お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2006/11/30

正倉院の駱駝



正倉院展ではラクダによく出会う。去年の正倉院展で見た駱駝はとても小さなものだった。花の咲く野に遊ぶ鳥、野を駆ける獅子や鹿、鹿を追いかける鳥グリフィン、象に乗ってポロをする人や、飛びかかる獅子に象の上から矢で狙う人、鳥グリフィンに乗ってポロをする人などに交じって、駱駝や駱駝を引く人などが、「象牙を切り抜き線刻をし淡彩をほどこし」て表されている。
同展図録は、宝庫のシタン製木画の器物は、洗練された表現技法に共通する要素が多く、おそらく直接唐朝廷が関わったことを想像させる。なお、トルファン・アスターナ古墓からは小型の棊局や囲碁に興ずる仕女を描いた絹絵が出土している。盛唐の文化が東西に及んだ一例を知ることができるという

文中のアスターナ185墓出土の「美人囲碁図」(8世紀)は、「シルクロード 絹と黄金の道展」で見た。その碁盤は格狭間(こうざま、脚部の刳り)が3つあり、側面に木画がない分低い。同展では206墓出土の「碁盤」(7世紀)も展観されていた。こちらは小型の模型と説明にあるが、明器(実用品ではなく、副葬用に作られたもの)だろう。格狭間は2つで、単純な刳りである。
木画紫檀棊局に表された駱駝はフタコブラクダである。別々の面にあるものを縦に並べてみたら、物語になった。野でくつろぐラクダたち。そこにラクダ使いがやってきて、捕まえるタイミングを図っている。茶色いラクダの方が御しやすそうだ。茶色い方に縄をかけて引っ張ると、茶色い方は緑のラクダに助けを求めるが、緑の方は素知らぬ顔で草をはんでいる。しかし、とうとう緑のラクダも縄を掛けられ、ラクダ使いは手こずった緑の方を引き、もう1人のラクダ使いは茶色い方を縄を掛けずに連れていくことにした。
そう言えば、昨夏クチャ郊外を車で移動していて、ラクダを時々見かけた。ガイドの丁さんが「野生のラクダは人を見ると逃げますが、放牧しているラクダは逃げません」と言っていた。だから、このラクダは輸送用に訓練されたラクダか、放牧しているラクダだろう。

一昨年正倉院展でみた駱駝は去年のものよりは大きかった、と思って四弦琵琶をじっくり見ると、ラクダではなく象だった。なんとええ加減な記憶だろう。
捍撥(かんぱち)には皮を張り白地下地に彩絵を施した上にその保護のために油を引く。密蛇絵(みちだえ)の一種である。縦約40cm、横約16cmの小さい画面に、縦方向に近景から遠景まで・略・奥行きのある図様を作り、盛唐期山水画を彷彿させる。図は騎象奏楽図と通称され、唐朝にもてはやされた異国趣味あふれるもの。・略・
なお、白色顔料の一部からは、純正鉛白ではなく塩化物系化合物が検出され、わが国における製作とみる有力な根拠とされる
という。

そう言えば、成分分析でこの四弦琵琶が日本製であることがこの年に発表されたのだった。
正倉院の宝物で最も有名なものの1つが五弦琵琶だと思う。なにしろ世界唯一の五弦琵琶の遺品なのだから。その唯一の五弦琵琶に螺鈿で表されたものはフタコブラクダに乗る楽人だ。そして、この楽人が奏でているのは四弦琵琶なのだ。
このように昔の正倉院展の図録などを調べていて、私はこの五弦琵琶を見ていないことに気付いた。五弦琵琶が描かれているキジル石窟のガイド馬さんに「五弦琵琶を見たことがありますか」と聞かれ、確信を持って「あります」と言ったのだが。また馬さんは質問した「正倉院展では正倉院の宝物が全部見られますか?」「いえ、見られません。正倉院の宝物は数が多いので、毎年数十点公開されるだけなので、全部見ようと思ったら、何十年もかかります」そう答えると若い馬さんはがっかりした様子だった。
五弦琵琶が展観されてからかなりの歳月がたったように思う。そろそろ来年あたり、見てみたいなあ。

※四弦琵琶と五弦琵琶の画像は五弦琵琶は敦煌莫高窟にもあったにあります

※参考文献
「太陽正倉院シリーズ1 正倉院とシルクロード」 1981年 平凡社
「第五十六回正倉院展図録」 2004年 奈良国立博物館
「第五十七回正倉院展図録」 2005年 奈良国立博物館

2006/11/29

魚々子地はササン朝ペルシアが本家らしいが


しかし、ササン朝ペルシアの銀器で魚々子地のものを見つけることはできなかった。
やっと見つけた初期の「銀鍍金帝王ライオン狩り文皿」(4世紀、イラン、サーリー出土)に王族のヒゲの縁、馬具のあちこちに線状に魚々子が施されている程度だった。 銀製「国王倚像を表した碗」は6から7世紀のもので、衣服の文様と鷲の体に魚々子が使われているくらいだ。この図で私の関心を惹くのは、左の侍者の服と背後の布にある3つの点の文様である。これは 中国では青銅鍍金龍形器脚(3世紀)の龍の体にもある文様ではないか。 「世界美術大全集14西アジア」で田辺勝美氏は、銀器類はおそらく、宮廷などの酒宴に用いるために制作されたのであろう。また、これらの銀器類は、国王たちが外国の支配者や、臣下などへの贈物として制作されたといわれているが、そのほかにも、逆に総督や高官などが国王への貢物(ないしは賄賂)として作らせた場合もあったのではないかと推定される。 ・略・
現存する作品から推定すると、「銀鍍金帝王ライオン狩り文皿」のような高級品は、ササン朝ペルシアの本家の工房ではなく、たとえば地方に派遣された王子(総督)やクシャノ・ササン朝などの小王国(アフガニスタン北部)において3世紀後半から4世紀半ばにかけて制作されたようである。 ・略・
おそらくシャープール2世がクシャノ・ササン朝を併合したときに、クシャノ・ササン朝の工房(バルフやメルウ)を温存し、そこで初めて「ササン朝ペルシア本家」の銀皿を制作したと筆者は推定している。 ・略・
いわゆるササン朝銀皿は、初期の作品が技法的にもっとも優れ、しだいに衰退していった
という。
魚々子がササン朝ペルシアで始まったとは言えなくなった。バルフはオクサス(アムダリヤ)河の南方約20km(バクトリア、現アフガニスタン)に、メルウはその支流沿いのマルギアナ(現トルクメニスタン)に位置する。

一体魚々子の故地はどこなのだろう?私は中央アジアの北西、南ロシア辺りになにかないか調べてみた。すると、ケルチ(黒海とアゾフ海を結ぶケルチ海峡)のミトゥラダテス山北側墓地より出土した「コンスタンティウス2世銀杯」にぶつかってしまった。これも魚々子地ではないが、時のビザンティン皇帝や侍者の衣服の文様として魚々子が施されているように見える。鋳造並びに彫刻としか説明がない。解説では、恐らくローマ帝国東のアンティオキアにて製作。

この墓は、370年に没落したボスポロス王国の恐らく重要な人物のものであったと考えられる。
皇帝の代行者としての殊勲から下賜されたものであろうという。
これが4世紀中頃の製作なら「ササン朝ペルシアの銀器」と呼ばれているものの方が早いことになる。続いて、黒海北東岸ロストフ州の墓より出土の後1世紀の「銀鍍金動物形把手付き水差し」に、魚々子ではなく、魚や怪魚の体にウロコを刻んだものを見つけた。しかし、魚々子の起源が魚のウロコ文ということはないだろうなあ。来年大阪歴史博物館で開かれる「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝」にササン朝ペルシアの魚々子地銀器が展観されることを期待したい。

※参考文献
「南ロシア 騎馬民族の遺宝展図録」1991年 朝日新聞社
「ロシアの秘宝 ユーラシアの輝き展図録」1993年 京都文化博物館・京都新聞社
「世界美術大全集東洋編4隋・唐」1997年 小学館
「世界美術大全集14西アジア」2000年 小学館 

2006/11/28

日本に金銀山水八卦背八角鏡より古い魚々子地があった


「日本の美術330号飛天と神仙」をパラパラとみていて魚々子らしいものが目に入った。天武14年(686)作とする説が有力な長谷寺の「銅板法華説法図」には、胡座をかいた飛天の回りに泡のように魚々子が表されている。    
そして、東大寺の八角燈籠は開眼供養時、天平勝宝4年(752)の遺品とみられているのだが、その中台側面にも魚々子地が見られる。
同書は、宝相華に混じって飛翔する天人像が表されている。魚々子地に線刻された姿は片手に華盤を持ち散華するさまを表現しており、片膝を曲げて飛遊するかたちは法隆寺金堂壁画像を想起させるという。
私には何を表しているのかさっぱりわからない。

上図に比べると薬師寺蔵「矩形唐草紋金具」は唐草や魚々子地の技が格段に上であるように思う。時代が明記されていないが、東大寺の魚々子地よりも古いのではないだろうか。
ところが、「日本の美術358号唐草紋」は、唐代になって新たに登場した金工技法に魚々子がある。毛彫ないし蹴彫によって紋様を線刻し、地に魚々子鏨を打ったもので、サーサーン朝の銀器にみえ、この技法が西域経由で中国に伝わったのであるという。
「世界美術大全集東洋編4隋・唐」で中野徹氏は、金銀器の装飾に魚々子を打つのは中国固有の手法かと思われるという。
それについてはこちら
こうなると、ササン朝の金工品を調べないわけにはいかない。

※参考文献
「日本の美術330号 飛天と神仙」1993年 至文堂
「日本の美術358号 唐草紋」1996年 至文堂

2006/11/27

始皇帝と彩色兵馬俑展で戟を見た



今年夏山でハクサンタイゲキを見た。トウダイグサ科だが名前の由来がわからなかったが白山大戟と書くことがわかった。「戟」を調べると「戈と矛を合わせた武器」(三国志の武器)ということがわかったが、なんでこんな名前がついたのだろう。 ハクサンタイゲキのことは忘れていたが、始皇帝と彩色兵馬俑展に行ったら戟が展示してあったので思い出した。前漢(前2世紀)の鉄製の戟(げき)で、長さ11.9㎝幅5.6㎝と埋葬用の明器なので小さい。縦矛に横矛のついた長柄の武器なのだそうだが、これを見てもトウダイグサ科の草と類似点があるように思えない。ところが思いも寄らないところに、全く異なる形で戟を見つけた。それは法隆寺金堂の四天王の内増長天が左手に持っている長い棒の先についている透彫の金具だった。そしてそれを見つけたのは、戟などという武器とは全く関係のない「日本の美術358号唐草紋」の中だった。
同書は、パルメット唐草紋とは趣の違う細線構成の唐草紋で、井上正の分析によると、連続する波状曲線とこれに直接接着する大小のC字形よりなる部分と、これとは直接接着せずに空隙を充填するごとく挿入された尾のある1箇のC字形の部分とに分解できるという。 戟という武器が前漢から法隆寺の四天王像が作られた7世紀まで、どのように変化してきたのかを調べる気はないが、どこで何に巡り会えるかわからない。

※参考文献
「日本の美術358号 唐草紋」 1996年 至文堂
「始皇帝と彩色兵馬俑展」 2006年 TBSテレビ・博報堂

2006/11/24

金粒を探しながら中国の金工品をふらふら2



玉象嵌金竈 かまどのミニチュア模型 高1.1cm長3.0cm 前漢後期(前1~後1世紀初)
「世界美術大全集東洋編2秦・漢」は、金の細線と細粒を吹管の炎によって巧みに「ハンダ付け」し繊細な意匠を表した装飾品は、メソポタミア初期王朝やエジプト第12王朝にあり、前6世紀から前3世紀のギリシアやエトルリアに発達した。中国には前3世紀の戦国末期に出現し、前1世紀から後1世紀に中国独自の意匠をもつ装飾品として盛行する。・略・
実際の竈を細金細工で細やかに表現している。竈台の側面と上面には金糸・金粒で雲気文を表し、・略・鍋に満たされた御飯(盛り上がった金粒)は福禄寿をかなえてくれる現世利益的なお守りとして貴族のあいだで用いられたものだろう
という。
煙突は白っぽく汚れているが、金糸を巻きあげているらしい。
銅鍍金牌飾 前漢前期(前2世紀)の南越王墓出土
解説は、従来は西アジアや内陸アジアとの関連から注目されてきた。しかし、打ち出しや鍍金の金属器は中原でも戦国期には確実に出現しており、またその類品は諸侯王墓、列侯墓を中心に、相互に飛び離れた状況で広範囲から発見されている。こうした点から見るなら、これらについて必ずしも完全な舶来品や特注品である可能性ばかりを考えるべきでないように思われる。モノとしての発想そのものが外国に由来した可能性を否定するものではないし、また製品の一部あるいはその素材が舶来品であって、それが再加工された可能性も残る。・略・いったん中央王朝に集積された後に各地に配布された可能性のほうが説得力をもっていると考えるという。
金粒はどうなったのか? 
金製品 南越王墓出土 前2世紀
小さな装飾品だが、下図左の「金泡」には金粒が施されているではないか。これらは騎馬民族が作って南越に将来されたものかと思ったが、谷豊信氏は「漢時代の作」としている。外国趣味の流行があったようだ。
金製鹿 前2~前1世紀
トルファンでイラン系北方遊牧騎馬民族が居住していた現在交河故城と言われている遺跡の北方の墓地より出土した。
上の2品とどちらが古いかわからないが、金粒が角と顔の境を巡り、3つずつ塊になって、角を装飾している。
ここからは中国の周辺から出土したり、製作されたりしたものになる。

金動物闘争文牌飾 内モンゴル自治区墓出土 戦国から前漢時代(前3~前2世紀)
金粒も貴石の象嵌も見られない。匈奴の動物闘争文と言われている。 金動物闘争文飾金具 西シベリア出土 前4~前2世紀
金粒は見られないが、かつて貴石が象嵌されていたような円形や三角のくぼみが認められる。
『世界美術大全集東洋編2』で今村啓爾氏は、北方遊牧騎馬民族スキタイの動物闘争文がユーラシアのステップ地帯を通って東に広がり、中国北方の上図の匈奴の動物闘争文につながるという。

しかし、匈奴のものに象嵌さえ見られないのは残念だなあ。 こう見てくると始皇帝と彩色兵馬俑展で魚々子文を遡るにもあげた永青文庫蔵、洛陽出土の戦国時代(前5~前3世紀)「金銀象嵌闘争文鏡」(下図は前回とは別の部分)をどのようにとらえたらよいのかわからなくなってきた。先程見た騎馬民族の動物闘争文は弱肉強食図とも言われるもので、肉食獣が草食獣に噛みついているか、組み合って闘っている図だが、この鏡の図柄は向かい合っているだけで、中国風に消化された動物闘争文という気がするが、これについては説明がない。
また、虎(らしい)と騎士、そして馬の体の点々は、金粒なら嬉しいが、金または銀の象嵌のようだ。突然時代が下がるが、後3世紀後半から4世紀前半の下図の京博蔵「青銅画文帯仏獣鏡」は解説に「文様は倣古でありながら」としている。金粒の装飾のある鏡を後の時代にまねて、段々このような浅く粗い点々を型成形するようになったのだろうか。
貴石の象嵌も金粒細工も中国にとって外来の技術であったことはこれまでみてきた。しかし、上図の細工が何を表そうとした極小円文かわからない。ひょっとすると、玉の装飾に見受けられる円文かも知れない。円文というよりも渦巻いた凸形の文様なのだが、これを「世界美術大全集東洋編1先史・殷・周」では「浮彫りの渦文(穀粒文)」と表現しているる。
柿蔕文?四葉文?2に前4から前3世紀の玉に似せた玻璃剣首をあげたが、柿蔕文の外側に3重の穀粒文がある。鋳型によるガラス製だが、渦はなく半球に見える。
この穀粒文がどのくらい遡るのか調べたが、せいぜい春秋後期(前6世紀から前5世紀)の下図の文様程度だった。解説には「浮彫り表現で雲気状の渦文を施し」とある。粒金細工という外来の技法で表すようになったかも知れない小さな円文は穀粒文で、その穀粒文のもとは雲気文という中国古来のものだったなどと、かなり適当な結論となってしまった。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編2 秦・漢」 1998年 小学館
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館

2006/11/23

金粒を探しながら中国の金工品をふらふら1


では、中国にとっても外来の技法である金糸金粒細工は隋以前のものにどのようなものがあったのだろうか。

「世界美術大全集東洋編3三国・南北朝」で中野徹氏は、
金糸金粒細工は広く全土に普及し、すでに中国の工芸技法として根づいたようである。炭粉のなかに熔金を流し込み、炭粉を核にして表面張力によってミリ以下の金粒を作り、圧延した金糸とともに金板に熔接して文飾を表す技法を金糸金粒細工(granulation)と称している。熔接は、金箔あるいは金粉を鑞とし、ランプの炎に細い管を入れ、小さな火炎放射器としてなされた。いわゆる金糸金粒細工の技術は、はるか昔、遠くエトルスクやエジプトにあり、漢時代の中国に伝わった。シルクロード以前、草原を往来する騎馬の民による手渡しの交流、その細々とした、しかし確実な流れは思いのほかに多くの文化要素を運んでいたのである。
すでに漢時代に簪の飾り、帯金具、佩飾、腕輪など金糸金粒細工を応用した遺品があり、龍の文様や「宜子孫」という文字によって中国人社会の所産であるということが明らかである。魏・晋・南北朝時代の遊牧民が西方から受け取った文化要素の1つとして作った金糸金粒細工もあったが、それらとは別に漢時代から継承した同じ手法の細工のほうが主流であった。

中国で普及した金糸金粒細工は、主体となる金の板を薄くし、鍍金の青銅板に貼り付けたり、金粒を連珠のようにつなぐかわりに、金糸に刻みをいれて似せるというような便法を加えることもあり、そのような中国式の手法は朝鮮半島そして古墳時代の日本へも伝わり、勾玉の冠帽、耳飾り、腕輪などさまざまなものに応用されているという。

金糸金粒蝉文飾 白鶴美術館蔵 三国~南北朝(3世紀前半~6世紀後半)
解説文は、連弁形の金板に金糸金粒細工で蝉文が表されている。蝉の眼には金球が嵌め込まれているという。

金糸金粒嵌玉蝉文飾 馮素弗墓出土 415年
蝉の眼に貴石を象嵌されている。金板の切り抜き、文様の構成、金粒の熔接、それぞれが粗放と、白鶴蔵のものより古い様式を示しているという。

金帯金具 西晋、306年頃  
湖南省安郷県山南禅湾劉弘墓出土 長9.0幅6.0㎝ 湖南省、安郷県文物管理所蔵
「世界美術大全集東洋編2」は、後漢の金製鉸具の伝統を引くものであるが、その作りはより精緻、華麗になっている。
金の薄板を透彫りにして1匹の大龍を形作り、輪郭線などは、やはり金線で表現している。龍身にびっしりと接合された金粒はより小さくなり、象嵌された宝石の数も多くなっている。
鉸具もそれぞれの王朝の中枢部で製作され、たんなる装飾品としてではなく、所有者の身分を表すものとして、皇帝より下賜されたものであろう
という。

好みはともかく、技術的には極上のものだろう。

青銅鍍金透彫龍文帯金具 天理参考館蔵 西晋(3世紀後半)
この龍にはウロコがない。

解説は、金属を透かして装飾したりするのは、すでに商(殷)、周時代の青銅器に始まっているが、それらは范に作りつけた鋳造による表現であった。板金加工の一つとして切り抜き、透彫りする手法は、晋時代に一気に普及したようである。やがて北魏時代の鞍金具や幡の金具などに応用され、朝鮮半島や日本にも伝わった。 ・略・ 雲気の中を駆け巡る龍を表し、それぞれの文様の細部は毛彫りに近い刻線で細くされておりという。
上の蝉文飾の2品もその板金加工か。ということは、この技術が日本に伝わって魚々子って何?であげた法隆寺献納宝物60号の「金銅小幡」などが作られるようになったということやね。

青銅鍍金龍形器脚 久保惣記念美術館蔵 三国時代(3世紀)
刻文の小さな円が3つで1つの文様を作っていて、龍というより豹のようだ。
腹面に節帯状の毛並みを刻むのはこの種の龍に共通の描写で、さらに円点が体表を覆う。その線も円点も細い鏨で刻まれている。このように青銅鍍金器の表面に細い刻線文様を施す装飾は、前漢時代後期の鐘や小型の洗に始まり、魏・晋のころまで盛んに行われたという。
丸鏨で刻んでも、これは魚々子とは言わないのだろうか。ここには金粒はない。

金糸金粒嵌玉獣文玉勝形簪頭 後漢~三国時代(2~3世紀)
この作品は中国へ伝わった初期、漢時代末か三国時代の作であろう、金粒の大きさがまちまちで、金糸も太く、なお技術の未熟が感じられるという。
じっくり見ると、出土時にこびりついていた土がまだあちこちに残っているので、金粒というよりも打ち出したもののような感じがする。
金帯金具 新疆ウイグル自治区カラシャール(焉耆)出土 1~2世紀
湖南省出土のものよりも細工が複雑で、龍にも迫力がある。これは以前に「シルクロード 絹と黄金の道展」「新シルクロード展」で実際に見たことがある。西域の出土物に混じって龍という中国的なものが突然目に飛び込んできたので違和感があったが、この金製品の貴石の象嵌や金粒細工がどちらも西方由来の物とわかれば驚くことはない。
「シルクロード 絹と黄金の道展」は、薄い黄金の板を打ち出しで成形し、粒金や金線をロウ付けして装飾を施し、さらにトルコ石を象嵌している。中央には大きな龍を1頭、その周囲に小型の龍を7頭配し、龍の周囲には雲気がただよっている。 ・略・ それにしても華奢であり、実用品ではなく、埋葬の時に身につけさせたものではないかと思われる。
龍や雲の意匠は中国の伝統にのっとっており、技術水準がきわめて高いことから、漢王朝の官営工房の作と考えるほかはない。 ・略・ このような金製帯金具は異民族の有力者のために特に作られたと見る説もある
という

銅鍍金馬 高6.5cm長4.5cm 後漢(1~2世紀)
解説は、足が短くずんぐりとし、頸部には房のような文様、肩には翼あるいは火炎のような文様、背中から腹にかけては帯、腰には雲気文のような文様などがそれぞれ沈線で表され、鍍金も文様に合わせて施されているようである。という。
この馬の胸にも円文を3つまとめた文様がある。ほかにも円文が刻まれている。金粒はない。

金装飾品 後67年頃の墓より出土
右上の龍が長さ4.6cmという小品ばかりだ。金粒細工や象嵌を駆使して様々なものを作ったようだ。
後1世紀にはすでに金粒細工は中国で定着した技術だったことがわかった。はじめに引用した解説文の中に「漢時代から継承した同じ手法の細工のほうが主流」ということが伺われるような品々である。


※参考文献
「世界美術大全集東洋編2秦・漢」 1998年 小学館 
「世界美術大全集東洋編3三国・南北朝」 2000年 小学館
「シルクロード 絹と黄金の道展」 2002年 NHK  

2006/11/22

魚々子の起源は金粒細工か


『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、
金銀器の表面に文様を刻み、余白のすべてに魚々子を敷き詰めるという装飾が始まったのは、隋あるいは唐時代の初期、7世紀のことと推定されるという。
初期のものはどんなだったのだろう。

青銅鍍金走獣文珌 隋~唐初(7世紀) 高5.2㎝幅7.2㎝ 部分 
まばらに魚々子が刻まれている。
同書は、魚々子は全体は方形で、方形のなかに円い魚々子がある。主文の走獣の形式から隋あるいは唐時代初期と判断できるが、魚々子を打った例としてはきわめて早い1点であるという。
このあたりが魚々子の始まりだろうか。間地には方形の魚々子と円形の魚々子が刻まれているようだ。 青銅鍍金仏教図像舎利函 隋・大業2年(606) 河北省静志寺真身舎地宮出土 高19.5㎝辺長23.3㎝ 定州博物館蔵

蓋は唐の858年に重葬の際に作り替えたものと考えられる。函身の4面はパルメット唐草で縁取られており、その唐草文は石碑や青銅鏡の文様と同様の葉形に描かれている。函身各面に2像、さまざまな姿態の菩薩像が表され、隋の彫刻や壁画にも通じる顔つき。 
刻線の鏨使いは、初唐、盛唐期の銀器や鍍金器に比べてやや粗っぽいという。
魚々子が刻まれる以前のもののように思われる。紀年銘があり貴重である。金玉象嵌仏像獣面文耳飾 隋(581-618)1対 長2.7㎝、3.2㎝径2.1㎝ 白鶴美術館蔵
遊牧民風の貴石の象嵌のあるものなのに仏像も配され、魚々子状のものが見られるという不思議なものだ。
上部のハート形の装飾、獣面文、龍の角は、金の針金と金の粒を熔接して形をなし、文様を描く金糸金粒細工によっている。さかのぼれば北斉や十六国時代、さらに西アジア、エトルリアに至る。また金の小さな枠に紅玉、ラピスラズリ、トルコ石、真珠、ガラスなどを嵌入するのは、紀元前のスキタイ、匈奴、その影響を受けた前漢時代の金工品、下ってビザンティン文化圏の金工品にもあるが、この耳飾の象嵌はビザンティンの影響による遺物である。龍の造形によって中国の作品と判別できる。そして連珠のなかに人面や獣面を表すのは、隋時代の文物に頻出する西アジア起源の文様であるという。
連珠文帯はペルシアのものと長い間言われてきたが、ソグド起源のものであるというのを近年よくテレビでやっていた。
この魚々子文状の刻文のある耳飾は隋時代の製作とされているので、上図の魚々子文のない舎利容器との比較から、隋時代に魚々子文が出現したと思えなくもない。
ところで、この耳飾には魚々子文状の装飾と金粒細工が同時に施されていて興味深い。魚々子文は金粒細工を簡略化したものというのはどうだろうか。金粒を熔接するのと、鏨で刻むのと、どちらが簡単だったのだろうか。金珠宝象嵌首飾 李静訓墓出土 
外祖母である北周宣帝の皇后(隋の煬帝の妹)に養育され、608年に9歳で没した女の子である。
金糸金粒細工はエトルリアやエジプトに始まり、東に向かい、前漢時代の中国に伝わっている。隋唐時代の流行は、新たな伝播の結果かと考えられるが、すでにこの時代の中国にも定着している。という。
大きな金粒は熔接かも知れないが、小さな連珠帯は裏側から打ち出したようにも見える。画像が不鮮明でわかりにくいのが残念だ。金糸金粒嵌玉パルメット文飾 山西省太原市婁叡墓出土 北周時代(570年) 長さ15㎝
金糸金粒の他に真珠、瑪瑙、ラピスラズリ、緑松石、ガラス、青貝が象嵌され、やがて開花する唐時代工芸の先駆ともいえる華やかさがある。全体の意匠はいかにも北斉らしい、葉の裂開が広いパルメットで、その中央に文様中の文様として蓮華の唐草が表されている。・略・
李静訓墓にみられる隋時代の形式への歩みが北斉時代に始まっていたことを物語っている。金糸金粒細工の技法は漢時代に中国に伝わり、隋唐時代以後もすたれずに続く。ただそこにガラスや貴石を嵌入する装飾技法は西方に発し、六朝時代以後、むしろ隋時代になってから中国に普及したものである。これはそのきわめて早い時期の遺物であるが、パルメット文や蓮華文などは北斉時代の中国の形式をもち、外国で製作されたものがもたらされたのではないということも明らかである
という。
私には金糸金粒は確認することができない。これだけでは中国で生まれたという魚々子の起源が外来の金粒細工であると決めるわけにはいかないなあ。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編3 三国南北朝」2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」1997年 小学館 

2006/11/21

中国の魚々子と正倉院蔵金銀八角鏡の魚々子



魚々子というのは鏨(たがね)で打った円文のことらしいのがわかってきた。
「世界美術大全集東洋編4隋・唐」で中野徹氏は、西方の銀器の装飾は、刻文と浅い浮彫りとで、浮彫り文様は別造した文様を浅く彫りくぼめた器胎に熔接して完成される。この装飾法は初期の中国銀器に継承されたようであるが、遺例は少ない。
魚々子は銀の冷感を緩和する効果とともに、乱反射によるきらびやかな輝きを器面にもちこみ、中国の銀器に独特の形式を与えていた。
金銀器の装飾に魚々子を打つのは中国固有の手法かと思われる。
中国ではいつの時代でも横方向に打たれる
という。


銀鍍金草花飛禽蓮弁文脚杯 唐 7世紀後半~8世紀 西安市出土 高5.0㎝口径7.2㎝ 陝西歴史博物館蔵
解説は、広口の脚杯には唐時代初期の細密かつ構築的な作風が残っている。魚々子はやや弱く、連打の列も乱れがちであるという。舎利容器一組内「銀唐草文槨」 唐 7-8世紀 甘粛省大雲寺塔基地宮出土 甘粛省博物館蔵
納められていた石函に694年の紀年があるらしい。
まだ盛唐の華美な表現に至らない、蔓と葉で構成される宝相華唐草文で、7世紀後半の形式であるという。
青銅貼銀瑞獣文八稜鏡 唐 8世紀前半 西安市出土 径21.5㎝ 陝西歴史博物館蔵 
金銀の板を裏側から鎚で打って、文様を打ち出して表現する技法は、本来は唐代に盛行した金銀器に用いられたもので、これを鏡に転用したものという。
魚々子については触れていないので、魚々子とは別ものかも知れない。
銀鍍金鴻雁銜綬文九曲鉢 唐 8世紀後半 西安市出土 高8.1㎝口径18.0㎝ 中国国家博物館蔵 
器形、文様ともに8世紀後半から9世紀にかけての特徴を示している。・略・魚々子が全面に打たれているが、すでに弱く、細かくなりはじめているという。
銀迦陵頻伽雲鶴文槨 唐 9世紀前半以前 江蘇州甘露寺鉄塔地宮出土 高12.4㎝辺長9.4㎝ 錦江市博物館蔵
器身の両側面には宝相華と迦陵頻伽が刻まれる。鎚鍱はややおおざっぱながら、この時期にしては刻線はしっかりとして強い。珍しく、魚々子は縦方向に連なり、この打ち込みも強く、鮮明である。・略・同時に発掘された舎利題記によって、829年に改修と埋め戻しが行われたことが明らかにされているという。
宝相華もたっぷりしているが、この迦陵頻伽は飛べないだろうと思うくらい重そうだ。
このように唐時代の魚々子文をみていくと、第五十八回正倉院展の「金銀山水八卦背八角鏡」の間地の魚々子は、文様部分と比べてもかなり細かく密であるので、中国の金メッキした銀器の中でもかなりレベルの高い技術で製作されたものが日本に将来されたか、日本で作られたとすれば、中国から来た技術者が作ったものと思われる。
また、中野氏は魚々子について、金銀器の表面に文様を刻み、余白のすべてに魚々子を敷き詰めるという装飾が始まったのは、隋あるいは唐時代の初期、7世紀のことと推定される。
唐時代の銀器は8世紀の中葉までを境にして形式変化が著しく、文様や器形ばかりか、刻線にも変化があった。いわゆる盛唐、8世紀中葉までの刻線は、図(省略)のように鏨(たがね)の一打の痕跡が正三角形に近い形で重なり合って線になっている。一方、8世紀後半以後の刻線は長い二等辺三角形を繋いだようになり、しかも時期とともに一打一打の間隔が目立つようになる。同時に線は細く脆弱になっていくという。
このように、私が始皇帝と彩色兵馬俑展で魚々子文を遡るで勝手に遡ってしまったが、どうも魚々子ではないことがわかった。

◆金銀及び銀鍍金はともに銀に金メッキしたものをいう

※参考文献
「世界美術大全集東洋編4隋・唐」1997年 小学館

2006/11/20

第五十八回正倉院展の袈裟は素晴らしい

 
正倉院展ではいろんな宝物が展観される。昔は西新館だけだったが、東新館ができてからは、両方の建物が会場となったため、ゆったりとした配置になっている。「七条刺納樹皮色袈裟」は縦247.0㎝横144.5㎝という大きなものだが、四方から見ることができた。しかし、単眼鏡を通して見ても細かいことはわからなかった。作品の保護のため暗くしてあるせいなのか、それとも老眼のせいだろうか。 図録は、袈裟はインドで身体に巻き付けて着用した衣服の形式をくみ、僧衣として用いられる。
塵埃の集積所または墓地などに捨てられていた布の断片を縫い合わせて作った糞掃衣(ふんぞうえ)が原則であった。
聖武天皇がもっとも身近に用いられた品と推測される。緑、紫、赤、青、黄、白等の平絹(へいげん、平織りの絹)を不規則な形に切って重ね細かく刺縫いし二長一短に仕立てた細長い裂(きれ)を7枚横に並べてつなぎ合わせている。
なお、刺納(しのう)とは刺縫い、樹皮色とは経典に樹皮を以て染めるとあるところから言い、袈裟の文様はいわゆる遠山文様(とおやまもんよう)の源流である
という。
下図は上の全体の右上端部分で、ほぼ「二長一短」の大きさである。しかし、これでもまだ、その「緑、紫、赤、青、黄、白等の平絹を不規則な形に切って重ね細かく刺縫いし」の様子がわからない。図録にはもっと拡大したものが載っていた(下図)。これだけ大きくすると、裂の端の切れっ端がちらちらと見えるが、それでもこの程度である。身近に用いたものなら、もっと端がバラバラになっていても不思議ではない。切った裂の端を折り込んだような布の厚みや、異なった色の裂を重ねたような凹凸さえ感じられない。当時の刺縫いの技術の高さというのは、想像を遙かに超えたものという他はないのだろうか。刺縫いの技術だけでなく、この袈裟のデザインも素晴らしい。樹皮色の遠山文様か。絹を切り刻んで、捨てられるようなボロ布を縫い合わせた衣に仕立てるとはなんという贅沢だろうか。
このような袈裟を3領ずつ碧綾■袷(みどりのあやのつつみのあわせ、展示)に包んで漆皮箱(展示)に納め、その箱を臈纈袋に納めたという。この漆皮の御袈裟箱は縦44.5㎝横38.6㎝高さ12.4㎝という、広げた袈裟からすると小さな箱に見えたが、そんな小さな箱に大きな袈裟が3つも納まったということは、袷でもかなり薄いのだろうという。
そういえば、正倉院展では、宝物だけでなくそれを収納していた箱や包んでいた袋もいっしょに展観されているものもあり、それぞれに興味深い。

※参考文献
「第五十八回正倉院展図録」2006年 奈良国立博物館

2006/11/17

始皇帝と彩色兵馬俑展で柿蔕文を見つけた



「始皇帝と彩色兵馬俑」展では兵馬俑以外にどんなものが展観されているかを見てきたのだが、高さ22.2㎝の独特の形をした前漢(前2-1世紀)時代の博山炉のてっぺんに葉っぱのようなものが1枚と、その両側に葉っぱの端が見えた。全部で4枚、柿蔕だと思ったものの、ガラスの中なので向こう側を見ることができなかった。
図版を拡大してもこれではわからないが、柿蔕文だと思う。
同展図録は、竜の背中に乗った力持ちの妖怪?が、右手で桃形の博山を掲げ、左手で竜の頭をなでているという独特の形をした香炉をいう。博山炉は、神仙が棲む島といわれている博山の形をした蓋がついた青銅製の香炉である。古代中国では香炉には、不老不死の神や仙人が住む世界が表現されていることが多いが、これは香が神や仙人を呼び寄せる力を持っていたと信じられていたからである。こうした神仙思想の流行を背景として、この種の香炉がたくさん製作され、貴族の生活に用いられた。通常博山という山を表現するが、これは運気紋のみで構成されており珍しいという。
残念ながら頂部の装飾については記されていない。また、火舎(ほや、このような香炉の蓋の形)の運気文には筋状のものが確認できるものの、魚々子地というほどの円文はないようだ。龍の首には点の陰刻のある鱗が刻まれているが、龍の大きさの割に鱗が大きいので、これが魚々子文になっていくとも思えない。

※参考文献
「始皇帝と彩色兵馬俑展図録」2006年 TBSてれび・博報堂

2006/11/16

魚々子って何?

魚々子(ななこ)とは魚の子つまり卵のように小さな粒状のものということのようだが、「始皇帝と彩色兵馬俑展で魚々子文を遡る」では思わぬ方向へ向かってしまった。粒金細工が北方騎馬民族を通して中国に入ってきたのは知っているが、もっと時代が下がってからと思っていたからだ。  

私は魚々子は鏨(たがね)で施される面の装飾のことだと思っていた。ところが、文化財オンラインのホームページで法隆寺献納宝物N176観音菩薩立像(奈良時代)の解説文は、特殊タガネによる魚々子文と複連点文の多用は,法隆寺再建期の造像に特徴的な傾向といえるという。
しかし、像をじっくり眺めても魚々子が面として見えない。せいぜい丸文が菩薩の着衣の腰や裾あたりの文様に一列か二列並んでいる程度だった。    
法隆寺の仏像を探してみたが、魚々子文がわかるような図版もなかった。かろうじてあったのが下の作品だった。

金銅小幡 法隆寺献納宝物60号(◆) 幅11.5~12㎝
天蓋から垂れている紐に連珠のように円文が続いている。ガラス玉を表しているのかも知れないが、解説にはこの円文について説明がない。

文化財オンラインのホームページにある熊本県菊水町江田船山古墳出土の金銅製沓(くつ)の解説文は、側板・底板とも全面に亀甲文を飾る。側板の外側部分と底板には亀甲の各頂点から歩揺を垂下するが,側板の内側部分は歩揺を省略する。底板には9本の方錐状スパイクをうつ。伴出の立飾り(現在欠失)付二山式金銅製冠は魚々子打ち出しの亀甲文で飾るという。
あいにく「二山式金銅製◆冠」の画像がなく残念だ。先程の観音菩薩の魚々子から推察して、金銅製沓の亀甲文が魚々子打ち出しのようにも思える。
 

また、前回の金銀◆山水八卦背八角鏡のように間地にびっしり並んだものは魚々子地というらしいことがわかった。それはMIHO MUSEUMのホームページにある狩猟文高脚杯の解説にあった。
この高脚杯の胴側面には、魚々子地に半弓を構えて鹿を追う騎馬人物と、騎馬の従者、それに逆方向から打球の杖状のものを振るって兔を追う騎馬人物が表わされている。胴部上帯には唐草、騎馬人物の下辺の胴部には土端に草、胴の底部側面には鋸歯文が刻まれ、魚々子文で充填されている。さらにその円筒形部の下面には七弁の花文(ただし一弁は鏨が二重に打たれるという乱れがある)、脚部上面には子弁1枚付きの複式四弁を持つ花文が、いずれも鏨によって刻まれている。

図の表現にも鏨の技法にも、やや緻密さに欠けた緩みが感じられることから、晩唐にかかる頃の制作と思われるという。
制作時期を7世紀後期から8世紀とみているようだ。
このように、中国にはいくらでもあると思っていた魚々子文あるいは魚々子地はなかなか見つからなかった。唐時代になってやっと図版が見つかった。


まず「金禽獣蓮弁文碗」は、金銀◆器の製作がもっとも精密かつ堅実であった初唐、7世紀の作風を明確に提示し、しっかりとした鎚ちょう(金へんに蝶のつくり)によって象られる。
太く、深く、しっかりと刻まれた魚々子と線の様子が見て取れるが、このような刻様と、対葉華文や唐草文の形式は標記の特徴である。
様式が成立する初期の力強さに満ちた器である
という。
正倉院展で見た「金銀山水八卦背八角鏡」の魚々子地はこの頃のものだろうか?

次ぎに「銀鍍金◆鸚鵡宝相華文提梁壺」は8世紀の製作で、解説文は、何家村から出土した器具のなかでもっとも「開元の治」、また日本の正倉院を想わせる器であり、装飾である。
鸚鵡の周りを囲む唐草文こそが8世紀中葉の典型的な宝相華である。宝相華文は架空の合成文様で、安定した形式をもたない文様である。しかしわずかに8世紀の中ごろだけ、そして正倉院の遺宝に、これこそ宝相華といえる描写を見ることができる。
圏足が凹曲して裾広がりに作られるのも8世紀の中ごろの形で、細かく、密に打ち連ねた魚々子ともども製作時期を表している
という。

金銀山水八卦背八角鏡はこの頃の様式を示すものだろう。
次の「金唐草鴛鴦文水注」は9世紀のもので、解説文は、肩から斜め上方に向かって起立する太短い注口と、用途に即した大ぶりの把手、この2つが9世紀以降の注器の基本である。
上縁が波立つ花弁を横並びに連ねる文様は、器物の辺縁や文様の区画の部分にあしらう装飾として北宋時代の金属器や陶磁器に至るまで長く施用された。

魚々子と文様を全面に刻んだ、金の輝きがことさら強調された器であるという。
魚々子の刻文は上の初唐・盛唐期のものと比べようもなく粗雑で、MIHO MUSEUM蔵の狩猟文杯にも共通するように思う。また、器全体から感じられる雰囲気も上の2点とは異質なものがある。
このように正倉院展で見た緻密な魚々子地は、盛唐期のもの、あるいはその様式を受け継いだものだということがわかった。
尚、魚々子の起源については外来の粒金細工なのか、龍の鱗から来るのかははっきりしない。殷・周の青銅器には龍そのものがないか、表されていても貧弱で、大きく表された饕餮(とうてつ)やほかの動物と似たような文様か無紋だからだ。

◆金銅は銅鍍金と同じで銅に金メッキしたもの、金銀は銀鍍金と同じで銀に金メッキしたものを指す

※参考文献

「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」2004年 奈良国立博物館
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」1997年 小学館