ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2016/08/19
アク・ベシム遺跡
『シルクロード紀行12』で林俊雄氏は、現在のキルギス共和国の領域は、西部天山山脈の北麓からフェルガナ盆地の南にまで及んでいる。
この地にキルギス人が現れたのは今から400-500年前のことで、それ以前は、同じテュルク(トルコ)系の突厥やテュルギシュ(突騎施)、カルルク、イラン系のソグド人、さらに遡ると、やはりイラン系のサカ(塞)や系統不明の烏孫などが住んでいた。
天山山脈からキルギス、カザフスタンの草原には、サカの築いた古墳が今でも数多く残されている。その一部は烏孫が造ったものではないかとする説もあるが、確証はない。
6世紀になると、今日のキルギスの地域には西突厥の本拠が置かれる。ここまで名前を挙げた部族集団は、みな騎馬遊牧民であるが(ただし烏孫の一部は農耕を行っていたとする説もある)、この頃から定住民の活動も目立ってくる。
天山山脈から北に流れ出る川の中でも、イリ川と並んで大きいのがチュー川であるという。
そのチュー川が平原に出たばかりのところに、アク・ベシム遺跡がある。その中心部分をなすのは厚い城壁で囲まれたほぼ四角形の主市街区(ペルシア系の言語ではシャフリスタンという)で、面積は約35万㎡に達する。城内の西南隅に砦跡がある。主市街区の東側に接して面積60万㎡以上の隣接市域(ラバトという)が広がっているが、ここは建築址が散在するだけで、密集した住居区画はない。遺跡全体の形は、中世初期の中央アジア西部の都市とほぼ同じであるという。
アク・ベシム遺跡平面図
見学したのはシャフリスタンの南東隅の遺構。南西部にはGoogle Earthで確認できる幾つかの建物跡は、上の図の蛇行する城壁の内側のもので、外側にある2つの仏教寺院址は土の中のよう。
Google Earthより
『シルクロード紀行12』は、この遺跡では、少なくとも3つの仏教寺院址と一つのキリスト教(ネストリウス派)教会址が発見されている。そのうち、1号仏教寺院址はシャフリスタンの西南隅の外にある。東西方向に長く、東に入口があり、西に本堂がある。その中間は中庭になっていて、庭に面した側は開いていて柱が立ち並んでいる。このような構造は、ソグド地方など、中央アジア西部のオアシス地帯に特徴的である。建築材料は日干レンガ(藁まじりの軟らかい泥を木枠に流し込んで天日で乾燥させたレンガ)で、その寸法は3種あるが、いずれもソグドの日干レンガと一致するという。
『PARADIGM OF EARLY MIDDDLE AGE TURKIC CULTURE:AK-BESHIM SETTLEMENT』(以下『AK-BESHIM SETTLEMENT』)は、どちらの寺院も建築技術は同一で、土(版築)、壁を築くのに突き固めた土の塊と、その間に水平な数段の日干レンガ列を入れることという。
第1仏教寺院
正方形の寺院で、広い通路と長方形の中庭そして幾つかの部屋のある入口の建物(前門)があり、長さ76m、幅22mの長方形であるという。
西奥にあるほぼ正方形平面で、東に入口のある建物が本堂で、内部中央に空間がある。赤く塗った4本ずつ南北2列に並んだ8本の角柱は柱廊だろうか。
復元図によると、8本の角柱のあるところも陸屋根が架かっていた。その奥のドームはストゥーパ?
2本の木柱(平面図では角柱だが、復元図では円柱になっている)で梁を支え、梁が横木を支える平天井になっている。ウズベキスタンの夏用モスクになっている柱廊(ボロ・ハウズ・モスク)のよう。中央アジアでは、このような木材を使った平天井が伝統的に受け継がれてきたということか。
仏坐像と立像が中央の開口部両側に安置されている。
キルギスでは、仏陀の3つの伝統的な姿勢、坐像、立像、涅槃像全てが、アク・ベシムとクラスナヤ・レチカでの発掘によって出土しているという。
また、第1仏教寺院からはパルメットや金メッキした青銅の飾板が出土しているという。
① パルメットまたはアカンサスの葉の間に仏または千仏が座した飾板
② 宝相華文の中に仏坐像と仏の方を向く2人の人物
③ 神または王族の夫婦像
これは異教神々の影響を受けた地域独特の仏教図像で、頭飾をつけた男性と鋸歯状の王冠を被った女性、そして二人の前には玉座がある。二人とも片腕をあげ、頭を右に向け肢を曲げて座るバクトリアのラクダを掲げているという。
同書によると第2仏教寺院は、平面図を見ると正方形で、前門の役割のある建物と中庭は、寺院内部の前面位置する広大なホールになっている。内陣は10X10.5mの正方形の十字ドーム型である。全体の大きさは38X38.4mの正方形平面で、内陣から同心状に2本の通路を持つという。
同書は、ラバドの方では、シャフリスタンの城壁から165m東方で、ネストリウス派キリスト教会が発掘された。シリアの4-6世紀の十字ドーム型プランをもつ教会との比較によって8世紀とされた。教会は楕円形で東西方向にのび、36X15mであるという。
その平面図も想定復元図も掲載されていない。
キリスト教会の発掘は1996-98年に、シャフリスタンの南東隅で始まった。修道院の建物群は、建立されてから、都市が存続している間は使われ続けたことがわかった。3つの主要な部分-教会(南側にある)と2つの建物の内一つは北に、もう一つは中央に平行して立っていた。西側では、2つの長方形の中庭は一続きで、広大な中庭であった。
十字架をイメージした陶製飾板(建物の聖なる区域の壁面を飾っていたらしい)遺物を伴った建物の配置は、キリスト教会の建物に一致する。建物群の規模は巨大であるという。
ということは、我々が見学した建物はキリスト教会だったのだ。
東側より
西側より
東寄りの側は、西側まで続くヴォールトの格天井が互いに連結する3つの部屋からなるドームのある建物が並んでいるという。
ということは、三廊式のバシリカ式教会、中庭などが南北に並んでいたのだった。近寄りすぎないで、城壁跡から全体を写せば良かったのだ。
これらの部屋は主ドームのある建物のように、それぞれ入口があった。西側には家事のための小さな部屋がいくつかあった。G.L.Semenovは、建立時期に言及せずに、この建物の使用期間を10-11世紀とした。
発掘は完了していないが、すでに発見された陶器は、6-8世紀の特徴を示している。このことは、キリスト教の修道院としての存続を示しているようだ。10-11世紀の施釉陶器はカラハン朝期の様相を見せている。多数の出土物や甲冑と武器の破片などによって、この建物の終末期には、別の目的で使用されたのは確かであるという。
それで時期が2つ記されているのだ。
仏教とキリスト教の建築(イスラーム以前)には画一性が見られる。シャフリスタンのキリスト教建物群と第1・第2仏教寺院を比較すると、通路とヴォールト状の柱廊は、長方形と正方形の繰り返しによる独特の外観となっている。
寺院はドーム架構され、第2仏教寺院には柱廊玄関がない。寺院の前面に中庭を配置することで、その代わりとしている。
3つの建物の玄関は、壁面が土の塊の分厚い基礎という同じような様式で造られている。その上には日干レンガがドームあるいは格天井まで積み重ねられた。日干レンガのサイズはいろいろあって、40-45X20-22X10㎝。パフサの塊は80X85㎝の高さで70㎝幅という統一規格。この寺院は、当時の中央アジアで最大で最も複雑なものであったという。
ところで、玄奘三蔵が西突厥の可汗に会うためにペダル峠を越えてやってきた。
『玄奘三蔵、シルクロードを行く』は、峠を過ぎればすでに国域は西突厥である。ひたすららに山を下ると、やがて目の前に波立つ青黒い湖が見えてくる。大清池である。
玄奘一行は束の間の休息を湖のほとりにとった。ここから葉護可汗の王庭のある素葉水城(スーヤーブ、素葉城)に至るのに、彼らは湖の北岸沿いの道をとったのか、南岸沿いに進んだのかは、明らかではない。ただ「海に循い」(『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』)、「清池の西北へゆく」(『大唐西域記』)としか記されていない。
玄奘は先を急いだ。大清池の西端を過ぎてさらに行くと、やがてチュー川のむこうに素葉城が見えてきた。現在のトクマクの南方にあるアク・ベシムの遺跡がその城址だという。玄奘のいう素葉も『唐書』にみえる砕葉城も同じで、ともに現地語「スイアブ(河水)」の音訳である。「城の周囲は6、7里で、諸国の商胡が雑居している」、玄奘が素葉で目にしたのは、国も扱う商品もさまざまに異なっていた商人たちがここに集まり、騒然とし活気にみちた国際的な交易・中継市場の光景であった。
ソグド人の植民市であったここには妍祠(ゾロアスター教の礼拝堂)はあっても仏寺はなかった。チュー川を10数㎞下るとクラスナヤ・レチカの城址がある。こんにちでは発掘によって涅槃仏もある仏寺の存在も確認されているが、玄奘が素葉を訪れたときにはまだ創建されてはいなかったと思われる。麹文泰が玄奘に統葉護可汗を訪ねるよう勧めたのも、当時の可汗の力が南のガンダーラ地方にまで及んでいたからであったという。
アク・ベシムやクラスナヤ・レチカで発掘された仏教寺院もキリスト教会も、まだ建立される前に玄奘三蔵はやってきたのだった。
涅槃像は、チュー川の少し下流のクラスナヤ・レーチカ遺跡で出土しているが、ほぼ脚部のみ残っている。
※参考文献
「シルクロード紀行12 キルギス イシク・クル湖 ビシケク」 2006年 朝日新聞社
「PARADIGM OF EARLY MIDDDLE AGE TURKIC CULTURE:AK-BESHIM SETTLEMENT」 L.M.VEDUTOVA SHINICHIRO KURIMOTO 2014 ALTYNTAMGA
「玄奘三蔵、シルクロードを行く」 前田耕作 2010年 岩波新書