ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2006/11/15
始皇帝と彩色兵馬俑展で魚々子文を遡る
秦や漢の兵馬俑は見たことがあるので、「始皇帝と彩色兵馬俑展」ではその他にどんなものが展観されているかが楽しみだった。
そしてありましたよ、魚々子文の祖先?が。
「龍首蟠龍金帯鈎」は春秋時代(前8-5世紀)のもので、帯鉤(たいこう)はベルトのバックルのようなものだ。大きく見えるが長さ5㎝という小さなものだ。
図録は、頭部に龍の頭をかたどり、その下に、両端にひとつずつ頭を具備した龍をS字状に表し、さらにそこに2匹の蛇を絡ませるという、立体的で複雑な意匠をとる。高度な制作技術のもと、外来の動物意匠の影響を伝統文化の文脈のなかで巧みにアレンジすることにより、斬新で秀逸な造形としているという。
この小さく立体的な龍の体全面に極小の丸いもの、魚々子文のようなものが見えるのだが、これをどのように作ったかには言及していない。鏨(たがね)で彫り込むことは無理ではないだろうか。おそらく型による鋳造だろうが、非常に整然と並んだ素晴らしい細工だ。そしてすぐにもう1つ見つけた「金柄鉄剣」で同じ春秋時代のものである。下図は金の柄の部分であるが10㎝ほどだろう。
金製の柄には、小さな龍が頭と尾をくねらせて絡み合った図柄(蟠ち-虫に璃のつくり-紋、ばんちもん)を細かく全面にあしらい、その間隙に緑松石(トルコ石)を象嵌し、彩り豊かで精緻な意匠としている。
ふつう中原に見られる剣の形式と異なっていることから、遊牧民との交流によって生み出されたものとする見解があるという。
ここにも龍の体の丸い文様について記されていないが、よく見ると丸でない形のものもあるので、やはり鏨による魚々子文とは異なる、型による制作だと思う。 そして秦の時代(前3世紀)の青銅製「応鐘」の鈕(ちゅう、つまみ)の部分に表された龍の体にも魚々子状のものを発見した。
鈕は口を大きく開けた2匹の龍が向かい合う。前足が繋がっていて、鈕穴は方形である。顔の前面でも繋がっているが腐食が著しいため詳細は不明。後ろ足でつっぱるように体をくねらせ、尻尾を巻きあげる。全体はアワ粒状、鱗状、幾何学的な文様が施されているという。
魚々子文に見えたのは「アワ粒状の文様」らしい。これは青銅器なので型による成形。鏨を使ったものではない。永青文庫蔵の銅鏡に「金銀象嵌闘獣文鏡」というものがある。これは最初の2点の春秋時代と上図の秦時代の間の戦国時代(前5-3世紀)のものである。
この鏡の金象嵌は、細い金線をくぼみの中に嵌め込んでいく技法で作られている。かなり広い面積も同様に細い金線を並べることによって埋められている。これは戦国時代に用いられた特徴的な象嵌方法の一つであって、銅線を用いた例もときおり見られるというが、私が知りたい金で表された点々文様については触れていない。
じっくり見るとその点々に影がある。ということは象嵌のように平たいものではなく、まるで粒金細工とか細粒細工と言われる小さな金の粒を貼り付けているような気配がする。そう見ていると、金の粒がはずれているところもあるようだ。春秋時代以前の青銅器を探したが、地文としては雷文のようなものがあるくらいだった。下図は泉屋博古館蔵の「亜げん(害の口の部分が四)夫鼎」で商後期(前14-11世紀)のものである。地文のないものもあり、あってもこのような渦巻きに近いものである。以上のことから、中国よりも外来の、遊牧民との関わりによってもたらされた粒金細工又は細粒細工と呼ばれるものが小さな円文へと繋がっていった可能性も考えられる。粒金細工がいつ頃中国にもたらされたのか、忘れへんうちに辿ってみたい。
※参考文献
「始皇帝と彩色兵馬俑展」2006年 TBSテレビ・博報堂
「世界美術大全集東洋編1先史・殷・周」2000年 小学館
「中国古銅器編」2002年 泉屋博古館