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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/12/23

白衣観音図 日本


日本でも白衣観音図はよく描かれた。


白衣観音図部分 鎌倉時代末期 一山一寧(1299来朝-1317没)賛 絹本墨画淡彩 89.2X38.2㎝
 『水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆』で海老根聰郎氏は、初期水墨画の発展に力があったのは、禅僧と禅林社会であるが、彼等が中国から舶載し、受容した作品のうちには、中国の職業画工の作品がかなり含まれていたと思われる。観音のような広い信仰にささえられ、需要の多かった図像には、特にそうした例が多かったと思われるが、本図の作者が下敷きにした作品は、そのようなものであったろう。
この図にみる、衣褶のくまどり、微妙な衣の襞の再現、観音の右手の位置などは、卓抜な技巧の持主にしか実現できない、高度な写実表現が原画にあったことを伝えているし、衣の下縁部にみえる文様や、顔面の精細さは、禅余の率意の作品とはことなった仕上げの作品であったことを充分推察させるのである。本図の画家は、それらをかなり忠実に再現しえているが、不明瞭な細部や、対象表現から浮き上がった生まな線描をのぞかせているのは、いかにも初期水墨画らしい、ういういしさといえるであろうという。
芦葉達磨図は知っていたが、白衣観音が大きな蓮華に乗るとは。どこへ行くのだろう。
一山一寧が賛を書くほどの者が描いているのだから、崖に結跏趺坐したり、くつろいだりする図と同じくらい画題としては成立していたのだろう。
一山一寧賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図 鎌倉時代末期・1319年以前 約翁徳倹賛 絹本墨画 100.8X41.7㎝
同書で衞藤駿氏は、補陀落山中にあって竹林を背景にした幽境の岩上に瞑想する白衣観音に、善財童子を配している。図様は中国元代水墨白衣観音図を踏襲しているが、暈渲豊かな水墨技法はかなりの習熟を示している。
賛者の約翁徳倹(1244-1319)は鎌倉の出身で、蘭溪道隆に師事し入元帰国の後諸寺を歴任、文保元年(1317) 一山一寧をついで南禅寺に住した。南禅寺塔頭法皇寺に自賛の頂相がある。元応元年(1319)、76歳で示寂しているから、本図はお よそ1300年前後の制作と推定され、制作時期を明確にする初期水墨画としての資料価値は高いという。 
善財童子が登場する白衣観音図は珍しい。
善財童子については安倍文殊院の文殊菩薩と善財童子の像が有名だが、53人の善知識を訪れ、普賢菩薩と同等の智識を得た。詳しくはこちら
約翁徳倹賛白衣観音図  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 鎌倉末-南北朝 伝良全筆 常盤山文庫 絹本墨画淡彩 95.4X47.8㎝
同書で衞藤駿氏は、 妙興寺本乾峰士曇賛白衣観音図の筆致に近似するもので、良全画および同時代絵仏師系画人による水墨画の様相を知る上に貴重な資料である。
従来可翁筆と伝えられて来たがもとより確証はなく款記印章ともに存在しない。複雑に構成された前景の岩座、遠景の土坡、そして松樹は、控え目に引かれた衣文線に比してやや意欲的に描写されている。座右に置かれた楊柳、煩瑣な松葉の表現は片隅に配された滝と波頭の表現とともに新流入の水墨画法を試み、その模索的な態度が逆に本図に古様を与えているという。
岩に寄りかかって水の流れを愉しんでいるのだろうか。
伝良全筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代初期・14世紀前半 黙庵筆 平石如砥賛 絹本墨画 121.4X49.0㎝
同書で海老根聰郎氏は、白衣観音という題材は、黙庵が生存していた元末には、観音より も周囲の山水描写に作者達が腕をふるう場となっている。黙庵に山水の作はないが、「四睡図」にみる微細な墨調の使いわけは、彼が山水画をも描ける力量の持主だったことを思わせる。
しかし、本図にみる黙庵は、暗示的に素っ気なくしか、背景を描かない。表現の主眼は、観音とその微妙な表情におかれている。その意味で、彼はいささか古風である。白衣観音図は、当時多量に描かれたらしく、ほぼ相似たものがいくつかあり、本図とまったく同じ観音の形姿をもつものも2、3ある。ただ本図にみる、対象を単純化していく、息の短い曲線は、黙庵のものである。上方に平石如砥の天童寺住持時代の題賛があるから、この作品は、天暦(1328-30)から元統(1333-35)にかけての作品であり、入元してから比較的年月をへていない頃のものと考えられるという。
背景の崖や寄りかかる岩は没骨で表されていて、筆の運びで描かれた白衣観音はその中で際だっている。
黙庵筆平石如砥賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代初期・1352年 徹翁義享賛 真珠庵 絹本墨画 108.3X50.7㎝
同書で衞藤駿氏は、図上に正平7年(1352)の年記をもつ大徳寺第2世徹翁義亨の著賛があり本図の制作年代を知ることができる。
飛瀑を伴う樹下岩上に安坐する楊柳白衣観音で、画面構成は背景などを含めかなり煩瑣ではあるが、淡墨と流れるような筆線の巧みさが全体を瀟洒なものにしている。おそらく絵仏師系画人の手になるものと思われるが、達者な筆法ではあるが量感に欠け、骨法も未熟である。藪本家室町時代の制作と思われる本図の模本が存在するという。
柳の枝を持つものを楊柳観音と呼ばれている。
観音は滝を見上げているというよりは、その爆音をしみじみと聞いているよう。
徹翁義享賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図 室町時代・1361年以前 良全筆 乾峰士曇賛 絹本墨画 88.4X40.2㎝ 妙興寺蔵
同書で衞藤駿氏は、瀑布を背景とした水中の岩上に趺坐瞑想する正面向きの白衣観音図で「良全筆」の款記は画面向って左下隅にかくし落款風に墨書されている。
図様は水墨白衣観音図として通常のもので、中国画の模写的稚拙さはなく流麗な筆致をもった良全画中の白眉といえる。ここでは絵仏師的な硬直した筆致は水墨画的な方向へ移行していることがわかる。賛者の乾峰士曇は筑前博多の出身で上洛後諸寺を歴参した後、建武4年(1337)東福寺、貞和4年(1348)南禅寺に住し、ついで関東に下って文和4年(1355)円覚寺の長となり康安元年(1361)に示寂している。本図は年記を欠くが歿年を最下限とすることはできる。
良全画に士曇が著賛する作例には騎獅文殊図(正木美術館)があり、両者の関係が東福寺を介して密接であったことが指摘できる。なお良全画には「海西人良全」の款記をもつものがあり、海西すなわち九州出自とする説、中国とみなす説、さらには朝鮮と解する見解もあるが、画格に相当なひらきが認められ、仏画的作例の描法から推察すれば日本の絵仏師的素養をもつ画人と考えるべきであろう。なお良全面には「良詮」の款記も併用しているという。
岩座下には激流が表されているが、それでも眉一つ動かさない白衣観音である。
しかし、白い大衣は両肩から外されて、胸前にたぐり寄せられている。
良全筆乾峰士曇賛白衣観音図  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図 室町時代・1370年ごろ 愚渓筆 絹本墨画 大和文華館蔵
 『日本の美術69』は、漁樵山水図の中幅で、岩上に坐る最も典型的な形の図である。しもぶくれの顔が不思議な魅力をもち、非常に簡潔に描かれた描線がつくり出す雰囲気とともに素朴さが好ましい。水上に突き出すように描かれる岩坐の表現において大樹寺本にみられるような鋭角的な角の線がなくなり、丸味をおびた量感の描写が可能になった時代の進歩を考えなければならないという。
雨の当たらない岩陰で、安定した大きな岩の上に円形の敷物を敷き、坐している。その下には穏やかな流れがある。
大和文華館蔵 愚渓筆白衣観音図  『日本の美術69 初期水墨画』より 

そして水甁ではなく鉢が置かれていて、その縁には一枝の楊柳が無造作にのせてある。
丸顔の白衣観音図は少ないのでは。
大和文華館蔵 愚渓筆白衣観音図  『日本の美術69 初期水墨画』より


白衣観音図部分 南北朝時代・15世紀 吉山明兆筆 健中清勇賛  紙本墨画 61.2X28.4㎝  東京国立博物館蔵
同書で金澤弘氏は、図右下隅に破草鞋の印があり、上部に建仁寺122世を董した 健中清勇の賛詩がある。図はMOA美術館本と全く等しい景物によって構成されるが、中央岩上に観音が全身を現わして端座する点が異なる。
観音は非常に細身で、面貌、衣ともに軽やかな墨線が流麗に形づくる。下方の岩は対称的に力強い焦墨によって端的に表わされる。円光の外側と上半身及び衣のすその部分に外隈的に墨のぼかしを用いて浮き出させる手法は「大道一以像」にもみられる手法で、この図の特色になっている。この技術と、強い感じの岩座と軽い観音の対比によって、この図はきわめて静止した印象を与えるようである。
なお像そのものの表現は明兆の白衣観音のうちではもっとも古様で、愚谿の「白衣観音図」などに近い。永享年間(1429-41)に没したと思われる健中清勇の賛はその位置、図の構成から考えて当初は予定されていなかったものであろうが、図の制作期と距たらない永享年間のものであろうという。
崖や岩が、太い線で表され、植物ともに濃墨で描かれる。点苔がほどよく散らされている。
明兆筆健中清勇賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 15世紀初頭 明兆筆 天性寺  絹本墨画 74.7X36.5㎝
同書で金澤弘氏は、明兆の白衣観音図中もっとも本格的な図で、先人良全の「白衣観音図」と同の趣をもつ。格調のある衣紋線が周到に像を形づくり、面貌描写も非常に精緻である。これと対応するように水中につき出した岩も、明兆としてはかなり本格的な法を用い、明暗の諧調もきわめて自然で、優れた立体感をもっている。下部の水波と笹様の草も濃墨で描かれ、上部の懸崖と垂れ下る夢の没骨描による中墨との対比も見事で、完璧な遠近感をみせている。図右下隅に「明兆筆」の落款と明兆の壺印があるが、壺印は他の作品にみられないもので信はおけない。筆致から推して、この強い筆線と完全な構成は「普明国師像」に近く、作画年もこれに近い15世紀初頭の明兆の完成期にあたるものであろうという。
明兆筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代中期 伝明兆(1352-1431)筆 東福寺蔵
 『水墨美術大系第5巻』には参考図版としてモノクロームで記載され、解説がない。2023年10月7日から開催される京都国立博物館での「東福寺展」に展示されるらしいので、これがどのような作品なのか期待している。
東福寺蔵伝明兆筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より

東福寺展図録ではもちろん大きな図版が記載されていたので、それも添付するが、詳しくはこちら
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図 東福寺展図録より


白衣観音図 室町時代・15世紀 霊彩筆 紙本墨画淡彩 93.1X37.7㎝ 玉泉寺蔵
同書で金澤弘氏は、図中、岩石の間に「霊彩」の隠し落款があり、脚踏実地の白文方印をもつ。隠し落款の手法は中国の宋時代からしばしば用いられたものであるが、わが国の室町水墨画では数少い。
図は真正面から端正に坐る白衣観音を捉えているが、像の描線も他の霊彩画ほど抑揚のある線描ではなく、赤脚子ほどの煩雑さもなく、洗練されている。像の静止した姿に較べて波頭の動的な描写は見事な調和を示していて好ましい。岩の表現はさほど強いを用いずに墨色豊かに面的に表わし、陵線に沿ってわずかに描き残された白地が巧みにハイライトになり、岩の量感を表わしている。霊彩は赤脚子と異って道釈人物画のみにその筆跡をとどめる画家で、この派で最も特徴的であるが、本図はなかでも最も静かで端正な図といえる。伝統的な画題と伝統的な構図を踏襲したためであろうか。衣紋、瓔珞などに淡彩が賦されているという。
顔は正面を向いているが、視線はやや下を向くが、手先を見ている風でもない。ぼんやりとお茶を点てているのだろうか。
霊彩筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代・15世紀 赤脚子筆 紙本著色 93.0X34.7㎝
同書で金澤弘氏は、赤脚子の印は古くから知られていたが、その伝記は全く判っていない。建仁寺の古心慈柏や東福寺の愚極礼才(1452歿)の賛があることと、この印形が明兆の破草鞋、霊彩の脚踏実地に非常に近いこと、さらに画風のつながりから東福寺画系の第3の画人と確認されるが、遺作はかなりの数に及んでいる。
図は深山の奥、渓流につき出した岩上に坐る白衣観音の典型で、他の赤脚子の白衣観音図と比較しても、背景の布置が異なるものの像自体の表現はほとんど同じで、一種の形を用いた制作を思わせるほどである。またこれが赤脚子の多作の一因にもなっているのであろう。像の線描は非常に煩瑣で、短く切断され、ひだを表わすのに平行状の曲線を多用し、しかも筆速がない。この特徴は明兆、霊彩より強調され、そして明兆の力強さはなく、霊彩の洗練さには劣るが非常にまとまりのよい特徴をもっている。背景も同様に複雑で、えぐられたような形の岩、わき立つような波頭、多用される緑青を伴った点苔などに赤脚子独得の画風を示している。なお左方岩の間に赤脚子白文印が捺されるという。

赤脚子筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代・16世紀 一幅 紙本墨画 46.3X20.7㎝ 茨城県立歴史館蔵
 『雪村 奇想の誕生展図録』は、雪村は生涯数多くの白衣観音図を描いているが、本図は常陸時代の最初期の作。
白衣観音図は室町時代の水墨画の世界でも数多く描かれ、本図もしかるべき手本があったかもしれない。岩座と崖は没骨で、観音の衣文線は太筆で引かれるが、とくに膝前から裾にかけての筆はまだこなれていないように見えるという。
確かに結跏趺坐する膝の膨らみの表現が変。
茨城県立歴史館蔵雪村筆白衣観音図  『雪村 奇想の誕生展図録』より


観世音図 室町時代・16世紀 一幅 紙本墨画 59.3X16.5㎝
同展図録は、一葉の蓮弁に立って水上を行く白衣観音を描く。この画題は古い作例では一山一寧(1247-1317)賛の白衣観音図が知られ、こちらは蓮弁型の光背を背負う。また雪村作品としては、本作のほかに、白文方印「鶴船」と朱文印「雪村」を捺す円光を背負った一葉観音図が知られる。
あるいは祥啓作品の模本や、祥啓の弟子の興悦筆観音・寒山拾得図にもやはり円光を背負った一葉観音が見られ、水難を退けるという一葉観音の姿は、関東水墨画壇において親しまれたモチーフと考えてよいだろう。雪村の人物画にしばしば登場する、大きく翻る袖や衣の裾の描写が、ややたどたどしい線ながらも本作にも見られるという。
一葉観音は水難を退けるらしい。
雪村筆観音図  『雪村 奇想の誕生展図録』より


観音・龍虎図うち観音図 安土桃山-江戸初期 狩野興以筆 三幅対中幅  紙本墨画 各167.0X93.0㎝ 長野県建福寺蔵
 『水墨美術大系第8巻』は、興以の確実な基準作は必ずしも多いとはいえない。そのように数少ない彼の基準作品の代表作のひとつとして、つとに知られているのは、これらの三幅対である。その各幅には、「狩野」(朱文長方形)、「法橋」(朱文火灯窓形)、「興以」(朱文方形)の三印記が捺されている。
興以は、師光信の弟孝信からその愛児守信(探幽)、尚信、安信の薫陶を託されたところから推すに、単に画技が堪能であったばかりでなく、人柄も温厚篤実で信頼すべき人物であったにちがいない。
ところで、これらの三幅対の画因が、牧谿画より得られたものであることは明らかで、特に龍虎図は、牧谿筆龍虎図(大徳寺蔵)に学ぶところが多い。しかし中幅の観音図は、牧谿の観音図(大徳寺蔵)に比べると、観音そのものの姿態や背景の描写において工夫のあとがみられる。その描写は、詳細であって、岩にみられる柔らかな皺法は牧谿画に学ぶところがあったのであろう。そして観音の容姿はなかなか美しく、牧谿画の観音の崇高な気高さとは異った一種親しみ深い美しさが感じられるという。
牧谿筆白衣観音図はこちら
表情は牧谿筆白衣観音図によく似て穏やかである。これから結跏趺坐するのか、その後で立ち上がろうとしているのか、両足の動きが他に例を見ない。
それに、頭光が岩の隙間より奥にあるように感じる。
長野県建福寺蔵狩野興以筆白衣観音図  『水墨美術大系第8巻』より


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関係項目
明恵の夢と高山寺展 善財童子は善知識を訪れる


参考文献
「水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆」 田中一松 1978年 講談社
「水墨美術大系第8巻 元信・永徳」 土居次義 1978年 講談社
「日本の美術69 初期水墨画」 金沢弘 1972年 至文堂

2022/12/16

白衣観音図2 中国


水墨画の画題に白衣観音図というものがある。 『水墨美術大系第3巻』は、観音は宗派をこえた広い信仰によってささえられ、宋以後、技法的にも図様的にも、さまざまなかたちで描かれてきた。水墨画の観音には白衣をきて岩上に安坐する姿を描いたものが多いが、時代を下るにしたがって観音の姿よりも周囲の点景物に作者の関心がうつっていくという。

以前にまとめた白衣観音図1とやや重なるが、できるだけ年代順にまとめてみた。


白衣観音図 南宋(12世紀中頃) 掛幅 絹本著色 40.4X40.4㎝ 
 『水墨美術大系第4巻』で戸田禎佑氏は、この作品は、淡雅な色彩と洗練された瀟洒な形態の美しさにより、南宋の人物画のなかで、ひときわ目立つ存在である。やや顎をつき出すようにして坐る観音の姿態には信仰の対象というより、鑑賞的性格の強さがうかがえる。頭上に化仏が画かれていないことも(水墨の白衣観音の多くは化仏がない)、これとかかわるものかもしれぬ。肥痩のない衣文線は李公麟風の白描画の存在を意識しているが、この描線に胡粉による白線が添えられて、静かななかに華やかさを醸し出す。
観音の坐る蓮座の描写は仏画の枠のなかではあるが自然の花に近く、蓮華の蕊はさまざまに倒れ伏している。このような繊美な絵画は、単なる画工というより個性をもった画家の創作と考えたい。おそらく院体の花鳥画・美人画等をよくした人物ではなかったろうか。
なお、この「観音図」は大正3年7月17日付で高津村(現大阪市城南地区)大仙寺より久原家に譲渡された。田能村竹田もかつて大仙寺を訪れており、彼による本図の写しも現存しているという。
確かに蓮弁は優美で、蕊の上には蓮華状の敷物のようなものが見え、その上には着衣の端だろうか、薄い布帛が蓮弁のように重なっている。極めて座り心地が良さそうだ。
白衣観音図 南宋  『世界美術大全集東洋編6 南宋』より


白衣観音図部分 南宋後期 笑翁妙堪(1177-1248)賛 掛幅 絹本墨画 119.0X44.2㎝
『水墨美術大系第4巻』で戸田禎佑氏は、この「白衣観音立像」は、衣文線をかなり太い筆線でいて、姿態の大要をとらえ、顔貌、瓔珞、手のあたりの描写には細密な白描風の描写を用いている。衣文の大胆ともいえる大まかな筆使いは、故宮博物院所蔵の趙孟類筆と伝える「魚籃観音図」の表現に近く、 両者には様式的に何らかの関わりあいのあることがわかる。すなわち、趙孟類筆とされる「魚籃観音図」は、趙孟類の真蹟とは認めがたいものの、その特異な画風は、この「白衣観音図」の存在によって根拠のあるものとみる推察が可能なのである。また、本図に様式的に近い作例として、円覚寺の伝牧谿筆「観音図」があげられようが、円覚寺の作品よりも本図の方がさらに洗練されており、より本格的な作品といえるであろうという。
このような立ち姿の白衣観音は珍しい。特に裳裾の翻る描写が、一筆書きで素早く描いたようでいて秀逸である。
笑翁妙堪賛白衣観音図部分 『水墨美術大系第4巻』より 


観音猿鶴図(三幅)うち観音図 南宋末元初(13世紀後半) 牧谿筆 大徳寺蔵 掛幅 紙本墨画淡彩 172.2X97.6㎝
 『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、本図は、妙心寺の僧太原崇孚が大徳寺に寄付したものであるが(『正法山誌』)、牧谿画中の最高の作品として、最大級の賛辞の言葉で埋められてきた。ここでは、中唐以来変化と発展を示してきたあらゆる水墨画の技法が駆使されているが、彼の他の作品と同じように、深い自然観察にもとづき、対象が適確に把握されている。
筆墨法には、名式をもって呼ぶべき皺法や、線描法もなく、放縦なところや、目立ったところもない。すべては自然で、大らかにみえる。この印象は、牧谿の空間感覚に由来するのであろう。物象は孤立的ではなく、周囲の空間と統一的に、融和的にとらえられ、障壁画性と呼びうるような大きさを画面に与えている。彼は手びろく多くの題材を描いたが、この画の空間感覚は山水画的である。彼の山水画を、瀟湘八景図巻で考えるならば、その意図するところは、北宋的な大観的なスケールにある。本図のもつ大きさもその辺に起因するのだろう。観音も、猿も、鶴も普通の形体よりも大きく巨大にみえ、作品自体も、あたかもどこかの寺院の壁面にかえろうとしているようにみえるという。
岩の上に結跏趺坐しているが、ややそれを崩して描かれ、安堵感を醸し出している。
大徳寺蔵牧谿筆白衣観音図  『水墨美術大系第3巻』より


白衣観音図はくつろいで岩に寄りかかり、崖下または水面を眺めているような、あるいは物思いにふけっているような図柄の方が多い。

観音図部分 元代(13世紀後半-14世紀後半) 伝牧谿筆 掛幅 絹本墨画 154.5X93.7㎝ 円覚寺蔵
 『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、本図は大幅で礼拝像的な大きさをもっているものであるが、画家は岩石や竹葉の描写に観音より以上の関心をもって描写している。観音の姿は伝統的なパターンを踏襲したもので、垂下する衣文の形式的なまとめ方は、元代の仏画一般に広くみとめられるものである。
一方、丸みのある岩の形や岩、竹葉の描写は、元代文人画の李一派の描写形式と近似している。本図はこのように二つの別個の表現形式を一画面に混在させたものであるが、これは元代の職業画工の道釈人物画にみられる特色である。補墨のために画致をそこなっているところもあり、画家の手腕も第一級のものとはいえないが、種々の問題を提起する興味深い大幅であるという。
寛ぎすぎではありませんか観音さん。
ということで、牧谿筆と言い伝えられているが、元代(1279-1368)の職業画工であろうとされている。
円覚寺蔵伝牧谿筆観音図  『水墨美術大系第3巻』より


観音図 元代・14世紀前半-後半 平石如砥賛 掛幅 紙本墨画淡彩 55.1X25.2㎝
 『水墨美術大系第4巻』で海老根聰郎氏は、この画にみられる一種繊弱な線描は、作者が李公麟流の白描画を意識していたことを思わせるが、ここには、伝称作品や、後継者のものを含めた彼の作品に共通してみられる対象の起伏をたどっていこうとする意志はみられない。画家は、抽象的な円形の中に、それにみあった形に観音の形姿を抽象化する。そして唇に点じられた 朱、下方の衣の裏の青がひびき合い、線描と協力してリリックな印象を与える。作者のねらいもそのような情趣的表現にあったと思われる。本図は白描画が情趣的表現と結合した一例とみられ、これはそれなりに白描画の一つの展開とみられないこともない。
賛者平石如砥は、東巌浄日の法嗣、本図の賛末にあるように五山の一つ天童寺に、天暦2年(1329) 入寺し、至正17年(1357)に歿したという。
観音がすっぽり収まるこの大きな円は光背ではないらしい。
平石如砥賛観音図部分  『水墨美術大系第4巻』より


観音図部分  中峰明本賛 掛幅 紙本墨画淡彩 42.5X29.4㎝
同書で川上涇氏は、蓮の葉の舟に乗り、楊柳の枝を手にした観音を画く。顔と髪に胡粉を用い、唇には朱を点じ、眉を濃墨であらわす。風にひるがえる 天衣や布の裾の線の折れ曲ったところに、僅かに太く濃い個所が見 えるほか、淡墨の肥瘦のない筆線で慎重に画かれている。典型的な 白描画の一佳作。
図の上部に中峰明本(1263-1323)の賛があり、笹の葉のようだといわれた明本の筆くせは出ているが、印章もなく、「魚籃観音図」の賛とともに検討を要するという。
芦葉達磨図はあるが、蓮の葉に載る観音は珍しいのでは。
中峰明本の賛があるので、制作期の分かる作品かと思っていたら、それが疑われている。
中峰明本賛観音図部分 『水墨美術大系第4巻』より 


観音図 元代・1330年以前 絶際永中筆 中峰明本賛 掛幅 紙本墨画 78.9X31.7㎝
同書は、本図の左下隅には、篆書の「幻住永中」の落款がある。幻住庵は、中峰明本が定居なく諸所に草庵を結び、それらすべてに幻住と榜したことにもとづくが、本図のそれは、平江(江蘇省呉県)のもので、永中とは、そこに中峰とともに住した禅僧、絶際永中のことである。彼は、中峰が平江を去った後も、ここに止まり、『鐔津文集』、 『稲門警訓』などの出版にたずさわり、この地で、至順元年(1330)前後に寂したという。
これは中峰明本の賛であることは確かな作品のよう。素人目ながら、確かに笹の葉のような筆づかいである。
この白衣観音図は、どこにすわっているのかもわからないが、よけいなものを排した閑かな図に見受けられる。
絶際永中筆中峰明本賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第4巻』より


白衣観音図 正悟筆 元代・1324年以前 雲外雲岫(1242-1324)賛 京都国立博物館蔵 掛幅 絹本 127.2X54.3㎝
海老根聰郎氏は、観音は宗派をこえた広い信仰に支えられ、さまざまなかたちで絵画化されてきた。その表現形式や図様の多様なこと、また、さまざまな身分の画家達がその制作にたずさわったことはおどろくべきことである。水墨画の観音にかぎっても、さまざまなこころみがなされてきたが、水流から突出した岩上に安坐する観音を描いたものが、もっとも多いタイプであり、そこには、一定の描写形式があって、観音を白描風に精細に、背景を粗放な水墨画で描いていく。
この元僧、雲外雲岫の題賛のある作品も、ほぼそのようなタイプの作品である。ただ観音の形姿は、画工の描いた著色画から抜け出してきたような固さと、細部表現がのっていて、奇妙な茸状の岩座をかく、藁筆風の描写とアンバランスな状態になっている。なお、岩座中に隠し落款風に、正悟とよめる落款があるという。
平石如砥賛観音図と同様に、大きな円の中に観音が結跏趺坐している。
京都国立博物館蔵正悟筆雲外雲岫賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第4巻』より


観音図部分 伝牧谿 元末明初(14世紀後半) 掛幅 絹本墨画 76.6X37.4㎝
同書で海老根聰郎氏は、本図の観音の形姿は、長い間くりかえし描かれてきたもので、よ く似た姿をしばしばみることができる。垂下する衣文の先端が独特の形にとがっているが、これも水墨といわず、著色の観音図にも広くみられるところである。
本図の目立つところは、岩石や水波をえがく粗豪な水墨技法であろう。濃墨の二、三筆で描く樹木、没骨の巾広いで肉付けされた岩石、波頭をあげる水波の描法、これらは速筆で一気に描き上げたようになかなか巧みであり、作者は山水画をもかきうる人であることを思わせるが、印象は、静寂な観音の住する境界とはうらはらにさわがしく、動勢に富んでいる。この印象は、明代の派の山水画にも通じるもので、本図にみられる水墨技法もそれに近いものがみられる。おそらく、浙江地方に伝統的な縦逸な水墨画の影響のもとにこの画もつくられたものと思われるという。
これもまた牧谿の名を冠した後代の作品のようだ。
観音に大きな頭光が表されている。
伝牧谿筆観音図  『水墨美術大系第3巻』より


白衣観音図部分 清遠文林賛 元末明初 掛幅 絹本墨画 93.7X39.7㎝
同書で海老根聰郎氏は、本図の賛末に普慈比丘文林とあり、青遠の印がある。明初の禅僧円極居頂(1404年卒)の『円菴集』には、青遠禅師が昌国(寧波府定海県)の普慈寺に住する際の疏があるが、この賛者文林は、この清遠禅師ではなかろうか、もしそうとすれば、元末明初の人となり、描写形式からみた制作年代とも一致する。
宋あるいは元時代にさかんに描かれてきた水墨の観音図には一定の描写形式がある。それは、観音を比較的細緻な白猫体で仕上げ、背景の岩石や水流を粗放な水墨画で描く方式であるが、本図もほぼその形式になる。観音はしばしば類似のものがみられる形姿に描かれ、岩石は大まかな法で肉付けされる。この描法も、同時代の羅漢図などにみられるもので、本図は職業画工が手なれたパターンを組み合せて作り上げた作品のように思われる。水墨の白衣観音の作例としては、最末期のものと考えられる点、史的価値があるという。
明初以降は水墨画では白衣観音図は描かれなくなるという。飽きられたのだろうか。
清遠文林賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第3巻』より


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参考文献
「日本の美術69 初期水墨画」 金沢弘 1972年 至文堂
「水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「世界美術大全集東洋編6 南宋」 2000年 小学館

2022/12/09

寒山拾得図 日本


日本でも寒山拾得図は描かれた。
 『水墨美術大系第5巻』は、一山一寧は 元の成宗帝の勅命によって正式の外交使節として日本に来朝した人であるが、日本にとどまって禅林を指導し、のちに盛行する五山文学の始祖ともいわるべき人であった。彼は「絵は無声の詩であり、詩は有声の絵である」として、詩画をともに鑑賞することを禅林間にひろめた人でもある。もっともこれは宋の詩人蘇東坡が、唐朝の文人画家王維を批評して「彼の詩の中には画があり、画の中には詩がある」と述べていることに由来するものである。そしてこの考え方が禅林における造型感覚の一つの指標となったことは確かである。一山一寧の著賛のある作品には、自画賛か、あるいは日本で画かれたと思われるものがあり、これらの水墨画が、中国において制作されたものとは思われず、むしろ日本における制作と考えられるものが少なくない。
14世紀初頭における日本の初期水墨画は、この一山一寧の著賛をもって登場しているという。

寒山図 一山一寧(1299年来朝、1317年没)賛 紙本墨画 71.2X29.2㎝ MOA美術館蔵
『水墨美術大系第5巻』で海老根聰郎氏は、寒山と拾得は、霊地として名高い天台山を背景にして生まれた伝説上の人物であるが、彼等の存在と、「寒山詩」がもてはやされたのは主として禅宗教団の中であり、その絵画化もそれに伴って行なわれたらしい。それらは、おおく禅余画家達によって描かれたらしく、彼等の創意によって、さまざまな顔貌、姿態、描写形式で描かれている。
本図は、寒山が経巻をひろげる姿、この形式はいくつか例がある。背景は一切描かず、衣服は、上衣も下衣も、やや未熟な筆墨で簡略に描いている。それに反して、頭部は、白描画風に緻密に描かれ、執拗な頭髪の描写、口や耳の精細さは、生ま生ましい現実感を与え、界尺を使ったような経巻、図式的な衣紋線と強い対照を示している。こういった描写形式は、南宋末から元初の禅余画に先例があり、本図はそれを学んだ作品と考えられるという。 
日本でいつ頃から寒山拾得図が描かれるようになったかも、この図と一山一寧の賛ではっきりわかった。
MOA美術館蔵 一山一寧賛 寒山図  『水墨美術大系第5巻』より


右:寒山図 可翁筆 鎌倉末-南北朝 紙本墨画 98.6X33.5㎝
同書で衞藤駿氏は、現存可翁画中屈指の名作である。本図は樹下に立つ弊衣蓬髪の寒山の姿を、禅味あふれる大胆な手法によって表現したもので、画致きわめて高く禅林系初期水墨画中の優品の一つ。濃淡両墨を鮮やかに使いわけ、必要最小限の筆致の中によく寒山の人格を活写している。樹木の表現また至妙の出来ばえであるという。
背中に細い線が描かれているため、真っ直ぐな背筋に見え、顔を上げて遠くを眺めているように見える。

左:寒山図 可翁筆 鎌倉末-南北朝 フリーア美術館 紙本墨画 102.5X30.9㎝ 
衞藤駿氏はまた、前掲の寒山図とほとんど同図容の作品で、僅かに背景の樹木を欠くことと、帯というか前に垂れた紐が異るのみである。髪の面貌の描写はさておき、衣文の処理と袴の墨はきにやや習作的緩慢さが看取され、印章も図版に比して「可翁」印の二重郭外側の巾がやや細目であり、いわゆる「仁賀」印も結体が細目である。しかし画趣は精妙で可翁画乃至は可翁画系作品を考える上に貴重な作例といえるという。
両腕から首回りの輪郭線が強すぎること、そして顔が前に突き出して描かれるため、猫背気味に見えるし、その眼差しはどこかを眺める風でもない。

この2点は明らかに大千恵紹賛の寒山図を手本としている。後ろに回した袖の描写が手本よりも煩雑である。
可翁筆寒山図 鎌倉末-南北朝 左:フリーア美術館蔵 右:不明  『水墨美術大系第5巻』より


寒山拾得図 鎌倉末-南北朝 伝可翁筆 対幅 紙本墨画 (各)89.0X34.2㎝
 『水墨美術大系第5巻』で衞藤駿氏は、本図は前掲可翁画に比して多少の泥くささをもつ作品であるが禅余画として考えた場合、やはり素人ばなれした相当の技術と禅味を感じさせるものがある。現存する数多い可翁伝稱作品中にあって本図などはかなり原本の画題に近い雰囲気を有しているものといえようという。
上図では後ろに手を組む寒山を斜め後ろから見た図であるが、本図では、それに似た姿は箒を木に立てかけて両手を合わせるのは拾得で、寒山は巻物を持っている。
可翁筆寒山拾得図 鎌倉末-南北朝  『水墨美術大系第5巻』より


寒山拾得図 明兆筆 14世紀後半-15世紀前半 対幅 東福寺蔵
寒山は岩に腰掛けて巻物をひろげ、拾得の方岩か木の根に腰を下ろす。拾得のうれしそうな表情、対する寒山も詩を読み聞かせて満足そうである。明兆は伝顔輝筆寒山拾得図から、自然の中で愉しむ二人を想像して描いたのかも。
東福寺蔵吉山明兆筆寒山拾得図 東福寺展図録より

この記事を書いた翌年「東福寺展」が東京国立博物館と京都国立博物館で開催された。
同展図録は、本作における二人の奇怪な面貌は、中国の道釈画家・顔輝の作例に通じる表現であるという。
ということで、明兆が顔輝の寒山拾得図を見たことがありそうだ。
東福寺蔵吉山明兆筆寒山拾得図部分 東福寺展図録より


寒山図部分 霊彩筆 室町時代・15世紀 紙本墨画 83.3X35.3㎝ 五島美術館蔵
 『水墨美術大系第5巻』で金澤弘氏は、蓬髪に弊衣を身につけ、手に帚や経巻をもつ図が多いが、本図は断崖を背に寒風に吹きされて孤高を誇る姿に描かれ、古来風吹き寒山として珍重された。鋭角的な形をもつ岩崖は法がほとんどみられず、形と墨の濃淡だけで面的に表わされ、樹枝、樹葉の表現も比較的単調である。一方風に吹かれる寒山の衣の線はさほど筆速を感じさせない肥痩のある曲線により、筆の当りは全くみられない。この背景と人物の描写の対比がますます寒山を浮きたたせている。
図右下に「霊彩筆」の落款と脚踏実地の印を捺すが、書体、印形ともに明兆の落款、破草鞋の印と全く類似し、その画系を示しているという。
五島美術館蔵 霊彩筆寒山図  『水墨美術大系第5巻』より


寒山拾得図 伝周文筆 室町時代・15世紀 1幅 紙本墨画 99・6×36・9 東京国立博物館蔵
e国宝は、ふつう寒山は巻物を手にし、拾得は箒を持つ姿で描かれる。本図は、2人が1幅の中に重なるように描かれ、頭が大きく体が小さいという特徴を示す。
賛を書した春屋宗園(1529~1611)は大徳寺派の禅僧である。笑嶺宗訢の法を嗣ぎ、永禄12年(1569)大徳寺住持(第111世)となったのち、石田三成らの帰依を得て山内に塔頭・三玄院を開いた。千利休、津田宗及など堺の茶人との親交で知られるという。
周文といえば山水画を連想するが、こんな寒山拾得図も描いていた。
伝顔輝筆寒山拾得図は彩色はされているものの、着衣の輪郭は太い線で一気に描かれているのとは対照的で、周文はほぼ墨を面的に使って没骨画のように描いている。
東京国立博物館蔵 伝周文筆寒山拾得図 室町時代  便利堂の絵はがきより


寒山図 雪村周継筆 室町時代・16世紀 一幅 紙本墨画 113.3X40.2㎝ 所蔵不明 
寒山図 雪村周継筆 室町時代・16世紀 一幅 99.3X52.0㎝ 栃木県立博物館蔵
 『雪村 奇想の誕生展図録』は、詩を好み、天台山中の岩に一句ごとに書きつけたという寒山と、豊干禅師に拾われて天台山国清寺の下働きをしていたという拾得は、その奇矯な振る舞いによって特別視され、さらには二人を文殊菩薩の化身とする伝説が生まれ、絵画や文学の題材として好まれた。詩を好んだ寒山は巻物を手に、寺男の拾得は箒を手にして描かれることが多い。 
雪村もまた多く寒山拾得を描いており、もとは対幅だったと思われる作品で現在は寒山図のみが残る。いずれも衣文線がやや粗く、ポーズにぎこちない部分があるが、面貌の描写には3作品とも共通の要素が見られ、独特の表情を作り出しているという。
雪村筆寒山図2点  『雪村 奇想の誕生展図録』より

寒山拾得図 雪村周継筆  室町時代・16世紀 二幅 紙本墨画 各89.3X37.2㎝ 栃木県立博物館蔵
同展図録は、栃木県博本の寒山拾得図では、大きく右腕を伸ばして巻物を広げる寒山と、真上を向いて月を見上げる拾得が描かれる。両幅ともたっぷりとした衣文線と大きな動きが特徴的で、正面を向く寒山と背を向ける拾得といった対照性も相俟って、軽やかでリズミカルな双幅となっている。特に両手を広げて、背中を向け真上を向く拾得の姿は、呂洞賓図などにも通じるもので、雪村の得意としたポーズと言えようという。
栃木県立博物館蔵雪村筆寒山拾得図  『雪村 奇想の誕生展図録』より


寒山拾得図 狩野山雪 江戸時代初期 紙本淡彩 102.0X130.0㎝ 京都市真正極楽寺(真如堂)蔵
 『水墨美術大系第8巻』は、山雪の款記や印記をもつ作品は必ずしも乏しくはないが、本図は大幅の遺作として注目に価する。印記があって、大形方形の「山雪」の白文印が認められる。
唐代の豊干禅師の弟子寒山拾得の二人は、漢画家の好画題としてよく描かれ、豊干禅師とともに扱われることもあるし、三人が禅師のペット虎とともに睡る姿も四睡図として好んで描かれるところである。
本図では、寒山拾得の二人の上半身を大きく表わすもので、前の経巻をもつは寒山で、そのうしろに半顔をみせているのは拾得である。本図にみられるような、二人を前後に重ね描いて左右相称的構図法でまとめ表わす方式は、山雪のみに認められるものとはいえないが、彼は特にこの種の構図法を好んだ画家であった。しかも本図の寒山拾得の面貌にみられる一種の怪奇性は、また山雪の人物画にしばしば認められるところであって、そうした面貌の特異性は、山雪の子永納の作品にもみられるという。
この顔貌の怪異さからすると、伝顔輝筆寒山拾得図の方がずっと穏やか。
真正極楽寺蔵 狩野山雪筆寒山拾得図  『水墨美術大系第8巻』より


三酸・寒山拾得図 江戸時代初期 海北友松筆 金碧障壁画 六曲屏風一双うち右隻の部分 各167.0X93.0㎝ 紙本金地著色 妙心寺蔵
『水墨美術大系第8巻』は、本図は、妙心寺琴棋書画図と樹法、法や金地構成におよんで同工異曲の作品である。制作もほぼ同時と思われる。
左隻の三酸図は大甕を中心に釈家の仏印和尚と道家の黄魯直、儒家の蘇東坡が桃花酸をなめて一斉に顔をしかめているところで、三教一致の比喩をあらわす。
右隻の寒山拾得図は、棕梠樹を背に寒山が巻子を開きみるところ、背後より箒を手にした拾得がのぞきこむ。琴棋書画図と同様、両隻は流水で図様を直結し金雲も相互につながりをみせる。落款様式も共通し、友松最晩年の作風を知る上での貴重な資料といえよう。琴棋書画図と同工の三酸図に対して、寒山拾得図は面貌描写に特異性が認められ、目に眼睛を入れ、衣襞には内隈つけ諸人物をいっそう大きくあつかう点も区別される。金雲をもって主景の周辺を遮蔽する画面構成は、次第に雑多な可視的諸要素を消却し、簡明洒脱な方向へすすんだ最晩年様式への傾きを示すものであろうという。
寒山は巻物を長く広げてその曲線が二人の配置を安定させている。この極端に長く広げた巻物は、一山一寧賛の寒山図から着想を得たのではないだろうか。
妙心寺蔵海北友松筆寒山拾得図  『海北友松展図録』より

 『海北友松展図録』は、二人ともまるで双子のようにそっくりに描かれているが、寒山にはトレード・マークである経巻を、拾得には箒を持たせることではっきりと区別している。不気味な笑みを湛える二人の顔は明らかに顔輝(宋末元初の道釈人物画家)の作と伝える「寒山拾得図」(東京国立博物館)に学んでおり、衣の形態や色調、沓の表現などもそれに依拠している。
ユーモラスな面貌表現と、略体人物図のそれにも似た気負いのない衣文描写がその要因をなしているのであろう。端正さを旨とする狩野派の人物図などとは全く対照的な、友松の個性が横溢する名品であるという。
妙心寺蔵海北友松筆寒山拾得図  『海北友松展図録』より


豊干寒山拾得図うち寒山拾得図(衝立一対部分) 長谷川等伯筆 桃山-江戸初期 64.0X62.0㎝ 紙本墨画 妙心寺蔵
 『水墨美術大系第9巻』は、衝立表裏一対の四画面を、真体豊干寒山拾得図と草体山水図とに描き分けている。各面に方形「等伯」印があり、最晩年使用印と区別される。
諸人物の頭髪は細勁な線描で一本一本丹念にとらえられるが、たとえば、慶長7年(1602)の天授庵方丈禅宗祖師図や最晩年作の智積院十六羅漢図の諸人物とくらべると、はるかに柔軟である。
寒山拾得の傍にみる松樹の幹は類例に乏しい手法だが、等春筆の人物花鳥図押絵貼屏風の布袋図などに近似した例がみいだされて興味ぶかい。この松については、天授庵方丈松鶴図などのそれと気脈を通じ合せているが、むしろ壬生寺蔵樹下仙人図に最も近似している。
草山水図は、円徳院方丈の草山水図に比して、濃淡の墨調や筆触に明快さがいっそうすすみ、等伯様草山水の定型といったものが指摘できる。しかも、草山水特有の深ぶかとした画面空間は、ここではとくに問われていないことも注意されてよい。両足院の草山水図と前後し定型化がすすめられたものと考えたいという。
長い解説なのに寒山拾得については記されていない。等伯がこんな寒山拾得図を描いたのか。
妙心寺蔵長谷川等伯筆寒山拾得図  『水墨美術大系第9巻』より


寒山図部分 法橋宗達筆 江戸初期 対青軒印 掛幅 紙本墨画 101.3X42.0㎝
 『水墨美術大系第10巻』で山根有三氏は、「寒山図」は、ひろげた経巻でなかば顔をかくすという構図からみて、牧谿周辺の画僧蘿窓の筆と伝える「寒山図」か、その系統のものから図様を得たと考えられる。主として墨の調子で対象をとらえるところに共感したのであろうという。
伝羅窓筆寒山図はこちら
法橋宗達筆対青軒印寒山図 『水墨美術大系第10巻』より


寒山図 法橋宗達(左図のみ宗達法橋)筆 対青軒印
大千恵紹(元末明初 14世紀後半)の賛のある寒山図は後ろで手を組んでいて、日本でもそれを手本とする寒山図が多く描かれている。ところが、右の2図は背景の土坡と見間違うようなぼんやりした描き方で箒を描く。箒は拾得の持ち物なので拾得図で間違いないのだが、ちょっと遊んでいるようで面白い。左図はそんな箒さえ持っていないが。
法橋宗達筆対青軒印拾得図  『水墨美術大系第10巻』より


寒山拾得図 伝宗達筆 扇面貼交屏風の内 無款 紙本墨画 18.5X56.0㎝
同書は、宗達とされる水墨人物画中の仙人仏祖を扱った図の大部分が、「その姿態は当時舶載した万暦版の『仙仏奇踪』の繡像を臨摸したもの」であることをはじめて明らかにしたのは、相見香雨氏の大きな功績である「宗達の仙仏画と仙仏奇踪」( 『大和文華』第8号)。これによって、従来題名の不明であった作にも正しい題名が付けられたばかりでなく、『仙仏奇踪』(洪自誠撰、万暦30年)の挿絵の図像との比較により、それらの図の作画過程や構図上の特色が一層深く理解できるようになったのである。
ただ相見氏が「この奇踪画『仙仏奇踪』の図像によって描いた画のあることから考えても、あの屏風が宗達真蹟なることを傍証する」とされたのは、なお慎重に検討する必要があるという。
宗達が描いたのではないことを言いたいのだろう。
無款 扇面貼付寒山拾得図図 『水墨美術大系第10巻』より


銹絵寒山拾得図角皿 尾形光琳画・尾形乾山作 江戸時代・18世紀 一対 京都国立博物館蔵 
寒山図:高3.2 幅21.8X21.9 底径21.2X20.9㎝ 
拾得図:高3.1 幅21.8X23.0 底径21.0X21.1㎝ 
 『雪村 奇想の誕生展図録』は、光琳は、宝永6年(1709)に江戸から京都に戻って、弟の乾山と協働の陶器制作を開始した。本作の見込に描かれた寒山拾得の図像は定形図像を踏んだものなので、必ずしも雪村画をもとにしているとは言えないが、雪村が好んで寒山拾得を描いたことは確かであり、光琳が江戸での雪村体験を踏まえて制作したもののひとつである。
縁の内側に雲唐草文、外側には円窓内に花、その両側に雲唐草文を描く。この図柄とよく似たものが「探幽縮図」にあり、原画は龍と落雁の三幅対で、探幽により雪村筆とされていたという西本周子氏による指摘があるという。 
光琳画乾山作寒山拾得図角皿  『雪村 奇想の誕生展図録』より


寒山拾得図 尾形光琳筆 光琳百図より
宗達の拾得図を手本とした寒山拾得図のように思う。
尾形光琳筆寒山拾得図(光琳百図)  『水墨美術大系第10巻』より
 

『水墨美術大系第12巻 大雅・蕪村』には載っていなくても、蕪村なら寒山拾得図を描いているのでは、と検索したところ、興味深いページを見つけた。
それはKBS瀬戸内放送与謝蕪村が描いた“幻のふすま絵”を複製へ 香川・丸亀市「妙法寺」で、それによると、「寒山拾得図」は50年以上前に一部が破られたり、落書きされたりする被害にあいました。それでも妙法寺は寒山拾得図を多くの人に見てもらいたいと、画像をもとに複製品を作ることにしました。ただし、ふすま絵自体が完全な状態ではないため、当初は一部が欠けた状態で複製される予定でした。
ところが、「東京文化財研究所さんの方に、どうやら事故前の寒山拾得図の写真が残っていると、現存するというようなご連絡をいただきまして」、東京文化財研究所に残されていたのが1959年に撮影されたモノクロ写真です。寒山の顔の部分がはっきりとわかります。
このモノクロ写真の発見によって寒山拾得図は東京文化財研究所と妙法寺が共同で「完全な状態での複製」を目指すことになりました。
2020年に撮影した高画質の写真データも使いながら、2022年11月ごろには複製された「寒山拾得図」が本堂に納められる予定ですという。
そろそろ完成しているのでは。


          寒山拾得図 南宋-元


参考文献
「水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆」 田中一松 1978年 講談社
「水墨美術大系第8巻 元信」 土居次義 1978年 講談社
「水墨美術大系第9巻 等伯・友松」 武田恒夫 1978年 講談社
「水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳」 山根有三 1978年 講談社
「海北友松展図録」 2017年 京都国立博物館
「雪村 奇想の誕生展図録」 2017年 読売新聞社
「東福寺展図録」 東福寺・東京国立博物館・京都国立博物館・読売新聞社編 2023年 読売新聞社・NHK・NHKプロモーション

2022/12/02

寒山拾得図 南宋-元


私にとって寒山拾得図で一番強烈な印象のある作品といえば伝顔輝筆だった。
ところで、寒山や拾得はどんな人物だったのか。学生時代に聞いたまことしやかな説は
「寒山は乞食で、拾得は坊主」。でも、字面からすると拾得の方が乞食のようだけど・・・と思ったものだった。
東京国立博物館蔵伝顔輝筆寒山拾得図 元時代 絵はがきより


検索すると、三省堂『新明解四字熟語辞典 』(寒山拾得が四文字熟語とは)には、中国唐代中期の寒山と拾得の二人の高僧。二人とも奇行が多く、詩人としても有名だが、その実在すら疑われることもある。拾得は天台山国清寺の食事係をしていたが、近くの寒巌に隠れ住み乞食のような格好をした寒山と仲がよく、寺の残飯をとっておいては寒山に持たせてやったという。また、この二人は文殊菩薩、普賢菩薩の生まれ変わりといわれる。画題としてもよく用いられると解説されている。
「寒山詩」があるのは知っていた。

この「寒山拾得」という画題はいつ頃から描かれた画題だったのだろう。
 『水墨美術大系第3巻』は、寒山拾得は、霊地として名高い天台山を背景にして生れた伝説上の人物であるが、北宋時代にはその実在が信じられ、すでに絵画化もおこなわれていた。やがて、『景徳伝灯録』の中に記録され、禅宗社会の中に根をおろし、寒山詩の鑑賞とともに、その絵画化も叢林で盛行したらしく、南宋時代以後の諸師の語録詩文集には、寒山拾得にたいする題画詩が多数みいだされ、主として禅余画家達によってえがかれてきた。彼等の画像は、持物や表情などいくつかのタイプがないこともないが、本来その表現について形式的制約があるわけではなく、画僧達が各自の自由な解釈によってえがくところに面白さがあるといえるだろうという。
北宋時代の寒山拾得図を私は知らないが、現存しているのだろうか。


寒山図 伝蘿窓(南宋 1127-1279)筆 掛幅 紙本墨画 59.0X30.5㎝ 
同書は、寒山の風姿は、禅余画家達の自由な解釈によって、種々な姿にかかれるが、ここでは経を読むところ。ひろげた経巻でなかば顔をかくしているのは意味ありげで新鮮な構図である。さらに本図で目をひくのは寒山の衣に塗沫された豊かな墨気であろう。素人らしい稚拙な淡墨で大体の形がかかれた後、その輪郭線が没するほどたっぷりと墨面がひろがっている。ここには罔両画の惜墨も、禅月羅漢に代表される濃墨の衣文線もない。それはいわば没骨の人物画といえようか、画面には色彩や、線描にかわって水墨のひろがり、墨の色彩としての美しさが表現の主役となって、生き生きと躍動している。このように本図は、墨の調子を中心に対象をとらえようとする斬新なアイデアをもっているが、作者の技術はそれを充分生かしているとはいえない。画面右上に「蘿窓」の印があるが、あまり信用出来ない、日本での後捺ではなかろうかという。

罔両画については文化遺産データベースで、胡直夫筆布袋図・朝陽図・対月図の解説に、目と口などにだけ、わずかに濃墨を点じ、淡墨の柔らかな筆で朦朧とした表現がとられており、南宋初の画僧智融にはじまる罔両画様式が継承されているとある。
伝蘿窓筆寒山図  『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より


寒山拾得豊千図 南宋 伝牧谿  掛幅 絹本墨画 138.5X93.2㎝
 『水墨美術大系第3巻』は、寒山拾得、豊干は、霊地として名高い天台山を背景に生れた伝説上の人物であるが、彼等の名とその説話、また寒山を中心とした詩集などが流布したのは、主として禅宗教団の中であった。それに伴ってその絵画化も禅余画僧によって行なわれる場合が多かったようである。
本図は、寒山詩中の有名な一首〝吾心似秋月、碧潭清皎潔〟の一節を寒山が岩壁に書きつけ、墨をする拾得と、鬚をひねる豊干がそれを凝視しているところを描く。画僧の余技画とはことなった複雑な山水画的布置構成、対象の質感をたくみにとらえる線描、うるおいのある墨法など、どの部分をとりあげても牧谿画の特色をそなえているという。
伝牧谿筆 寒山拾得豊干図 絹本墨画  『水墨美術大系第3巻』より


寒山拾得図 (豊于・寒山拾得図軸の3幅うち)  伝貫休筆 南宋(12-13世紀)絹本墨画 各109.2×50.3cm 藤田美術館蔵
 『世界美術大全集東洋編6南宋』は、人物の衣文の描き方は、呉衣当風・曹衣出水の例に倣わず、濃墨の粗筆を用いて、草書の筆法のごとく描かれている。線は揺れ動き、豪放な勢いをきわめている。しかし、面と手、服飾などは細筆で描かれ、軽く彩色してあって、つまびらかで正しく、少しも変わったところはない。
宋代までの人物画の衣服の描法には、二つの形式があった。一つはは北斉(550-577)の曹仲達による、水から上がった人物の衣のように身体に密着した「曹衣出水」といわれるものと、「呉帯当風」という、唐の呉道子に基づく風にひるがえる衣を描くものである。ところが、朽木を使用せず、画面に即興的に二度と再現できない一回的な張図のそれはどちらでもなく、濃墨の粗筆を定着したものだった。このように、張図の表現は、衣を描く新しい画風として登場してきたのである。そしてこの画風は、豪放な粗筆とともに、細筆で描かれた頭部と手などが合体してでき上がっていたことがわかるのである。
こうした衣文粗筆・肉体細筆の実例は、日本に古く将来(請来)された作品の中に見ることができる。五代の石恪筆という「二祖調心図軸」、同じ五代の僧禅月大師(貫休)筆の伝称のある「羅漢図」、禅僧石橋可宣の賛のある「豊干図」が古い例であるという。
藤田美術館が貫休の豊干・寒山拾得図を所蔵していたとは。ということは、いずれこの作品を藤田美術館で鑑賞する機会もあるんや。
伝貫休筆寒山拾得図  『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』より


 『水墨美術大系第3巻』は、しかし、岩石の向背の不明瞭な点、とくに寒山の衣服描写にみられる繁雑さなどは、最良の牧谿画には一歩ゆずると思われる。全体的に本図は、牧谿独特の線描の再現を意識したためか、その暢達さを意識的にあらわそうとしており、牧谿流派のすぐれた一作品と考えられるという。
伝牧谿筆 寒山拾得豊干図 絹本墨画  『水墨美術大系第3巻』より


寒山拾得図 画僧筆か 賛者虎巌浄伏は宋末元初(13世紀後半)
拾得図 常盤山文庫 掛幅 紙本墨画 78.9X32.4㎝
寒山図 静嘉堂   掛幅 紙本墨画 82.0X32.5㎝
同書は、本図は、現在わかれて所有されているが、画風、題賛者からみて双幅であったことは明らかであろう。一方は経巻をとり、他は筆をもつ姿につくるが、注目されるのは描写形式で、筆描のなまな動き、肥痩、抑揚をおさえ白描風にえがく。元代は白描画が復興した時代であるが、本図にみるそれは、文人流の細な線描になるものではなく、息の短い、やや稚拙な線描であり、画僧の余技になることを思わせる。おそらく禅余画界で変質した白描画といえそうである。
賛者虎巌浄伏は、虚舟普度の法嗣、五山の径山に住している。生没年は詳らかではないが、宋末元初の人であるという。
静嘉堂・常磐山文庫蔵 寒山拾得図  『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より


寒山図 画僧筆か 大千恵紹(元末明初 14世紀後半)賛 掛幅 紙本墨画 89・4X31・3㎝ 
同書は、本図は箱書によると可翁筆という。たしかに有名な可翁の寒山図と同様、この寒山も後手をくみ、身をそらした姿勢をとり、足の踏み開き方、下衣の濃墨の描法も近似している。ただし本図は、元末明初の僧大千恵照(1289-1373)の題賛のあることからみて中国画と考えられる。おそらく両者の背後には、長い伝統をもつ寒山図の典型的なポーズがあると想像される。
作者は明らかではないが、筆技の稚拙さがところどころにうかがえるところ、画僧の余技作とする可能性が強い。しかし南宋のそれが特色としていた淡墨体、稀薄な実在感とはことなって、ここには、頭髪や下衣にかなり表情豊かな濃墨がひろがり、また足や顔面の描写にみられる、肉体の起伏をたどっていこうとする筆致が目につく、これらの特色は広くみれば、牧谿画風が禅余画界にあたえたといえるもので、本図はその末裔といえそうである。
賛者大千恵照は東嶼徳海の法嗣、賛末の一印「夢世」は、彼が晩年育王山を退いた後、山内に営んだ庵居夢庵にちなんだ自号で、この題賛が晩年のものであることをしめしているという。
寒山図  『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より


寒山拾得図 禅機図断簡部分 元時代(1288-1351) 因陀羅筆 楚石梵琦賛 掛幅 紙本墨画 35.3X49.8㎝ 東京国立博物館蔵
 『水墨美術大系第4巻』は、維摩、禅宗の祖師たち、寒山拾得等を、およそ造形の虚飾を去った簡樸な筆致の墨画でえがき、きわめて個性的な一群の作品を遺した因陀羅について、中国の画伝は何も語らない。
日本の『君台観左右帳記』下の元朝の部に、「印陀羅、天竺寺梵僧人物道釈」とあり、『等伯画説』には、「天竺大唐日本三国ノ上筆ノ継図」に「天竺ハ因陀羅一人、唐へ来布袋書之」とある。因陀羅の作品の多くには、元代の禅僧楚石梵(1296-1370)の賛がある。名筆として聞えた高僧の墨蹟を伴っていることが、因陀羅画が室町時代に珍重され、日本に多くの画蹟を伝存せしめた理由と考えられる。
梵琦の賛の右にある細字二行の墨書は、因陀羅の自署でないにしても、その内容は事実を伝えるものと認むべきであろうという。
因陀羅筆寒山拾得図  『水墨美術大系第4巻 梁楷・因陀羅』より

寒山図部分 因陀羅筆 玉室宗珀賛 元時代・14世紀 掛軸 71.2X33.0㎝ 野村美術館蔵 
『よみがえる川崎美術館展図録』は、本画の作者・因陀羅(生没年不詳)は、一切の虚飾を排した最小限の筆使いによって、無為自然、飄逸の内に生きる寒山の精神を余すところなく描き出す。画中のいかなる筆線にも過度な厳しさや緊張はみられない。寒山の生き方にも通じる自由でおおらかな因陀羅の精神が画中には横溢している。なんとも楽しげな寒山の指さす先には何があるのか畏れず、捉われることなく、風に誘われるまま進んでみたい。凝り固まった日常の思考に揺さぶりをかけ、柔軟な精神を喚起してくれる、なんとも愉快で本質的な禅画であるという。
上記の東京国立博物館本に髪や表情がよく似ている。
野村美術館蔵寒山図  『よみがえる川崎美術館展図録』より



寒山図 伝因陀羅筆 法元賛 掛幅 紙本墨画 65.7X30.4㎝
寒山拾得図 対幅 伝因陀羅筆 慈覚賛 紙本墨画 (各)77.8X31.4㎝ 東京国立博物館蔵
同書は、この2点の作品は、いろいろな意味で共通点をもっている。両方賛者が明らかでないこと、画中の各印が彼の確実な作品に押捺されたそれと異なっていること、画風が因陀羅にくらべて共通の弱さをもっていること、またとくに、芭蕉の葉をもつ寒山の姿態がほとんど相ひとしいことなどである。
因陀羅の伝歴は、ほとんど明らかではないといっていいが、彼の個性的な作風は、なん人かの模倣者を生んだらしく、明らかに別の印章を持つ因陀羅風な作品がある。この両幅もそれぞれニュアンスは相違しながらも、二幅対の方は、因陀羅の技巧を分解して、より断定的にし、一幅の方は、因陀羅をあいまいにしているように、確実な因陀羅作品からは距離のある作品であるという。

寒山図 伝因陀羅筆 法元賛 掛幅 紙本墨画 65.7X30.4㎝
伝因陀羅筆寒山拾得図  『水墨美術大系第4巻 梁楷・因陀羅』より

伝因陀羅筆寒山拾得図  『水墨美術大系第4巻 梁楷・因陀羅』より


寒山拾得図 双幅 伝因陀羅筆 清遠文林賛 紙本墨画 31.8X85.5㎝
同書は、現存する寒山拾得図の多くは、それぞれに禅余画家の名で伝えられているが、中でも因陀羅の名を冠した作品が多い。本図もその一例で、淡墨で描いた頭髪や眉毛と、濃い墨線できりっと引いた目と口とを対照させ、衣の淡墨の輪郭線と、襟、袖口、帯の濃い太い線とを対比させる画風は、因陀羅人物画の特色を示すものである。しかし、例えば、寒山拾得の襟、袖口の太い濃墨の線が、いかにも作為的であるのは、本図の制作時期が因陀羅画風の様式化した段階であることを示すものであろう。
両図に賛をしている文林については、本大系第三巻『牧谿・玉澗』の図版解説(図版)で、海老根聰郎氏が、昌国(寧波府定海県)の普慈寺に住した清遠禅師に比定されている。そうすると本図の制作年代は元末明初となり、作風の上でも一致する。なお、両図ともに「釈氏不軽」(朱文)の印があるという。

伝因陀羅筆寒山拾得図 清遠文林賛  『水墨美術大系第4巻 梁楷・因陀羅』より


寒山拾得図 梁楷筆 掛幅 紙本墨画 81.1x34.0㎝ MOA美術館蔵
同書は、この「寒山拾得図」は、細い線と幅のある太い線とを同時に用いた画体で描かれている。合せた掌の輪郭が二重線になっているのも特異である。開いた口と眼とで笑っているが、何となく薄気味悪い。白猫と水墨とを併用した放胆破格なこの図の画法は、画法そのものの面白さには惹かれるが、「祖師図」や「布袋図」などに比し、実在感が稀薄になるのは避け難い。しかしまたそれが、この怪気な笑いの表現を効果的にしている。幅の左下隅に「梁楷」と読み得る落款があり、右上角に「雑華室印」が押されているという。
伝顔輝筆の寒山拾得と比べると、ずっと普通の顔です。
梁楷筆寒山拾得図  『水墨美術大系第4巻 梁楷・因陀羅』より


寒山拾得図 対幅 紙本著色 (各)83.6X34.0㎝
同書は、この作品は普通にみられる寒山拾得の図柄とはやや趣を異にして、寒拾二人を美少年の姿に画いている。巻子を持つ寒山は衣裳に施された彩色がかなり剥落しているが、透ける上着の下に下着をみせる描写は顔輝派の人物画によくみられるものである。箒を持つ拾得は描線の性質に寒山と多少異なる点もみられるが、これは剥落のとき起したものであろう。この一風変った寒山拾得図で特に目立つのは、人物の頭部、特にその広い額と精細な毛髪の描写である。そしてこの作品が、白描画の細緻な表現の影響を受けていることは、この毛髪や手足の描写から推察できるという。
寒山拾得図  『水墨美術大系第4巻 梁楷・因陀羅』より

解説に「顔輝派」ということばが出てきた。顔輝が当時どれくらいの人に手本とされてきたかがうかがい知れる。



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参考サイト

参考文献
「よみがえる川崎美術館 川崎正藏が守り伝えた美への招待展図録」 2022年 神戸市立博物館
「水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「水墨美術大系第4巻 梁楷・因陀羅」 川上涇・戸田禎佑・海老根聰郎 1978年 講談社
「世界美術大全集東洋編6 南宋・金」