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忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/11/25

よみがえる川崎美術館展 伝顔輝筆寒山拾得図


かつて川崎美術館というものが神戸にあったことを、テレビで知った。そのCMはよく見ていたが、あるとき、その収蔵品に顔輝の寒山拾得図があることを知って驚いた。
もう40年以上前に博物館で買ったこの絵はがき、直線的な着衣の輪郭線なのに、その膨らみが感じられ、やや怪異な顔貌との対比とも相まって、忘れ難い寒山拾得図となったが、なかなか見る機会に恵まれなかった。
そんな作品がやっと見ることができた。


寒山拾得図 元時代・14世紀 伝顔輝筆 対幅 絹本著色 各127.6X41.8㎝ 東京国立博物館蔵
『よみがえる川崎美術館展図録』は、暗闇の中で不敵な笑みをうかべる寒山と拾得。三日月のように細い弧を描く瞳、太い鼻筋と大きな小鼻、白い歯と赤い口内をみせて大きく開いた口と、その表情と姿は一目見ると忘れられないほどの存在感と力を放つ。二人の視線は相対する私たちを観ているのかは定かでないが、不確かな視線と大笑する表情は俗世にいる私たちを見透かしているかのようでもある。特徴的な表情にとらわれがちであるが、細部をみていくと、墨線と朱線を重ねた肉身、細い墨の曲線で表した髪のゆらぎ、衣文の緩急ある墨線、衣のぼかしなど、さまざまな技法を組み合わせて、得も言われぬ力を放つ寒山拾得を見事に描き出していることがわかるという。
若い頃は、太く直線に近い衣文が丸みのある着衣をみごとに描き出していることに深く感銘を受けた。
今の若い人たちはどうなのか分からないが、私の若い頃は、美術・芸術といえば西洋のものという人が圧倒的で、この作品の素晴らしさについて語っても仕方がないと思っていた。そんな中で、ただ一人、この作品のことを知っていて、私同様凄いと思っている人がいた。今でも友人なのだが、その人は寒山拾得に負けないアーティストになっている。
伝顔輝筆 寒山拾得図 絵はがきより

暗い展示室では、衣文線がどこから始まって、どのように続いているのか、どこで継いでいるのかなどを想像して、じっくり愉しんだ。
東京国立博物館蔵伝顔輝筆寒山図部分  『よみがえる川崎美術館展図録』より

それにしても顔は怪異で、顔貌とのギャップと共に忘れ難い作品だった。ところが今回は年を重ねたせいか、柔和な顔に見える。
東京国立博物館蔵伝顔輝筆寒山図部分  『よみがえる川崎美術館展図録』より

髪は薄墨でぼんやりと形を整えた後、1本1本極細に曲線を重ねていったよう。
東京国立博物館蔵伝顔輝筆拾得図部分  『よみがえる川崎美術館展図録』より

拾得の持つ箒が、ほぼ直線の集合なのに丸みが感じられる。

東京国立博物館蔵伝顔輝筆拾得図部分  『よみがえる川崎美術館展図録』より


本図は双幅の掛け軸で展示されていたが、今回の図録でも表装は省かれていた。しかし図録には、昭和11年(1936)に開催された長春閣蔵品展観の図録の表装のまま写された写真が掲載されていたのは有り難い。

寒山拾得図  
 『よみがえる川崎美術館展図録』は、本作品は足利義政が所蔵した東山御物で、その後織田信長の所蔵となり、石山合戦の和議にて石山本願寺・顕如上人へ贈られた。
維新前後に本願寺から大阪天満の大根屋某なる豪商、ついで伊丹の某の手に渡り、山中箺篁堂の山中吉郎兵衛がこれを入手したという。
明治21年7月の九鬼隆一、岡倉覚三らによる美術取調では「優等ト認メタルモノ」の筆頭に掲げられており、調査写真が宮内庁書陵部図書寮文庫に伝わる(「美術録写真」)。第1回展観以来、川崎美術館の二階楼上上段之間の床之間や、長春閣の書院床之間など、最も格式高い場所に陳列されてきた。
美術史家や画家の関心も高く、洋画家・岸田劉生が麗子像のひとつ「野童女」を描いた際には、「寒山図」(右幅)に着想を得たと伝えられる。
『長春閣鑑賞』第四集及び昭和11年(1936)の第3回売立目録では巻頭に掲載されていることも、周囲や後世の人々にとって川崎正蔵の代表的収集品と認識されていたことを示唆する。戦後、東京国立博物館の所蔵となった。収納箱は新調されており、川崎正蔵の旧蔵品に特徴的な口貼りや所蔵印は貼付されていない。
川崎正蔵は日露戦争でバルチック艦隊が紀淡海峡を攻め込んでくるようなことがあれば、本作品を携えて高野山へ避難を考えていたと伝えられる。その愛蔵ぶりは睡眠中も本作品を忘れることはないといわれたほどである。自身の命の次に大切なものとして、川崎正蔵が最も愛蔵した、コレクションを代表する名品であるという。
表装には歪みが生じていて、割合古い時代のものに思える。
暗~い空間に展示された表装はよくは見えなかったが、同館のFacebookにはカラー写真が載っていて、モノクロームの写真からは想像できない明るい色彩だった。
軸装された伝顔輝筆寒山拾得図 『よみがえる川崎美術館展図録』より
 

表装

上下 萌黄地二重蔓牡丹古金襴 
蔓の目立たない牡丹唐草である。金地二重蔓牡丹唐草紋金襴も牡丹の花が互の目に配置され、上向きの花と下向きの花が上下交互になっているが、本金襴では、上向きの花と下向きの花が左右交互に置かれる。どうも時代が下がるにつれて、蔓が目立つようになる気がするので、蔓の目立たない牡丹唐草の法が古いものと判断。

中廻し 茶地大牡丹古金襴
Facebookの写真はずっと白っぽい、白茶地のようである。1936年以降に修復し、新調されたのではないだろうか。
左右で文様が異なるように見えるが、左幅の牡丹は、大牡丹から想像するよりもっと巨大な牡丹の花弁1枚1枚が、地を覆い隠すかのように広がっている。大胆な文様である。

一文字 丹地飛雲古金襴
嵯峨金襴または富田金襴はと呼ばれるものは、霊芝雲が斜め上につながり、その隙間に宝尽紋が入るが、この飛雲古金襴は宝尽紋が入り込めないほど隙間がない。やはり古い金襴らしい。
伝顔輝筆寒山拾得図の表装 『よみがえる川崎美術館展図録』より


ところで、この寒山拾得図は、顔輝の作品とは断定されていない。顔輝の真筆は確認されていないが、 『水墨美術大系第4巻』に伝顔輝とされる水月観音図が記載されている。

水月観音図 掛幅 絹本墨画淡彩 111.1X58.4㎝ 伝顔輝 W・R・ネルソン美術館蔵  
水墨美術大系第4巻』は、この作品は元の人物画の代表的作家、顔輝の筆になると伝えられているが確証はない。しかし観音がまとう紗の上衣が透けて、その下の肉身がみえる描写は、顔輝派の作品に例が多く、本図も少くとも顔輝流派の一作例とみることが出来るであろう。しかし、本図が元の顔輝派の一作例とはいっても、その国籍となると中国画であると断言するにはやや躊躇せざるをえない。すなわち、樹木や岩の表現における濃墨の使用は元風ではあるのだが、観音の坐る岩の立体表現は未熟で、岩と波は別々に画かれて岩に波頭がくだける描写もなく、また観音自体のモデリングも特に腰部から組んだ足にかけて不自然である。さらに岩座に垂れる観音の衣文の先が尖らず丸いことも中国のこの種の作品には類例がなく、むしろ日本の作品に近似性がある。即断は避けたいが、このような点で、本図は顔輝流派の影響下の本邦の作品の一例ではないかとしておきたいという。
顔輝の真筆は残っていない可能性があるにしろ、「顔輝派」「顔輝流派」などがあるほどに、人気があったのだ。
WRネルソン美術館蔵 伝顔輝筆水月観音図  『水墨美術大系第4巻』より


文化財オンラインで、九州国立博物館に伝顔輝筆釈迦三尊図、佐賀県徴古館に伝顔輝筆四大羅漢図が所蔵されていることを知った。

また、WEB画題百科事典「画題Wiki」(一般公開版)寒山拾得に、金井紫雲(1954年没)の『東洋画題綜覧』が記載されていて、その中に郷男爵家旧蔵顔輝筆寒山拾得と黒田侯爵家蔵顔輝筆寒山拾得の2点があった。尚、同ページには川崎正藏は川崎男爵家旧蔵として、尾形光琳筆寒山拾得図を所蔵し、と円山応挙筆寒山拾得図旧蔵していたことになっている。
 上記したように、『よみがえる川崎美術館展図録』の解説によると、川崎正蔵は伝顔輝筆寒山拾得図を、今後三年は本作品の行方を他言しないことを条件に、明治18年(1885)に購入しているので、 『東洋画題綜覧』はそれ以前に著されたものだろう。




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参考サイト

参考文献
「よみがえる川崎美術館 川崎正藏が守り伝えた美への招待展図録」 2022年 神戸市立博物館
「水墨美術大系第4巻 梁楷・因陀羅」 川上涇・戸田禎佑・海老根聰郎 1978年 講談社