お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/09/29

帯の垂飾も腰偑もただの飾りに


鮮卑族が帯に小物入れを吊り下げた例もある。

棺床屏風の門闕(部分) 北周(6世紀後半) 高51.5㎝幅53.3-56㎝ MIHO MUSEUM蔵
『中国★美の十字路展図録』は、石板の浮彫は、ソグド人と思われる墓主の生前関係した人々、隊商、墓主夫妻の宴、葬儀 ・・略・・  などの描写と解釈される。ここではエフタル人、中央アジア人、突厥人がその風俗によって描き分けられる。門闕には鮮卑の兵士と馬が刻まれ、この棺床の衛兵となっているという。
右脇の帯の下には3つの垂飾ついていて、その中央には商談図に見られた小物入れを吊り下げている。左脇にも同じく吊り下げ具があって、太刀を吊っているのだろうか。手で支えているのではないようだ。
侍者図壁画 漆喰の上に墨、彩色 隋、大業5年(609) 高132㎝幅56.5㎝ 寧夏回族自治区固原市史射勿墓出土 固原博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、円領で筒袖の赤い長袍を着用し、腰に重い革帯を締め、足には烏皮靴を履く。容貌からおそらく侍者は漢族なのであろうという。
漢族が腰偑のついた騎馬遊牧民の帯をしているが、何も吊り下げていない。当時流行していたので身につけたのだろうか。それとも、主人に命令されると何でも腰に提げられるように、空の状態にしているのだろうか。 武士俑 加彩金貼 唐、麟徳元年(664) 71.5㎝ 陝西省礼泉県鄭仁泰墓出土 陝西歴史博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、鄭仁泰が生きたのは唐王朝が目覚ましく発展した時期である。とくに第二代皇帝太宗の頃は異種族の制圧に力が注がれ、突厥、吐谷渾、高昌などを制圧、中国の北辺や西辺、西域はことごとく唐の領域になった。鄭仁泰自身も、晩年はシルクロード方面を統括する要職に就いていたという。
後ろ中央に帯の端が垂れ、その両側に紐状のものがある。これが腰偑の名残かも。太刀を付ける人物の図像を探していたら、聖徳太子像があった。

聖徳太子二王子像 紙本著色 縦101.5横53.6 奈良時代(8世紀) 宮内庁蔵 
革製?の帯をしているが、それとは別にカラフルな矢筈文の組紐で作った吊り下げ具から長さの異なる2本の紐が下がり、太刀の金具に取り付けられているようだ。
また、太子は、①の組紐の他に②穴に通す金具付の革帯、その内側に③銙板のある革帯と、3本も帯を付けている。左脇にベルトの端を垂らしているが、それが②の端か③の端なのかよくわからない。
ひょっとするとこれは最後に残った腰偑で、華やかな飾りを付けているのだろうか。
二王子もそれぞれ左脇にいろいろと吊り下げている。これらは小物入れかとも思ったが、同じ8世紀の唐の胡服女子俑が腰に提げる小物入れとは形が全く異なる。どちらかというと、平たいが華やかな装飾品に見える。ひょっとすると、この飾りは将来されたものではなく、倭国風のものかも。
門闕の衛兵はベルトは1本のようなので、おそらく帯に長さの異なる紐(それも腰偑か)をつけ、それに太刀を取り付けたのだろう。  統一新羅でも日本でも、腰偑が定着しなかったのは、必需品とはならなかったからだろう。その点、騎馬遊牧民の突厥は、腰偑のある帯が日用品であり続け、それが後世にも金帯飾りが作られる背景だったのでは。

※参考文献
「中国 美術の十字路展図録」 2005年 大広
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館 

2009/09/25

帯に下げる小物入れは中国や新羅にも

 
突厥の金帯飾りについた小物入れに似たものがあった。

山岳仙人霊獣文錦袋 絹 長12㎝幅10㎝ ニヤ1号墓地8号墓出土 漢-晋時代(1-5世紀) 
『シルクロード絹と黄金の道展図録』は、緑地平絹の縁をめぐらし、中央に茶地平絹の帯紐をつけた櫛袋である。表の錦は経錦(たてにしき)で、藍地に後方を振り返る虎のような動物や角を生やした動物に仙人が乗っている姿が、立ち上がる山形風の雲気文の間に配されているという。
同展で見た時、手首に通して持つのだと思っていたが、突厥のように帯に下げていたのだろうか。櫛を入れるための袋というのは騎馬遊牧民が持ち歩きそうにないなあ。 
ニヤ遺跡についてはこちら 商談図(拓本) 石製 北斉(550-577) 高135㎝幅98㎝ 山東省清州市傳家村出土 清州市博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、石板に線刻された画像は、囲屏もしくは石槨を構成していたものと推測される。頭に折上巾をつけた墓主と思われる人物が、筌蹄に坐して左手に杯を持ち、前に立つ胡人と対飲している。髪の毛がカールした胡人は胡服独特の派手な飾りの服を着、腰をかがめて相手の機嫌をうかがうかのようであり、奧に控えた人物がもつ珊瑚は献上品であろう。おそらくソグド人であるという。
胡人は腰に細い帯をしている。等間隔で区切りがあるので、銙板が付いた帯だろう。その下には丸い垂飾が銙板の区切りとは関係なく並んでいるのは、銙板と垂飾が同じ数だけある新羅の金製腰偑とは異なるところだ。
そして垂飾に通さずに、細い帯に直接小物入れが通してある。形は櫛入れと似ているが、蓋付なので、突厥の金帯飾りに下がった小物入れの方に近い。
漢人の商人も銙板のあるベルトをして、左脇には垂飾の間に長い紐で何かを吊り下げている。ソグド人の小物入れとは形が異なるが、小袋を腰に提げるのは当時の流行だったのかも。 胡服女子俑 唐(8世紀) 灰陶加彩 高50㎝幅13.3㎝ 咸陽市辺防村楊諫臣墓出土
『新シルクロード展図録』は、男装をした女俑で、襟を外側に折り(翻襟)、袖を搾った胡服を纏い、両手を腹前に置き直立している。胡服の下からは袴(こ、ズボン)と革靴が覗いており、腰帯から香袋のようなものを提げている。胡人の風俗を真似ることも当時の流行りであったという。
中国では8世紀ともなると、小物入れは円い妙な形になってしまった。当時の香袋はこんな形だったのか。
銙帯はまばらだが等間隔についていて、垂飾はなくなっている。そして、今まで気付かなかったが、ベルトの端は後ろ側に垂らすものだったのだ。そうだとすると、突厥の金帯飾りは、小物入れが腰側の左右にきたことになるなあ。 石人一対 慶州掛陵(クェルン) 統一新羅(798年頃)
『ユーラシアの風新羅へ展図録』は、韓半島の地にソグドを含む西域人が一定程度定着し、大規模に活動していたことを示す史料はない。史料はないが、新羅には東アジアの人種とは思えない特徴を持つ人物を表現した遺物が残されている。統一新羅時代の王陵級の古墳の前面に立ち並ぶ石像群の中にも、西域の人物と思しき武人像が存在する。ただし、これらの石造物や俑から、ソグド人らが新羅の地にいたかどうかを判断するのは実際には難しい。あるいは、唐の文化を導入した際に、それが誰を表しているのか理解されないままに異国風の人物を含む定型化したセットが認識され、石人像や俑として作られた可能性もある。
石人の後ろ姿には興味深いものがある。小さな楕円形のポシェットである。このような小物を入れる小さな袋は、騎馬の風習のある人々にも見られる
という。
こちらは平べったい小物入れだ。何かを持ち運ぶものというよりも、胡服と言えば腰に小物入れというように「定型化された」装飾だったのかも。巻き上げた袖のボリュームとはえらい違いだ。
長い上着の余った部分がベルトの上に垂れているので、銙帯や腰偑があるかどうかわからないが、慶州の積石木槨墳(-6世紀前半)から出土したような長い腰偑は流行らなくなって久しいのだろう。 騎馬遊牧民にとっては必要な腰偑のついた帯や小物入れも、中国の中原や山東省ではただの流行の装身具になり、更に統一新羅では袋という用途も忘れられてしまったかのようである。

銙板と垂飾についてはこちら

※参考サイト
佛教大学日中共同ニヤ遺跡学術調査

※参考文献
「新シルクロード展図録」 2005年 NHK
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」 2002年 NHK
「ユーラシアの風 新羅へ展図録」 2009年 山川出版社
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 1998年 小学館 

2009/09/22

新羅の腰偑は突厥の金帯飾りに似ている

 
慶州の巨大積石木槨墳からは幾つか銙帯(かたい)と腰偑が出土している。

金製銙帯・腰偑 5-6世紀 長102.0㎝ 
瑞鳳塚出土のものは金冠塚出土天馬塚出土のものに比べて腰偑の数が半分くらいしかないし、中程には耳飾りのようなものが1対取り付けられているように見える。『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、木槨内は盗掘もなく完存していたというので、埋葬時にはこれで全てだったのだ。 実際に見ると、腰偑は長い上にたくさん吊り下げられていて、あまりにも重そうなので、儀式や祭祀など特別なときだけ身につけたのだろうと思った。しかし、いくら儀式用とはいえ、腰偑をこんなに長くするのには、どのような意味があったのか。
そう思いながら、シルクロード関係の書物を探していると思わぬものを見つけた。

突厥の金帯飾り 出土地不明 時代不明  
『週刊シルクロード12キルギス』 に掲載されていた写真(ユニフォト)で、金細工の部分に狩猟紋(狩猟する絵)が描かれているという。
おそらく革に金製の金具がついているのだろう。ベルトを前で留めると、小物入れ状のものがちょうどポケットのように左右にくるように作られているようだ。しかし、他の腰偑は長短はあるが、武器も道具もつけていない。普段はこのままの状態で使用し、必要な時にだけ腰偑に取り付けていたのかも。 突厥の名が出るとは思わなかった。そもそも突厥とはどういう民族なのだろう。
同書で林俊雄氏は、6世紀中頃、柔然の支配下から独立したテュルク(トルコ)系の民族。後に柔然を併合して草原地帯を統一。西はカスピ海から東は中国の北方まで領土を広げ、匈奴以来の内陸アジア全域を支配する強力な遊牧国家を建設したという。
6世紀中頃と言えば、新羅では巨大な積石木槨墳がもう作られなくなった頃である。
『シルクロードを知る事典』は、突厥は北周と相互に婚姻関係をもって発展したが、次第に大小の可汗が分裂抗争し、やがて東突厥(モンゴリア)、西突厥(中央アジア)に分裂した。
630年、東突厥(第一可汗国)は唐のために滅ぼされ、部族は唐の北辺でその支配をうけた
という。
新羅に近い東突厥は7世紀前半に滅んでしまった。西突厥はどうだろう。
西面可汗シルジブルがエフタルを破って中央アジア全域を支配し、ササン朝と東ローマに対抗して西方へ発展したのが、西突厥の基礎となった。アパ可汗が西突厥を称したのは583年であった。
611年射匱が隋に任命されて可汗となり、その弟統葉護可汗期に最盛期を迎えた。統葉護は可汗庭をスイアブに移し、その勢力はアム川を越えてカピシ(現アフガニスタンのベグラム遺跡)に及んだ。
640年唐の高昌征伐を初めとする積極的西域進出が始まり、西域と西突厥は唐の支配下にはいった。
高宗は三度の大討伐を行なって、657年西突厥を滅亡させた。
唐はもとの西突厥の領域を傀儡の2可汗に統治させ、西突厥支配下にあった中央アジア諸国に都督府と州を置いて支配した。
683年東突厥の地では、阿支那氏のクトルグが突厥勢力を糾合して独立し、第二可汗国が成立した。彼らはゴビをわたって本拠ウチュケン山を回復し、モンゴリアを再統一した。次のカプガン可汗は西突厥の後継者の突騎施(テュルギシュ)を討ちソグディアナにまで遠征した。第三代のビルゲ可汗時代は玄宗皇帝期にあたり、玄宗と父子関係を結んで繁栄したが、その後は内紛が多く、唐と組んだトルコ諸部族の反乱が起こって、第二可汗国は744年に滅亡した。
8世紀初めには十姓の一部突騎施が復興し、東では東突厥と、西では東進してくるイスラム勢力と衝突する
という。
西突厥の方はかなり長い間中央アジアにいたのだ。

この出土地も時代もわからない金帯飾りは、『週刊シルクロード12キルギス』が採り上げているのだから、現キルギスの地のどこかから発見されたものだろう。
意外なことに、このような長い腰偑のついた形式のものは、長い期間にわたって、北方ユーラシアで使用し続けられたていたようだ。
そして新羅では、実用品でない腰偑もあるので、新羅では、突厥の帯飾りに似たものが武人などの間で使われていたのだろう。

石人 出土地不明 時代不明 ベラサグン、野外博物館 
『シルクロードを知る事典』は、砕葉城からさらに10㎞ほど南下すると、ベラサグンの遺跡がある。約1㎞X800mほどの広大な廃墟だが、遺跡に入るとまず半壊したミナレット(尖塔)があり、王宮の跡か住居址か巨大なテペ(遺跡の丘)がそれに続いてわだかまっていた。遺跡右手の空き地には、キルギス共和国の各地から集められた石人や直径1~2mの巨大な石臼が20~30個もズラリと並べられていて壮観だった。残念なことにこれらの石人は、採集地はすでに分からなくなったものが多いという。
この石人は膝を曲げて坐っているように見える。2本の剣は帯から下げているのか、脚の前に立てかけているのか、よくわからない。石人はたくさんあるようなので、探せばベルトから武器を吊り下げたようなのもあるかも。ベラサグン遺跡の位置は下図をどうぞ。

付近のアク・ベシム遺跡について『週刊シルクロード12キルギス』は、アク・ベシム遺跡が西突厥の本拠地であったスイアーブ、すなわち中国史料に見られる砕葉城あるいは素葉城に相当することがほほ確実であるという。
『シルクロードを知る事典』は、『大慈恩寺三蔵法師伝』には、法師のこの地方での旅を次のように述べている。玄奘三蔵がイシック・クルから西北に500余里進んで素葉城(アクベシム)に着くと、そこで西突厥の葉護可汗に会った。可汗はちょうど狩猟に行くところで、多数の兵馬を従えていた。玄奘が可汗を訪れると、可汗は大いに喜んだという。
玄奘三蔵がここまでやって来たのは630年のことである。きっと狩猟の服装をしていた可汗は、革に金の金具を付けた腰偑に狩りの道具をいろいろと吊り下げていたことだろう。 
慶州瑞鳳塚についてはこちら

※参考文献
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「週刊シルクロード12 キルギス イシク・クル湖ビシケク」(2006年 朝日新聞社)
「シルクロードを知る事典」(長沢和俊 2002年 東京堂出版) 

2009/09/18

鹿石の帯に吊り下げられた武器と新羅古墳出土の腰偑

 
モンゴル、オーラン・オーシグの今でも立っている鹿石(前2千年紀末-前1千年紀初)は下の方に帯状のものがあり、それにいろんな道具がぶら下がっている。剣のような武器らしい。帯の上部には弓矢がある。 

鹿石に描かれた図 オーラン・オーシグ出土
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、鹿石に表されたシカにも2種類ある。1つはモンゴル高原の鹿石によく見られるもので、鼻面が嘴のように突出し、背中には三角形の突起があり、枝角が背中に沿ってたなびき、肢は細い線で表されるものである。
これらの鹿石にしばしば刻まれている武器などは、中国の商代(殷代ともいう)後期に、中国北辺の牧畜民によって用いられたものに似ている
という。
こちらの鹿は肢は折り曲げていないが、極端に短い。
『世界美術大全集東洋編1』は、鹿石の表面には鹿を主としてさまざまな文様が刻まれているが、多くのものには耳飾りのような文様、首輪のような線、真ん中から少し下には帯のような文様、そこから吊り下げられているような形で、短剣、刀子、弓などの図が刻まれている。短剣には、その図からある程度型式が推定できるものがある。たとえば柄の先に動物の頭がつけられているものがあるが、それは柄が剣身に対して曲がっており、中国殷代の北方青銅器の短剣とひじょうによく似ている。鞘には、夏家店上層文化の短剣の鞘にときおり見られるように末端が少し広がったものや、三角形の透かし文様を表したものが見られる。
これらの例から鹿石の年代は殷代から春秋時代の初めごろに相当すると考えられる
という。
時代的にイラン系スキタイ以前である。この顔から類推すると、当時この辺りに住んでいたのは、日本人同様に目が細く鼻が低いモンゴロイド系というよりは、このように深目高鼻のイラン系(東方アーリア系)やなあ。スキタイ以前からイラン系の人々がモンゴル高原に住んでいたらしい。
2つの説を合わせると、殷代後期から春秋時代初期(前12-8世紀前半頃)だが、これだけの長期間に、モンゴル高原に住む人々はずっとイラン系だったのだろうか。それともモンゴル系に代わっても鹿石は作り続けられたのだろうか。 鹿石破片 前822-791年以前 アルジャン古墳出土
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、鹿石は元来、人の姿を表したものだと考えられている。確かに真ん中より少し下のあたりには帯が表され、帯からは、短剣や戦斧などが吊されているのが見える。
シカは幾分写実的に見えるスキタイ様式のシカである
という。
どうも鹿石は、北方騎馬遊牧民の狩猟の時の姿を表しているようだ。
アルジャンの位置はこちら 帯にいろいろと吊り下げられているのを見ていると、新羅の積石木槨墳より出土した銙帯と腰偑が気になる。

銙帯(かたい)と腰偑  金製 後5-6世紀 慶州金冠塚出土 長109.0㎝ 慶州国立博物館蔵(現在はソウルの国立中央博物館蔵)
『ユーラシアの風新羅へ展図録』は、新羅の典型的な帯金具で、何条にも下がる腰佩が特徴的である。 腰佩には魚形飾りをはじめ、様々な品物が吊されるという。
『黄金の国・新羅展図録』は、銙板の下部に勾玉・魚・刀子・砥石・薬筒・針筒・ガラス瓶・香嚢・鑵子などの腰偑が垂らされている。腰佩は、北方騎馬民族が旅行や戦争時に必要な各種の日常道具を腰につけていた風習に起源を見い出すことができる。このような風習が、鮮卑族や高句麗を経て新羅に流入して徐々に新羅化していく中でその実用性は失われ、非実用的な華麗な装飾品として製作されるようになった。腰偑装飾のうち、砥石と鑵子は鉄器製作に用いられた道具であり、薬筒は疾病治療のための薬が詰められた容器、勾玉は生命を、魚は食糧を表象したものとみなされる。すなわち銙帯の腰偑には、当時の王や祭司長が管掌した様々な職掌が象徴的に表現されているようであるという。 
やっぱり鹿石の帯に吊り下げられたものと関連があったんや。
腰偑は一番下に吊り下げられているものも含めるのか、その上の円形と四角形を何段か組み合わせたものだけをいうのか、解釈はいろいろだ。いずれにしても騎馬遊牧民にとっては、そのような長い腰偑は邪魔だっただろう。
鮮卑族は鹿角馬頭形歩揺飾を作ったとされる慕容部かも。慕容氏は五胡十六国時代には前燕(307-370年、都は鄴)、北魏が建国した後も、後燕(384-407年、都は中山)・南燕(398-410年、都は広固)などの国を建てた(『中国歴代帝王系譜』より)。 博物館で実際に見ると、金製の歩揺冠も腰偑もあまりにも重そうで、実用品ではなく、儀式や祭儀など特別なときに身につけたのだろうとは思った。時代と様々な民族を経ると、騎馬遊牧民の実用品はこのようなものになってしまうのか。
しかし、鹿石の下限の春秋時代初期(前8世紀前半)から、歩揺飾の制作年である後3-5世紀まで1000年以上の空白がある。このように形が変わっても、よくここまで伝えられたものだなあ。
オーラン・オーシグと新羅の位置関係です。天馬塚出土の腰偑はこちら、その説明はこちら
鹿角馬頭形歩揺飾についてはこちらそして新羅との関連についてはこちら

※参考文献
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」 2001年 (財)島根県並河万里写真財団
「国立慶州博物館図録」 1996年 通川文化社
「ユーラシアの風 新羅へ展図録」 2009年 山川出版社
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 2004年 奈良国立博物館
「中国歴代帝王系譜」 稲畑耕一郎監修 2000年 (株)インタープラン  

2009/09/15

鹿の巻角の起源は

 
初期スキタイ時代の鹿(前7世紀末)は、実際のものよりも角がかなり曲げられ、大きく表現されていた。巻角の鹿は、様々な形態のものが北方ユーラシアで発見されている。

鹿形飾板 ロシア、クラスノダル地区コストロムスカヤ1号墳出土 スキタイ(前7世紀末-6世紀初) 金 長31.0㎝幅19.0㎝ エルミタージュ美術館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、地表に一辺が3.2mの正四角錐形の木造木組みを組み立て、その上を葦で覆ってテント小屋のようなものを造り、葬儀の後、この「小屋」には火がつけられ、それから3mほど土盛りし、全体の高さは5.4mに達していた。「小屋」の内側からはさまざまな武器が出土したが、そのなかでもっとも注目されたのが、鉄製の円形の楯の残骸の上に発見された鹿形飾り板である。この発見によって、この種の大型動物形飾り板が楯の中央につけられる装飾であることがわかったという。
木槨墳だが積石はせずに土だけ盛った墳墓のようだ。
S字形に巻いた枝角が6本、その後ろは尾のようになっていて、背中に沿っている。前には逆方向に2本ある。楯の中央につけらているために角がこれほど立派に表されたのだろうか。 鹿 チリクタ出土 サカ(前8世紀末-7世紀前半) エルミタージュ美術館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、チリクタ古墳(クルガン)群は、カザフスタン共和国と中国との国境地帯、バルハシ湖の400㎞ほど東で、ザイサン湖の100㎞ほど南にある。51基の古墳からなっているが、そのうち13基は径が100mもあり、ユーラシアの巨大古墳の中でも最大級の古墳が集まっているとこるであろう。
5号墳は径が66mで、地表面から深さ1m、7.1X8.3mの穴を掘り、東側に入口の道をつけている。穴には丸太で作られた4.8X4.6m、高さ1.2mの墓室を入れ、そこに2人の遺体を納めていた。1人は40-50歳程のエウロペオイドの男、1人は50-60歳程のエウロペオイド-モンゴロイド混合の女である。墓室の上に石を積み、それから粘土、次に小石混じりの土を被せ、表面には径15㎝ほどの石を積んでいる。築造した時には径45m、高さ10mほどの大きさであったと考えられている。
鹿の表現は、黒海沿岸の初期スキタイのケレルメス古墳群やコストロムスカヤ古墳などの出土品とよく似ており、しかもさらに写実的である
という。
積石木槨墳だが、羨道がついているらしい。慶州の天馬塚は東西60m南北51.5m高さ12.7mの円墳なので、3/4ほど小さいものだ。
ロムスカヤ古墳出土の鹿よりも古いが、ずっと写実的だ。こちらの枝角は、前に1本、後方に4本で、後方のものは互いにくっついて背中に沿っているが、先は離れている。 鹿石 前2千年紀末-前1千年紀初 モンゴル、ムルン近郊オーラン・オーシグ
『世界美術大全集東洋編1』は、モンゴル高原とバイカル湖東南地方においては、青銅器時代から匈奴時代にかけてきわめて似通った文化が見出される。この地域の青銅器時代には鹿石、板石墓などの遺跡が知られており、またヘレスクルと呼ばれる積石塚もまた青銅器時代のものと考えられる。
鹿石に表された鹿文様は、嘴のような口先を突き出し、枝角は背中に沿ってなびくように置かれ、背中には三角形の突起があり、肢は細い線で簡単に表されるだけである。このような鹿の文様が多くの場合斜めに何頭も重ねて表されるのが、典型的な鹿石である。鹿はほかにも少し異なった様式のものがあり、足先が爪先立ったような姿勢で表される
という。
肢はこれまで見てきた程ではないが、折り曲げている。そして枝角は4本が背中に沿ってくりくりと伸び、前には極端に細い枝角が2本出ている。 現在スキタイ系文化のなかで最古とされるトゥヴァのアルジャン古墳では、積石の中から鹿石の破片が発見されているが、それにスキト・シベリア様式の動物が表されていた。鹿石に典型的な様式の鹿は、スキト・シベリア様式の鹿よりも早く、殷代(前17-11世紀頃)あるいはそれに近い時期のものであり、スキト・シベリア様式の鹿は、初期スキタイ文化、あるいは東方においては夏家店上層文化(前1000-600年頃)に併行すると思われるという。
どうも巻角の鹿は、スキタイよりも以前にモンゴル高原で暮らしていた人々の方が早かったようだ。どんな系統の人々だったのだろう。

チリクタ、オーラン・オーシグの位置はこちら
積石木槨墳についてはこちら

※参考文献
「世界文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 島根県立並河萬里写真財団)
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」(1999年 小学館) 

2009/09/11

生命の樹か鹿の角か

 
ティリヤ・テペ6号墳出土の金冠(前1世紀-後1世紀)は、外観が新羅の出字形立飾りのついた金冠(5-6世紀)よりも藤ノ木古墳(6世紀後半)出土の金銅冠に似ているが、他にも類似点がある。それは「剣菱形飾り」が樹木の先についていることだ。
その剣菱形飾りがパジリク出土の壁掛けにもあった。

王権神授を表した壁掛け スキタイ・シベリア パジリク5号墳出土 フェルト 全体450-650㎝ 前5世紀末-4世紀初 エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、5号墳の墓坑は広さが6.65X8.25mで、その中に丸太を組み合わせた3.4X6.4mの外側の木槨と、2.3X5.2mの内側の木槨があった。この壁掛けは、墓坑と外側の木槨とのあいだの空間に、9頭の馬の遺骸や四輪車、絨毯などとともに、丸めておかれていた。
手には枝が曲がりくねった木を持っている。木には開いた花、石榴のような実、先の尖った葉がついている。このような木は西アジアの古代美術にも登場し、そこでは「生命樹」とか「聖樹」「宇宙樹」などと呼ばれ、王権、支配権の象徴と考えられている
という。
女神の持つ枝の先端に幾つかつけられた「先の尖った葉」が剣菱形飾りによく似ている。
女神の前にいる騎士はこちら「生命の樹」は、木の枝というよりも、アルジャン出土の鹿の角に似ている。鹿の角に葉や蕾、花をつけたようにも見えるなあ。

鹿形帽子飾 前7世紀末 金製 高6.8㎝ トゥバ、アルジャン2号墳出土 エルミタージュ美術館蔵
『スキタイと匈奴』は、爪先立った鹿は初期スキタイ時代のモチーフであるという。
鹿の角の枝が1本1本大きく曲がっているのことも特徴的だ。 その曲がった枝角が、パジリクの絨毯では、女神の持つ曲がりくねった枝になっていったのではないだろうか。
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、表現されている動物のなかでもっとも多いのは鹿である。鹿の特徴はなんといってもその立派な角にある。角は古代社会ではしばしば豊饒や再生のシンボルとみなされていた。スキタイの鹿もそれらの願いの象徴だったのであろうかという。
パジリク出土の壁掛けで、女神が持っているのが木の枝ではなく鹿の角だとすると、どこかであるいはパジリクで角が鹿の体から独立したことになる。そしてどのような経路でか分からないが、やがて新羅の金冠に立飾りとして鹿の角が出現することとなったのでは。
その中継点にあるのが蒙古自治区出土の鹿角馬頭形歩揺飾(3-5世紀)とか。
そして、独立した鹿角に、「出」「山」字形樹木の系統が組み合わされていったのが新羅の金冠かも。

パジリク、アルジャンの位置はこちら
ティリヤ・テペ、新羅、藤ノ木各古墳出土の金冠、蒙古自治区出土鹿角馬頭形歩揺飾については、歩揺冠は騎馬遊牧民の好み?剣菱形飾りは新羅?-藤ノ木古墳の全貌展より慶州天馬塚の金冠慶州天馬塚で出土した金製附属具は内帽の揺帯?



関連項目

生命の樹を遡る

※参考文献
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館)
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴遊牧の文明」(林俊雄 2007年 講談社)

2009/09/08

金冠の立飾りに樹木形系と出字形系?

 
慶州の市街地には、新羅時代の巨大積石木槨墳(5世紀中頃-6世紀前半)がポコポコあって、その内の5つの古墳から金冠が出土している。製作時期の早い順に、皇南大塚北墳金冠塚瑞鳳塚天馬塚そして、下の不鮮明な写真の金鈴塚出土の金冠である。積石木槨墳はどこで成立して慶州にどのように入ってきたのか、調べてみたがわからなかった。その経緯はこちら

金冠は、「出」字形あるいは「山」字形と呼ばれる樹木を表したものや鹿の角などが立飾りになっていて、そのあちこちに小さな円形の歩揺や翡翠の勾玉がついているという、かなり特異なものである。この金冠はどこのどのようなものに起源を求めることができるだろうか?

金製ディアデム ホフラチ古墳出土 後1世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、ドン川下流右岸の町ノヴォチェルカッスクで偶然に発見された。サルマタイ貴族の女性の副葬品に由来する。
ディアデム上部には、樹木とその左右に鹿、山羊、鳥が配置されている。鹿と山羊の鼻面の先端には小環が作られており、元来何らかのものが吊り下がっていた。また、樹木の葉は歩揺のように小環で取り付けられていた。
ディアデム上部の樹木と鹿・山羊・鳥からなるユニークな情景はサルマタイの神話的世界の一端を表現していると思われる
という。
鹿も樹木も自然な表現で、歩揺が木の葉形である。
新羅の金冠のような出字形の樹木や鹿の角だけという立飾りとは似てもにつかない。とはいえ、鹿と樹木という組み合わせが新羅以外の場所で存在するのは確かである。 野山羊と聖樹 北アフガニスタン、シバルガン近郊ティリャ・テペ4号墓出土 前1~後1世紀 高5.2㎝ カーブル博物館蔵  
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、王とおぼしき被葬者の頭蓋骨の横で、中空の見事な角をもった野山羊(アルガリ)の像が発見された。蹄の先につけられた4個の小環は、この小像の下にさらに構造物があって、それに固定するために使用されたものであろう。角のあいだにも中空の管がつけられており、その管に別の何かが差し込まれ、継がれていたと考えられる。被葬者頭部で発見された円板の葉をつける黄金の樹木(高9.0㎝16.46g)がそれであるという。
野山羊の頭部にのっていたにしては樹木が大きすぎるのでは。こちらは歩揺が円形になっている。
ホフラチ古墳出土のディアデムには左側にも樹木があり、鹿ではなく大きな角を持つ山羊があったが、ティリヤ・テペ出土の山羊とよく似ている。ティリヤ・テペはどのような民族の墓だったのだろう?
『アフガニスタン遺跡と秘宝』で樋口隆康氏は、出土品にはヘレニズム、パルチア、バクトリア、スキタイ、インド、中国、匈奴など、ユーラシア各地の文化の影響が見られる。1世紀のクシャン朝初期か大月氏の墓と見られるというが、『騎馬遊牧民の黄金文化』で田辺勝美氏は、この墓地に埋葬された人たちがどのような民族であったかという点については、大月氏とかクシャン族、サカ族とかさまざまな見解が提示されたが、筆者はユスティヌスやストラボンなどのギリシア人著作家がグレコ・バクトリア王国を滅ぼした民族の一つに挙げているサカラウリないしサカラウカエではないかと思うという。どちらにしてもイラン系騎馬遊牧民のようだ。
樋口隆康氏は、シバルガンの北5㎞の地に、このテペがあり、古い神殿遺構のテペの上面に堀込まれた6基の墓から約2万点の黄金製品を発見した。墓は何れも小型の小型の土坑墓で、遺体は木棺の中に盛装されて、納められていたという。
慶州の古墳群とは反対に、見つからないような墓に埋葬されていたらしい。

このような円板の葉をつけた樹木は、遼寧省房身2合墓出土の金製歩揺付冠飾に見られ、ホフラチ古墳出土の写実的な木の葉形歩揺ほどではないが、木の葉状の歩揺は遼寧省憑素弗墓(太平7年、415)出土の金歩揺冠・内蒙古出土(1~3世紀)の牛首金歩揺冠・内蒙古自治区出土(3-5世紀)の鹿角馬頭形歩揺飾にも見られる。 帽子の飾り イシック・クルガン出土 前4世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬民族の黄金文化』は、冠は、さきの尖った帽子を黄金で装飾し、正面にグリフォンや馬を配置して、側面に山岳に樹木の上にとまる鳥などを取り付けたものであった。この墓の被葬者は「黄金人間」と呼ばれ、足の先から冠まで黄金をまとっていて、スキタイ系民族の1つであるサカ族の一部族長とされている。
南側の埋葬施設は墳丘下に丸太で造られたログハウスのような墓室があった。墓室の大きさは内法2.9X1.5mの細長い長方形。身長はおおよそ165㎝で、形質人類学者のイスマギロフ氏によると年齢は16~18歳、ユーロペオイドとモンゴロイドの特徴が混合しているらしい。
ユーラシアの草原地帯の人々は一日の寒暖の差が激しく防寒の必要もあり、また馬に乗り行動するところから、三角形の帽子を着用していた。その帽子に黄金の装飾をつけたものや帽子の上に立飾りのついた冠帯をかぶることが彼らの冠であった。
このような冠は黒海沿岸から朝鮮半島までいくつか出土している
という。
墳丘に竪穴を掘って木槨を築いたのだろうか。
一見なんの共通点もないような尖った冠帽だが、よく見ると左耳上方に針金の樹木が見える。 鹿はいないが、「出」や「山」の字に繋がる形をした樹木の表現だ。
クーバンにあるウスチラビンスカヤ46号墓もサルマタイ族の墳墓で、出土した冠は直線的な樹木の2本の枝先と頂上に鳥、基部に角の大きな山羊、樹木の左右に山羊を対置したもので、樹木の造形が新羅の「出」字形の冠と似ているという。
クーバンのサルマタイ墳墓出土の冠が気になる。どんな形なのか見てみたいなあ。  ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠について『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、第6号墓のシャーマンのような女性の墓室から出土したもので、6本の樹木からなっている。6本の樹木はそれぞれ歩揺や花弁で飾られていて、中央部をのぞく5本の木には富や王権のシンボルである鷲が左右についていたという。
山羊も鹿も登場しないこと、そして、樹木が「出」や「山」の字形ではなく左右対称に金板を切り取ったような形で、どちらかというと、新羅の金冠よりも時代が下がる藤ノ木古墳出土の金銅冠の方が似ている。

元は同じ樹木だったとしても、ティリヤ・テペから藤ノ木古墳へと伝わった樹木形立飾りの系統と、イシック古墳から慶州へと伝わった「出」「山」字形立飾りの系統という、2つの流れがあるのでは。
どのような経路で、それぞれ新羅や日本に伝播したのだろう。

イシック・クルガンの位置はこちら
積石木槨墳についてはこちら

※参考文献
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明」(林俊雄 2007年 講談社)
「ロシアの秘宝 ユーラシアの輝き展図録」(1993年 京都文化博物館)
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 財団法人島根県並河萬里写真財団)
「南ロシア 騎馬民族の遺宝展図録」(1991年 古代オリエント博物館)
「アフガニスタン遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」(樋口隆康 2003年 NHK出版)
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館) 

2009/09/04

亀甲繋文と七宝繋文の最古はインダス文明?

 
首飾りをいろいろ見ていて亀甲繋文に出くわした。しかも、現在までに見つけた亀甲繋文の最古は、エジプト新王国第19王朝ラメセスⅡ世期(13世紀)のネフェルタリ王妃墓壁画に描かれたものだったが、今回見つけたものはそれよりずっと遡るものだった。

ビーズ装身具 イラン、ケルマーン州シャハダード出土 紅玉髄 インダス文明(前3千年紀) イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展』は、紅玉髄(カーネリアン)の平型方形ビーズ20珠。それぞれの珠には、小円を加えた亀甲様の幾何学文様が丁寧に施されている。原石の産地はインド亜大陸(ラージャスターン?)で、実験によれば、施文法はある種の植物から作られる薬液によって腐蝕させたものであり、インダス文明に特有の技法とされているという。
赤い色が鮮やかで、風化していないので、現代からすると4000~5000年も前に作られたものとは思えない。実はそんなにネフェルタリの墓よりも古いとは思ってもみなかった。  タイル モヘンジョダロ出土 テラコッタ 17.0X-X2.0 インダス文明期(前2600-1800年頃) カラチ国立博物館蔵
『インダス文明展図録』は、家屋の部屋の多くは土間であったが、一部には十字文や交差円文を施したタイルが敷きつめられ、生活に彩りを添えていた。あらかじめ円形に固定した縄を繰り返し押しつけるという、手の込んだ手法で作られているという。
この時代にテラコッタでタイルが作られ。それが宮殿や神殿ではなく、家屋に敷きつめられていたとは驚く。 タイル カーリーバンガン出土 テラコッタ 21.5X16.0X2.5 インダス文明期(前2600-1800年頃) インド考古局蔵
この十字文は繋がっているらしい。これを見ていると、十字文から四弁花文になっていきそうな気がするなあ。亀甲繋文、七宝繋文そして十字文、あるいは四弁花文はインダス文明期にすでに成立していたのだ。
このようなタイルは1つがどの程度の大きさだったのだろう。そう言えば、「アッシリア大文明展」でかなり大きな床面の石製浮彫を見たなあ。もっと花弁の多い七宝繋文状の文様が一面に広がっていたような。

石の絨毯 前645-640年頃 クユンジク、北西宮殿I室b出入口ないしはd出入口 縦127.0横124.0厚7.5 大英博蔵  
『アッシリア大文明展図録』 は、これはアッシュールバニパル(前668-631年頃)の玉座の間から出土した敷居の一部分である。アッシリアの王宮の床には、鮮やかな色彩の織物が敷かれていた。一方、出入口付近には、このように敷物に似せて作った丈夫な「絨毯」が置かれた。矩形の内側には、コンパスを使って描かれた多数の円文が組み合わされ、あたかも六弁開花文が描かれているかのような効果を発揮している。その周囲をロゼット文が取り巻き、最も外側の部分には、ロータス(蓮)の花と蕾が連なって縁飾りを形成している。このロータスのモチーフはエジプトから、フェニキアを経由してアッシリアにもたらされた。そして紀元前8世紀末頃までには、アッシリアにおいても、一般に普及した。フェニキアの織物はアッシリアに輸入されていたので、この石製絨毯のデザインも、そのような織物に由来すると考えられるという。
クユンジクはニネヴェの現代名である。
六弁花文とも見えるが、もっと小さく、縦に花弁状の文様のある七宝繋文にも見える。それはエジプト第21王朝(前1086~935年頃)の木棺内側に描かれた女神の衣服にも似ている。こちらは色の異なる八弁花文、あるいは七宝繋文となっている。インダス文明の頃にすでにあった七宝繋文が、近くのメソポタミアを通り越してエジプトに伝播したとは考えにくいが、アッシリアの石の絨毯の場合は、エジプトからフェニキアへ伝わったものがアッシリアに輸入されたというのは納得できる。
しかし、インダス文明期の七宝繋文をエジプトに伝えたのも、ひょっとするとフェニキア、あるいは東地中海沿岸の交易の民だったかも。

※参考文献
「世界四大文明 インダス文明展図録」(2000年 NHK)
「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝展図録」(2006-2007年 朝日新聞社)
「アッシリア大文明展図録」(1996年 朝日新聞社) 

2009/09/01

首飾りに円筒印章は?3


前2千年紀前半の首飾りや、首飾りをした人物の像はあったが、以降前2千年紀後半までどちらも見つけられなかった。

首飾りのビーズ玉 前13-12世紀 種々の石 長46㎝ マリ、133号墓出土 ルーヴル美術館蔵
『メソポタミア文明展図録』は、マリの墓はどれも装身具をたくさん納めている。それらは男女とも区別なく身に着けた。当時最高の贅沢品は、紅玉髄やラピスラズリのような宝石を用い、ビーズ玉や凝った細工の金の座金と組み合わせたものである。この作品のような少し地味な首飾りは、印章彫刻では需要の多かった瑪瑙、トルコ石、石英、オニックスのような硬い石を用いた。ビーズ玉はサイズがいろいろだったが、当時初めて切り子の偏菱形に作られたという。
円筒印章に使われた石をつないでいるが、この中には円筒印章は含まれていない。
重苦しい印象のする首飾りである。 ビーズ装身具 前1千年紀 ギーラーン州ジューボーン出土 ファイアンス・瑪瑙 イラン国立博物館蔵
マリ出土の首飾りよりも軽やかな感じを受ける。
前2千年紀初頭の首飾りにラピスラズリが使われてるのは珍しいということだったが、前1千年紀にはラピスラズリは使われなくなり、同じような色のファイアンスに代わったのだろうか。  石製板浮彫 狩りの後の儀式 前875-860年頃 ニムルド北西宮殿B室石製板20下部 縦90.0横225.0厚10.0 大英博蔵
『アッシリア大文明展図録』は、王冠は、帯状髪飾りのついた標準的なものであり、手首にはロゼット文の飾りのついた腕輪をはめている。連珠の首飾りは、王の首の後ろで結ばれた房飾りによってバランスが保たれているという。
房飾りの一方は肩胛骨のところまで、もう一つは幅広のベルトのところまで垂れているので、首飾りの端としたら、太いし長すぎるように思うが、「バランスがとれる」ということは、首飾りがかなり重かったことを示しているのだろうか。
首飾りは2連で、あまり大きな玉はなさそうだ。マリ出土の「切り子の偏菱形」の似た形の玉と小さな玉を繋いでいるようだ。 石製板浮彫 守護精霊 前875-860年頃 ニムルド北西宮殿Z室a出入口 縦224.0横127.0厚12.0 大英博蔵
『アッシリア大文明展図録』は、おそらく「アプカルル」と呼ばれる精霊で、王の私的な部屋の入口を守護していた一対の精霊像のうちの一方である。
帯状髪飾りと手首の腕輪にはロゼット文の装飾が施され
ているという。
精霊の首飾りは、一粒一粒がしっかりと彫られているので形がわかりやすい。前2千年紀後半に、切り子で偏菱形のビーズ玉が初めて作られたというが、もう少し時代が下がるとソロバン玉に近い形になっている。
全く同じ形で同じ配列のものを2連重ねてつけていて、中央のものはやはり髭に隠れてわからない。
王の房飾りよりも短い房飾りが精霊の背中に見えるので、軽い材質のものかも。 レヤード夫人旧蔵の装身具 前2300-350年頃 さまざまな貴石と金 大英博蔵
『アッシリア大文明展図録』は、金製の台には、新アッシリア時代の円筒印章を模した山形文の縁飾りが施されたり、アッシリアのライオンの頭部や松かさのモチーフが使われている。円筒印章の1つはアッカド時代(前2300年頃)の作で、4個は前2千年紀の作、そして8個は新アッシリア時代の作である。新バビロニア時代とアケメネス朝時代(前600-350年頃)のスタンプ印章は、ペンダントと留め金の部分に使われているという。
考古学者レヤードが発掘で掘り出したものをこのように加工したのだが、実際にこのような首飾りはなかっただろうなあ。 結局円筒印章を首飾りなどにして身につけている像というのは、どの時代にも見つけることはできなかった。
丸彫りの像や浮彫は、祭祀の時に祀られたり、儀式の時や戦いの場面を表したものが多いので、そのような時に円筒印章を身につけるという習慣がなかったのかも。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館) 
「アッシリア大文明展図録」(1996年 朝日新聞社)
「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝 図録」(2006年 朝日新聞社)