ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2019/05/31
明恵の夢と高山寺展 善財童子は善知識を訪れる
明恵の夢と高山寺展では、これまで見たことがないか、見ても気に留めなかった仏画を興味深かく鑑賞した。
春和夜神像 鎌倉時代(13世紀) 縦61.0横28.0㎝ 絹本着色 京都高山寺蔵
同展図録は、『華厳経』入法界品で、善財童子が訪問する53人の善知識(ぜんちしき、よき友)のうち、31番目に会うのが春和夜神である。夜の闇を司る女神であり、夜中の盗賊や悪鬼を撃退する力を持つと説かれるほか、一切衆生の種々の諸難を救済するという。平安時代には航海の神としても信仰されていた。
本作の右下には、合掌して上方を見やる善財童子がいる。目前には長い階(きざはし)のかかった台(うてな)があり、その上には春和夜神がくつろいだ姿で坐り、五筋の光明を放つ。高台の下方は、緑や青、ピンク等でいろどられた霞が漂い、その遙かな高さを想像させるという。
善知識は「ぜんちしき」だけではなく、「よき友」とも読むらしい。良い言葉である。
美しい春の夜を想起させる心地よい作品である。本作の右上方は傷みのため確認しづらいが、円形の月が描かれていたとみられる。
建保元年(1213)6月16日の夢には、「バサダヤ天」と思しき貴女を夢にみるなど(陽明文庫所蔵の夢記)、明恵は善知識のなかでも春和夜神に格別の信仰を向けていたようであるという。
華厳海会善知識曼荼羅 鎌倉時代(13世紀) 縦182.4横116.1㎝ 絹本着色 奈良東大寺蔵
同展図録は、『華厳経』の最終章である入法界品は、善財童子が文殊菩薩の教えを受けた後、53人の善知識(よき友)のもとを訪れ、教えを請う物語である。この主題を描いたのが本作。
最上部に「華厳海会善知識」と大書し、その下の中央の区画に『華厳経』の教主である毘盧遮那如来を描く。全身は白色で、白蓮に坐している。着衣の雷文や麻葉繋ぎ文、蓮弁の葉脈は、銀泥で描かれる。両肘を屈し手首を外側に折り曲げて印を結ぶ特徴的な姿であり、<夢記 第10篇>や<五智曼荼羅>の中尊と同じ像様である。
毘盧遮那の特徴的な姿勢と印は、中国では宋時代以降に散見される像様である。また善知識の図像は、北宋末期成立の版本『仏国禅師文殊指南図讃』と共通天がみとめられるため、本作が大陸から舶来した新しい図様をもとに構成されたことがわかるという。
高山寺蔵仏眼仏母像と同じく全身を白色で表され、白蓮に坐している。銀泥で文様を描くのも共通している。
毘盧遮那の周囲は、碁盤の目状に54区に区切り、各区画に善財童子が善知識のもとを訪れる場面を描く。
善財の旅は、向かって左上の文殊菩薩による導きに始まり、右下の普賢菩薩のもとで完結する。文殊の右が最初に訪れた善知識・徳雲比丘、そこから右方へと進行し、その下の段は逆に左方へと進行し、画面上を蛇行しながら下方へと物語は展開する。善財は善知識のもとで教えを受け、修行を段階的に進めていき、最後に普賢菩薩と対面して修行を完成させる。明恵は、修行の階梯をのぼっていく善財と善知識のあり方を、自らの修行の手本とみており、善知識曼荼羅を制作し流布させた。こうした明恵の思想には、唐の居士・李通玄による『華厳経』関連の著作の影響があるという。
お経のように、あるいは当時の日本語や中国語のように右上から下へ、次の左行の上から下へと見ていったら、31番目の区画は別の善知識だった。
左上、一番目の文殊菩薩は、樹間で四脚座に結跏趺坐している。本来は文殊を乗せている獅子は、その四脚座の中に蹲る。
文殊は口を開き、善財童子に何かを告げている。
上から6段目右から5番目に、31番目の春和夜神がゆったりと何かの上に坐る。高山寺蔵春和夜神像は夜だったが、この図では日中のように描かれる。善財童子は立って春和夜神に教えを請うている。その間に何かがあるのだが・・・宝珠かな?
右下53番目が普賢菩薩。五色の台座に蹲った象に乗る普賢は、右足を象に置き、左手で善財童子の頭を撫でている。尾は認められないが、来迎雲に乗って、善財童子をどこかに連れて行っているようにも見える。
善財童子について『日本国宝展図録』は、豊かな家に生まれ、心の清らかな善財童子は菩薩行を学び修するため、文殊菩薩の教えに従い、多くの善知識(正しい仏道に導いてくれる存在)を求めて南へと旅に出る。老若男女、聖俗さまざまな善知識から教えを受け、ついには普賢菩薩と同等の智恵を得るに至ったというものという。
仏教美術は好きだが、仏教そのものを学んだことがないので、善財童子は安倍文殊院の渡海文殊のように、獅子に乗る文殊菩薩の侍者の一人だと思っていた。
明恵の夢と高山寺展 金泥による装飾の素晴らしさ← →文殊菩薩と善財童子
参考文献
「明恵の夢と高山寺展図録」 2019年 中之島香雪美術館
「日本国宝展図録」東京国立博物館 2014年 読売新聞社・NHK
2019/05/28
神像を遡る
せっかくなので、神像について古いものを探すと、
八幡三神坐像 平安時代 東寺蔵
『日本の美術457』は、現存する神像の中で最古例に属するといえるのは、東寺の鎮守八幡宮に伝来した八幡三神坐像である。『東宝記』(南北朝)によると、東寺草創の時に、平安京の鎮護のために八幡神を勧進したが、この時には勧進のみで御神体は安置しなかったという。その後、薬子の変に際し、嵯峨天皇は空海と密談して八幡神に願を立て、成就の後、弘仁年中(810-824)に勧進した。その時影現した八幡三神と武内宿禰を、空海は初め紙形に写し、その後木像に刻んだ。八幡神を僧形の木像として安置したのは当社がその最初である。
本像は八幡神の左右に女神像を配する形式をとるが、八幡神像は剃髪し、衲衣に袈裟をまとい、右足を外に結跏趺坐する。
三軀ともに、頭体幹部を通して針葉樹の一材から彫出するが、いずれも木心部にウロのある材を用いているために、その影響が及んだ面部や胸部、腹部に別材を矧いでいる。そのウロの状態から、これら三軀は同一の木を用いていると見られることは注目され、用材となった木は何らかの由緒をもつ神木や霊木であったと考えられる。
上瞼を直線的に、下瞼を弧状にした目の形、ややなまめいた表情などは真言密教系の木彫に通じ、乾漆像を思わせる脚部の太い衣文表現なども同様であるという。
神功皇后及び別の女神像
同書は、女神像は髻を結い、髪を両肩前と背後に振り分けて垂らし、袍衣と背子を着け、右足を外に結跏趺坐する。その坐勢は仏像と共通し、造形化に当たって仏像が参照されたと考えられるという。
『日本の美術18神道美術』は、衣装は唐服、手は左に持物、右に印相を結び、結跏趺坐する姿、彫法や衣文にはやはり当代の仏教彫刻と似かよう点が多いという。
若宮八幡神像 東寺蔵
同書は、やや小さいが、冠をいただき笏を構える裸形の神像、これはもと衣装を着せて奉安するものでそのためにきわめて痩身に造られている。日本の裸形像としては恐らくここらが一番古いものだとみてよかろうという。
八幡三神坐像 平安時代・9世紀 木造彩色 奈良薬師寺蔵
『日本の美術457』は、本像は薬師寺の鎮守の八幡神社に祀られているが、当社は寛平年中(889-898)に薬師寺の別当栄紹大法師によって勧進されたと伝える。僧形八幡神像を中央にして、左に神功皇后像、右に仲津姫命を配するという。
『日本の美術18』は、貞観期の一木彫、彩色像で、わが国の神像彫刻としては最古の遺品とみなされるものであるという。
僧形八幡神像 像高38.8㎝
『日本の美術457』は、八幡神像は衲衣に袈裟を着け、両腕を屈臂して左手は掌を上に向け、右手は膝の上で掌を伏せて坐す。
彫り自体はやや渋滞が見られるものの、特に八幡神像には翻波や渦文、茶杓形を交えた力強い衣文表現が見られ、奈良の地で培われた木彫の伝統が反映されているように思われるという。
『なら仏像館名品図像』は、仏教に帰依し出家した姿に表され、初期の神仏習合の様相を見せているという。
穏やかな面貌で表されている。
神功皇后像 像高33.9㎝ 奈良薬師寺蔵
『なら仏像館名品図像』は、二軀の女神像は唐風の俗体形という。
『日本の美術457』は、豊かな髪を左右に分け、両腕まで垂らし、さらに頭頂で束ねて背面の腰辺まで垂らしている。大袖の衣と背子、裙を着け、左足を立てて坐しているという。
『日本の美術18』は、装束はいわゆる唐服(唐衣装姿、からぎぬもすがた)である。胸元から垂れた領巾(ひれ)や着衣には、美しい花文の彩色もみえる花やかな彫像だが、やはり容貌にはいかつい森厳さをたたえる。
神社建築の整備にともなって、以後の神社儀礼には全く宮廷的な要素を濃くしてくる。神像そのものが、こうした影響の中からまず生まれ発達をとげるに至ったわけだから、おのずと神像にはその時代の風俗を反映しているものが多いわけである。薬師寺の女神たちも、そうした時代の風俗を示すものにほかならないという。
仲津姫命像 像高36.8㎝ 奈良薬師寺蔵
同書は、仲津姫命の姿も神功皇后像と同様であるが、右足を穏やかに立てて坐す形とする。東寺の像が三体とも結跏趺坐して整然とした趣があるのに対して、本像ではその坐勢がより自由なものとなっているという。
神功皇后像とは衣装も変え、着衣の文様も丁寧に描かれている。
三神坐像 9世紀 京都松尾大社蔵
『日本の美術457』は、三神像のうち、二軀が男神像であるが、いずれも幞頭冠をかぶり、袍を着け、両手で笏をとって坐すが、その姿は老年相と若年相に区別して表されている。
三軀ともに、脚部を除く頭体幹部を針葉樹の一材から彫出し、内刳りは施していない。いずれの用材にも節が多く、あえてこうした材を使用している背景には、何らかの由緒のある木を伐採した可能性が考えられる。さらに、各像ともに、木心が頭体の中央前寄りを通ることから、いずれも同一の木から木取りされた可能性が指摘されている。
いずれも奥行きと量感のある堂々とした姿を示し、衣文の彫りも深く鋭く表現されている
という。
男神坐像 老年相 像高97.3㎝
菅公のような忿怒の相ではないが、険しい表情をした神である。
『日本の美術18』は、神道宗教の思想には、若宮とか童子神に対するいわば「いのち」のあこがれといった理念がある反面、同時にまた枯淡で東洋的な神仙の姿に迫ろうとする願望をみることができる。翁の仮面が、神の心と姿をそのままに表すと信ぜられているごとく、神道図像の中には枯れきった老境を示す男神の像を多くみいだす。この松尾社男神像の表情にもそうした意味でのマジカルな神秘感が、強烈な現実感とまじりあっているという。
男神坐像 若年相 像高96.4㎝
『日本の美術457』は、『長秋記』長承元年(1132)6月3日条によると、当時、松尾大社の神宮寺に智証大師円珍が造立した御正体があったとこが知られる。本三神像は同社神宮寺伝来といわれており、『長秋記』に語られる円珍造立の御正体に当る可能性が高いと考えられるという。
女神坐像 像高87.6㎝
同書は、頭髪を両腕前と背面に振り分けて垂らし、大袖の衣と背子、領巾、裙を着け、両手で持物をとって坐す姿に表されるという。
『日本の美術18』は、日本でも古代の土偶は豊満な女性像をかたどって、原始的な生産神としてきたし、埴輪の世界でも巫女のような神秘な女性像が製作されている。こういう思想がやがて神道宗教の世界における比咩神(比売神・姫神)信仰へと発展する。この松尾社女神像の表情には、ミステリヤスな神道像と重厚な密教像とのかさなりあいが見られる。9世紀なかばの作品という。
奈良国立博物館の本館、現なら仏像館名品館では男女神像が展示されていて、なんとなく斜に構えた神さんに見えて、行く度に興味深く眺めたものだった。
男女神坐像 平安時代(12世紀) 奈良国立博物館蔵
『なら仏像館名品図像』は、一対の男女神像で、ともに針葉樹(ヒノキか)の一木造。
奈良時代に出現した神像は平安時代に定着したが、多くが正面向きに威儀を正す様に表されるのに対し、この二像は顔を横に向ける動きのある個性的な姿を示すという。
男神像 像高40.0㎝
同書は、男神像は袖先を別材製とする(亡失)。袍を着し、笏(亡失)を握る官人の姿で、風貌は壮年のそれであるという。
斜め向きで、忿怒とまでは言えないが、不満そうに口をゆがめ、目を見開いている。衣装は違うが、天神像に繋がる表情のようにも見えるのだが・・・
女神像 像高38.9㎝
同書は、女神像は和装の姿、左手は袖の中に入れ、右手で垂髪をまさぐるかのようなポーズを見せる。福々しい頬が印象的という。
顔は福々しいが、口は尖っている。
年月を経て風化した木の年輪が浮き出て、左肩は衣文線が並んでいるかのような凹凸を見せる。
北野天満宮展 束帯天神像は忿怒相←
→明恵の夢と高山寺展 善財童子は善知識を訪れる
参考文献
「日本の美術457 平安時代前期の彫刻」 岩佐光晴 2004年 至文堂
「日本の美術18 神道美術」 景山春樹 1967年 至文堂
「なら仏像館 名品図録」 2010年 奈良国立博物館
「なら仏像館 名品図録」 2010年 奈良国立博物館
2019/05/24
北野天満宮展 束帯天神像は忿怒相
菅原道真は日本では初めて神格化された人物である。
『日本の美術479』は、奈良時代末に始まるとされる神像が、その神性を表現するのに人間の姿を借りたのは仏像の影響といわれるけれど、八幡神をはじめ祖先神・地域神などどれも特定の人物をあらわすことはなかった。神のあるべき姿としてのきまりごとはあったにせよ、具体的に誰それを髣髴させるのでなく、個々の具象を捨てた抽象的なものでよかったのである。そのような初期神像の行われたのは8世紀末から9世紀全般にかけてであったが、その最終段階に位置する熊野速玉大社神像も、祖先神らしい威厳をもちながら特定の個人を表現したとはいえない。
故人を恐れうやまうのは誰にでも自然な感情であろうが、それを国家や氏族レベルで行うとなると、廟が建てられそこに奉祀される対象が必要になる。本格的な礼拝対象となった初期の例として菅原道真を考えてみよう。
菅原道真(845-903)は宇田・醍醐天皇に重用された官吏だが、延喜元年(901)藤原時平の中傷のため太宰府に左遷され、そこで没した。しかし同9年、時平が39歳で急死、延長元年(923)保明親王が夭折し、さらに延長8年(930)に宮中清涼殿に落雷、病に臥した醍醐天皇もまもなく崩御する。それらのできごとは道真の怨霊のしわざとみなされ、恐れられた。やがて天慶5年(942)右京七条に住む多治比奇子(あやこ、文子)に道真の託宣があり、また同9年または10年、近江国比良宮の禰宜神良種の子太郎丸にも同様の託宣があり、それをうけて10年、北野の右近馬場に天満宮が創設された。
太郎丸にあった託宣は、「我が像を作りて、笏は我昔もちたりしあり、それを取らしめよと仰給なり」とあり(『北野天神御神託記文』)、生前使っていた笏を執る像容が求められたものであった。当然これは彫像のはずであり、その姿は、北野宮曼荼羅図(北野天満宮蔵、室町時代)の本殿内に描かれた、笏の上下を手で執る束帯姿の道真像に近いものだったと想像される。後世いうところの怒天神である。つまりここに、神格化された故人をまつる神社、およびその神体として近過去の人物肖像が出現したのである。これを肖像と呼ぶのに異論もあろうが、対看写照にもとづく写実的な肖像ではなく、特定の個人でありながら神威をも備えるという意味での肖像であるという。
現存最古の天神像は鎌倉時代のもの。
束帯天神像 根本御影 鎌倉時代(13世紀) 縦84.3横34.3㎝ 絹本著色 北野天満宮蔵
『北野天満宮 信仰と名宝 天神さんの源流展図録』(以下『天神さんの源流展図録』)は、彫像や絵像で天神の姿を表現することは平安期に始まるとみられるが(『扶桑略記』天慶4年所収『道真上人冥途記』など)、その出現の契機や時期は明らかでない。ただし遅くとも鎌倉初期には絵像の存在が記録され(『明月記』元仁2年3月4日条)、貴族社会における主要な社の一柱として天神像が比較的早くから図像化された可能性はある。
根本御影は、着用する束帯が古様な萎装束である点で、平安期に祖本が成立した「板絵神像」(薬師寺)などとの表現の類似が指摘される。吊り上がった眉や歯を覗かせて開口する表情は説話に基づく忿怒相の表現で、天神ならではの表象として、後世に広く踏襲されたという。
現在は学問の神さんと親しまれているが、鎌倉時代ではまだこんな忿怒相として描かれてた。
竜田明神画像 鎌倉時代永仁3年(1295) 南都絵所堯𠑊(ぎょうごん)筆 薬師寺蔵
『日本の美術18』は、南都薬師寺の鎮守として有名な、休が丘八幡宮の社殿にかかげられていた板絵着色神像画の一つ。永仁3年に、古くからあった障子絵に基づいてこの板絵を作ったと、裏銘に書いてある。竜田明神は四脚の床座にすわり、背後には美しい紅葉を描いた障屏を立て、少し剥落してはいるが立涌文様、うす色の袍をつけるまことにおだやかな貴紳の姿。一個の大和絵肖像画としても優れた作品であるという。
着衣や笏・刀などの描き方は共通するが、顔は穏やか。天神像の怒りをあらわにした表情は特異なものだ。
北野天神縁起絵巻 承久本 天拝山 鎌倉時代(13世紀) 北野天満宮蔵
『天神さんの源流展図録』は、筑紫において道真公は、自らが潔白であるという祭文を作り高山に登り、7日間にわたって無実を訴えた。すると祭文は天高く舞い上がり、祈りが通じ、道真公は「天満大自在天神」となったという。
鎌倉時代には、道真公が生前に神となったとされていたようだ。こちらは菅公の表情まで読み取れない。
その後も天神像は描き続けられ、正面向きの立像なども多く描かれた。同展でも数点展示されていたが、
北野曼荼羅 室町時代(15世紀) 縦125.8横73.3㎝ 絹本著色 京都 北野天満宮蔵
同展図録は、室町時代の北野社社頭・境内の景観を描いた作例として確かに北野社の絵図ではあるが、本殿内の束帯天神像が他を圧して描かれ、また画面上部の天上に円相内五尊(不動明王・釈迦金輪・薬師如来・愛染明王・慈恵大師)があるのも、いわゆる垂迹曼荼羅型の図であり「北野曼荼羅」と呼称されるにふさわしい。本殿とそれを囲む廻廊を画面やや上方中心に置き、その向かって右には法花堂や大塔・鐘楼など仏教に関わる建物が描かれるが、左には毘沙門堂や朝日寺もあって、当時の神仏習合の社頭の様子が丁寧に描かれるという。
当時北野天満宮には多宝塔もあったのだ。
この面貌は忿怒相なのだろうか、正面を見据え、笏を両手を上下にして持つ。
室町時代ともなると、菅公は学問の神さんになっていたかな。
北野天満宮展 北野天神縁起絵巻の雷は截金← →神像を遡る
参考文献
「北野天満宮 信仰と名宝 天神さんの源流展図録」 2019年 京都文化博物館
「日本の美術479 十世紀の仏像」 伊東史朗 2006年 至文堂
2019/05/17
田上惠美子氏の作品展は東京のカラニスで
田上惠美子氏より東京での個展の案内が届いた。
田上氏の案内のハガキは別世界を覗く窓のようで嬉しい😊
田上氏の2019.4.~5. 平成から令和へのそぞろごとの中にある
で、試行錯誤の余波でか、こりゃなんや?!的なものが発生したので、それをもう少し発展させて、5月中旬からの東京南青山カラニスさんでの個展に間に合うように制作する方向に頭を切り替え中
だがしかし、どこに向かっているのか迷走中・・・
という文の下に添付されている作品の写真は、この写真のものとも違って、大きな畝のあるものだ。厚手で力強い。そして使い続けて時代の付いた茶碗のような風格がある。
一方、この作品は柔らかな雰囲気で、儚さも感じるのは、かなり傾いたところでバランスしているからだろうか。金箔銀箔はともかく、器体の表面がナイフで荒く皮を剥いだリンゴ、或いはこんな風に皮がはがれる樹木のよう。一見不透明に見えるが、その影が透明な部分があることを示している👀
田上惠美子氏はこのところ毎年カラニスで個展を開いておられるようだ。
あれはもう4年も前のことになるのだが、同じ南青山にある根津美術館の「村上コレクション受贈記念 中国の古鏡展」に行った時、近くにあるはずのグラス・ギャラリーKARANISを探したことがある。それは田上氏の個展期間の少し前のことで、いただいていた案内のハガキを忘れていったために、うろ覚えの場所が間違っていて探し出すことができなかった。
で、気になっていたカラニスというお店の名称の意味。
カラニスのホームページのカラニスとは・・・の説明では、後1-3世紀にかけて栄えたエジプト北岸のローマングラス交易の中心地。ここで作られたと思われるガラスの皿や小鉢が、奈良県新沢千塚126号墳から出土していますという。
新沢千塚出土カットガラス碗は、近年の蛍光X線分析の結果、サーサーン朝で作られたものであることが判明しているが、ギャラリーカラニスが開店された1993年当時はローマン・ガラスとされていたのだろう🤔
ただし、1985年の谷一尚氏の切子ガラス括碗の系統と伝播 J-Stageは、カラニス出土の数千点に及ぶガラス器は、ハーデンにより9種類の素材に分類されている。彼は、遺跡の各層位に発見された25の代表的建物遺構から、一括遺物として出土したガラスの素材と建物の年代とを比較研究することにより、出土ガラス器の編年を行なっている。切子括碗は、建物Bを中心に出土しており、素材は(2)に属していて、カラニス古 期、2-3世紀中葉頃とされるという。
新沢千塚出土カットガラス碗と同系統の括(くびれ)碗は作られていたのだった😎
カラニスさんの田上氏の作品紹介の文は美しい詩でした。
強く そして儚いガラス
ガラスの在りようは いのちの在りように重なる
きょう眼にすることが出来た 素晴らしい 空 光 風 水 土 いのち
その美しさの断片を ガラスに留めたい
青田風のたよりは田上惠美子氏の蜻蛉玉展←
→岡山天満屋のご案内に田上惠美子氏の個展
関連項目
新沢千塚出土カットガラス碗は白瑠璃碗のコピー?
参考サイト
2019.4.~5. 平成から令和へのそぞろごと
カラニスのホームページのカラニスとは・・・
1985年の谷一尚氏の切子ガラス括碗の系統と伝播 J-Stage
2019/05/14
明恵の夢と高山寺展 金泥による装飾の素晴らしさ
朝日新聞社の創設者村山龍平の美術品を所蔵する香雪美術館はかなり以前から神戸の御影にあり、乗り換えなどで時間が掛かるので同じ県に住んでいても行きやすい美術館ではなかった。そして2018年に大阪の中之島の朝日新聞社のビルに新たに中之島香雪美術館が開設されたが、今度は行く機会に恵まれず、一年が経過して、やっと訪問することができた。
その展覧会は「明恵の夢と高山寺展」というもので、目玉は朝日新聞社文化財団が修復した「鳥獣戯画」や「明恵上人樹上座禅像」だが、今回は仏画について。
「北野天満宮 信仰と名宝展」では北野天神縁起絵巻承久本第6巻第3段部分の稲妻に截金が使われ、しかも截金に肥瘦が見られることに注目したが、「明恵の夢と高山寺展」に出陳されていた仏画では金泥による彩画を確認していった。
仏眼仏母像 平安-鎌倉時代(12-13世紀) 縦197.0横127.9㎝ 絹本着色 京都、高山寺蔵
同展図録は、明恵の念持仏である大幅の仏眼仏母像。一切を見通す智の力を尊格化したのが仏眼仏母である。獅子冠を戴き、上印を結ぶ。全身を白色で表す清新な姿は『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』に、白蓮に坐し身体が白月のように睴くと説かれるのに基づく表現。明快に形を描く線描を主体とし、太細の線を使い分ける。
本作は、神護寺にて若き明恵を導いた文覚や上覚の周辺で、宅間勝賀・俊賀を中心とする工房によって制作された可能性が指摘されるという。
この作品は昔から見てきたが、関連の書物や図録が出る度に制作年代が違う。
面長で鼻梁線を明確に表した顔貌などには、いわゆる北宋画の造形的特色もみとめられる。
また、異様に大きな獅子冠は本作の特色の一つである。この獅子冠の造形から、他の仏眼仏母像とは異なり、本作は胎蔵界大日如来の形像を手本として、その宝冠を獅子冠に変えて成立したとの説が提示されている。
着衣線は銀泥、文様は金泥で描き、獅子冠には裏箔を施すなど、白の清らかな印象を妨げないよう、金銀が控えめに用いられているという。
『日本の美術373截金と彩色』は、銀泥文様は白あるいは淡紫の下地に描かれるが、これは黄あるいは金泥の下地に截金を置くのと同じ効果を求めたものであろうという。
細かい線による装飾の極致のような作品で、仏画の中のお気に入りの一つ。
細部の文様はこちら
釈迦阿難像 鎌倉時代(13世紀) 縦124.8横64.3㎝ 絹本着色 京都 高山寺蔵
同展図録は、左手に鉢を載せ、右手で錫杖を執る釈迦は 、岩の上に赤い敷物を広げて坐す。両足は紅白の踏割り蓮華が支える。背後には洞のある大木の幹が描かれ、こうした背景や、錫杖と鉢という托鉢を思わせる持物からは、経行中の休息の様子を想像させる。釈迦の傍らには、合掌し右膝を地につけて跪坐する比丘像があり、顔をやや上方に向けている。
彩色文様を多用する点や阿難の面貌表現から13世紀の作と推測される。
明恵は釈迦を父として慕い、その故地を踏むことを願って天竺(インド)行の計画を企てた。また、著作『四座講式』には釈迦への激しい思慕がみとめられ、明恵を支配したのは釈迦の生きた時代・空間に自分が居合わせなかったという強い悲しみだった。明恵が時折みた釈迦と邂逅する夢は、こうした宿願を夢の中で叶えるものだったという。
もし明恵上人がこの作品を描かせたのだとしたら、像は阿難であっても、明恵自身に見立てていたのかも。
鉢と錫杖には裏箔が用いられ、着衣には彩色による文様が施されるという。
鉢は絹地が傷んだところが反って金色がはっきりしているので、きっと裏箔だろうと思って見ていた。
そして着衣、特に深緑色の生地に描かれた金色の線は肥瘦があり、その自由に描く線が渦巻いたり、植物文様が続いていく様子が伸びやかに描かれていて、截金とはまた違う金泥による装飾の特長を確認できた。
文殊菩薩像 鎌倉時代(14世紀)縦77.3横35.8㎝ 絹本着色 和歌山 施無畏寺蔵
同展図録は、頭上に五つの髻を結い、右手に宝剣、左手に経巻をもつ文殊菩薩像。頭光を負い、紅白の踏み割り蓮華に立つ。五髻文殊は鎌倉時代以降に盛んに信仰され、絵像・彫像ともに作例が豊富に残るが、本作のように立像で表す例は少ない。
明恵よりは幾分降る時代の制作と考えられるが、本作と像容の近い木彫の文殊像が春日信仰と関連するため、本作も明恵の春日信仰を背景に制作された可能性があるという。
文殊の口もとなどには、当初の繊細でのびやかな描線がみとめられ、着衣は肥瘦のあるやや太めの墨線で縁取り、金泥で文様が描かれるという。
頭光の截金が用いられることが多い輪郭線も金泥ということかな。瓔珞、碗釧、臂釧などは金泥と墨による隈取りで立体感が見られる。
樋の主な衣文線も金泥である。
柔らかな着衣を表すのは金泥が適しているのかも。紅蓮華の横には同じく金泥で何かの輪郭が描かれているのだが、これが何かがわからなかった。傍の岩?
北野天満宮展 北野天神縁起絵巻の雷は截金←
→明恵の夢と高山寺展 善財童子は善知識を訪れる
参考文献
「明恵の夢と高山寺展図録」 2019年 中之島香雪美術館
「日本の美術373 截金と彩色」 有賀祥高 1997年 至文堂
2019/05/07
北野天満宮展 北野天神縁起絵巻の雷は截金
「北野天満宮 信仰と名宝 天神さんの源流展」では前期に承久本の第6巻第3段が展観されていた。
同展図録は、今日”天神さん”の名で親しまれる、全国の「天満宮」・「天神社」の総本社北野天満宮は、歴史上初めて、実在の人物菅原道真(845-903)を祭神とする神社である。
菅公(道真の尊称)の、当代最高の文人政治家としての栄光と晩年の悲劇とが、早くから貴族社会のみならず広く平安京住民の間でも関心を呼び、数々の逸話が生まれ、やがて天神として神格化することとなった。
延喜9年(909)に藤原時平が39歳で病死したことや、前後して都に相次いだ災害・異変が、菅公晩年の悲劇に関わった為政者のみならず、近隣の平安京住民の間でも菅公霊の「祟り」と目されるようになった。中でも延長8年(930)6月の宮中清涼殿落雷は深刻な事件であった。
皮肉にも諸卿が集まって干魃対策を協議中の出来事で、大納言藤原清貫・右中弁希世ら廷臣数名が死傷し、醍醐天皇も病臥の身となって3か月後に崩御した。菅公の「雷神」化の契機とされている事件である。
北野天神縁起は神となっていく菅原道真公をめぐる壮大な一大叙事詩である。これに絵を加え、巻物に仕立てたものが北野天神縁起絵巻であるという。
北野天神縁起絵巻承久本第6巻 鎌倉時代(13世紀) 縦52.1横876.0㎝ 紙本墨書・著色 北野天満宮蔵
同展図録は、北野天神縁起絵(天神縁起絵)の現存最古かつ最大の絵巻で、近世以来「根本」と呼ばれ、崇敬されてきた。縦50㎝を超える大画面に展開する雄渾な人物表現、迫力ある線描や明るく冴えた色調、長大な場面描写、情感にあふれる豊富なモチーフ描写など見どころが多く、中世絵巻の屈指の名品である。詞書が鎌倉前期、承久元年(1219)編集の縁起文であることから、承久本とも称され、実際の制作期もこの年をさほど下らないと考えられているという。
他の絵巻では横長の料紙を横にして描くが、承久本は縦に使っているために大画面の絵巻だった。
同展では、が鎌倉時代に成立した通称・弘安本を一つの典拠としながら、新場面も加え、バランスよく全体のストーリーを伝えている土佐光信筆『北野天神縁起絵巻』(文亀3年、1503)を用いて天神縁起の世界を解説していた。
それによると、延長8年(930)6月26日、宮中清涼殿に落雷があり、臣下の数名に死傷者が出た。遊牧民をとって立ち向かおうとした者もいたが、すぐに蹴り殺されてしまった。これは、天満天神の眷属のうち、第三使者・火雷火気毒王の仕業だという。
雷神ではなかった。
確かに大きな画面で迫力があったし、雷が落ちて炎が上がり、御殿の貴族たちにも炎が富んできて、顔を覆われる者、気を失う者、蹲る者、逃げようするが腰が抜けた者など、それぞれの衣装の色や文様が違うように、一人一人の動きを違えて描かれ、威力のなさそうな弓矢が転んでいる。
更に欄干から落ちた者、沓や烏帽子も着ける間もなく逃げ出す者、既に気を失っている者など。
しかし何よりも驚いたのは、截金で表された稲妻に肥瘦があることだった。
截金は主に仏像・仏画の荘厳に用いられてきた。太い線、細い線の違いはあっても、一本の線に細いところや太いところがあるということは、今まで見た記憶がない。
以前にまとめた三十三間堂4 風神雷神その後で、『続日本の絵巻15北野天神縁起』に、清涼殿落雷の惨状。墨に白群の暈を添えた、無気味な雲。金泥を駆った稲妻が、直線的な光を放つという記述があり、その時は金泥と思っていたが、金泥で描かれているのではないことを今回実物を間近で見て分かった。
太い稲妻は、金泥で描かれた上に太い截金を貼り付けているようにも思えるものはあるが、その先は細くなっている。また、細い稲妻さえ、その先は細く尖っている。
かなの「ひ」の字形の稲妻を拡大してみると、金泥あるいは黄色っぽい顔料で太く描いた上に、確かに截金を貼り付けていることが、複雑に曲がった箇所には截金を短く切って対応している。そして、先端部分は細長い截金に変えている。
雷神の右膝あたりの稲妻は、何か困難な事態が発生したようで、截金がぐにゃぐにゃしている。
この部分の全体が載っている図版は小さな絵葉書だけなので、解像度が悪いのだが。
やっぱり続きが切れていても、この方がよくわかるかな、截金が捩れているのが。
雷神の頭上では、太鼓の間の稲妻の先端が二つに分かれているし、もう一つの先端も細い截金が切れ切れに貼り付いている。
これが金泥で太く描いた上に幅広の截金を貼り付け、稲妻の先端は細い截金をつかい、しかも先を細くしていることが。
→北野天満宮展 束帯天神像は忿怒相
関連項目
明恵の夢と高山寺展 金泥による装飾の素晴らしさ
三十三間堂4 風神雷神その後
参考文献
「北野天満宮 信仰と名宝 天神さんの源流展図録」 2019年 京都文化博物館
表紙は天神さんらしく梅の花形に刳り貫いてあり、見返しに印刷された風神さんの顔がそこから見えるようになっている。大きくはないが、分厚い図録なのに軽いのも有り難い。
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