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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/09/29

帯の垂飾も腰偑もただの飾りに


鮮卑族が帯に小物入れを吊り下げた例もある。

棺床屏風の門闕(部分) 北周(6世紀後半) 高51.5㎝幅53.3-56㎝ MIHO MUSEUM蔵
『中国★美の十字路展図録』は、石板の浮彫は、ソグド人と思われる墓主の生前関係した人々、隊商、墓主夫妻の宴、葬儀 ・・略・・  などの描写と解釈される。ここではエフタル人、中央アジア人、突厥人がその風俗によって描き分けられる。門闕には鮮卑の兵士と馬が刻まれ、この棺床の衛兵となっているという。
右脇の帯の下には3つの垂飾ついていて、その中央には商談図に見られた小物入れを吊り下げている。左脇にも同じく吊り下げ具があって、太刀を吊っているのだろうか。手で支えているのではないようだ。
侍者図壁画 漆喰の上に墨、彩色 隋、大業5年(609) 高132㎝幅56.5㎝ 寧夏回族自治区固原市史射勿墓出土 固原博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、円領で筒袖の赤い長袍を着用し、腰に重い革帯を締め、足には烏皮靴を履く。容貌からおそらく侍者は漢族なのであろうという。
漢族が腰偑のついた騎馬遊牧民の帯をしているが、何も吊り下げていない。当時流行していたので身につけたのだろうか。それとも、主人に命令されると何でも腰に提げられるように、空の状態にしているのだろうか。 武士俑 加彩金貼 唐、麟徳元年(664) 71.5㎝ 陝西省礼泉県鄭仁泰墓出土 陝西歴史博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、鄭仁泰が生きたのは唐王朝が目覚ましく発展した時期である。とくに第二代皇帝太宗の頃は異種族の制圧に力が注がれ、突厥、吐谷渾、高昌などを制圧、中国の北辺や西辺、西域はことごとく唐の領域になった。鄭仁泰自身も、晩年はシルクロード方面を統括する要職に就いていたという。
後ろ中央に帯の端が垂れ、その両側に紐状のものがある。これが腰偑の名残かも。太刀を付ける人物の図像を探していたら、聖徳太子像があった。

聖徳太子二王子像 紙本著色 縦101.5横53.6 奈良時代(8世紀) 宮内庁蔵 
革製?の帯をしているが、それとは別にカラフルな矢筈文の組紐で作った吊り下げ具から長さの異なる2本の紐が下がり、太刀の金具に取り付けられているようだ。
また、太子は、①の組紐の他に②穴に通す金具付の革帯、その内側に③銙板のある革帯と、3本も帯を付けている。左脇にベルトの端を垂らしているが、それが②の端か③の端なのかよくわからない。
ひょっとするとこれは最後に残った腰偑で、華やかな飾りを付けているのだろうか。
二王子もそれぞれ左脇にいろいろと吊り下げている。これらは小物入れかとも思ったが、同じ8世紀の唐の胡服女子俑が腰に提げる小物入れとは形が全く異なる。どちらかというと、平たいが華やかな装飾品に見える。ひょっとすると、この飾りは将来されたものではなく、倭国風のものかも。
門闕の衛兵はベルトは1本のようなので、おそらく帯に長さの異なる紐(それも腰偑か)をつけ、それに太刀を取り付けたのだろう。  統一新羅でも日本でも、腰偑が定着しなかったのは、必需品とはならなかったからだろう。その点、騎馬遊牧民の突厥は、腰偑のある帯が日用品であり続け、それが後世にも金帯飾りが作られる背景だったのでは。

※参考文献
「中国 美術の十字路展図録」 2005年 大広
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館