーフが画題として取り上げられるのは、古く五代までさかのぼりうるが、北宋以前にまでのぼる遺作はないようである。現存遺品は南宋以後のものであるが、それらが江南地方の職業画工達によって大量にえがかれてきたためか、著色画と水墨画とを問わず、布置構成、著彩法、用墨法に一定のパターンがある。
本図は、おそらく双幅の一方であろうと思われるが、敗荷と蘆に2羽の白鷺を点綴した意匠といい、また白鷺の姿態や蓮葉の描法も、他の蓮池水禽図とさして距離のあるものではない。布置に奥行を暗示するものがなく、景物を平面的に並列したのは、著色画の構成をそのまま借用したためであろう。このように本図は、部分的に使用された粗放な水墨技法にもかかわらず、パターン化された伝統的な方式と密接なつながりがある。ただ蓮の根本に岩石をおき、骨気を導入したのはこの種の作品に例のない新意匠といえる。筆者を蘿窓と伝えるが、水墨の蓮鷺で彼の名を冠したものは他にも例がある。彼の作と定めることは出来ないが、筆技からみて、職業画工の作というより、余技的な画人の作になると思われる。制作期は元時代であろうという。
高桐院蔵蓮鷺図  『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より

若い頃見ていた蓮池水禽図は、元気な蓮の葉に混じって病葉(わくらば)が描かれていて、それが蓮池水禽図の決まりごとだという風な解説があったように思う。
ところが、ここでは、蓮の花は散り、花托には実が熟しているような様子で、蓮の葉も病葉というよりも、季節の終わりに乾燥した縁から粉々になって散っているよう。海老根氏が「敗荷」と呼ぶものである。
高桐院蔵蓮鷺図 病葉部分  『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より


蓮池白鷺図 元・13-14世紀 絹本着色 104.8X55.1㎝ 京都国立博物館蔵
『世界美術大全集東洋編7 元』で宮崎法子氏は、元の画僧たちが、鎌倉時代以後の当時の日本へ与えた影響は少なからぬものがあったと思われる。またそれら日本に伝わった作品がなければ、南宋や元の江南での当時の絵画の層の厚さを、今日知ることはできなかったであろう。そのことは、このような画僧の作品ばかりでなく、名もない職業画家の描いた吉祥の意をもつ一般向けの花鳥画、とくに常州地方で宋代以降、書き継がれていった蓮池水禽図、藻魚図、草虫画などの作品についても、まったく同様である。彼ら民間の職業画家たちは、絹本着色の蓮池水禽図から絹本墨画に至るまで、伝統を継承しつつ新たな絵画の動きや一般の好みを反映して、数々の作品を描いたという。
蓮池水禽図が吉祥の図だったとは。 
京都国立博物館蔵蓮池白鷺図 元・13-14世紀  『世界美術大全集東洋編7 元』より

病葉は葉がしおれたり、枯れたりしているが、シラサギは蓮の葉がどうなろうと意に介せず、ひたすら魚を探している。
京都国立博物館蔵蓮池白鷺図部分 元・13-14世紀  『世界美術大全集東洋編7 元』より


蓮池図 鎌倉時代・13世紀前半 絹本著色 二曲一隻屏風装 180.0X274.4㎝ 法隆寺蔵
 『法隆寺』は、かつては舎利殿内を荘厳していた。舎利殿は、聖徳太子の掌中から出現したとする南無仏舎利を奉安するために、承久元年(1219)に再建された殿堂である。江戸時代中頃に編集された『古今一陽集』の護持仏堂の条に「宮殿の後壁には荷葉に白鷺を描く」とあり、本図がその後壁貼付図であったと考えられている。
また、承久4年(1222)に絵師尊智によって描かれ堂内に掲げられていたとする聖徳太子勝経講讚図と同じ頃に描かれたものと推定されている。
なお中国で制作されたとする説もあるが、日本での制作であれば、蓮池水禽図の最古最優の遺例となるという。
ここに病葉は描かれているのだろうか。
法隆寺蔵蓮池図 鎌倉時代 『法隆寺』より

病葉らしきものは、左隻の蓮茎群の下に描かれた薄茶色のものくらいと拡大して見ると、オシドリのつがいだった。
法隆寺蔵蓮池図部分  『法隆寺』より

では、その右下の葉はどうかな? 古い葉がしおれ始めているように見えなくもないが。
法隆寺蔵蓮池図部分  『法隆寺』より


その後は時代がかなり下がる。

蓮池水禽図 17世紀初か 俵屋宗達筆 伊年印 京都国立博物館 国宝 掛幅 紙本墨画 116.0X50.0㎝
『水墨美術大系第10巻』で山根有三氏は、図中に款記がなく、問題の多い「伊年」印のみが捺されているけれども、画そのものから、これこそ宗達水墨画の傑作として早くより認められた作品である。宗達と伝える水墨画は、現在掛幅になっているものでも、もとは屏風に貼交ぜられていた例が多いが、この図も「伊年」印をもつ他の「蓮花水禽図」と同じ屏風に貼られていたと伝える。しかし確証はなく、またこの図の素地が他に例のない繊維の多い紙なので、当初から一幅として描かれた可能性も考えられる。
ゆったりとして張りのある太い筆致と水墨の微妙な濃淡の調子による花・茎・茎のつけ根・果肉・葉・葉脈の簡潔で的確な表現である。さらに濃墨による鋭い雄しべと精密な羽毛の描写が目をひきつける。また蓮の花や葉、2羽の水禽の布置構成も自由で新鮮であり、とくに全体の静かな奥深い感じ、ほのかに明るくしっとりした雰囲気がすばらしい。これらの背後には、なによりも、宗達の温かな心と鋭い感覚による自然の観察がある。彼は、京都附近の蓮池の夜明けに舟を静かに進めながら、このような光景をしばしばみたのであろう。
ではこの図の制作時期はいつか。これだけの絵に落款がないというのは、宗達が法橋になる以前の作であるのを示す。「伊年」印を捺すのはそのことと関係があろう。それは法橋時代の基準的な水墨画との比較からもいえる。全体の感じの清らかさや墨調の初々しさ、たらしこみの慎重な用い方や濡れ羽根の精密な描き方などから、私はこれを現存する宗達水墨画中、もっとも初期の作品と考えている。最初の作品が代表的な傑作とは不思議だが、遺品の現状ではそうとしかいえない。その時期についてはかつて金銀泥蓮図和歌巻のそれとの関係から、元和初年(1615頃)と推定したことがあるという。
この水禽は小さく首が短いので、カイツブリだと思っていたが、「カイツブリ」は首が白くないので、ハジロカイツブリかな。もっと大きなカルガモではなさそう。
俵屋宗達筆蓮池水禽図  『水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳』より

病葉の拡大
俵屋宗達筆蓮池水禽図部分  『水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳』より


蓮花水禽図 俵屋宗達筆 伊年印 掛幅 紙本墨画 112.6X45.9㎝
『水墨美術大系第10巻』で山根有三氏は、この「伊年」印をもつ「蓮花水禽図」は、もと「蓮池水禽図」と同じ屏風に貼られていたと伝えるもの。それよりやや保存が悪く、向って右端が約2㎝ほど切られたと思われ、飛ぶ小禽の脚や羽根の一部は紙の破れを補って描いており明らかに補筆である。「蓮池水禽図」の遺品は多く、いずれも「伊年」印をもつのは興味深い。
「蓮花図」は蓮花のみを描く点と、その花の姿と同じものが他の「蓮池水禽図」にみられない点、および宗達と同時代の人の賛がある点で注目される。賛の筆者は妙心寺第131世の輝岳宗暾で、寛永20年(1643)に92歳で没した。彼の「前正法山再住」の時期がわかればこの「蓮花図」の制作期はより明確となろうという。
脚や羽根が補筆であったとしても、この鳥はカモでもなければカイツブリでもない。飛ぶ時にS字に首を曲げる鳥はいるのだろうか。宗達とは思えないへんな鳥図である。
俵屋宗達筆蓮池水禽図  『水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳』より

俵屋宗達筆蓮池水禽図部分  『水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳』より




参考サイト

参考文献 
「水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳」 山根有二 1978年 講談社

2023/01/10

藤田美術館 刺繍釈迦阿弥陀二尊像に蓮池水禽図


藤田美術館で久しぶりに蓮池図を見たが、それは繍仏だった。

刺繍釈迦阿弥陀二尊像 鎌倉時代・12-13世紀
外側の仕覆は蓮華唐草文金襴以外は刺繍でつくられた仏画である。
同館図録は、全体に刺繍をほどこした繡仏。向かって右に釈迦如来、左に阿弥陀如来の二尊をあらわす遣迎図である。縁には蓮唐草文をめぐらし、四隅に四天王の種字をおく。上部には中国の僧・善導の文があり、その間を飛天や楽器が蓮華の花びらとともに舞うという。


また、藤田美術館繊細な刺繍による仏画に精密な画像とQ&A式の解説があり、それを参考にこの仏画をみると、上段左右に配された色紙には、浄土思想を確立した善導の書物からの引用文、中央には飛天が虚空で散華していて、柔らかな色彩の蓮弁や楽器が舞う。
中段はそれぞれ形の異なる天蓋を掲げた釈迦如来(右)と阿弥陀如来(左)が来迎雲に乗っている。大きな頭光は光線が幅広で、菊の花のように密に並んでいて、傘形光背とも思える。

釈迦如来と阿弥陀如来の立像の下で、観音菩薩は蓮台を持ち、勢至菩薩は合掌して往生者を迎えに来ている。ということは、これは来迎図?
繊細な刺繍による仏画によると、釈迦如来は亡くなった人を送り出し、阿弥陀如来は亡くなった人を極楽に迎え入れるというそれぞれに役割があって、この二如来を組み合わせたものを遣迎図というのだそう。「遺迎図」? この年になるまで知らんかった😣
そして二如来二菩薩の間には装飾的な三脚の机があり、一対の花瓶と獅子形香炉が置かれ、見えにくいが、上を向いた獅子の口から香の煙があがっている。煙は繊細な刺繍による仏画ではっきりとわかります。

下段 蓮池
中央の州浜状のところに多宝塔があり、扉が開いて中に二仏が並坐している。これは二仏並坐像といって、多宝如来と阿弥陀如来が並んですわっているとされているが、釈迦阿弥陀二尊図であれば、釈迦如来と阿弥陀如来ということになるのだろうか。
池には蓮華が咲き、蓮華や蓮の葉の間に水の流れが描かれ、2羽の鳥が飛んでいる。蓮池水禽図では水辺の鳥が描かれるが、ここでは尾の長い小鳥になっている。   

蓮の葉にしては妙だと思っていたら、クジャクの尾羽だった。身をかがめて尾をあげ、餌を探している様子。


繊細な刺繍による仏画では、この飛ぶ鳥はオナガらしい。州浜にはもう1羽、羽を繕っているカモのような鳥も。カモだけが水禽だが、蓮池水禽図と呼んでも良いだろう。


この蓮池図を見ていて、若い頃に蓮池水禽図には必ず病葉(わくらば)が描かれていることに興味をもったのを思い出した。それについては次回。


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参考サイト

参考文献 
「水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳」 山根有二 1978年 講談社